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2.王城にて
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「さあ、いいわ」
きつくはめられていた木製の枷が取り除かれると、少年はおずおずと自分の手首を撫でつけた。久しぶりの自由にとまどうように。
「痛かったでしょう?ずっと枷をはめられて……ひどいことを」
やさしく声をかけるのは、王女クシュルカ。プラチナのような髪の美しい少女である。
露店を後にしてからは、少女と共に馬車に乗り、高台にそびえる王城の門をくぐったのだった。ぶどう畑の緑に囲まれた、いくつもの尖塔がのびるアダラーマ王の城へ。
何十人もの侍女や女官に出迎えられ、巨大な円柱そびえる回廊や、広大な緑に包まれた庭園を見て仰天しながら、少年は王女と一緒に離れの別塔の一室に入り、見事な調度品や、ふかふかの絨毯に目をまるくしながら、下男や女官たちによって固い枷を外されたのである。
長い拘束のせいでヒリヒリと手首は痛んだが、少年は嬉しそうに両手を動かした。首を回すとぼきぼきと音がした。いったいどれくらい檻に入れられていたのか、彼はもう忘れてしまっていた。
「あんなせまい檻のなかに閉じ込められて、さぞのどが渇いていたでしょう。お腹もへっているかしらね。今何かもって来させます」
「あの……その……」
少年は何度も両手を伸ばしたり首を回したりしてから、今はじめて自分を助けてくれた銀色の髪の少女を正面に見た。
「ありがとう……ございます」
照れながら礼を言う。顔を赤くして視線を外す少年に、王女はやさしく微笑んだ。
こうして立てば、彼はすらりとしていて、思ったより背が高かった。
「それにずいぶんと痩せているわ。背は私と変わらないのに」
王女はなんのてらいもなく、汚れた服の少年の横に並んでみて、自分と同じ高さにある彼の顔を見つめた。
「その、お鼻の傷はどうしたのかしら?」
「あの……」
「ああ、言いたくなければいいのよ。あなた……あ」
言いかけて、彼女は気づいたように突然くすくすと笑いはじめた。
「そうだわ。まだお互い名前も知らないのでしたね。私は……」
少女は両手を自分の胸の前に重ねて、ゆっくりと言った。
「私はこのアダラーマ王国第一王女、クシュルカです」
優しい微笑みを残しつつ、その顔には、誇らしやかな気品が現れる。感銘を受けたように、少年は目を見開いた。
「……僕は、ライファン……です」
「ライファン……。素敵なお名前ね」
少年はもじもじとうつむいた。
やがて皿や盆を持った侍女たちが、次々に部屋に入ってきた。
大きな盆には巨大な肉やスープの壺、果物や飲み物が乗せられている。またたくまに、用意されたテーブルの上はごちそうでいっぱいになった。
少年は口許をぬぐった。腹がぐぐうと鳴る。
王女は笑った。
「さあ、どうぞ」
「信じられぬ」といった顔で少年は王女を見た。
「すきなだけお食べなさい。それが終わったら入浴をどうぞ。女官に用意させますから」
少年はおそるおそるテーブルにつき、そのあとは……。
ただ。もりもりと食べるだけだった。
「ライファン。いますか。ライファン」
「はい。姫様」
城内の中庭で、少年の姿を見つけると王女は嬉しそうに近づいた。
少年は剣を振る手を止めて、額の汗をぬぐい王女の前にひざまずいた。
「お呼びでしょうか。姫様」
「もう……」
王女は不服そうに頬を膨らませた。少年を立ち上がらせると、
「そんな挨拶なんかはいいのよ。それに、いつまでも姫様なんて呼び方もダメ」
「は……、でも……」
困ったような少年の様子を見て、王女はまた微笑んだ。
「名前でいいのよ。クシュルカって呼んで」
「はあ……でも」
「さあ。呼んでみて。早くしないと今日の夕食は抜きよ」
「はいっ」
少年は「それは困る」とばかりにあわてて、一度息を吸い込むと、ちらりと王女の顔を見ながら、
「ク……クシュルカ……様」
小さくそう呼んで、そのまま顔を赤くしてうなだれた。
「いいわ。それでも」
王女はくすくすと笑いだした
心地よい風が吹く。彼方にそびえる城壁、たくさんの尖塔の屋根に旗がなびく。
銀色の髪をかきあげる王女を、少年はまぶしそうに見た。
城に来てから二週間。少年はすっかり元気を取り戻した。
痩せ細っていた体は、すらっとした体つきはそのままにしっかりと肉がつき、白すぎるほどだったその頬にも今では赤みがさして、つやつやとしていた。
城にやって来てからは、与えられた一室でぐっすり休み、その若さも手伝って数日のうちにはもう体力を取り戻した。その後は、侍女や女官たちに毎日掃除や城内の草刈りなどの仕事を教わり、敬語や城の中の規則を学び、またたっぷりと食事をし、あいた時間に馬に乗せてもらったり、剣の稽古をしたりして過ごすようになった。
彼はよく食べよく働いた。教わった仕事はきっちりとこなすし、常ににこにこと明るい笑顔を絶やさない。今では侍女たちの間でちょっとした人気者にさえなっていた。城にやってきた当初汚れていた身なりも、入浴し髪をととのえ、ぴったりとあつらえられた騎士見習いの服に身を包むと、彼は見違えるようにしゃんとして見えた。
もともと綺麗だった顔だちは、ちゃんと栄養をとり、よく眠り朝早く起きて顔を洗い、仕事をして汗を流すという健康的な生活のおかげか、ほどよく肉が付いて血色もよくなり、その笑顔には本来の太陽のような輝きが戻っていった。そして宮廷の言葉と礼儀作法を習い、剣や馬の稽古にはげむ彼は、ほとんど今や本物の少年騎士のようであった。
王女はもちろん、城の侍女たちや、はじめは身分がどうの、奴隷の乞食などが王女の側に仕えるなどもっての他などと、批判がましかったお堅い女官たちでも、今では少年の優しい笑顔や明るい挨拶の前には、思わず笑顔を返さずにはいられない。
彼はとても素直で、人の言葉をよく聞いたし、どんな時もけっして反論したり不満を述べたりはせず、ただにこにことして喜んで仕事をした。ときには怒られ、ときには未だに奴隷扱いの蔑みを受けることもあったが、それでも決して相手を嫌うことも、愚痴をこぼすことも、眉を一つひそめることすらもなかった。
彼は毎日朝早く起きては日課の回廊の掃除をこなし、朝食の給仕を手伝い、中庭の草むしりと城壁の見回りと修繕を黙々とこなし、一人の時間には中庭でひたすら剣を振った。それは自分と一緒にあの奴隷商人から王女が買ってくれた古びた大剣だった。少年は毎日その剣を丁寧に磨いては、剣を振り、また剣を磨いた。さながらその剣が本当に親の形見かなにかででもあるかのように。
「またずっと剣を振っていたの?」
「あ、はい」
ふわりと白いドレスを広げて、王女は中庭の草の上に腰を下ろした。少年はその横に座り、憧憬のこもったまなざしで横顔を見つめる。
クシュルカ姫は美しかった。
姫は今年で十五歳になる。国王ケンディス二世を父に持つ第一王女。いずれは婿をとり、王妃としてこのアダラーマ国を支えてゆく運命をもった高貴なる存在だ。
宮廷においても、町の民衆たちにも絶大な人気があり、すでに幼少のころから数年もすればアダラーマ随一の貴婦人となるだろうと誰もが褒めたたえる。輝くようなプラチナの髪は宝石のようなつややかで、王女が首をかしげて、その髪が肩や首にかかる様子は、さながら名画の中の麗しき美姫そのものだった。透き通った青い瞳は、少年に向けられるときにはいつもやわらかな光をたたえ、まばたきをするその長い睫毛は蝶のように可憐だった。
そんな王女を見ていると、彼はいつも胸がどきどきとして、なんだかじっと見ていてはいけないような気持ちにもなるのだった。
「どうしたの?」
「いえ。……なんでも」
こちらを覗き込む王女に、少年は顔を赤くした。
彼女はほとんど毎日のように、中庭で剣の稽古をする少年のもとにやってきた。彼女自身も、やがてはこのアダラーマ国を担う王妃となるための色々な学問や作法を学ぶ時間に追われ、とても忙しいようだったが、それでもいつも少年の横に座って、わずかな時間だが二人で話をすることがとても楽しいようすだった。
「ねえ、その剣……」
「はい」
「やっぱり、あなたのご両親の形見かなにかなのかしら?」
王女がそう聞いたのはもう何度目だったか。
「さあ……。僕には分かりません」
少年の答えもいつも同じ。彼は奴隷として檻に入れられる前の記憶がほとんどなかったのだ。王女がそれを知ったのは、彼が自分の名前以外、年齢も、生まれた国も、母親の名前すら答えられないということを聞いたときだった。
「本当に思い出せないんです。いったい自分はどうしてあんな檻に入れられなくてはならなかったのか。自分はどこから来たのか。……本当に。ごめんなさい」
少年は剣の柄先につけられた青い宝石をいじりながら、申し訳なさそうに言った。
「いいのよ。あなたが悪いわけではないもの。私こそ、いつもしつこく聞いてごめんなさい。ただ、あなたがもしかして何かを思い出せればって思って」
「ありがとうございます。姫は……ああ、いや……クシュルカ……様は、おやさしいですね」
少年はまだ王女を名前で呼ぶのに慣れぬように、自分で言って頬を赤くした。
中庭は静かで、そよそよと梢に吹く風が心地よく、二人の髪をなでつける。
平和なアダラーマ国。かつて一度として戦火にまみえたことのない、豊かで平穏な緑の王国。いま彼の隣にいるのは、そんな国の王女だった。
「もし……」
王女はためらいがちに、彼女にしては珍しくおずおずとた様子で、囁いた。
「ずっと……あなたの記憶が、もどらなかったら」
「はい」
「ずっと、私のそばに……」
「奴隷とか、下働きなんかじゃなく……その」
彼女が少年の方を向こうとした。
「王女様あ。クシュルカ様あぁ」
遠くから侍女が呼ぶ声が聞こえてきた。
「王女様ー。どちらにおいでですかー。そろそろお勉強のお時間ですよー。お部屋にお戻りをー」
「もう。セナったら。あんなに大声を出さなくてもいいのに」
王女は仕方なさそうに立ち上がったが、思い出したようにぽんと手を叩いた。
「そうだわ。これを話しにきたのだった。ライファン」
「はい」
「前から言っていたわね。騎士隊に入ってみたいって」
「ええ」
「じいやに……あ、侍従長のことね……言って騎士隊長に話を通してくれたみたい。明日から見習い騎士として稽古にお出でなさい」
「あ、ありがとうございます!」
少年は嬉しそうに礼を言い、自分の腰に下げた剣に手をやった。
「本当に剣が好きなのね。ライファンは」
「はい」
にこにこと無邪気に笑う彼を見て、王女は少し寂しそうに微笑んだ。
「あなたが、どこかの貴族だったらいいのに……」
王女のつぶやきは風にとぎれた。ライファンは顔をあげた。
「え?なにかおっしゃいましたか」
「なんでもないわ」
王女は首を振った。
「もう行かないと」
「はい」
「ライファン……」
ためらいがちに、王女はそっと少年に近寄った。
「ひざをついて、目を閉じて」
「はい」
なんの疑いもなく言われたとおりにする少年の髪に、震える手で触れ……
王女は目を閉じ、その額に自らの唇をあてた。
「王女……様」
驚いて目を開けた少年にくすりと笑いかける。王女の頬にさっと赤みがさした。
「ただのおまじない。気にしないで」
そう言い残すと、王女はさっと走り去っていった。
少年はぽかんとして草の上にひざまずいていた。
緑の庭園にさわさわと風がそよぐ。頭上には穏やかな青空が広がっている。
きつくはめられていた木製の枷が取り除かれると、少年はおずおずと自分の手首を撫でつけた。久しぶりの自由にとまどうように。
「痛かったでしょう?ずっと枷をはめられて……ひどいことを」
やさしく声をかけるのは、王女クシュルカ。プラチナのような髪の美しい少女である。
露店を後にしてからは、少女と共に馬車に乗り、高台にそびえる王城の門をくぐったのだった。ぶどう畑の緑に囲まれた、いくつもの尖塔がのびるアダラーマ王の城へ。
何十人もの侍女や女官に出迎えられ、巨大な円柱そびえる回廊や、広大な緑に包まれた庭園を見て仰天しながら、少年は王女と一緒に離れの別塔の一室に入り、見事な調度品や、ふかふかの絨毯に目をまるくしながら、下男や女官たちによって固い枷を外されたのである。
長い拘束のせいでヒリヒリと手首は痛んだが、少年は嬉しそうに両手を動かした。首を回すとぼきぼきと音がした。いったいどれくらい檻に入れられていたのか、彼はもう忘れてしまっていた。
「あんなせまい檻のなかに閉じ込められて、さぞのどが渇いていたでしょう。お腹もへっているかしらね。今何かもって来させます」
「あの……その……」
少年は何度も両手を伸ばしたり首を回したりしてから、今はじめて自分を助けてくれた銀色の髪の少女を正面に見た。
「ありがとう……ございます」
照れながら礼を言う。顔を赤くして視線を外す少年に、王女はやさしく微笑んだ。
こうして立てば、彼はすらりとしていて、思ったより背が高かった。
「それにずいぶんと痩せているわ。背は私と変わらないのに」
王女はなんのてらいもなく、汚れた服の少年の横に並んでみて、自分と同じ高さにある彼の顔を見つめた。
「その、お鼻の傷はどうしたのかしら?」
「あの……」
「ああ、言いたくなければいいのよ。あなた……あ」
言いかけて、彼女は気づいたように突然くすくすと笑いはじめた。
「そうだわ。まだお互い名前も知らないのでしたね。私は……」
少女は両手を自分の胸の前に重ねて、ゆっくりと言った。
「私はこのアダラーマ王国第一王女、クシュルカです」
優しい微笑みを残しつつ、その顔には、誇らしやかな気品が現れる。感銘を受けたように、少年は目を見開いた。
「……僕は、ライファン……です」
「ライファン……。素敵なお名前ね」
少年はもじもじとうつむいた。
やがて皿や盆を持った侍女たちが、次々に部屋に入ってきた。
大きな盆には巨大な肉やスープの壺、果物や飲み物が乗せられている。またたくまに、用意されたテーブルの上はごちそうでいっぱいになった。
少年は口許をぬぐった。腹がぐぐうと鳴る。
王女は笑った。
「さあ、どうぞ」
「信じられぬ」といった顔で少年は王女を見た。
「すきなだけお食べなさい。それが終わったら入浴をどうぞ。女官に用意させますから」
少年はおそるおそるテーブルにつき、そのあとは……。
ただ。もりもりと食べるだけだった。
「ライファン。いますか。ライファン」
「はい。姫様」
城内の中庭で、少年の姿を見つけると王女は嬉しそうに近づいた。
少年は剣を振る手を止めて、額の汗をぬぐい王女の前にひざまずいた。
「お呼びでしょうか。姫様」
「もう……」
王女は不服そうに頬を膨らませた。少年を立ち上がらせると、
「そんな挨拶なんかはいいのよ。それに、いつまでも姫様なんて呼び方もダメ」
「は……、でも……」
困ったような少年の様子を見て、王女はまた微笑んだ。
「名前でいいのよ。クシュルカって呼んで」
「はあ……でも」
「さあ。呼んでみて。早くしないと今日の夕食は抜きよ」
「はいっ」
少年は「それは困る」とばかりにあわてて、一度息を吸い込むと、ちらりと王女の顔を見ながら、
「ク……クシュルカ……様」
小さくそう呼んで、そのまま顔を赤くしてうなだれた。
「いいわ。それでも」
王女はくすくすと笑いだした
心地よい風が吹く。彼方にそびえる城壁、たくさんの尖塔の屋根に旗がなびく。
銀色の髪をかきあげる王女を、少年はまぶしそうに見た。
城に来てから二週間。少年はすっかり元気を取り戻した。
痩せ細っていた体は、すらっとした体つきはそのままにしっかりと肉がつき、白すぎるほどだったその頬にも今では赤みがさして、つやつやとしていた。
城にやって来てからは、与えられた一室でぐっすり休み、その若さも手伝って数日のうちにはもう体力を取り戻した。その後は、侍女や女官たちに毎日掃除や城内の草刈りなどの仕事を教わり、敬語や城の中の規則を学び、またたっぷりと食事をし、あいた時間に馬に乗せてもらったり、剣の稽古をしたりして過ごすようになった。
彼はよく食べよく働いた。教わった仕事はきっちりとこなすし、常ににこにこと明るい笑顔を絶やさない。今では侍女たちの間でちょっとした人気者にさえなっていた。城にやってきた当初汚れていた身なりも、入浴し髪をととのえ、ぴったりとあつらえられた騎士見習いの服に身を包むと、彼は見違えるようにしゃんとして見えた。
もともと綺麗だった顔だちは、ちゃんと栄養をとり、よく眠り朝早く起きて顔を洗い、仕事をして汗を流すという健康的な生活のおかげか、ほどよく肉が付いて血色もよくなり、その笑顔には本来の太陽のような輝きが戻っていった。そして宮廷の言葉と礼儀作法を習い、剣や馬の稽古にはげむ彼は、ほとんど今や本物の少年騎士のようであった。
王女はもちろん、城の侍女たちや、はじめは身分がどうの、奴隷の乞食などが王女の側に仕えるなどもっての他などと、批判がましかったお堅い女官たちでも、今では少年の優しい笑顔や明るい挨拶の前には、思わず笑顔を返さずにはいられない。
彼はとても素直で、人の言葉をよく聞いたし、どんな時もけっして反論したり不満を述べたりはせず、ただにこにことして喜んで仕事をした。ときには怒られ、ときには未だに奴隷扱いの蔑みを受けることもあったが、それでも決して相手を嫌うことも、愚痴をこぼすことも、眉を一つひそめることすらもなかった。
彼は毎日朝早く起きては日課の回廊の掃除をこなし、朝食の給仕を手伝い、中庭の草むしりと城壁の見回りと修繕を黙々とこなし、一人の時間には中庭でひたすら剣を振った。それは自分と一緒にあの奴隷商人から王女が買ってくれた古びた大剣だった。少年は毎日その剣を丁寧に磨いては、剣を振り、また剣を磨いた。さながらその剣が本当に親の形見かなにかででもあるかのように。
「またずっと剣を振っていたの?」
「あ、はい」
ふわりと白いドレスを広げて、王女は中庭の草の上に腰を下ろした。少年はその横に座り、憧憬のこもったまなざしで横顔を見つめる。
クシュルカ姫は美しかった。
姫は今年で十五歳になる。国王ケンディス二世を父に持つ第一王女。いずれは婿をとり、王妃としてこのアダラーマ国を支えてゆく運命をもった高貴なる存在だ。
宮廷においても、町の民衆たちにも絶大な人気があり、すでに幼少のころから数年もすればアダラーマ随一の貴婦人となるだろうと誰もが褒めたたえる。輝くようなプラチナの髪は宝石のようなつややかで、王女が首をかしげて、その髪が肩や首にかかる様子は、さながら名画の中の麗しき美姫そのものだった。透き通った青い瞳は、少年に向けられるときにはいつもやわらかな光をたたえ、まばたきをするその長い睫毛は蝶のように可憐だった。
そんな王女を見ていると、彼はいつも胸がどきどきとして、なんだかじっと見ていてはいけないような気持ちにもなるのだった。
「どうしたの?」
「いえ。……なんでも」
こちらを覗き込む王女に、少年は顔を赤くした。
彼女はほとんど毎日のように、中庭で剣の稽古をする少年のもとにやってきた。彼女自身も、やがてはこのアダラーマ国を担う王妃となるための色々な学問や作法を学ぶ時間に追われ、とても忙しいようだったが、それでもいつも少年の横に座って、わずかな時間だが二人で話をすることがとても楽しいようすだった。
「ねえ、その剣……」
「はい」
「やっぱり、あなたのご両親の形見かなにかなのかしら?」
王女がそう聞いたのはもう何度目だったか。
「さあ……。僕には分かりません」
少年の答えもいつも同じ。彼は奴隷として檻に入れられる前の記憶がほとんどなかったのだ。王女がそれを知ったのは、彼が自分の名前以外、年齢も、生まれた国も、母親の名前すら答えられないということを聞いたときだった。
「本当に思い出せないんです。いったい自分はどうしてあんな檻に入れられなくてはならなかったのか。自分はどこから来たのか。……本当に。ごめんなさい」
少年は剣の柄先につけられた青い宝石をいじりながら、申し訳なさそうに言った。
「いいのよ。あなたが悪いわけではないもの。私こそ、いつもしつこく聞いてごめんなさい。ただ、あなたがもしかして何かを思い出せればって思って」
「ありがとうございます。姫は……ああ、いや……クシュルカ……様は、おやさしいですね」
少年はまだ王女を名前で呼ぶのに慣れぬように、自分で言って頬を赤くした。
中庭は静かで、そよそよと梢に吹く風が心地よく、二人の髪をなでつける。
平和なアダラーマ国。かつて一度として戦火にまみえたことのない、豊かで平穏な緑の王国。いま彼の隣にいるのは、そんな国の王女だった。
「もし……」
王女はためらいがちに、彼女にしては珍しくおずおずとた様子で、囁いた。
「ずっと……あなたの記憶が、もどらなかったら」
「はい」
「ずっと、私のそばに……」
「奴隷とか、下働きなんかじゃなく……その」
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「王女様あ。クシュルカ様あぁ」
遠くから侍女が呼ぶ声が聞こえてきた。
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「もう。セナったら。あんなに大声を出さなくてもいいのに」
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「そうだわ。これを話しにきたのだった。ライファン」
「はい」
「前から言っていたわね。騎士隊に入ってみたいって」
「ええ」
「じいやに……あ、侍従長のことね……言って騎士隊長に話を通してくれたみたい。明日から見習い騎士として稽古にお出でなさい」
「あ、ありがとうございます!」
少年は嬉しそうに礼を言い、自分の腰に下げた剣に手をやった。
「本当に剣が好きなのね。ライファンは」
「はい」
にこにこと無邪気に笑う彼を見て、王女は少し寂しそうに微笑んだ。
「あなたが、どこかの貴族だったらいいのに……」
王女のつぶやきは風にとぎれた。ライファンは顔をあげた。
「え?なにかおっしゃいましたか」
「なんでもないわ」
王女は首を振った。
「もう行かないと」
「はい」
「ライファン……」
ためらいがちに、王女はそっと少年に近寄った。
「ひざをついて、目を閉じて」
「はい」
なんの疑いもなく言われたとおりにする少年の髪に、震える手で触れ……
王女は目を閉じ、その額に自らの唇をあてた。
「王女……様」
驚いて目を開けた少年にくすりと笑いかける。王女の頬にさっと赤みがさした。
「ただのおまじない。気にしないで」
そう言い残すと、王女はさっと走り去っていった。
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緑の庭園にさわさわと風がそよぐ。頭上には穏やかな青空が広がっている。
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