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6.川遊びと二通の手紙

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 そろそろ日暮れも近いとあって、照りつけていた夏の日差しもだいぶやわらいでいた。
 日傘をさした女性たちも歩くのにそう難儀そうではなく、一緒にダンスをしたり談笑する間にうちとけた少年たちと、それぞれがまんざらでもなさそうに話をしながら、並んで歩いていた。
 リュシアンの前をゆくフィッツウースは、彼が密かに狙っていたという、サリナという例の金髪の娘と、なにやら楽しそうに笑い合っている。
(フィッツのやつ、なんだかんだいってもう、ちゃっかりうまくやっているようだな)
 少しうらやましそうに、そちらに目をやっていたリュシアンは、自分も己の恋人の姿を目で探した。
 見ると、マリーンは少年たちに相変わらずの人気ぶりで、その両側に数人を連れて、ひっきりなしに話しかけられながら歩いていた。
(あれは、トマスにカイか。まったく、あいつらときたら!他にも同い年の若い女の子が山ほどいるだろうに)
 思わずリュシアンはふんと鼻をならした。
(まあいいや。水辺についたら、さっそくマリーンを茂みにでも誘って……あとは)
 川へと続く、緑に囲まれた小道を歩きながら、彼は想像をめぐらせた。そうこうするうちにリュシアンの顔は、また昔の見習い騎士の頃に戻ったように、だらしなくにやけつつあった。

 やがて、小川のせせらぎが聞こえてくると、少年たちは歓声を上げて足を早めた。
 ゆるやかに流れる川は、その水面に空の色を映して澄んだ水をたたていた。川幅はそう広くはないが、飛び越せるほど狭くもない。両側の川べりには、花の咲きおわったアイリスが葉を伸ばし、草いちごが所々に赤い実を付けている。
 午後の空には、黄昏どきへと向かう紫色の雲が浮かび、今もなお少しずつその色を変えてゆく。川の水も、木々の緑も、そうしてしだいに、光のうつろいとともにその景色を変える。それは、なんとも美しい一瞬であった。
 少年たち、少女たちは、思い思いに川辺に散らばると、靴を脱いで川の水に足を入れたり、草の上に腰を下ろしてのんびりと空を見上げたりした。
 楽しげな歓声を上げながら、手ですくった水をかけ合う少女たち。草いちごの実をとってそれをすっぱそうに食べたり、西日を受けて輝く川の水面を見つめながら、もの思いに浸る者や、思いを寄せる少女と並んで腰かけ、緊張の面持ちでその手を握るかどうかと思案する者など、皆それぞれに、この黄昏時のひとときを過ごした。
 マリーンをこっそり呼んで、二人で草むらにでも行こうかと考えていたリュシアンだったが、なかなかそういうチャンスはなかった。それというのも、彼女の横には絶えず何人かの少年たちがおり、彼女が川の近くに行けばついてゆき、草の上に腰を下ろせば彼らもその隣に腰掛けるという始末だったからだ。
「まったく。他も女の子はいるだろうに。なんでまた、年上のマリーンにばかりべたべたくっついているんだろうな。ああいうのはようするに、ただの甘えたがりのガキなんだよな」
 自らの事は棚に上げつつ、リュシアンは密かに口を尖らせた。
 しかし一方では、少年たちのマリーンへの純粋な憧れは、分からないわけではない。 ここのところ、マリーンは以前にもまして綺麗になったようだ。それはリュシアンが見ても実感するくらいに、であった。
 艶めいた美しさというのか、ただ若いだけの少女では到底かなわない、どこか翳りを含んだ色気のようなものが、今の彼女の表情やしぐさからは漂ってくる。後ろに束ねた黒髪が風になびいて首筋に絡みつく様や、ふとしたときに見せる、遠くを見ているようなまなざし……その横顔にはかすかな憂いと、倦怠にも似たゆるやかな微笑がある。そして伯爵夫人という肩書きとともに、彼女の持つ気品とたおやかな優しさが、見るもの、接するものをひきよせるのだ。
 少年たちの間にあっても、ひときわ輝くようなマリーンの笑顔を、少し離れた所からリュシアンは見つめていた。
「きれいだな……マリーン」
 黄昏の空、西日の残照に照らされ、きらきらと輝く川面……そこに静かに腰掛けている彼女は、まるで一幅の絵画のようにも見える。
 うつろいゆく時間……今日の終わり。
 沈んでゆく太陽と、紫と赤と青の空のもと、流れゆく川の水は、いったいどこまでゆくのだろう。
 ふと、リュシアンの中で、なんともいえない、寂しさのようなものが突き上げた。それは、かつて感じたこともない気分だった。
(ああ……)
 それは、なんというか……どうしようもない不安のような。不確かなものへの恐れ。とどめることなく流れ去ってゆく時間と、ただそこにいる自分という……それは、彼が今まで考えたこともないような、奇妙な気分、不思議な恐れであった。
(僕は……どこへゆくのだろう)
(明日は……明後日は。これからも同じように、ずっと同じように……続いてゆくのだろうか)
 ただ、その恐れは、叫びだしたいような恐怖ではなく、茫漠とした、大きなものに包まれている、自分という不確かで小さな存在に気づいたときのような。そんな、じっと静かに涙したいような気持ちだった。
(これからも、皆変わってゆくのだろうか)
(僕は……。マリーンは……)
 気がつけば、あっと言う間に黄昏の空の色は変わってゆき、光を失った雲はしだいに空の暗さに溶け込んでゆく。ときは一瞬ごとに変わり、流れ、うつろってゆく。
 たとえ、目の前のものであってもそうなのだ。確かなものに見えていても、それが目の前であっても……やがては変わってゆき、静かに遠く消えてゆく。
(ああ……)
 リュシアンは、にわかに泣きたいような、胸にこみ上げてくるものを抑えた。
 周りには友人たちがいるので、己のその気持ちを顔に出すまではしなかったが、彼の中には、突き上げてくる圧倒的な思いがあった。
(僕は、変わる……)
(マリーンも。そして、誰も彼もが……)
(変わる……)
 それは、彼が初めて気づいた、初めて感じた感覚だった。時間と流れの中に生きること。その揺るぎない力の前には、自分も、自分の思いも、全く無力なのだということ。
(ときとともに、変わってゆかないものはない……)
 まるで今はじめてそのことを知ったというように、少年は唇を噛みしめた。
(ああ……でも)
 その目をじっと西の空に向け、こみ上げてくる思いに耐えながら、
(きっと、それでいいんだ)
 リュシアンは、強くそう思った。
 ふとマリーンの方に目をやると、変わらず穏やかな横顔があった。かすかに、憂いを含ませた微笑みで、彼女は空を見つめている。
(そうか……)
(マリーンは、そんなことはずっと前から知っていたんだ。たぶん、僕と出会うずっと前から……)
 ようやく自分も追いついた、その思いの中で、リュシアンは目を閉じた。
(僕は……)
 マリーンを抱きしめたい。
 そばに行って、ふたりして同じような顔をして、一緒に同じ空を見つめたい。
 彼は、そう願った。
 少年たち、少女たちのはしゃぐ声を、遠くざわめきのように聞きながら、リュシアンはしばらく、黄昏の空を見つめていた。

「おーい。こっちに来てみろよ」
 やや離れた川べりの茂みから声がきこえた。それはフィッツウースのものだった。
 さっきまで例の彼女と、水辺で遊んでいたようだったが、そういえばいつの間にか姿が見えなくなっていた。
「フィッツのやつ、二人して茂みでいちゃついてやがったな」
 苦笑しながら、リュシアンは声のする方に行ってみた。他の少年、少女たちも、何事かと興味深そうに集まってくる。
「こっちこっち」
 少し上流に行った川べりから、フィッウースが手を振っていた。
「なんだ?どうした」
 リュシアンや、他の少年たちがぞろぞろとそっちに歩いてゆくと、
「ほら、これこれ」
 フィッツウースは自慢げに、水辺に浮かぶものを指さした。
 草が繁っていて、やや見えにくい場所にあったが、近づいてみると、それは小さなボートだった。
「なんだ、ボロいボートじゃないか」
「捨ててあるのかな?」
 フィッツウースはいかにも素晴らしい思いつきをしたという顔で、皆に提案した。
「これに乗ろうぜ」
「これに?」
 リュシアンはいかにも古びた、そのボートを見下ろした。一応、水には浮いているようだが、人が乗って沈まないものかどうか、あやしいところだ。
「そう。二人一組になってさ」
 フィッツウースは、ぱちりと片目を閉じて見せた。
「黄昏の川くだりなんて、ロマンチックじゃないか?」
 にやにやとしながら彼は言った。
「ああ……」
 リュシアンはすぐに友人の意図を察した。
 二人一組ということは、相手が男のはずはない……つまり。それに気づいた少年たちも、それぞれに思いを寄せる少女たちをちらりと振り返り、なにごとかを想像するようだった。
「でも、危ないわ。こんなボートで。それに、見たところまともな櫂もついていないし。もし流されでもしたら……」
 一応、この中では年長者であるマリーンが、彼らの保護者然と、心配そうに言った。
「大丈夫さ。このくらいの流れじゃそう遠くには行けない。それにほら、もう少し川を下ってゆけば、あのあたりが狭くなっているかに、あそこでボートは止まるはずだよ」
 フィッツウースは下流を指さして言った。見れば確かに、少し下れば川幅が狭まっていて、ボートがひっかかりそうな浅瀬になっていた。
「まあ、あそこまではほんの少しの間だけどさ。夕焼けを見ながらのちょっとした川遊びって感じで、楽しいぜ。きっと」
「ああ、面白そうだな」
 他の少年たちも口々に賛成した。
「ボートの上で優雅に寝そべって、川を流れてゆくなんて、風情があるなあ」
「まあ、それってなんだかシャールロートの姫君みたい」
 はじめは怖そうにしていた少女たちも、誰かかそう言ったのをきっかけに、きらきらと輝く水面を見つめて、うっとりと手を組み合わた。まるで、ロマンスの中の姫君に自らをなぞらえるように。
「でも、一緒にボートに乗る二人をどうやって決めるんだ?」
「そうだな……まあ、希望する相手がいる場合は、その相手と。もし同じ相手を何人かが希望したら、草のくじで決めるとしよう」
 フイッツウースはてきぱきと言った。こういう遊びを決めるときには、きまって彼は素晴らしい頭脳を発揮する。
「順番を決めたら、最初の二人がボートに乗る。他の連中は先にあの浅瀬まで歩いていってボートを待つんだ。それから、皆でまたボートを運んでここに戻ってくる。そうすれば、危なくはないでしょう?マリーンさん」
「え、ええ……」
 仕方なくうなずいたマリーンを見て、フィッツウースはパチリと指を鳴らした。
「では、決まり」
 少年たちから歓声が上がった。彼らはそれぞれに、誰を誘おうかと思案しながら、同じ相手を選びそうなライバルを互いに牽制する様子だった。
「ぐふふ。これで、あの子とボートの上で……」
 リュシアンのそばに来ると、フィッツウースは顔をにやけさせた。
「やっぱりな。そういうことか」
 呆れ顔のリュシアンに、親友は大きくうなずいた。
「あたり前だろう。そして、女ってのはなロマンチックなシチュエーションてやつに弱いのよ。夕日を見ながら、ゆったりと川を下るボートの上なんてのは……最高だよ。最高!」
「そんなに上手くいくかね」
「いくとも。あとは俺のテクしだい。お前もマリーンさんと二人で乗るんだろう?」
「さあ。マリーンがこんなボートに乗りたがるかな?それに他のやつらもいるし」
「バッカ。なにごとも気合よ、気合」
 ぐいと親指を立てると、フィッツウースは、彼にしかできない自信満々な顔つきで言ってのけた。
「女に対してもな、俺が引っ張るんだ、くらいのつもりでぶつからなきゃダメだぜ。そうすりゃ女ってのは、好きな男には自然とついてゆくもんだ」
「ああ……」
 リュシアンは苦笑ぎみにうなずいた。
 だが相変わらず、フィッツウースの恋愛観には感心させられる。それが全て正しいかどうかはともかく、その自得の境地ともいうべき堂々とした言葉には、妙に納得する部分があるのも確かだった。
「それにまあ、安心しろ。草のくじびきになったら、俺がちゃんと細工しといてやるからさ」
 そう言って片目をつぶると、彼はさっそく他の少年たちを集めにかかり、段取りを仕切り始めた。
 最初にボートに乗るのは、フィッツウースとサリナであった。彼は当然のように、その権利を主張し、平和的に皆を黙らせたのだ。
「では諸君。行ってくるよ。向こうで会おう」
 仰々しい口調で言うと、フィッツウースはまるで遊覧船にでも乗るように、優雅な足取りでボートに乗り込んだ。後から乗るサリナの手を取り、安心させるように笑いかける。女性というものに対して案外細やかな気配りを見せる、そのあたりもいかにも彼らしい。
 ボートにはビロードの布が敷かれ、その上から女性たちの提案で、摘んできた水辺の花を敷きつめた。遅咲きのアイリスや、リリウムの花々が散りばめられ、古びたボートだったものは、伝説の乙女を乗せたロマンスの空気に包まれた。
 他の少年たちがボートを押し出すと、二人を乗せた船は、ゆったりと水の流れに乗って動きだした。
「おーい、またなー!」
 ボートの上から手を振るフィッツウースを見送ると、残った者たちは川沿いを歩き始めた。
 川の流れはごく穏やかでゆったりとしているので、普通に川べりを歩いていってもボートよりもずっと早い。一行はボートを追い越し、終点に決めた浅瀬までやってきた。
 しばらく待つと、二人の乗ったボートがゆったりと漂ってくる。
「おい、見ろよ。あれ」
 誰かが指さした。
 見ると、ボートの上の二人は、乗り込んだ時のように向かい合って座ってはおらず、どうやら重なり合って横になっているようだった。
「フィッツのやつ、まったく手が早いこった」
 少年たちは顔を見合わせて、くすくすと笑った。
 ボートが浅瀬に乗り上げると、フィッツウースは慌てたように身を起こした。
「やあ、諸君。ただいま」
「この野郎」
 なに食わぬ顔で手を振り、ボートから降りたフィッツウースに、リュシアンは小声で聞いた。
「で、どうだった?」
「ああ。最高。水の上を滑りながら、彼女の手を握り、引き寄せて抱きしめ、そしてキス……我ながら上出来だな。ふむ」
 ちらりと見ると、ボートから降りたサリナはうっすらと頬を染めていた。
「こいつめ。最初からそのつもりだったんだろう」
「うむ。あのボートを見つけた瞬間に、この遊びをひらめいた。俺は天才かもしれん」
 そう言って、フィツウースはしかつめらしくうなずいた。
「さて、ボートを運ぼうか。次は誰が乗るのかな?」
 少年たちが引き上げたボートをかつぎ上げ、川沿いを運んでゆく。そのあとを少女たちが、最初に乗ったサリナを囲んで、きゃあきゃあとはしゃぎながらついてゆく。
 元の場所にボートをおろすと、次に乗る二人を決め、初々しいカップルが皆の拍手を受けながら、船に乗り込んでゆく。一人の少女に数名の少年が名乗りを上げたときは、フィッツウースの決めた通りに草のくじで抽選が行われた。こうして、何組かの少年少女が、夕日を眺めながら川を下るロマンティックなひとときを過ごしたのだった。

「さて、次はいよいよマリーンさんの番ですな。さあ、希望する男どもは何人だ?」
「ちょっと……私は別に乗らなくても」
 気乗りしない様子でマリーンが言うと、その横からリュシアンが囁いた。
「いいじゃない。二人で川の上で過ごすなんて、いい思い出になるよ」
「でも……」
「大丈夫だよ。フィッツのやつが上手くやってくれるから」
「さあさあ、このマリーンさんとふたりっきりでボートに乗りたいやつは誰だ?ほら、手を上げろ」
 フィッツウースが告げると、リュシアンを含め、やはり何人もの少年が手を挙げた。
「どれ……ひい、ふう、み……五人だな。よし」
 彼はさっそく、くじ引きに使えそうな草を選んで五本を引っこ抜くと、そのうちの一本の茎を結んで「当たり」を作った。茎の部分を握って手で隠すと、厳正なくじの出来上がりだ。
「ほれ、引きな。一本だけ当たりがあるぜ。そら、リュシアン。お前から引くか?」
「ああ」
 進み出たリュシアンは、フィッツウースをちらりと見上げた。
「ほら、引きな」
「ああ。じゃあ……これ、にしようかな」
 五本の草のうちの一本を選ぼうとすると、フィッツウースの目がさっとそらされた。あわててリュシアンは手を引っ込める。
「おっと、やっぱやめて……こっちのにしようか」
「早くしろよ、リュシアン」
 他の少年たちから不平の声が上がる。
「悪い悪い……じゃあ、これでいいかな」
 すると、フィッツウースはまるでうなずくようにして目を下に動かした。
「よし、これだ」
 リュシアンは確信をもって、その草を引いた。
 だが、引き出した草の茎を見て、思わず彼は声を失った。
「あ……」
「はずれだ!」
 少年たちから歓声が上がる。
「そんな……」
「どけよ、リュシアン。次は俺だ」
 呆然としているリュシアンをおしのけて、別の少年がくじを引いた。
「よし、これだ……おっ、当たった!」
 少年は茎の結ばれた草を高々とかざした。
「ちぇっ、なんだよ。レイトンのやつ」
「あーあ、うらやましいぜ」
「へへっ、どうだ!」
 自慢げに当たりの草を見せびらかす、その少年の横で、リュシアンはむっつりとした顔で立っていた。
「ああ……すまねえ」
 フィッツウースを睨みつけると、彼は申し訳なさそうな顔で、首をかしげた。
「てっきり、あれだと思っていたんだが」
「わざとじゃないだろうな?」
 リュシアンの言葉に、フィッツウースは眉を寄せた。
「当たり前だろが」
「そうかよ。まったく、当てにならないな」
 腹の虫が治まらないように、リュシアンは口をへの字に曲げた。
「じゃあ、みんな。向こうで待っていてくれ。俺はマリーンさんとボートに乗るから」
 皆に当て擦るように、くじを当てた少年がうきうきとしてマリーンに手を差し出した。
「さあどうぞ、マリーンさん」
「ええ……」
 仕方なさそうに、マリーンは少年の手を取り、ボートに乗り込んだ。
「じゃあな、いってくるぜ」
「おい、マーカス、くれぐれもマリーンさんに不埒なマネするんじゃないぞ」
「なんたって、相手は人妻なんだからな」
 少年たちから、はやし立てるような声が上がる。
「そうそう。あやまちはいかんぞ。あやまちは」
「いやあねえ、なに言ってるのかしら。不潔よ」
「ほんと。男っていやらしいんだから」
 少女たちの声に、周りからどっと笑いが上がる。
 ボートが動きだすのを見送り、皆はまた川沿いを歩きはじめる。その中にまじって、一人、リュシアンは口を引き結び、憎々しげに川面を見つめていた。
(ちっくしょう……)
(マリーンは、俺の……なのに……)
 「恋人」、「愛人」といった言葉は、喉の奥まで出かかって消えた。マリーンと自分の関係は、そんな簡単な言葉一つで表すような軽薄なものではないと、彼は思っていた。
(あの野郎……マリーンにくっつきやがって)
 心を抑えようとしても、ついつい視線はボートの方にいってしまう。そこに少年と並んで座って、案外楽しそうにしているようなマリーンを見ると、彼の中ではふつふつと怒りと嫉妬が沸き起こるのだった。
「おっ、戻ってきたぞ」
 浅瀬で待ち構える少年たちが、近づいてくるボートに手を振った。
「おおい」
「レイトンの奴、楽しそうにはしゃいでやがる」
 リュシアンはゆったりと近づいてくるボートを見つめ、じれったそうに舌打ちをした。
 ようやく、ボートが浅瀬に乗り上げると、先に降りた少年の手を借りて、マリーンも岸に上がった。その周りを、少年たちが取り囲む。
「どうだった?マリーンさん」
「ああ、なんだか、とても気持ちが良かったわ」
 マリーンは笑顔で言った。
「涼しい風が吹いていて、遠くに夕焼けが綺麗だったし、それに……」
「マリーン!」
 少年たちをかき分けるように、近づいていったのはリュシアンだった。
「次は、僕と乗ろう」
 そう言った彼は、自分でも気づかぬうちに、眉間に皺を寄せて、まるで怒ったような顔をしていた。その様子に、マリーンは驚いたようだった。
「リュシアン……」
 リュシアンの形相に、周りの少年たちはやや気押された風に押し黙った。
「でもさ……、そろそろ日も暮れるし、今日はもう戻ろうぜ」
 やがて、少年の一人が言うと、それに少女たちも賛成した。
「そうね。私もそろそろ帰らないと、パパに怒られちゃうわ」
「私も。暗くなる前に帰ることになっているの」
 沈みゆく夕日とともに、黄昏の空もしだいにその色を濃くしていた。暗くなった川でのボート遊びは、さすがに危険がともなうだろう。
「じゃあ、今日のところはお開きにするか」
 フィッツウースが告げると、皆も賛同した。それから彼は、黙り込んでいるリュシアンの肩を叩いた。
「な、しょせんこんなのはただのお遊びだしさ、そんなにムキになるなよ」
「うるせえな」
 彼は乱暴に親友の手を振りほどくと、つかつかと一人で歩きだした。
「なんだ?あいつ」
「おかしいんじゃないの?」
 奇妙なものを見るような目つきで、少年たち、少女たちが、歩いてゆくリュシアンの方を見てひそひそと囁く。
「さあ、ともかく戻ろうぜ。ボートはそこに置いておいても大丈夫だろう。帰り道は、仲良く手でもつないでさ。夕暮れの道を歩くのも楽しいもんだぜ」
 フィッツウースは、皆をとりなすように言った。

「リュシアン」
 後ろからマリーンが追いついてきたのに気づくと、リュシアンは振り返った。
「どうしたの?そんなに怒って」
「別に……」
 リュシアンは、まだ仏頂面のままだった。
「もしかして、私が別の子とボートに乗ったから?それで怒ってるの?」
「……」
「だって、あれは……」
 マリーンは少し呆れたように、笑顔を見せた。
「仕方ないじゃない。くじで決めたんだし。それに、ほんの短い間だけよ。ボートに乗っていたのは」
「ああ、だけどフィッツの野郎が……」
「え?彼がどうしたの?」
「別に……なんでもないよ」
 リュシアンはぷいと横を向いた。
「なら、そんなにふくれないでよ」
「ふくれてないよ」
「そう……」
 やや気まずい空気のまま、二人は並んで歩きだした。
 すでに太陽は沈みかかり、空にはかすかな光の残照を受ける雲が、最後の輝きをはなっている。薄暗くなりはじめた小道を歩きながら、リュシアンはちらりとマリーンを見た。
「ずいぶん……楽しそうにしてたじゃない」
「えっ?」
「ボートで。あいつとさ」
「そんなこと……」
 思わずマリーンはくすりと笑った。
「リュシアン。あなた、そんなことで妬いてるの?」
「妬いてなんか……ないさ」
 ふてくされたように口をとがらせ、リュシアンはやや意地悪く言った。
「あいつと、ボートで二人でいて楽しかった?」
「なに言ってるの。二人とかそういうんじゃなくて。ただ、風が気持ち良かっただけよ」
 マリーンはふと眉をひそめた。
「なんだかおかしいわ、リュシアン」
「ああ、どうせ僕はおかしいよ!」
 吐き捨てるように言うと、リュシアンはぺっと地面に唾をはいた。
「……」
 二人はしばらく互いに黙ったまま、夕暮れの道を歩いていった。
「今の君は……なんだか、昔の君を見ているようだわ」
 相変わらず、眉をつり上げて不機嫌そうな顔をしている少年を横目に、ぽつりとマリーンは言った。
「ここのところは、すっかり大人っぽくなって、しっかりとした騎士になったと思っていたのだけど」
「……」
「なんだか……今の君は、昔の駄々っ子のリュシアンみたい」
 マリーンの言葉に、リュシアンはかっと眉をつり上げた。
「ああ、どうせ僕はまだガキだよ。つまらない駄々をこねて、悪かったな!」
「なにも、そんなに怒ることないでしょう。ただ、ちょっと他の子と一緒にいただけで」
「マリーンはそれでいいんだろう。でも僕はいやなんだよ!」
 リュシアンは声を荒らげた。
 後ろから、やや離れて他の者たちが追いついてきていたが、かまわなかった。
「だって。どうすればいいの?ずっと、あなたのそばにだけいて、他の子とは話したりもせず、ぴったりとあなたにくっついていなくてはダメなの?」
「そんなこと、言ってないだろ!」
 マリーンの言葉のひとつひとつが、今の彼には傷に塗られる塩のように苦痛だった。
「言ってるわ。だって、他の子とボートに乗っただけで、そんなに怒っているじゃない」
「うるさいな。だからそれはフィッツが」
「人のせいにしないで。私は、みんなの前では伯爵夫人として、平等にふるまわなくてはならないのよ」
「分かってるよ」
「じゃあ、分かってよ」
「ああ、はいはい。じゃあ、もういいよ!」
 リュシアンは、こみ上げてくる感情をなんとか抑えようとしたが、なにかを言うごとにいっそう腹立たしさがつのってしまう。
「勝手にすればいいだろう」
「どうしてそんな言い方するの」
「うるさい。もう放っておいてくれよ!」
 乱暴に言い放ったリュシアンにつられるようにして、マリーンの方も声を震わせて言った。
「じゃあ、もう怒らないで。私は……私は伯爵夫人で、実際には君の妻でも恋人でもないのよ!」
 それを聞いたとたん、リュシアンはぐっと唇を噛みしめた。
「……」
 すごい形相でじろりとマリーンを見るや、彼はそのまま無言で走り出していた。

 どこへゆくともなく、夕暮れの小道を歩きながら、リュシアンはもやもやとした気分でいた。
(ああ、なんだか腹が立つ……)
 拳を握りしめ、いらいらと足を踏みならす。
 確かに、マリーンの言うことはもっともだったが、彼にとっては、単にそれだけでは整理できない、心の奥底からにじみでてくる感情があった。それが嫉妬であるのか、あるいはひがみであるのか、そんな細かい部分までは考えたくはなかった。そんな感情について考えていると、なにか自分が、とても小さな人間のような気がしてくるのだ。
「くそっ」
 再び沸き上がってくる怒りに、リュシアンは地面を蹴り付けた。
「でもマリーンだって、悪いんだ。俺の前で、わざわざ他のやつと……」
 それが独りよがりな独占欲であることは、リュシアンも心のどこかでは分かっていた。ただ、それでも、どうしても割り切れない熱い思いが、突き上げてくるのはどうしようもなかった。
 それは、おおやけには自分がマリーンを恋人にする権利などはないこと……つまりはマリーンとのあやふやな関係によるもので、もっといえば、本来許されない相手……伯爵夫人を愛してしまったという、背徳的な後ろめたさへの、彼自身の告白でもあるのだった。
「でも……」
 リュシアンは力なくつぶやいた。
「マリーンも、なにもあんな言い方しなくてもさ……」
 最後に言われた言葉が、今でも彼の心を突き刺すようだった。
(君の妻でも恋人でもないのよ)
「そんなこと……」
 分かっているさと、軽く受け流せるほどには、まだ自分は大人ではないのだろうか。
「ちくしょう……」
 なんとはなしに、悔しい気持ちがした。
 この一年で、自分はずいぶんと成長した。騎士としての稽古に励み、今の隊長にも認められるほどに剣の実力もついた。正式に騎士に叙任されるのは、もう間もなくのはずだ。
 自分は晴れて一人前の大人へと仲間入りするのだと、そう思って頑張ってきた。実際に、母親もレスダー伯夫人も、そしてマリーンも、自分の成長を認めてくれ、大人として扱ってくれるようになった。
 なのに……
 結局のところ、まだまだ自分は、騎士としても大人としても未熟で、おおもとの部分では昔と変わらない、甘ったれの駄々っ子でしかないのか。そんな、忸怩たる思いがこみ上げてくる。
「くそっ」
 リュシアンは、口の中で悪態をついた。
(馬鹿野郎!)
(みんなして、俺を馬鹿にしやがって……)
 自分を見下したようなマリーンも、彼女とボートに乗ったマーカスも、それにフィッツウースの失敗のくじも、どれもがひどく憎たらしかった。
 すでに日が沈んで、にわかに暗くなりはじめた小道を、彼はどちらに向かうでもなくとぼとぼと歩いていた。
 このまま屋敷に戻る気にはなれなかった。どうせなら、マリーンにも少し心配をさせてやろうか。そんな意地の悪い考えも浮かんだ。
(そうだな……じゃあどうせなら、久しぶりに家に戻ってみるか)
(ちょっと疲れたし。なんなら今日は家に泊まってもいいや)
 そう考えると、ずっと気が楽になった。
 屋敷に戻ってマリーンと顔を合わせると、またさっきのような気持ちがこみ上げてきそうだ。それよりも、久しぶりにメアリの作ったパイでも食べて、のんびりと過ごした方がよいかもしれない。
(そうだな。うん。そうしよう)
 そう決めると、リュシアンは大通りを目指して歩きだした。

 石畳の大通りは、日暮れどきとあって、行き交う人の数は多くはなかった。
 ここは城壁内にある貴族の住まう地域であるから、一般市民の住む町のようににぎやかではない。一日の商いを終えて店をたたみはじめるものもなければ、最後の売れ残りのパンを売ってしまおうと、必死に声を張り上げるものもいない。
 そのかわりに通りをゆくのは、これからどこぞの晩餐にでも出掛けるのだろうかという、めかしこんだ上流の婦人たちの乗った馬車や、夜間警備の騎士たちくらいのものだ。怪しい浮浪人の類はここにはいないし、旅人や吟遊詩人なども通行証なしにはこの地域には入ってこられないので、夜になってもここは外の町よりはずっと安全なのだった。
 貴族たちの住まうこの土地で、リュシアンは生まれ育った。あまり上流の家柄ではなかったにしろ、さほど不自由もなく、食べ物や服にも困らず、それなりに豊かに暮らしてこられた。飢え死にするほど貧しい者たちや、生きてゆくために体を売ったり、犯罪を犯したりする者たちがいるのだということなど、子供のころはついぞ知らなかった。
 汗水たらして穀物を育てる農村の人びとや、布を織って服を作ったり、いろいろな道具を作ったりする職人たちのことも、ごく最近までは考えてみることもなかったのだ。リュシアンたち貴族にとっては、食物とはそこにあるもの、あるいは金を出して買うものであり、洋服や生活の道具も同様だった。
 緑豊かな庭園のある家で暮らし、炊婦や侍女を雇ったり、馬車を使って出掛けたりするということが、どれほどの特権であるのかということを、大半の貴族たちは深く考えもしない。綺麗に着飾ってパーティや晩餐に出掛けてゆき、美味い料理と酒を好きなだけ食べて飲み、ダンスの相手と今日の色恋のことばかり考えている、それが貴族というものの実態である。
 リュシアンは、まだ正式には見習いであったにしろ、実質的には騎士として、この貴族だけの町から出てみたことで、いわば初めて外の世界を知ったのである。
 そこには、様々な人びとがいて、それぞれに異なる、様々な生活を送っていた。
 毎日を一生懸命に働く商人や職人たち。一人前の鍛冶屋になるため、見習いとして毎日を頑張る小さな少年もいれば、平民なので騎士にはどうあってもなれないが、国のために役立ちたいと必死に剣術を磨く若者もいた。また、先輩の騎士に連れられて行った町の酒場では、いかがわしい店に売られていったという娘の父親から、涙ながらにつらい話を聞かされたりしたこともあった。
 それらは、リュシアンにはどれも衝撃であった。色々な人びとを実際にこの目で見たり、話をしたりした経験は、彼の中で確実に多くの価値観を変えていった。
 彼は、自分が貴族であるということ、それがいかに恵まれたことであったのかを、あらためて考えた。それとともに、母親やメアリやカルード、それにマリーン、レスダー伯夫人など……これまで自分を育て、物事を教えてくれた、そうした多くの人たちへ、心の中で深く感謝をしたのだった。
 そうして一年が過ぎ、戻ってきたリュシアンは、すっかり大人びて見え、周りからは一人前になったと褒められもした。彼自身も、自分が大きく成長したように感じていたし、それを密かに喜んでいたのであるが。
(でも俺も……まだまだ、大人ってやつにはほど遠いのかなあ)
 今日のことで、自分がすっかり昔の自分……マリーンに片思いの恋をしていた頃の自分……皆に迷惑をかけ、身勝手にふるまい、一人でやきもきしていた、あの頃の自分に、すっかり戻ってしまったような、そんな気にさせられていた。
(でも、やっぱり……マリーンだって、あんな言い方はないだろう。こっちの気持ちを知っててさ)
 暗くなった大通りを一人歩きながら、リュシアンはため息をついた。
 歩いているうちに、さっきまでの怒りはだいぶおさまってきていた。あるのはただ、自分への嫌悪感と、いとしさと腹立たしさが混じり合った、マリーンへの複雑な気持ちだった。

「まあ、リュシアンぼっちゃん。どうしたんですか」
 扉が開けられると同時に、炊婦のメアリが驚きの声を上げた。
「別に。ただ寄ってみただけだよ」
「でも、こんな夜になって、突然戻られるなんて。……奥様、奥様」
「なんですか、大きな声で……まあ」
 声を聞きつけてやって来た母のクレアも、リュシアンの姿を見て驚いたようだった。
「リュシアン。こんな時間にどうしたというの?」
「どうもしやしないよ。ただ……近くまできたからさ」
 リュシアンは、さっきまでの名残から、やや無愛想にそう言った。
「夕食は食べたの?」
「まだだよ」
 そういえば、踊ったり歩いたり、それに怒ったりしたせいか、すっかりお腹が減っていた。
 運良く残っていたメアリのかぼちゃのパイをたいらげると、リュシアンは客間の椅子に座って満足げに息をついた。
「ふう。やっぱりメアリのパイは最高だな。この焼き加減が絶妙!」
「まあまあ。ありがとうございます。はい、お茶ですよ」
「ああ、ありがと」
「ところで、レスダー伯夫人のお加減はどうなの?」
 横に座った母のクレアが尋ねてきた。
「ああ、なんだかだいぶいいみたいだよ。今日なんかは、庭園でのパーティにも参加して、楽しそうだったし」
「そう。それはよかったわ。お前でも、こうしてあちら様のお役に立てるようになるなんて。せめてもの恩返しね」
「まあね」
 ハーブの香りのお茶をすすりながら、リュシアンは得意気に言った。
「屋敷の掃除から、屋根の修理、馬車磨きに、庭園の見回りまで、完璧にこなしているよ。我ながら、僕も立派になったさ」
「まあ」
 思わずクレアは笑いをもらした。
「そういう自慢そうな言い方は、昔と全然変わらないわね。でもリュシアン、騎士っていうのは、もう少し慎ましげにしているものよ」
「いいじゃない。僕はまだ実質は見習いなんだし。秋には資格審査があるから、正式に騎士になるのはそれからさ」
「そう。お前が騎士にね……」
 クレアはふと遠い目をしてつぶやいた。
「そんな日が本当に来るなんて」
「ちょっと、母様。そりゃ僕だって、いずれは大人になるさ」
「ええ、でもね。昔はあんなにやんちゃで、いたずらで、私やカルードを困らせてばかりだったお前が、今ではこんなに立派になって。亡くなったお父様も、きっと喜んでいるわね……」
 しんみりとした母の口調に、リュシアンは照れたように頭を掻いた。
「まあ……ね。いろいろあったけど。カルードや母様にも、けっこう迷惑をかけたし」
「いいのよ。だって、私はお前の母親なのだし。それに、いろいろなことをしでかしたり、怒ったり、心配したこともあるけど、いつかは、こうして成長していってくれるって、信じていたから」
 そんな母の言葉を聞いて、リュシアンはやや後ろめたい気持ちを感じていた。
 母親はどれくらい気づいていたのだろう。かつての許されない恋のことを。そして、マリーンとのことが、今だに終わっていないことを。いやそれどころか、もはや純粋な恋心だけではない、ますます深いつながりとなったこの秘密の関係について、もし母の知るところとなったら……。
(ごめんよ。母さま……)
 彼には、心の中でそう言うことしかできなかった。
(僕にとって、もうマリーンは特別な人なんだ。もう決して離れられないんだ。たとえ……なにがあっても)
 かつてよりもやや老けたように見える、母の横顔を、リュシアンは見つめた。
「ああ、そうだわ」
 それから、思い出したようにクレアが声を出した。
「お前に手紙が届いていたわね。メアリ、持ってきてくれる」
「かしこまりました」
「手紙?」
 リュシアンは首をかしげた。
「はい、これですよ。ひとつは何日か前に、ひとつはついさっき届いたものです」
「誰からだろう」
 二通の手紙をメアリから受け取ると、リュシアンはさっそく片方の封を解いた。丸められた羊皮紙を広げると、そこには堅苦しい文字がびっしりと並んでいた。
「ああ……」
 思わずリュシアンは苦笑した。文字を見た瞬間、それが誰からの手紙か分かったからだ。

『リュシアン、元気でやっているか。
 私は今王国の南端にあるクロスケードという城砦都市にいる。国境警備隊というやつだ。連日、城壁の上を見張り、実戦的な訓練に明け暮れる日々だ。今年の夏はそちらには帰れそうにもないので、こうして手紙を書いている。
 しばらく会っていないが、きっと君は元気にやっているだろう。私にはなんとなく分かる。そして、背も伸びて逞しく成長しているに違いない』

「へへへ」
 手紙を読みながら、リュシアンは鼻をこすった。
「リュシアン、誰からのお手紙なの?」
「カルードだよ」
 それを聞いて、母のクレアも手紙を覗き込んだ。
「まあ、なんて書いてあるの?」
「うん、ちょっと待ってよ。まだ途中だから」
 リュシアンは手紙の文字に目を戻した。

『そういえば、今年は確か正騎士の資格審査を受けるのだったな。たぶんお前なら問題なく受かるだろう。剣の方もだいぶ上達しているだろうし、今や実力的にはバラックよりも上かもしれんな。あとは、騎士としての礼儀作法と、精神的な強さを身につければ、お前はもう誰が見ても立派に騎士としてやっていけるだろう。
 君のお母上も、変わらずお元気でおられるかな。この手紙を見ている頃には、きっと立派に成長した君の顔を頼もしげに眺めているに違いない。かつては、君は、私やお前のお母上にいろいろと気を揉ませたものだが、今となってはそれらもなつかしい。
 ともかくも、君のお父上、ロワール卿のような、強く逞しい、そして礼節ある騎士道を目指していって欲しい。遠く離れていても、君のことを常に応援している』

 リュシアンは、時々照れながら手紙を読み、その内容を母に聞かせた。
「ああ、相変わらず堅苦しい文だけどさ。僕のことを、きっと立派な騎士になるだろうってさ。それと、母様にもよろしくって」
「まあ、それじゃあ、ちゃんとお返事を返さないとね。カルードの方は元気でいるのかしら?」
「ああ、みたいだよ。なんだか忙しそうだけど」

『最後に、姉上と私の母上のことも少々気になるが、姉上の方は伯爵夫人としてうまく暮らしておられるようだ。モンフェール伯爵のご体調が思わしくないとは聞いたが、それほどでもないから心配するなと、先日もらった手紙にはあったので大丈夫だろう。母上の方は、独りぼっちで寂しくはないだろうかと、私も時々気になっている。もしよかったら、リュシアン。近くに来た時には母を訪れて顔を見せてやってほしい。きっとお前の顔を見れば母も喜ぶだろうと思う。
 こんなことを頼んですまないが、たとえこれまでどんなことがあったにせよ、私はお前のことを信じている。もっと言えば、お前のことを本当の弟のように思っているのだ。だから、あのことはもう済んだこととして、私はお前を責めることはしない。あれからもう時間もたったのだし、お前も立派に成長しているのだから。一人の人間として、騎士として、道徳と誇りを胸に、これからの人生を歩んでいって欲しい。
 それではまた。近いうちに会えることを祈って。              カルード』

 手紙はここで終わっていた。
 文面を読みおえたリュシアンは、かつてのように、まるで目の前のカルードに説教をされたような気分で、やや表情を固くして黙り込んでいた。
(あのことはもう済んだこととして……)
 カルードは、自分とマリーンのことは、もう終わったことと思っているのだろう。彼は知らないのだ。あのプラタナスの木のうろで見つけた鍵が、再び二人の間の扉を開かせたことを。
 リュシアンは無言で羊皮紙を丸めると、それを紐でとじた。
「リュシアン。どうしたの?変な顔をして」
 隣に母がいることを思い出し、彼は慌てて笑顔を作った。
「ああ……なんでもないよ」
「こうして、遠くへ配属されてからも、お前のことを気に掛けていてくれるなんて。カルードはお前にとって、まるでお兄さんのようなものね」
「……」
 はからずも、文面にあったようなことを母が言ったので、リュシアンはやや苦笑ぎみに顔をゆがめた。
 だが、カルードが配属先から戻ってくるのはいつなのだろう。ひと月後か、一年後か……どちらにしても、リュシアンにとっては、再会が楽しみであるような、そうではないような、複雑な気持ちであるには違いなかった。
「さてと、もう一通は……」
 気を取り直して、残ったもう片方の手紙を開けようとそれを手にしたとき、
 リュシアンはふと奇妙な予感がした。
 その手紙は、うす汚れた羊皮紙を急いで丸めたような、いかにも粗雑な感じのもので、見た瞬間になにか違和感があった。
 眉をひそめながらもそれを開いてみると、
「なんだ……こりゃ」
 思わず彼はつぶやいた。
「どうかしたの?」
「あ……いや、なんでもないよ」
 横から母が覗きこもうとするので、リュシアンは急いでその手紙たたんだ。
「ちょっと、部屋にいってじっくり読むよ。その……友達からの手紙でさ」
 母を心配させないように言うと、リュシアンはいそいそと立ち上がった。
 二階の自室に入ったとたん、リュシアンの顔つきが変わった。
「……」
 彼の眉間には皺が寄せられ、ひどく不快なものをでも見るような顔になった。
 リュシアン再び手紙を広げた。
 うす汚れた羊皮紙の上に、まるで書きなぐったような乱暴な文字が踊っていた。
 あらためて、その文字をじっと目で追ってみる。
『見習いの騎士どのへ……』
 手紙はその一文から始まっている。
 まるで憎しみが込められたような、ぎざぎざとした乱雑な書体が、なにかただ事ではないものを伝えていた。

『早くあの屋敷からでてゆけ。汝には美しきあの人とともに住む資格はあらず。
 湖畔の姫君は我が長年の思い人。彼女を愛する資格をもつのは私、湖畔の騎士たるローズロットのみ。
 さあ、急いで屋敷から出るがいい。もし、我が警鐘を踏みにじれば、いかようなる災いが降りかかるかを、身をもって知ることとなるだろう。
 その時は、不遜な見習い騎士のみならず、美しき湖畔の姫君にも、あるいは何かが起こらんと。心せよ』

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