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episode.22(2007/4/17③)
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理穂子は近くの図書館棟にあるカフェに僕を連れ出した。本当は僕にはそんなことをしている時間もないし、理穂子に付き従うことが嫌だったから断りたかったのだけれど、もし僕が予期しているような内容の話であれば、遅かれ早かれそれはしなければいけないことだった。それがただ今日になったと言うことだけだと思った。
午前中のカフェは人もまばらで、僕らは席を用意すると、カウンターでコーヒーを注文した。店員さんは僕のよく知る人だった。大学院生で授業のない時間だけここでアルバイトをしていると彼女は言っていた。昨年までは僕は時間を潰すためにここによく来ていたのだ。今日は理穂子と一緒だったため、店員さんはそういう目で僕たちを見ているようだった。いつものような馴れ馴れしい口調ではなく、ハキハキと優しい声で注文に応じた。セミロングの黒髪を微かに揺らし、振り返ってコーヒーを淹れる彼女の姿を見ながら、僕は今度来たときにきちんと弁解をしなければいけないな、と思った。別に僕がこのセミロングの店員さんに恋をしているからではない。ただ、僕と理穂子がそういう関係でないことはきちんと知らせておかないといけないと思ったからだった。どんな誰からも誤解なんてされたくなかった。
コーヒーを手に向かい合わせで座ると、彼女から口を開いた。
「論文はどうなりそうなの」
僕は特に感情を込めることもなく、多分大丈夫、というと、彼女は明るい顔を少しも見せずに、そう、と言った。
「被験者の女性のことなんだけど」
僕の考えていた通り、理穂子の切り出した話は朝美についてだった。
「君の考えている通りの人だよ」
僕は手に包まれた暖かいコーヒーを口に運ぶ。そういえばさっきゼミ室でコーヒーを飲んだばかりだった。カフェオレかホットミルクにしておけばよかったと思った。
「事故からまだ戻ってきていないとは聞いていたけれど、まだだったのね」
朝美のことは学内では有名と言うほどではなかったけれど、知っている人は知っている案件だった。それはそうだ、卒業式にも来ていなかったのだから、誰にも知れないわけがない。記憶を失っていることもどこから漏れたのか何人かは知っているようで、理穂子から以前に訊かれたこともあった。
「それで、どうするの」
「どうするって、GW前にはまた帰るよ、彼女のところに」
「大学は」
「卒論以外の授業はほとんどない」
やっぱり、それでだったのね、と理穂子はため息をこぼした。
「そうだよ」
僕は淡白さを変えることなく理穂子に言った。
「何でそこまで」
懇願するような目で理穂子は僕に訴えかけた。けれども僕はそれで感情を動かすことはない。正直鬱陶しいとさえ思っていた。
「君に話すことじゃない」
「私は佑矢がー」
「勘違いをしないでほしい。僕と君は恋人同士じゃない」
「けど」
「恋人でもないのに、僕のことに干渉しないでほしい」
僕にも少しの罪悪感はあった。理穂子がこうなってしまったのは、少なからず僕に原因があった。僕がもっと揺れずに毅然とし続けていれば、今の関係は避けられたはずだった。理穂子は何も言い返せずに涙目になっていた。僕は手に包んでいたコーヒーの熱が少しずつ逃げていくことに気づいた。それが尽きる前に飲まなくてはいけないと思った。
「このままじゃ」
絞り出すような震えるような声で理穂子が言う。涙目になって理穂子に対峙する僕は周りからどう見えているだろうか。
「このままじゃ佑矢が壊れちゃうよ」
溜まっていた涙はもう既に頬を伝っていた。けれども僕は今回の件で自分が壊れることはないと思った。
だってもう既に壊れていたのだから。僕と朝美の関係は、高校時代のあの日に完全に壊されてしまったのだから。
逃げゆく熱のコーヒーカップを手に、僕は思い出したくもない、けれど忘れることはできないあの日のことを思い出していた。
僕と朝美の関係を壊したのは、綾瀬知里だった。
午前中のカフェは人もまばらで、僕らは席を用意すると、カウンターでコーヒーを注文した。店員さんは僕のよく知る人だった。大学院生で授業のない時間だけここでアルバイトをしていると彼女は言っていた。昨年までは僕は時間を潰すためにここによく来ていたのだ。今日は理穂子と一緒だったため、店員さんはそういう目で僕たちを見ているようだった。いつものような馴れ馴れしい口調ではなく、ハキハキと優しい声で注文に応じた。セミロングの黒髪を微かに揺らし、振り返ってコーヒーを淹れる彼女の姿を見ながら、僕は今度来たときにきちんと弁解をしなければいけないな、と思った。別に僕がこのセミロングの店員さんに恋をしているからではない。ただ、僕と理穂子がそういう関係でないことはきちんと知らせておかないといけないと思ったからだった。どんな誰からも誤解なんてされたくなかった。
コーヒーを手に向かい合わせで座ると、彼女から口を開いた。
「論文はどうなりそうなの」
僕は特に感情を込めることもなく、多分大丈夫、というと、彼女は明るい顔を少しも見せずに、そう、と言った。
「被験者の女性のことなんだけど」
僕の考えていた通り、理穂子の切り出した話は朝美についてだった。
「君の考えている通りの人だよ」
僕は手に包まれた暖かいコーヒーを口に運ぶ。そういえばさっきゼミ室でコーヒーを飲んだばかりだった。カフェオレかホットミルクにしておけばよかったと思った。
「事故からまだ戻ってきていないとは聞いていたけれど、まだだったのね」
朝美のことは学内では有名と言うほどではなかったけれど、知っている人は知っている案件だった。それはそうだ、卒業式にも来ていなかったのだから、誰にも知れないわけがない。記憶を失っていることもどこから漏れたのか何人かは知っているようで、理穂子から以前に訊かれたこともあった。
「それで、どうするの」
「どうするって、GW前にはまた帰るよ、彼女のところに」
「大学は」
「卒論以外の授業はほとんどない」
やっぱり、それでだったのね、と理穂子はため息をこぼした。
「そうだよ」
僕は淡白さを変えることなく理穂子に言った。
「何でそこまで」
懇願するような目で理穂子は僕に訴えかけた。けれども僕はそれで感情を動かすことはない。正直鬱陶しいとさえ思っていた。
「君に話すことじゃない」
「私は佑矢がー」
「勘違いをしないでほしい。僕と君は恋人同士じゃない」
「けど」
「恋人でもないのに、僕のことに干渉しないでほしい」
僕にも少しの罪悪感はあった。理穂子がこうなってしまったのは、少なからず僕に原因があった。僕がもっと揺れずに毅然とし続けていれば、今の関係は避けられたはずだった。理穂子は何も言い返せずに涙目になっていた。僕は手に包んでいたコーヒーの熱が少しずつ逃げていくことに気づいた。それが尽きる前に飲まなくてはいけないと思った。
「このままじゃ」
絞り出すような震えるような声で理穂子が言う。涙目になって理穂子に対峙する僕は周りからどう見えているだろうか。
「このままじゃ佑矢が壊れちゃうよ」
溜まっていた涙はもう既に頬を伝っていた。けれども僕は今回の件で自分が壊れることはないと思った。
だってもう既に壊れていたのだから。僕と朝美の関係は、高校時代のあの日に完全に壊されてしまったのだから。
逃げゆく熱のコーヒーカップを手に、僕は思い出したくもない、けれど忘れることはできないあの日のことを思い出していた。
僕と朝美の関係を壊したのは、綾瀬知里だった。
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