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7.馬車の知らせ

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 リュシアンは、ぎゅっと眉をひそめ、不気味なものを見るような目つきで、何度もその手紙を読み返した。
「なんだろう……これは」
 そこに書かれた文字を見つめながら、つぶやく。
 ただのいたずらというには、これにはどうもいやなものを感じた。この手紙の文面そのものもそうだが、ひどく乱雑な字体やインク汚れや指紋がついた羊皮紙には、なにか生々しい憎しみというのか、書いた人間のどろどろとした感情を、そのまま伝えてくるかのようなものがあった。
「いたずら……それともいやがらせか。でも、いったい誰が?」
 リュシアンは、いったんその手紙を丸めてとじた。これをずっと見ていると、気味の悪さにおかしくなりそうだった。
「あの屋敷から出ていけ……と書いてあったな。ということは、やっぱりレスダー伯夫人の屋敷のことだよな。それなら……湖畔の姫君というのはマリーンのことに決まってる」
 つまり、この手紙を書いた誰かというのはマリーンに恋慕の情を抱いており、同じ屋敷に暮らすリュシアンへ苦々しい気持ちを抱いている、ということになる。
「ようするに、その誰だかは僕に嫉妬している、ということか。でも、それにしても……」
 湖畔の姫君、という言い回しからすると、手紙の主は、彼女がすでに湖畔の城に住むモンフェール伯爵に嫁いでいるということを知っていて、さらに現在は、彼女がレスダー伯夫人の屋敷に戻ってきているという事実まで把握しているということになる。
「誰だろう……これを書いたのは、いったい」
(彼女を愛する資格を持つのは、湖畔の騎士ローズロット……)
 そのなんとも気障な、詩的すぎる表現も、どうも気に入らない。
 結局これは、どこかの誰かが、マリーンと一緒にいる自分を妬んで書いた、いやがらせの手紙に違いない。そうリュシアンは考えた。
(くそ。馬鹿らしい。いちいちこんなくだらないことで怖がっていてもしょうがないや)
 リュシアンは手紙を放り出すと、ごろりと寝台に寝ころがった。
(今日はこのまま寝てしまおう。一日くらいこっちに泊まっていっても、マリーンも驚かないだろう)
 そしてつまらぬことは忘れてしまおうと、リュシアンは目を閉じた。
「……」
 だが、久しぶりに自分の家に戻ってきたというのに、いっこうに気が休まらない。横になっていても眠気が訪れることもなく、いっそう目が冴えてくるようだ。やはり、さっきの手紙のことが、頭のどこかで気になっているのだ。
「くそ……」
 いくらもたたないうちにリュシアンは起き上がった。あの手紙に書かれた脅し文句を信じるわけではなかったが、なんとなくマリーンのことが気掛かりだった。
「やっぱり……戻ろう。なにも言わずにこっちに来てしまったし。きっとマリーンも心配しているかも」
 気まずく別れたときの怒りは、今はもうすっかり消えていた。むしろ、マリーンにあやまって、仲直りをしたいという気持ちの方が強かった。
「……」
 立ち上がったリュシアンは、床に落ちた羊皮紙に眉を寄せつつもそれを拾うと、懐にしまった。
 屋敷に戻るとリュシアンが言うと、母のクレアは、「帰ってきたばかりなのに」と残念がった。それにやや申し訳なさそうな顔をして、適当に言いつくろい、彼は家を出た。
 辺りはすっかり暗くなっており、リュシアンの中では一瞬だけ、やはり明日になってから戻ろうかという思いももたげた。しかし、懐にある手紙のことを思い出すと、彼はまた顔を引き締め、夜道を早足で歩きだした。

 レスダー伯夫人の屋敷の扉を叩くと、中から現れたのは、侍女のミルダではなくマリーンだった。
「あら、リュシアン。どこへ行っていたの?こんな遅くまで」
「ああ……うん。ちょっとね、家の方に戻っていたんだ」
「そうなの。心配したわ」
 内心でかなりほっとしながら、彼は無事にそこにいるマリーンの顔を見つめた。
「僕もさ」
「えっ?」
「ああ……いや、なんでもないよ」
「そう。でもいきなりいなくなるんだから……」
「うん。ごめんよ」
 リュシアンは素直にあやまった。
「さっきは、つまらないことで怒ってしまって。ただちょっとだけ、マリーンと一緒にボートに乗りたかったからさ」
「もういいのよ」
 マリーンも表情を和らげた。
「私も……、本当は他の子ではなく、あなたと乗りたかったから。でも、くじだから仕方ないわね」
「ああ。フィッツのやつには、今度会ったらよく言っておくよ」
 リュシアンの言葉に、マリーンはくすりと笑った。
「まあ。じゃあやっぱり、あのくじはインチキだったのね」
「ああ……そうなるはずだったけど。ならなかったんでさ、はずみで僕もついかっとなって」
「いいのよ。私も……なんだか言いすぎた気がしていたわ。君がどこかへ行ってしまって、ちょっと心配したし、寂しかったのよ」
「ごめんよ」
 誰も見るものがいないことを確認して、リュシアンはマリーンを引き寄せた。
「リュシアン……」
 彼女は逆らわなかった。二人は軽く唇を重ねて、見つめ合った。
「今度、そのうち、二人でボートに乗りましょう」
「ああ。約束……」
 二人はもう一度、軽い抱擁をして微笑み合った。玄関先では、それ以上のことは出来なかったが、今はそれで十分だった。
「それで、久しぶりにお家に戻って、どうだった?お母様はお元気だった?」
「うん。すごく元気だよ。相変わらずさ」
「それはよかったわ。そのうちまた、機会があったらご挨拶にでもいくわね」
「うん。あの、さ……マリーン」
 リュシアンは迷っていた。あの手紙のことを、今言うべきかどうか。
「なあに?」
「……ええと」
 目の前のマリーンのやわらかな微笑みを見ていると、あの手紙に書かれていた文面が、取るに足らない、ただのいたずらであるようにも思えてくる。
 まだ何事も起きていないのに、つまらない心配をさせることもないだろうか。そうリュシアンは思い、手紙の件は黙っていることにした。
「いや……なんでもないよ」
「そう。ならいいけど」
 微笑んだマリーンは、それからふと寂しげな顔をした。
「もう、黙ってどこかへ行ったりしないで……」
 囁くようにそう言った彼女が、たまらなくいとおしく思えた。
「うん。行かないよ……」
 マリーンの体をそっと引き寄せ、リュシアンはもう一度、その唇にやさしく口づけした。

 伯爵夫人の部屋を訪れると、夫人はすでに寝台に横になっていた。
「ああ、大丈夫よ。今日はちょっと疲れただけ」
 そう言った夫人は、むしろ晴れやかな笑顔をリュシアンに向けた。
「なにしろ、パーティなんて久しぶりだったから。ダンスは踊れないけれど、皆さんの楽しそうな姿を見ていると、それだけでこっちまで若返るようだわ」
「でも、お外に出て、暑い中を過ごされたのですから、やっぱり少しお疲れなんだと思いますわ」
 そばに付き添う侍女のミルダが言った。
「それでも、リュシアンさんやマリーン様の踊られるお姿は、私が見てもとても楽しそうでしたわね」
「そうね、本当にね」
 寝台に横になってはいたが、夫人の顔色はとてもいいようだった。昼間のパーティを思い出してか、その顔はとても楽しげで、生気に満ちていた。
「でもね、リュシアンは男の子だからともかくとして、マリーンのダンスは私に言わせればまだまだよ。私の若い頃は……それはそれは、宮廷の一輪の花とばかりに注目されたものだから」
「まあ、お母様、それは初耳ですわ」
 そこへ、ちょうどお茶を持って部屋に入ってきたマリーンが、驚いた口調で言った。
「お母様がダンスですか。男の人嫌いで、ちゃらちゃらと着飾ったりするのも、とてもお嫌いだったお母様が?」
「おや娘よ。それは少し違いますね」
 夫人はやや憤慨したように言った。
「私は男が嫌いなのではなく、がさつで礼節のない野蛮人の男が嫌いなのよ。そして付け加えるなら、醜男もね。紳士のハンサムで、ダンスが上手い男は別格よ」
「まあ……」
 テーブルにカップを置きながら、マリーンは思わず笑いを漏らした。
「じゃあ、うちのお父様も、若いころはきっと大層な美男子だったのでしょうね」
「ええ、それはもう、たいへんなものでしたよ。かたやあちらは宮廷の貴公子。そして私は一輪のアイリスのように可憐で……」
 昔をなつかしむように、夫人はうっとりと目をとじた。
 リュシアンとマリーン、そしてミルダは、その横で顔を見合せると、互いに笑いを堪えるように口許を押さえた。
「でも、お母様、本当にだいぶお元気になられたようね。顔色もいいようだし」
「そうね。これというのも、あなたたちのおかげよ。マリーン。それにリュシアン。私のためにいろいろとしてくれ、この屋敷で苦労をかけさせてしまって」
 そう言った夫人は、感謝の込められたまなざしで、そこにいる二人を見比べた。
「それと、もちろんお前もね、ミルダ。こんなに長い間、私に付き添わせて。お前だってたまには実家に戻りたいだろうに」
「いいえ、奥様。とんでもありません。このお屋敷にお仕えしてから、もう二十年。その間、いろいろありましたが、私は幸せでございました」
 侍女は涙ぐみながら言うと、夫人の手をとった。
「奥様にも、マリーン様やカルード様にも、大変良くしていただいて。このお屋敷で働くことが私の喜びでした。実家には弟夫婦がいるだけですから、しばらく戻らなくてもどうということはありません。もうずっと、このお屋敷こそが私の家のようなものなのです。厚かましいようですが。ここに置いていただけて、私はとても感謝しておりますよ。そして、これからもずっと、奥様とご一緒に、このお屋敷で暮らしとうございます」
「ああ、ミルダ……ありがとう。ありがとう」
 夫人も目に涙をためながら、長年を共に過ごしてきた、今や友人のようでもある侍女の手をぎゅっと握った。
「……」
 リュシアンは、隣に立つマリーンと横目で目を交わした。
 元気になった夫人の姿は、二人にとっても喜びだった。室内にはしんみりとした、それでいて暖かで、幸せな雰囲気が満ちていった。
 だが、そんな空気を破るかのように、突然、何かを告げるような馬のいななきが響いた。
「あれは、うちの馬かしら?」
「そのようです。どうしたのでしょう?」
 ミルダが首を傾げる。
「怯えているような声でしたが」
「待って。なにか、近づいてくるわ」
 マリーンの言うとおりだった。耳を澄ませると、石畳を叩く車輪のような音が聞こえ、それはだんだんと近づいてくるようだった。
「あれは、馬車の音だ。こっちにやって来るよ」
 リュシアンの言葉に、皆は一様に顔を見合わせる。
「なにかしら、こんな夜に……」
 どうやら、馬車は相当飛ばしているのか、近づくにつれてガラガラという車輪の音が、耳障りに大きくなってくるようだ。
「よし、僕が見てこようか」
「待って。私も……」
 立ち上がりかけたリュシアンに、マリーンが言いかけたとき、
「止まったみたいだ」
 車輪の音が止んだ。どうやら、馬車はこの屋敷の玄関の前に止まったようだった。
 いったんは静かになったものの、しばらくして、今度はドンドンと扉を叩く音が響き始めた。
 それは、尋常ではないノックの仕方で、なにかに切迫した様子がうかがえる。部屋にいた四人は思わず顔を見合わせた。
「なんでしょう。お客にしては、どうも変だわ」
 やや不安そうに言った夫人に、侍女もうなずいた。
「そうですね。あんなに何度も扉を叩いて……でも、とにかく、見に行かなくては」
「待って。僕が行ってくる」
 立ち上がりかけたミルダを制して、リュシアンが言った。
「マリーンも、ここで待っていて。もし、なにかあったら大変だ」
「何かって、リュシアン……」
「大丈夫だよ。じゃあ行ってくる」
 そう言い残し、リュシアンは部屋を飛び出した。
 暗い廊下を走りながら、思い浮かぶのはあの手紙のことだった。
(もしかして……)
 自分が屋敷を出ていかなければ、マリーンにも危害を加えるというような、あの不気味な文面。まさか、その手紙の主が現れたのではないだろうか。リュシアンの不安はそれだった。
 階段を駆け降りる間も、まだあの異常なノックの音は続いていた。ドンドン、ドンドンと、まるで狂ったように誰かが扉を叩き続けている。
 こんなこともあろうかと、家から持ってきていた短剣が腰にあるのを確かめると、リュシアンは玄関の扉の前に立った。
「……」
 そのとき、ふっとノックがやんだ。
 扉を開けるべきかどうか、リュシアンが悩んでいると、少ししてまた扉が叩かれた。だが、今度はそこに人の声が混じっていた。
「おい。開けろ!開けてくれ!」
 それは聞き覚えのない男の声だった。
 リュシアンはぎゅっと眉を寄せた。もしや、扉の外にいるのは、あの手紙の主ではないかと、彼は疑った。
「早く。早く開けろ!」
 また男の怒鳴り声が響く。やはり、ひどく焦っているような様子だ。
「どちら様でしょう。こんな夜遅くに」
 リュシアンは、屋敷の下男を装って声に答えた。
「おお。私は……」
 扉の向こうから、切羽詰まったような声が返ってきた。
「私は、モンフェール伯邸の執事、オルギンと申す。事は一刻を争う。急がねばならない。ああ、早く開けてくれ!伯爵が……」
「なんだって?」
 それを聞いて、リュシアンは急いで扉の錠を開けた。
「ああ、かたじけない」
 玄関に飛び込んできた男は、リュシアンを見ると少し驚いたようだった。
「君は……」
 中年というにはまだ若いその男は、おそらく一日中馬車を走らせ続けてきたのだろう。顔中に汗をかいて、ぜいぜいと肩で息をしていた。
「僕はリュシアンです。その……」
「ああ、そうか。分かっている。では奥様は?」
 男はひどく急いでいる様子で、息を整えるや、せわしなさそうに屋敷の中を見回した。
「マリーンさま、マリーンさまはどちらに」
「なにごとです。こんな夜にお客さま?」
 声を聞きつけたのか、階段を下りてきたマリーンは、男の顔を見るとはっとなった。
「ああ、奥様!」
「お前は、オルギンじゃないの。いったいどうしたの」
「奥様。それが、伯爵が……伯爵が」
 男が言いおえる前に、マリーンははっと顔を凍りつかせた。
「まさか……」
「伯爵が、昏睡状態におなりです」
 聞いたとたん、マリーンは声を失った。
「ああ……」
 よろけそうになるマリーンの体を、走り寄ったリュシアンが横から支える。
「マリーン、大丈夫?」
「え、ええ……」
 リュシアンに肩を支えられながら、マリーンは男に向き直った。
「昏睡状態……そんなにお悪いの?」
「ええ。ともかく奥様、すぐにお戻りを」
「ああ……ええ、そうね」
 弱々しくうなずいたマリーンは、さすがにショックを隠せない様子だった。
「さあ、お早く」
「ああ、でも、お母様に言わないと」
「私は大丈夫ですよ」
 階段の上から声がした。
「お母様……」
 夫人はそこですっかり話を聞いていたらしい。ミルダに支えられて階段を下りてくると、夫人は娘の肩を優しく叩いた。
「しっかりなさい。私のことは大丈夫だから」
「お母様……」
 マリーンは夫人に抱きついた。
「ほら、私ならこんなに元気になったし。お前たちのおかげでね。もう、自分のお屋敷にお戻りなさい。お前はモンフェール伯爵夫人なのだから」
「はい……」
 マリーンは、涙をこらえるようにしてうなずいた。
「さあ、お行き」
「ええ、では帰ります。落ちついたら、きっと連絡しますから」
「では奥様。お急ぎを。今晩馬車を飛ばせば明日の朝までにはお帰りになれます」
 男の言葉にマリーンはうなずいた。
「それで、伯爵のご様子は?」
「はい。まだときおり意識はおありになります。うわごとに何度もマリーン様のお名前を……」
「そう……。ではすぐにまいりましょう。リュシアン」
「ああ、うん」
 二人は一瞬だけ見つめ合った。
「あとは……お願いね」
「分かったよ」
「ではゆきましょう。オルギン」
「はい、奥様」
 伯爵夫人の顔に戻ったマリーンは、持ってゆく荷物もそこそこに、慌ただしく屋敷を出ていった。
 動きだした馬車を心配そうに見送るミルダの横に立ち、リュシアンは夜闇の中を遠ざかってゆくその馬車を、じっと見つめていた。心の中に消えない。一抹の気掛かりな不安とともに。



 マリーンのいなくなった屋敷からは、にわかに華やぎが消え、まるで花の抜かれた花瓶のように寂しげであった。
 廊下の掃除をしながら、リュシアンは気の抜けたように立ちすくみ、窓の外を眺めてぼんやりとすることが多くなった。
(マリーン。今頃どうしているかな)
 考えることはいつもそればかり。
 二日たっても三日たっても、それは変わらなかった。リュシアンの心には、ぽかんと大きな穴が開いたままだった。
 マリーンからの音沙汰はなかった。といっても、書いた手紙が届くには数日はかかるだろうし、なにより便りがないということは、伯爵の状態に特に変化はないということなのだろう。
「そうですねえ。どのくらいお悪いのかは分かりませんが。前々から、お体を壊しなさっていたみたいで、体調はよくなさそうでしたから。いったん体が弱ってしまうと、ちょっとしたことでも寝込んでしまいますし、そうなったらますます弱ってしまうので、ちゃんと治るのには時間がかかるかもしれませんねえ」
 侍女のミルダが、テーブルに食事を運んで来ながら言った。
「ともかく、私たちにはどうしようもないことですし。昏睡状態ということは、おいそれとお見舞いに行くこともできませんしねえ。ここはお医者様と、マリーン様の看病にお任せする他はないでしょうね」
「うん。でも……マリーン、心配だな。看病で疲れなきゃいいけど」
 そんなリュシアンのつぶやきに、レスダー伯夫人が食事の手を止めて言った。
「大丈夫よ。あの子はああ見えて、とても強いから。とくに、人の世話をするときや、自分が必要になったときには、とても頼りになると思うわ。だから、私達はなるべく余計な心配はせず、普段どおりに過ごしましょう」
 夫人は、ここのところリュシアンと一緒に食事をとることが多かった。体調が良いということもあっただろうが、マリーンがいなくなってからは、母親である自らがしっかりしなくてはというように、いっそう気丈に振る舞っているようにも見えた。
 そんな夫人を見ていると、リュシアンも、いつまでも寂しがっているわけにはいかない。彼は己を奮い立たせるように、日々の仕事にとりかかっていった。

 それから、一週間ほどは平素な日々が続いた。少しずつ真夏の暑さも薄れてゆき、世界はしだいに秋に向かってゆくかに思えた。
 その日、リュシアンは週に一度の日課である、馬車での買い物を終えて屋敷に戻ってきた。執事のカストロに手伝ってもらいながら、買い込んできた食料や生活用品を馬車から下ろしていると、ふらりと一人の少年が屋敷の門をくぐってやってきた。
「あのう、リュシアンくんは、君でしたか」
 声をかけてきたその少年は、粗末な麻の胴着と薄汚れたズボン姿、それに尖った帽子をかぶった、旅芸人風のみなりをしていた。
「ああ、僕ですが……なにか?」
 リュシアンは相手の顔を見た。その若い旅芸人の少年には、どこか見覚えがあった。
「ああ、私は先日このお屋敷で雇われた一座のものです」
「ああ、あのパーティのときの」
 リュシアンは納得した。そういえば、楽隊の中にこんな感じの若者がいたような気がする。
「はい。私は、笛吹きのレイナスという者です」
「その君が、僕になんの用だい?」
「それが、その……」
 レイナスという少年は、なにかもじもじとして、話しづらそうにしていた。歳はリュシアンとあまり変わらないくらいだろうが、性格はどうもかなり内気なようだった。
「実は……」
「なに?」
 リュシアンは耳を寄せた。
 ひそひそと耳元で囁かれた言葉に、彼ははっとなった。
「それは……本当かい?」
「ええ」
 リュシアンの顔がみるみる輝きだす。
「分かった。ちょっと待って」
 傍に居た執事のカストロに、「ちょっと近くまで行ってくる」と言い残して、リュシアンは少年とともに屋敷の門を出た。
「ねえ。君……」
 旅芸人の少年、レイナスと並んで歩きながら、リュシアンは堪えきれずに尋ねた。
「マリーンから預かったものって、なんなんだい?」
「ええ、じつは……手紙と一緒に渡してもらったものなんですが、中身は見ていないので僕には分かりません。ともかく、早くお渡ししたいと思って」
「持ってこれなかったのかい?」
「はい。とくにリュシアンさまだけに渡すようにと言われていましたので、もしお屋敷に他の方がいたら困るような気がしまして、それで近くに手頃な場所があったので、そこに置いておきました」
 少年が言うには、一座が湖畔の城を通り掛かったときに、そこの奥様からなぐさめにと音楽を所望され、その帰りにそれを渡されたのだという。
(マリーンが自分だけに渡したいもの……)
(いったいなんだろうな)
 リュシアンは、久しぶりのマリーンからの便りに胸をときめかせた。
「そうか。では、誰かに見つけられないうちに急がないと」
「ええ……」
 二人は、しばらく早足で通りを歩いていった。西の空には、今日の日の終わりを告げる太陽が傾きはじめている。
「もうすぐそこです」
 屋敷を出て、半刻ほども歩いた頃だろうか。立ち止まったレイナスが指さしたのは、石畳の馬車道を横にそれた、木々の生い茂っているあたりだった。
「その木の後ろです」
「どれ……どの木だい?」
 リュシアンが振り向く。通りには一台の馬車がとめられたが、さして気にならなかった。
「それですよ。その太い幹の」
 少年に言われて、リュシアンはその木の後ろを覗き込もうとした。
「どこだ?なにもないけど」
「もっと奥の方ですよ」
 薄暗くなりはじめた地面に目を凝らし、木の根元を探すが、なにも見つからない。
「どれ……なにもないようだけど」
 リュシアンが、もう一度振り返ろうとしたときだった。
 バサバサッと、茂みをかき分ける音がしたかと思うと、いきなり黒い影が襲いかかってきた。
「うわっ」
 悲鳴を上げかけたリュシアンだったが、次の瞬間、頭部を激痛が襲った。
「うっ……」
 きな臭い、しびれるような感覚とともに視界が暗転する。
 ふらふらと、自分の足が地面を泳いだ。
 何が起こったのか分からぬまま、リュシアンは気を失った。



 暗がりの中、ずきずきとする頭の痛みとともに、彼は目を開けた。
「う……」
 反射的に頭に手をやろうとしたが、腕が自由に動かない。
「ここは……」
 ようやく目がなれて来ると、自分が薄暗い部屋の中で横たわっていることを知った。
 暗いのでここがどこなのかは全く分からないが、まったく見覚えがない部屋であるのは間違いない。
「痛……、くそ」
 左の側頭部あたりが、痺れるように痛んだ。生暖かいような感じがあるのは、出血しているからだろうか。手が動かないのでは確かめようもない。
「いったい、どうなっているんだ」
 あらためて部屋の様子を見ようと、なんとか体を動かそうとするが、腕はもちろん、足の方も全く動かせなかった。どうも両手両足をロープかなにかで縛られているらしい。
「ちくしょう……誰がこんなことを」
 痛む頭で思い出せるのは、あの旅芸人の少年がやってきて、マリーンから預かったものがあるからと言われ、通りの外れの林に入ったところまで。
「ああ、そうだ……そこで突然なにかが走ってきて。僕を……」
 あれはなんだったのだろう。襲ってきた黒い影にいきなり頭を殴られたのだ。そして、あの旅芸人の少年はどうしたのか……
 リュシアンがあれこれと考えていると、
 暗闇にコツコツという足音が聞こえた。
「……」
 足音はやがて大きくなり、続いてガチャリと扉が開く音がした。
 リュシアンは息をひそめるようにして、扉の方に目を向けた。誰かが部屋に入ってきたのだ。
「……」
 身動きもせず、じっと息をひそめていると、暗がりの中に、突然ぼっと炎が現れた。
「やあ、気づいたようだな」
 男の声がした。それもまだ若い男の声だ。
 火の付いた燭台を手にした男が、リュシアンのそばに立っていた。
「気分はどうだい?」
 男は言った。
「お前は……誰だ?」
 リュシアンは床に転がったまま、体をねじって相手を見上げた。
 蝋燭の炎に照らされた男の顔には、まったく見覚えがなかった。男は口を歪ませ、その顔に笑いを浮かべた。
「ふん」
 すらり背が高く、まだ若い、ほとんどリュシアンと変わらぬほどの歳にも思えるくらいの若者だが、その顔つきにはどこか大人びたものがあった。
「名乗るような状況でもないだろう。リュシアンくん」
「なんだと」
 内心で驚きながら、リュシアンは言った。
「僕を……知っているのか」
「そりゃあ、まあな。誰とも知らずにこんなことをするはずがない。馬鹿だな」
 男は勝ち誇ったような、にやにやとした笑いを浮かべている。
「何故こんなことを……僕を、どうするつもりなんだ?」
「さあてね。どうしようか……それはたぶん、君次第ってやつかな」
 そう言ってクックッと笑い、こちらを見下ろす顔つきには高慢な表情がある。
「……」
 この男にどこかで会ったことがなかったかと、リュシアンは必死に思い出そうとした。
「おや、黙ってしまって。もう観念したのかい?つまらないな。なんだ、もっと大げさに抵抗するだろうと思って、いろいろと持ってきたのに」
 男はそう言うと、手にしていた袋から、刺の鞭や短剣などを取り出し、見せつけるようにそれらを床に置いた。
「……」
 リュシアンは、恐ろしさに顔を青ざめさせた。この男は、自分をいったいどうするつもりなのか……
「ほほう。やっぱり恐ろしいかい。それはそうだろうな。これから自分がどんな目に合うかと想像するというのは。いかに勇敢な騎士どのでも……ああ、まだ見習いだったかな、それは怖いだろうさ」
「……」
 内心の不安をこらえて、リュシアンは相手を睨み付けた。
「……こんなことをして。ただですむと思っているのか」
「ああ、思っているさ。だからやったんだ」
 こちらを見下ろして、男はせせら笑った。
「縄をほどけ」
 無駄とは知りながらも、リュシアンは男に向かって言った。
「こんな馬鹿なことはやめろ。僕は騎士だ。今は見習いだが、いずれ騎士になる。そうしたら……お前のような奴は、いつか捕まえて牢獄に送り込むぞ」
「はっ。勝手にするさ。だが、今は無理だろう?」
 男はまたククッと不気味に笑い、馬鹿にするように言った。
「なにせ君は両手両足を縛られて、僕の足元にぶざまに転がっている。そして、この地下室の鍵は誰でも開けられるわけではない。助けなどは当分こないだろうね」
「地下室……」
 リュシアンはつぶやいた。
 なんとなくそんな気はしていた。薄暗く、空気が湿っているからだ。
 もう一度部屋を見渡すと、蝋燭のかすかな明かりに照らされた室内には、簡素なベッドとテーブルがあるくらいのもので、あとはがらんとしていた。壁には窓らしいものはひとつもなく、かろうじて後ろの壁の天井近くに、格子のついた小窓があるだけだった。
「そうさ」
 男は椅子に腰を下ろした。
「ここは地下室。暗い、暗い地下室だ。捕らわれの君はなにもできず、僕の足元で震えるだけ。さあて、どうしよう。これから何をして遊ぼうか」
 燭台をテーブルに置いて、男は鼻唄まじりに足を踏みならした。
「縄をほどけ……」
「はっ、馬鹿だね。まだ分からないのか」
 男は手にした短剣を鞘から抜くと、それをテーブルに突き刺した。
「君は捕まったんだよ。この僕に。これから君をどうするかは、まったく僕の自由なんだ。命令するのは僕だ。君じゃない」
「……」
 リュシアンは唇を噛みしめた。
 頭の痛みはやわらぎつつあったが、今度は縄で締めつけられた手が痛い。このまま縛られたまま、こうして何もできずにいては、とても長い間はもちそうになかった。
「お前は、誰なんだ?何で僕にこんなことをする」
 無駄とは承知でリュシアンは尋ねた。
「僕のことを知らない?ああ、そうか……まあ無理もないかな。なにせこうして話すのは初めてだからね。でも僕は……」
 男はしたたるような笑いを口の端に覗かせた。
「君の事をよく知ってるよ。うん……とてもね」
「……」
 リュシアンは、この男が自分には理解不能な人間であることを本能的に悟った。
 もちろん、はなから正常な相手とも思われなかったが、それ以上に感じるのは、自分などとは最初から合わない、人間として認め合うこともできない、そんな種類の相手であるということ。
 それは危険な、より恐怖をさそう類の人種である。もっと言うと狂人だ。
 心のおびえを見られないように、リュシアンは相手を睨んだ。
「ああ、でも……君次第では、案外早く自由にしてあげられるかもしれないよ」
 男はにやにやとしながらそう言った。その手には短剣をもてあそんでいる。
「さあて、どうするね。長い間そんな恰好では手足も痛いだろう。自分の手で食事もとれないよ」
「……」
「どうする?僕の言うことを聞くかい?それなら考えてもいいな」
「……僕に、どうしろというんだ?」
 リュシアンは喘ぐように言った。
「なに、簡単なことさ。簡単な」
 男は眉をつり上げ、すっとリュシアンを指さした。
「君があの屋敷を出てゆけばいい」
「なんだって?」
「あの屋敷を出て、彼女とも離れて、それから……そうだな、僕の家来にでもなると言うなら、すぐに放してやってもいいかな」
「……」
 男は、リュシアンのそばに来てしゃがみこんだ。
「どうした?また黙り込んで。もしや殴られた頭が痛いのかい?大丈夫、血はもう出てないよ」
「……お、お前は」
 リュシアンは声を震わせていた。
「あの手紙……」
 ひどく嫌なものをでも見るように、リュシアンは顔を歪ませて男を見上げた。
「まさか……あの手紙の。お、お前が……」
 男はふんと鼻で笑った。
「ああ、なんだ。今頃気づいたのか。はっ、まったく鈍いな。騎士連中ってのは、剣の稽古ばかりして、おつむの方はいつもからきしなんだから」
「お前が……お前が」
 リュシアンは顔を引きつらせたまま、そう繰り返した。
 あの不気味な手紙……屋敷から出ろという脅迫に、マリーンへの偏愛と自分への嫉妬が綴られた、あのぞっとする手紙……その手紙の主が、目の前のこの男なのだ。
「あ、ああ……」
 声にならないほどの衝撃に、リュシアンは思わず呻いた。
「ああそうだよ。この僕だ」
 男は優雅に両手を広げて見せた。
「湖畔の姫君を愛するローズロット。君のようなガキになど彼女を渡すものか。あの人は僕のものだから。僕がもらう。お前は……ここで死ね」
 クックッと、耳障りな笑いをもらし、男は立ち上がった。
 その手には、鋭い短剣が握られている。今にも、リュシアンの顔めがけて振り下ろしそうな勢いで。
「ああ、おかしいな。良い気分。君を捕まえてよかった。なに、すぐには殺しはしないさ。だってもっと楽しいことが、これからいろいろ起こるからね」
 そう言ってけらけらと笑う男を見上げ、リュシアンはようやく言葉を発した。
「貴様……マリーンになにを」
「彼女は美しいね」
 うっとりとした目で男は言った。
「伯爵夫人となっても、その美しさは変わらない。そして気高く、優雅だ。そう、この僕と同じように。彼女は僕がもらう。たとえ……そう未亡人になってもね」
「な……」
 リュシアンはまたしても衝撃を受けた。
 この男は、マリーンの夫であるモンフェール伯の病気についてまで知っているのだろうか。そうだとしたら、いったいこの男は何者なのか……
「さてと、とりあえず、僕はもう行くよ」
 男は短剣を懐にしまうと、立ち上がった。
「ワインが飲みたくなった。なに、安心していい。またすぐにぶざまな君の顔を見に来るよ。ここは僕の屋敷だから。僕以外にこの地下室に入れる人間は……あの人だけだからね」
「待て。縄をほどけ」
 リュシアンの言葉にはかまわず、男は歩きだした。
「ではな、リュシアンくん。また明日」
 男は背中ごしに手を振った。
 燭台の明かりとともに、男が部屋から出てゆくと、室内はまた漆黒の闇に包まれた。
「くそっ……馬鹿野郎」
 床に転がされたまま身動きもとれず、リュシアンは苦痛の声を上げて身悶えた。

 薄暗い地下室に、ほんのかすかな光が差し込んでいた。
「う……」
 うめき声とともに目を開けると、天井近くの……おそらく、外から見ればそこが地面の高さなのだろう、その小さな窓から入り込む光が、かろうじて朝の訪れを告げていた。
「う……っつ」
 縛られた腕がひどく痛んだ。
 両手両足を縛られて、床に転がった恰好は昨日のまま。眠るときも、芋虫のように床に体をこすりつけて這い、少しでも楽な態勢になるのが精一杯だったのだ。
「もう朝か……」
 腹筋に力を入れて上体を起こし、なんとか壁に寄り掛かる。
「ふう……」
 そうしてリュシアンはあらためて室内を見渡した。
 昨日は、ほとんど暗がりでよく分からなかったのだが、さすがに朝になれば地下室とはいえ多少は明るくなった。とはいっても、午後になり太陽が傾きはじめれば、小さな窓からの光も入らなくなり、また真っ暗になるに違いない。
「こうして見ると、案外まともな部屋だな」
 部屋を見回して、リュシアンはつぶやいた。
 想像していのは、床も壁も剥き出しの石でできた、牢獄のような殺風景な部屋であったが、ここはもう少しましなようだった。床も壁も石造りには違いなかったが、壁にはわりときれいにレンガがはめられている。また、それなりに掃除もされているらしい、とくに汚いものもなく、嫌な匂いもしない。
 見ると、部屋にあるテーブルも椅子も、貴族が使用するものらしく、細密な飾り彫りがなされている。そして、なかなか立派な寝台が置かれているのも、地下牢というには違和感があった。
「でも、ここはどこなんだろう……」
 少しでも手掛かりになるようなものがないかと、室内を見回しながら、思わずリュシアンはつぶやいた。
 ほどなくして、階段を降りてくる足音が聞こえてきた。
「……」
 さっと顔を緊張させるリュシアンの前で、ガチャンと鍵を開ける音とともに、鉄製の扉が開かれた。
「やあ。おめざめのようだね」
 部屋に入ってきたのは昨夜の男だった。手には朝食らしいパンとスープを乗せた盆を持っている。
「……」
 憎々しげに、リュシアンは男をじろりと見た。
「はっ。これはまた、ご機嫌うるわしくないようで。寝覚めは悪い方かい?ああ、そりゃそうか。そんな固い床の上じゃあな」
 そう言って、男は昨夜と同じようにクックッと笑った。
 こうして朝の光の中で見ても、やはり男は相当に若く、リュシアンといくらも変わらないほどの年齢に見えた。それでいて背はずっと高く、すらりとしている。フィッツウースよりもさらに大きいかもしれない。
 黒髪を肩まで伸ばした最近流行りの髪形で、目鼻だちもはっきりとした、かなりのハンサムであった。着ているものは袖の膨らんだ絹のブラウスに、黒の足通しというシンプルなものであるが、どことなくセンスの良さと洒落っけが見える。そして、間違いなく貴族の若者であろう優雅さを、全身からもかもし出しているようだった。
「……」
 リュシアンは、何者かを計るように男を凝視した。だが、いくら見てもやはり見覚えのある人間ではないことは間違いなかった。
「まあ、そう睨むなよ。別にお前にそんなには恨みはない。……いや、あることはあるんだが。それはまあ……いいや」
 リュシアンはいぶかしげに眉をひそめた。昨晩は「ここで死ね」とまで言ったくせに、そんなに恨みはないとは、いったいどういうことなのだ。それは男の本心なのか、それとも……
「そら、とりあえず朝メシだ。これでも食っておとなしくしてろ」
「僕を……どうする気だ?」
 目の前に置かれたパンとスープをちらりと見て、リュシアンは昨夜同様男に尋ねた。
「どうしてこんなことをする。僕が何をした?」
「……だからさぁ」
 男は頭を掻きながら言った。
「それは昨日も言ったろう。お前があの屋敷を出ていかないから。俺の手紙の警告を無視したから。だからこうして力づくで捕まえたんだよ」
「じゃあ、僕がすぐに屋敷を出ると言えば、いますぐ縄を解くのか?」
「んー、そうだなあ……」
 そう言って、男はあごに手をやって考えこむふうだった。
(どうも変だな……)
 男の様子が、なんとなく昨夜の雰囲気とは違うような気がする。
「そうね……屋敷を出て、俺の家来になるんなら……いいかなぁ。あ、でもやっぱり、もうちょっとしてみないと分からんな」
 男の曖昧な答えが、リュシアンには納得がいかなかった。
「もうちょっとって、どういうことだよ?」
「ああ、だから、それは俺が決める事じゃなくて……ああ、いや、なんでもないっ」
 男は慌てたように口をつぐんだ。
 リュシアンはその様子を怪訝そうに見やった。
「えーと、とりあえず、メシでも食っとけ。そら、早く食わねえと持っていっちまうぞ!」
 まるで脅すように怒鳴ると、男は床を踏みならした。
「この姿じゃ食べられない。……せめて、腕の縄を解いてくれ」
 リュシアンが言うと、男はもっともそうにうなずいた。
「ああそうか。確かにそれじゃ無理だな。犬のように這いつくばってスープを舐めるくらいはできそうだが……」
 男は少し考えるようにしてから、   
 「まあいいだろう。おい、レナス!足かせを持ってこい」
 部屋の外に向かって大声で呼ぶと、すぐに階段を下りてくる別の足音がした。
 リュシアンはそちらを見た。続いて部屋に入ってきたのは、こちらも少年といってよいような若者だった。
「これかい?」
 その少年が鎖のついた足かせを見せると、男は満足そうにうなずいた。
「ああ。それをこいつにはめて壁につないだら、手足の縄を解いてやれ」
「分かったよ」
 命じられて、少年がリュシアンの前に来た。その顔を近くで見ると、リュシアンは驚きの声をあげた。
「あっ。お前は……」
 目の前にいる少年には見覚えがあった。
「レナス……そうだ、レナスといったな」
「……」
 少年は無言で、ちらりと男の方を見た。
「かまわんさ。いずればれることだ」
 男の方は動じた様子もなく、相変わらずにやにやと笑っている。
「レナス。早くやれ」
「分かったよ」
 少年はてきぱきと、リュシアンの片足に足かせをはめると、鎖の先の方を壁にはめられた鉄の輪につなげた。
「……」
 その間も、リュシアンはレナスという少年のことを睨むように見つめていた。
「……そうか、お前は旅芸人に化けて、僕を連れ出したんだな」
 少年は黙ったまま、リュシアンの手足の縄を解きにかかった。
 縄が解かれると、両手が自由になったリュシアンは思い切り体を伸ばした。すっかり縄の跡がついて赤くなった手首をさする。
「さあ、それで自由に食事ができるだろう。立つこともできるし、あぐらをかくこともできる。その鎖の範囲ならな」
 そう言って、男は縄を解いた少年を横にこさせた。
「こいつは、俺の友人のレナスだ。知っているだろう?なにしろ、見習い騎士のご友人だからな」
「……」
 少年は、ややおどおどとした顔で、無言でリュシアンを見つめていた。横にいる男よりはずっと背が低く、外見的にもさして特徴のない目立たない顔つきをしている。直接にはほとんど話をしたことはなかったが、顔は見知っていたし、以前にもリュシアンの家のパーティに来ていたこともある。
 昨日は、まったく違う服を着て、帽子をかぶっていたせいで分からなかったが、今思えば確かにこのレナスが変装していたに違いない。
「そうさ。こいつを旅芸人に化けさせて、お前を誘い出したんだよ。なまじ知らない相手の方が疑われないだろうからな」
 男はそう言って、少年の肩をぽんぽんと叩いた。その様子からは、この二人は友人というよりは、命じる側と実行する側という役割をもっているように見えた。
「よくも、騙したな……」
 リュシアンの中で、あらためて怒りがこみ上げてきた。このまま二人に殴りかかりたいような気分であったが、足にはめられた鎖のせいで、壁から二歩以上は動けなかった。
「そうそう。ここまでは来られないさ。おとなしくそこで座ってな。犬みたいにな」
 馬鹿にしたように、男はげらげらと笑い声を上げた。
「捕らわれ騎士のリュシアンくん。メシはまた夜に運んできてやるよ」
 男はそう言い残して、レナスを連れて部屋から出ていった。
「く……」
 沸き起こる怒りと、屈辱に震えながら、リュシアンは冷めかけたスープの皿を蹴り付けた。

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