舞い落ちて、消える

松山秋ノブ

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episode.4(2007/3/15)

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2007年3月15日

 彼女の母親からの電話は急だった。
 その日は普段なら塾講師のバイトをしている日だったが、担当をしている生徒が急に体調が悪くなったと言うのでバイトが飛んでしまった。塾長から申し訳程度の文面でメールが届く。そんなに珍しいことではない。他の割の良いバイトを見つけてからは、この個別塾へのバイトの頻度も減ってしまった。今では僕を指名してくれる数名の生徒の専属として出勤している。だからこうして授業がなくなると他の生徒を割り当てられることもない。僕もこれ以上担当する生徒を増やしたくないし、それで良い。僕みたいな専属でしか来ない講師は数人いる。正直、塾長としてはあまり好ましい存在ではないのだろうけれど、僕らがぞんざいに扱われ、辞めてしまうと、生徒も一緒に辞めてしまうケースが多い。塾長も僕らを切るに切れないのだ。実際に僕が忙しさを理由に辞めようとした時、担当している生徒の親から直々に連絡が入り、どこから仕入れた情報なのか、もしも僕が塾を辞めるなら、個人的に家庭教師をしてほしいと連絡が来た。それも立て続けに数件。そっちの方が割が良いと思ったけれど、さすがに横浜に出てきて直ぐの僕を拾ってくれた塾長への恩義もあるので、それならと専属で残ることにした。塾長からのメールには、休みの補償も出してくれるとあった。やはりぞんざいには扱われていないらしい。僕は言葉に甘えて、補償金をもらって休むことにする。福岡の大学を辞めてから横浜に出てきて早4年目になる。就職活動にむけていよいよ忙しくなるこの時期も、県内の私立高に就職がほぼ決まっている僕にはほとんど無関係であった。大学では専門以外に教職免許の授業に出る。3年の去年は、ほぼ全部のコマが授業で埋まっていた。そこからフレンドシップ活動。そのまま夜はバイト。少しの時間を惜しむようにたまに横浜駅に路上ライブに出る。ギター一本で誰が知るわけでもない自分の歌を歌ったところで、誰も聴きやしない。けれど自分が誰の為に存在しているのかがわからなくなる様な日常に於いて、人前で自分の歌を歌うのは唯一外界と私が結ばれる蜘蛛の糸ほどの微かな接点だった。こうして急に訪れた休みに僕はとりあえず駅で歌い、夜8時過ぎに家に戻った。携帯電話が鳴ったのは、そうして帰宅した後の夕食の準備中だった。カップ麺を作るために沸かしていたヤカンの火を止めて電話を手に取ると、映し出されたのは彼女の番号だった。もう4年近くも連絡がなかったので、少し戸惑いながらスイッチを押した。もしもし、と聞こえてきたのは、彼女の声とは少し違う大人の清楚な声色だった。不審に思いながらも、朝ちゃん?と小さな声で僕が訊くと、河村朝美の母です。と相手は答えた。
彼女の母親の冷静な口調とは相反して、その話の内容は信じ難く、マリンタワーに突如落ちた雷のように衝撃的なものだった。

 2月17日未明、河村朝美は新宿の外れの路上に倒れているところをパトロールで通りかかった警官に発見され病院に搬送された。意識はなく、身体の数カ所に打撲の痕が見られたが命に別状はなかった。2日後、遅すぎるとも言える彼女の目覚めに安堵する周囲の人々の顔はすぐに凍り付いた・・・彼女は当日のことはおろか、それまでの一切の記憶、自分が誰であるかさえ忘れてしまったのだ。脳に損傷がなかったことから現在は自宅で療養している。入院中も色々な精神科医やカウンセラーと面談し、記憶を戻そうとしてきた。けれど記憶は今も戻る気配がない。だから今までずっと同じ学校に通ってきた僕に力を貸してほしい、と。その余りの冷静さに僕は驚くことを忘れ、大学に入ってからは朝美さんとは一度もお会いしていませんが、と言葉を詰まらせると、それでも結構ですと断言された。僕は一週間後に福岡に戻ることを約束して電話を切った。

 電話を切った後で僕は初めて混乱した。もうずっと会ってなかったことも手伝って、嘘ではないかと考えた。記憶喪失?意味が全くわからなかった。信じたくなかった。私は真偽を確かめるために財布と携帯電話だけを持ち、三ッ沢にある彼女のアパートへと向かった。
 横浜に来てから彼女とはほとんど会っていないし、メールでさえほぼ皆無に等しい。僕の知る河村朝美は高校3年生でストップしていた。それなのに彼女のイメージと新宿が全く繋がらずに、僕は余計に混乱する。友達から聞いた話では春から同じ大学の大学院に進学し、今も横浜に住んでいるはずだった。もうずっと前に友達から朝美の住所を聞いていた。当時は彼女が僕には教えてくれなかったという悔しさから、住所が書かれたメモをその場で破り捨てようかとも思った。行くことはないとは思いながらもやはり捨てられなかったが、意外なところで役にたった。もしすべてが嘘で彼女が家に居れば、何をしに来たの。と一層嫌われるに違いない。けれどそれならそれで良かった。
はやる気持ちを抑え、自転車にまたがる。住所から大体の目星はついていたので、僕はすぐに走り出した。永遠へ続くような闇の直線を疾走し、やがて裏道に入った。入りたての所にある地図で確認すると、そこはすぐに発見できた。入り口にはセキュリティシステムが設置され一瞬ドキリとしたが、すぐに帰宅した住民に後続き入ることができた。彼女の家は2階の奥から2番目にあった。入り口のポストには無数の新聞がたまっていて、既にドアの前に積んである。チャイムを押す。一瞬ドアに人の精気が宿った気がした。しかしその期待も虚しくすぐにドアは静寂を取り戻した。2度3度、押すごとに力が加わっていく。たまらず僕は連打した。それでも飽きたらずドアも叩き始めた。まただ。何度ドアを叩いても彼女は鍵を外してくれない。何度も何度も彼女は僕にその心のドアを見せる。僕はその度にドアを叩く、チャイムを押す。応答だけして鍵は開けない。下手をすると居留守さえされてしまう。彼女はよく違う男の心の家に出かけようとする。僕はそれが悔しかった。悔しくて今また家のドアを叩き続けている。誰もいないのに。
 何度も何度も狂うようにドアを叩くと、ついに僕はその前に座り込んでしまった。今まで熱を帯びていた世界がひっそり閑とし白く見えた。何が現実なのかがわかっていてわかっていなかった。現実は何?現実はそれを考える瞬間に思考に現れる現象だ。今このことを考えている人がどれだけいる?だから現実は人の数より少ない。だとしたら彼女の身に起こっていることは現実だろうか?僕には彼女だけがリアルだった。彼女だけが世界だった。彼女が彼女として存在していないことはリアルではない。だからこの事実は現実ではない。ドアの前に座りながら私は事実から逃げることでリアルを創ろうとした。

 座り込んだ目の前に夕方に降った雨のたまりで溺れる蟻がいた。無気力に眺めていると、もう一匹の蟻がそこに近づいてくる。今にも力尽きんばかりの表情で必死に逃れようとする蟻を横目にもう一匹は静かに事を見つめている。それは仲間の死を受け入れているようだった。まだ助けられるはずなのにその蟻は動かなかった。僕は違う!必死で思った。けれど記憶喪失の彼女を目前にして現実でないと逃げる姿と何の違いもなかった。僕は溺れている蟻より先に、もう一匹を押し潰した。

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