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5.パーティの一日
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甘い喘ぎ声が、室内に響いていた。
「あっ、ああっ……」
喜びに満ちた、恋人を受け入れる吐息であり、そうでいて、どこか押し殺すような響きもあった。
「あっ、リュシアン……そんなにしちゃ」
「マリーン、マリーン!」
愛しい人の名を呼びながら、彼は自分自身を深く突き入れてゆく。
汗ばんだリュシアンの体は、二年まえよりもずっと逞しくなり、マリーンの体を包み込むのは立派な男の背中であった。
彼女はその背に腕を回し、しがみつくようにして、また喘ぐ。
「ん……あっ、ああっ」
激しい動きに、たまらず高い声が漏れてしまう。この部屋と同じ階には、母であるレスダー伯夫人の部屋があるのだ。それを頭の片隅に置きながらも、徐々にマリーンは、自分の身体が悦びに熱されてゆくのを抗えなかった。
「ああっ、リュシアン……もう」
「まだだよ。マリーン」
少年が耳元で告げる。
かつては、自分が教え導いた少年は、今では逆に彼女をリードし、優しく快感を与えてくれる。
「ああ……」
マリーンは感動に体を震わせた。
(こんなに……逞しくなったのね)
ずっと大きくなった背中に手を回す。
じわじわと押し寄せる肉体の喜びと、どこかに恐れの入り交じった心の震えとが、いっそうせめぎ合いながら、それらは深い快楽の中へと彼女を呑み込んでゆく。
「すごい……リュシアン。ああっ」
「もっと、もっと聞かせて。マリーンの声」
妻となってからは、なるべく抑えようとしてきた彼女の中の「女」が、その体に迎えるべき相手を見いだしたかのように、あらわになってゆく。
(こわい……私、このまま……)
体の奥に封じ込めていたリュシアンへの情愛が、まるで全身の血管を伝わって広がってゆくかのように、マリーンには感じられた。自分ではどうしようもないほどに、それは彼女の肉体を燃え上がらせてゆく。
(もう……もう、私……)
リュシアンを深くまで受け入れる度に、腕の先、指先のひとつひとつにいたるまでが、しびれるような快感に包まれるのだ。
「リュシアン……もうダメ、私……」
「マリーン」
体を重ねる二人の目が合わさる。
それは同じものを求めるときの、高まりあってひとつになった恋人たちのまなざしだった。
「お願い……一緒に」
「うん」
マリーンに口づけをすると、リュシアンはまた己自身を打ち込んでいった。
最後の激しさで。深く……もっと深く、と。
「あっ、ああっ、い……くっ」
「僕も……マリーンッ!」
二人は同時に叫び、互いを抱きしめた。
たとえようもない快感と、熱いほとばしり……
「ああ……マリーン、好きだよ」
何度も体を震わせながら、リュシアンは囁く。
荒い息をつきながら、倒れ込むように寝台に寝そべり、二人は見つめ合った。
汗に濡れたマリーンの白い裸体が、なまめかしくとても美しい。そう言うと、彼女は頬を染めて、くすりと笑った。
「ふふ。君も、なんだか、すごくたくましかったわ。びっくりしちゃった」
「鍛えられたおかげで、こっちの方も強くなつたのかな」
「まあ……馬鹿ね」
互いの体を手でなぞりながら、くすくすと笑い合う。
それは、ずっとリュシアンが待ち望んでいた幸せなひとときだった。
「さて、そろそろ花瓶に花を生けて、お母様に持っていかないと。ずいぶん遅くなっちゃったわ」
「そうだ。僕も掃除の途中だった」
二人は顔を見合わせて笑うと、起き上がって身づくろいを始めた。
それからの日々は、リュシアンにとって、まるであの蜜月が戻ってきたような時間だった。
庭の見回りや、屋敷の掃除、馬車での買い物など、ひととおりの仕事を、彼は生き生きとこなした。夕食にはマリーンの他、伯爵夫人も同席することはあったが、それはかつてのように厳しいマナーの指導の時間ではもうなくなり、たわいない世間話に、冗談を言ったりして夫人を笑わせるくらいのことは、もう彼にはできた。
そして、夜になり屋敷が寝静まると、待ち望んでいた二人の時間が訪れた。
昔とは反対に、こっそりと廊下をわたり、相手の部屋にゆくのはマリーンの方だった。夫人の部屋が二階に移ったとこともあって、同じ階の彼女の部屋よりは、三階にあるリュシアンの部屋の方が安全に思えたからだ。
侍女のミルダの部屋は一階にあり、執事のカストロは離れの小屋に泊まるのが常だったので、夜になると三階にはまったく人の気配がなくなる。
「誰もいなくて、廊下は真っ暗だし、なんだか怖いわ」
燭台を手にリュシアンの部屋に忍んで来たマリーンは、部屋に入るとそう言ってほっと息をついた。
「昔、僕が味わったスリルが分かっただろう」
くすくすと笑うリュシアン。
「もう。今度から階段のところまで迎えに来て」
「ああ」
唇が合わさる。
服を滑りおとし、燭台の火を吹き消すと、そこはもう誰にも邪魔されない、二人の場所だ。
抑えがちな甘い喘ぎと、吐息にからまる睦言……恋人たちの甘い夜が、またふけてゆく。
リュシアンの夏期休暇……レスダー伯夫人邸での日々は、仕事と恋とに塗りつぶされ、いよいよ濃密に流れはじめていった。
それから数日後、屋敷にフィッツウースが訪ねてきた。
「よう。なんだ、おめえ。夏の休暇で戻ってたって?知らなかったぜ。なんで言わないんだよ。水くさいじゃんか」
「ああ、ごめん。なにせ家に戻ってきて、その翌日にはこっちの屋敷にくることになったんで、あわただしくてさ」
二人は屋敷の玄関前の石段に腰を下ろした。
「マリーンさんがこっちに戻ってきたからだろ?」
「あ、ああ……まあ。それに、レスダー伯夫人の具合もあまり良くないし、なにしろ、この屋敷には男手が足りてないからさ」
「なーに言ってやがる」
フッィツウースはにやりと笑って、リュシアンの背中をどやしつけた。
「人妻になってからも、付き合っているとは、いい度胸じゃねえか」
「おい、フィッツ、人に聞かれる……」
小声で言い返しつつ、リュシアンは屋敷の扉を振り返った。
「大丈夫だって。耳ざといカルードはもういねえんだし。屋敷には婆さんの侍女がいるだけなんだろ」
「まあ、そうだけどさ」
リュシアンはふと思い出したように、友人に尋ねた。
「カルードは、まだずっと帰ってこないのかな?」
「ああ、らしいぜ。なんでも、どっかのでかい騎士団の中隊長になったとかで、そういや、そのうち国境警備とかにも駆り出されるってな噂も聞いたな」
「そうなのか」
カルードは彼らの元隊長であり、マリーンの姉でもある、リュシアンにとっては剣を師事しただけでなく、時には兄のようでもあったひとかたならぬ存在である。そのカルードが、まったく顔を見せないことは寂しくもあったが、また同時に、彼に会わずにすむという密かな安堵感もリュシアンにはあった。
かつて、マリーンとリュシアンとの関係を知り、二人を引き離そうとしたのもカルードであったし、その後、マリーンを半ば強引に結婚させたのも彼のしたことである。少なくとも、リュシアンにはそう思えていた。
なので、たとえ見習い騎士時代の恩師であり、なにくれと心配をかけてくれた相手であっても、カルードへの思いは複雑であった。久しぶりに会いたいような、しかしまだ会いたくないような……リュシアンにはそんな気持ちであったのだ。
「しかし、マリーンさんが戻ってきて、お前もここに住み込んでいると、こう……なんだかさ、昔に戻ったみたいだなあ」
フィッツウースはしみじみとそう言った。
「そうだな」
「マリーンさんも、結婚して伯爵夫人になってから、なんだかまた色っぽくなったみたいだし。お前はお前で、ちっとは背も伸びて、見かけはけっこう男らしくなったし……中身はどうだか知らんがな」
「うるせっ」
「ははは」
それからフィッツウースは、自嘲ぎみに言った。
「変わってないのは俺くらいのもんか。相変わらずの騎士見習いだし、女にはまたフラれ、剣の腕もさっぱり……てなもんよ」
「またふられたのか?今度はどんな子だよ」
「ああー、伯爵令嬢でな。名前はバージットってんだが。これが見かけは綺麗でしとやかなんだが、なかなかのワガママ娘でさ。会うたびにあれこれと命令してくるわ、あれが欲しい、これが食べたいと駄々をこねたりで」
「へえ」
「あげくの果てには、アレをした後にだぜ……ぼそっと、他の男の名前を言いやがった。これにはさすがに俺も頭に来たぜ」
フィッツウースはうんざりとした顔で言った。
「ははあ……で、ふったのか?」
「いや、それが振られたんだよ。俺の方は……まあ、綺麗で伯爵令嬢で、ワガママを別にすりゃ、それなりに付き合ってもいいかと思わないでもなかったんだが。その三日後に手紙が届いて、あなたとはこれきりにします。ありがとう。なんて書いてありやがったのさ」
「なんとまあ……」
フィッツウースはぺっと唾をはいた。
「何様のつもりだってんだ。この俺だってな、パーティのひとつにも行きゃあ、女の四、五人は寄ってくるモテ男だってのに。あの女ときたら……くそっ。確かに綺麗だし、金持ちだし、そりゃあ取り巻きの何人かはいるんだろうけどよ。しっかし、あったまくる。こんな風に扱われたのは初めてだぜ」
「なるほどねえ……」
リュシアンは、なんと言ったらいいものかと首をひねるだけだった。フィッツウースの女遊びの遍歴については、昔からいやというほど聞かされていたので、いくら深刻そうな顔をしていても、どうせこのお調子者はすぐにまた、別の女のことで顔を輝かせるようになるのだと、彼には分かっていた。
「なあ……リュシアン」
案の定、さっそくフィッツウースは、目を輝かせて違うことを口にした。
「パーティやろうぜ!」
「パーティ?」
「ああ。昔みたいにさ。ほら、前にもこの屋敷でやったろう。あれはお前が剣技大会で怪我をした後だったか……その復帰祝いかなんかでさ。あのときは楽しかったなあ!騎士団の仲間もいて。マリーンさんもいて。シャンパンを飲んで、歌って、踊って……」
リュシアンは苦笑気味に親友を見た。こういう話になると、いつだってフィッツウースは生き生きとなるのだ。
「なあ、やろうぜ。せっかくお前も、マリーンさんもここに帰ってきたんだし。それに、レスダー伯爵夫人だって……いい気晴らしになるぜ、きっと」
「そうだな……」
昔のことを思い出しながら、リュシアンは庭園の方を見やった。
(パーティか……そうそう、あのときは、マリーンと他の連中が踊っているのを見て、焼きもちをやいたりしたっけ)
十五歳の見習い騎士だった頃……血気盛んで、強くなりたいとただ闇雲に剣を振り、喧嘩したり怪我をしたり、マリーンに恋をして、勝手に嫉妬をしたり、自己嫌悪をしたり……不器用で、熱情的で、そして純粋に追い求めていた、少年の頃。
「……なつかしいな」
リュシアンはぽつりとつぶやいた。その口元には、かつての幼かった自分への、憐憫と微笑ましさのまざった、かすかな笑みが浮かんだ。
「なあ。みんなを呼んで、また楽しくやろうぜ」
フィッツウースはぽんとリュシアンの肩を叩いた。
「この前のお前の家でのパーティには、来られなかった連中もけっこういるしさ。そう、マリーンさんも含めて、ちょっとした俺たちの同窓会って感じでさ。ぱーっと騒ごう」
「ああ。いいな」
確かにこの屋敷の広い中庭でなら、皆が踊って騒ぐのに充分だろう。それに、フィッツウースの言う通り、自分とマリーンが屋敷に戻るまで、まるで老木のように寂しくひっそりと過ごしていた伯爵夫人にも、良い気晴らしになるかもしれない。
(それに……マリーンとも、久しぶりに踊りたいな)
リュシアンは頭の中に、楽しい想像を膨らませてうなずいた。
「よし。じゃあ、さっそくマリーンと伯爵夫人に聞いてみるよ」
「ああ、そうこなくちゃ!」
ぱちりと指を鳴らすフィッツウース。
愉快なパーティにしようと約束し、二人は立ち上がった。
真夏の訪れを感じさせる、ヘリアンサスの花が、庭園の所々に黄金色に咲き始めていた。
空は晴れ渡り、青々とした芝生の上に、若者たちの笑い声が響いていた。
屋敷の庭園には、次々と見習い騎士時代の仲間たちが集まりはじめ、辺りにはにぎやかな気配が満ちてゆく。
並べられたテーブルには、たくさんの皿やグラスが置かれ、やがてここには出来立ての料理が運ばれて湯気を立てはじめるだろう。日差しをよけて過ごせるよう、庭園の木陰には、伯爵夫人やマリーン、それに女性客のための椅子が設けられ、その周りは花々で飾られた。
皿を運んでいたリュシアンはその手をとめ、少しずつ増えはじめた客たちを満足げに見回していた。
(今日は楽しい一日になりそうだな)
にぎやかな庭園を見渡して、彼自身もとてもうきうきとしていた。
パーティの開催にはなかなかの困難がともなった。
はじめは、リュシアンからその提案を聞かされたマリーンは、心情的には賛同しつつも、実際の問題を考えて難色を示したのだが、その後に思いがけずいくつかの幸運が重なった。
まずは、肝心のレスター伯爵夫人の意向であったが、これは案外すぐに許可が下りた。
かつての夫人であれば、由緒ある屋敷の庭園に、粗暴な若い連中が集まって大騒ぎをするなどけしからぬ、と眉をつり上げたことだろう。だが、体を弱くし、侍女一人執事一人とともに寂しく暮らしていた彼女にとって、戻ってきたマリーンとリュシアンのおかげでよっぽど気分が若返り、屋敷にも活気が戻ったことは、認めざるを得なかったようだ。
部屋を訪れたマリーンとリュシアンから話を聞き、夫人は一瞬だけ眉間に皺を寄せたが、すぐに柔和な顔になって言った。
「よろしい。たまには、そうした愉快な事もあってよいでしょう」
リュシアンとマリーンは、拍子抜けするくらいの夫人の答えに、思わず顔を見合わせたものだった。
「ただ、私はこのようにあまり動けないから、いろいろな準備がミルダだけでは大変でしょう。掃除やら飾りつけやら、料理の支度やら、とても一人では無理だと思うけど」
夫人のその指摘はもっともだった。現在、屋敷にいるのは侍女のミルダと執事のカストロだけだ。執事にできるのは馬車の御者や荷物運びくらいがせいぜいであるから、お客をもてなすための細やかな支度は、どうしてもミルダ一人に任せっきりになってしまう。それについては、リュシアンとマリーンも、出来る限りのことは手伝うつもりであったが、問題はもうひとつあった。
かつては数名雇っていた料理人たちはみなやめてしまっていたので、今は料理を含む家事いっさいはミルダの仕事となっていた。いくら侍女頭として名を馳せた彼女にしても、パーティに来るお客分の料理を一人で作るのは大変な大仕事であるに違いなかった。前日から仕込みをするにしても、当日の朝はどうしても、焼いたり、煮たり盛りつけたりと、おおわらわになることは目に見えていた。しかも、彼女には他にも掃除やら洗濯やら、それに伯爵夫人の世話もしなくてはならないのだ。
こうしたことを考えれば、大勢の人間を呼ぶのは、とても無理だという結論に達せざるを得なかった。
いったんはしょげかえったリュシアンだったが、翌日、翌々日と、立て続けに奇跡のような幸運が起こった。
まずは、一年前に辞めていった料理人の一人が、たまたま久しぶりに屋敷を訪れた。この絶好のタイミングにリュシアンとマリーンは大変喜び、ぜひとも料理を手伝ってもらいたいと彼に頼み込んだ。料理人のアドマールは、恩ある伯爵夫人のためならば、と快く引き受けてくれた。
さらにその翌日、屋敷にやってきたのは、旅楽団の一座であった。リュートやキターラ、笛にヴァイオリンなどの六名ほどの楽団は、地方都市からやってきてしばらくこの町に滞在するということだった。お金を払えば、貸し切りの演奏もするという彼らは、パーティでのダンス曲の演奏にうってつけであった。リュシアンは大急ぎで夫人の部屋にゆき、熱心に頼み込んだ。夫人はやや苦笑気味にうなずき、楽団を雇うことを了承したのだった。
こうして、前日までは屋敷は準備や料理や掃除などで大変などたばたであったが、リュシアンとフィッツウースの企画したパーティは、無事開催されることとなったのだった。
「よう、リュシアン」
「来たか、フィッツ」
庭園に現れたフィッツウースは、気合の入った服装でのしのしと芝生を歩いてきた。
「へえ、決めてきたなあ」
「ったぼうよ!」
エヘンとのけぞって見せる彼は、袖の膨らんだ白ブラウスに、短ズボンの裾をブーツに収めた、まるでお洒落な貴族騎士という恰好だった。ベルトには銀の飾り、ブーツには金の拍車、ブラウスの袖にもさり気なく銀糸の刺しゅうがほどこされており、そのこりようは、普通ならばやや失笑ものであるが、フィッツウースが着ると、これがなかなかさまになっている。
「どうだ。立派な騎士姿だろう?これで、新たな恋をゲットするワケよ。美人の貴婦人カモーン!」
颯爽と剣を抜く仕種をして見せるフィッツウース。
「ああ、立派に見えるぞ。たとえ中身はまだただの見習い騎士だろうともさ」
リュシアンは苦笑しながら、やる気満々の親友の肩を叩いてやった。
そうこうするうちに、中庭にはしだいに若者たちの人数が増えていった。
招待されてやって来るのは、多くは昔の見習い騎士仲間の少年たちだったが、中には年上の騎士や、誰それの従兄弟といった、めったに会うことのなかった者もおり、それぞれに顔を見て挨拶をしたり、肩を叩き合ったりと、久しぶりの再会を喜ぶのだった。
門の前には次々に馬車が到着し、降りてくる客たちを案内するのは執事のカストロの役目だった。
「女性たちが到着しましたぞ」
執事の言葉を聞いて、騎士の少年たちは一斉に色めきたった。
ダンスをするからには、女性の人数もそれなりに必要だろうと、リュシアンとフィッツウースが苦心して、知り合いや友人たちのつてで若い少女たちを招待したのだ。
馬車から降りてきたのは、可愛らしいドレスに身を包んだ女性たちである。人数にして十数人というところだったが、彼女たちは静々と中庭の芝生に足を踏み入れると、少年たちに向かって優雅に貴婦人の礼をした。
「おい、やっぱりソランに頼んで良かったな」
フィッツウースが横から耳打ちする。
「ああ」
ソランは、見習い騎士時代の仲間で、貴族として由緒ある家柄の少年であった。昔はリレュシアンもよくフィッツウースらとともに、ソランの屋敷のパーティに遊びに行っては、上流貴族の若者に混じってダンスをしたものである。
「うんうん。なかなか可愛い娘もいるじゃないか。よしよし」
女性たちを見ながら鼻の下を伸ばすフィッツウースを横にして、リュシアンはおやと思った。
「コステルがいないな」
「ああ、そういえば……」
フィッツウースもそれに気づいたようだった。
彼女はソランのいとこであるから、パーティの話を聞けば必ずやってくるだろうと思っていたのだが……
「うーむ。この前の様子からして、彼女はまだお前に気があると思っていたんだが」
腕を組んでフィッツウースが言った。
「……」
リュシアンにすれば、ほっとしたような、少々拍子抜けしたような複雑な気分だった。しかし、これで気兼ねなくマリーンとダンスが踊れるという、たわいない喜びがこみ上げた。
「まあ、彼女が来ないんじゃ、男どもは残念かもしれないけどね。俺にはマリーンがいるからいいのさ」
リュシアンはそう、うきうきとして言ってのけた。
テーブルに料理が運ばれてくると、歓声が上がった。
次々に運ばれてくるのは、鴨のローストや、ほろほろ鳥の煮込み、たくさんのハムやソーセージ、巨大なチーズ、豆のシチュー、野菜の酢漬けなど、それらはみな、料理人のアドマールと侍女のミルダが、昨日から二日がかりで準備した成果だった。さらに、料理の皿の横には、果物やちょっとした砂糖菓子などが置かれ、並べられたグラスにはシャンパンやシードルが音を立てて注がれてゆく。
「こりゃ、なかなかのごちそうだな」
湯気の立つ料理の乗った皿を見回して感心するフィッツウース。その横で、リュシアンは誇らしげにうなずくのだった。
大きな杏のケーキを運んできたのはマリーンだった。
彼女は、明るい橙色の胴着の上に、襞の入った白いサテンの長スカートを着た姿で、いつになく若々しく、華やいで見えた。もちろん、彼女も実際にはまだ二十五歳という若さなのだが、結婚して伯爵夫人となってからは外出する機会も減り、彼女自身も妻としてのつつましさを意識していたのだろう、あまり派手やかに着飾ることはなくなっていた。さらに、夫であるモンフェール伯爵の体調が思わしくなくなってからは、彼女はなるべく落ち着いた色の服を選んで、できるだけ質素にと、周りに気をつかっていたのである。
なので、この屋敷にまた戻ってきて、自室に残っていたかつての自分の服をたくさん見つけたときは、いかに自分が女性としての華やかさから遠ざかっていたのかを、ひどく実感したのであった。このパーティではリュシアンの勧めもあり、久しぶりに色合いの豊かな服を着てみようと、彼女は朝から鏡の前に立って、密かに心踊らせていたのであった。
後ろに束ねた黒髪に真珠の髪飾りを巻き、うっすらと化粧をした彼女の姿は、匂い立つような、大人の女性としての艶めいた美しさを感じさせた。白いスカートを揺らして彼女が庭園を横切ってゆくと、そこにいた少年騎士たちからはため息のような声がもれた。
「綺麗だなあ、マリーンさん」
「ああ……」
フィッツウースの言葉に、その横に立つリュシアンもうなずいた。
「このっ。うらやましいぜ。あんな綺麗な人妻と……」
「ああ……」
うっとりとなって彼女を見つめるリュシアンの顔は、だらしなくゆるんでいた。それは二年前と変わらぬ、年上の女性に恋する騎士見習いの少年の顔であった。
すべての料理が運ばれると、それぞれ思い思いに談笑していた少年たち、少女たちがテーブルの前に集まった。屋敷の扉が開いて、侍女のミルダに介添えされたレスダー伯夫人が現れると、すぐにリュシアンとマリーンが寄っていって、両側から夫人を助ける。
ここのところ、夫人はだいぶ体力を持ち直してきたようで、こうして支えられれば自分の足で歩けるようにもなっていた。夫人は、久しぶりに庭園の芝生を踏みしめると、晴れやかな笑顔を見せた。
皆が拍手で迎える中、夫人はリュシアンとマリーンに支えられて、中庭の木陰に置かれた椅子に腰掛けた。
「ありがとう。みなさん」
夫人は楽しそうに、テーブルの周りの若者たちを見渡し、普段よりもずっとほがらかな口調で言った。
「そして、ようこそ。このように若い方達が集まるのを見るのはいつ以来かしら。若い騎士の方々、それに若いお嬢様方。いつもリュシアンや、マリーンがお世話になっていますね。今日はささやかながら、この屋敷のパーティを楽しんでいってくださいね」
飲み物の注がれた杯を受け取り、夫人はそれをかかげた。
「乾杯」
「乾杯!」
若者たちがそれに調和する。
リュシアンもシャンパンの入った杯を一気に飲み干した。
先日雇った楽団が、庭園の一角からゆったりと音楽を奏ではじめると、辺りには楽しげな談笑の声が広がってゆく。皆の先頭をきってさっそく女性陣に歩み寄り、ダンスを申し込む者もいた。それにつられて、一人、また一人と、若者たちが芝生の上で踊りはじめる。
夫人のそばにいるマリーンの方をちらちらと見ながら、リュシアンは杯を片手にそわそわとしていた。
「ったく、じれったいやつめ」
フィッツウースが笑いながらその背中を押す。
「とっとといってこいよ。早くしないと、他の奴らにさらわれるぞ」
「ああ……」
近づいていったリュシアンに気づくと、マリーンが振り返りにこりと笑った。
「伯爵夫人、お加減はどうですか?」
まずは紳士らしく、隣の夫人の方に声をかけるのを忘れない。
「とても気分がいいわ」
夫人はいつにない穏やかな笑顔で答えた。
「はじめはパーティなんて、うわついたものは反対した方がいいかしらとも思っていたのだけれど。でも、久しぶりにお庭に出て、それにこうして若い人たちに囲まれていると、私の方もなんだか楽しくなってくるようよ」
「そうですか。それはよかった」
そう言って、リュシアンはちらりと横にいるマリーンを見た。
「マリーン……さんは、踊らないんですか?」
夫人の手前、気軽に彼女をダンスに誘うのも気が引けた。なにより、気安く名前を呼べないのももどかしい。なにしろ表向きは、自分よりもずっと年上の伯爵夫人であるのだから。
ぎこちないリュシアンの言い方に、マリーンは思わずくすっと笑いをもらした。
「そうね。ここのところしばらく踊っていなかったし。それに、私は仮にも伯爵夫人の身になったのだから、前みたいに誰かれなく気安く踊ったり、男性と話をしたりするのも、少しは考えた方がいいかしら、と思うのだけど……」
彼女はちらりと、母である夫人の方を見る。
「それは、そうね」
かつては誇り高き厳しさと、慎ましさを矜持にしていたレスダー伯夫人は、分別ある娘の言葉に満足したようにうなずいた。だが、その顔の楽しげな笑顔は消してしまわなかった。
「でもね、今日ばかりは好きに踊っていらっしゃい」
やや驚きながら、マリーンは夫人の顔を見つめた。
「あなたは、これまでいろいろとつらい苦労したり、我慢したりしてきたのだから。伯爵夫人となったことで、あなたにも妻として、女としての生きかたが少しずつ分かってきたでしょう。それに、こうして家に戻ってきて、今度は私の世話や屋敷のために働くことになって。世の中には安楽な暮らしをしている夫人たちもたくさんいるというのに、あなたにはまた、このような苦労をかけてしまっている。母として、とてもありがたくも、そして申し訳なくも思っています」
「お母様……」
マリーンは、昔よりもずっと細くなってしまった母の手をとった。
「そんなことありません。私は幸せですわ。こうして、お母さまと一緒に、この屋敷で過ごせる日がまた来るとは。それに、これは苦労でもなんでもないのです。この屋敷は私の生まれ育った場所。私の一部です。お掃除をしながら廊下を歩いて、窓の外を眺めたり、古い壁の傷を見て昔の出来事を思い出したり、お花を植えて、花壇の土をいじったり、水をやったりするのはとても楽しいですわ。それに、こうやって少しずつでもお母様が元気になられるのを毎日見ているのは、なんて幸せなことなんでしょう」
「マリーン。私の娘」
夫人は涙ぐみながら、娘の手を握りしめた。
「そんなふうに言ってもらえると、私もとても気が楽になります。あなたたちが戻ってきてから、とても屋敷が華やかになったように思えるわ。そうなると、ちょっとしたことでも……綺麗なお花が飾ってあったり、あなたやリュシアンの笑い声が廊下から聞こえてきたり、そんなことでも心が踊るようになったわ。それまではただ、部屋で寝て過ごすだけだったのに、こうして歩いたり、一緒に食事をしたりできるようになって、はじめて自分がそんなに不幸ではないのだ、と思えるようになったのよ。なんて傲慢なことでしょう。世の中にはもっと大変な人びとがいて、娘も息子もなく、独りぼっちでつらい思いをしている人たちもいるでしょうに。そう考えると、私はよっぽど幸せなのだわ」
「お母様」
マリーンの目にも涙が浮かんだ。
「ありがとう。二人とも。リュシアンも」
夫人は手を伸ばして、リュシアンの手をとった。
「戻ってきてくれて。今までゆき届かなかった屋敷のいろいろなことをしてくれて。屋根もすっかり直ったそうね。それに、そう……こんなに立派な騎士になって。天国のお父上もさぞお喜びでしょう。私も、カルードもとても鼻が高いわ」
「いえ、そんな……」
リュシアンはなんといってよいものか分からず、鼻をこすった。彼にしてみれば、ただマリーンをダンスに誘おうとしただけなのだが、思いもかけない夫人の涙まじりの言葉を聞かされ、それに感銘を受けなくもなかったのだが、実際の親子であるマリーンのように、溢れる思いに涙することはなかった。
「でも、僕だって……この屋敷と夫人にはとてもご恩がありますから。恩返し、なんていうと偉そうですけど、こうして少しでもお役に立てるなら、とても嬉しく思っています」
半分は社交辞令にも聞こえるようなリュシアンの言葉であったが、夫人はますます感激した様子で涙ぐんだ。
「なんて立派なことを。あのやんちゃでどうしようもないいたずらの、不作法で乱暴だったあなたが!」
夫人の言葉に、内心で(俺ってそんなにひどかったかな?)と、やや閉口したが、リュシアンは口許の優しい笑みを崩さなかった。この二年ほどで、少なくとも彼の精神の忍耐力は、かつてよりは驚くべきほどに成長していたのである。
マリーンから差し出されたハンケチで涙を拭いて、夫人は言った。
「踊っていらっしゃいマリーン。立派に成長したリュシアンと一緒に。二人の踊る姿を私に見せておくれ」
「はい」
待ってましたとばかりに、リュシアンはマリーンに手を差し出した。
手をとった二人は中庭の中央に進み出た。すでに次の曲が始まり、踊り始めている者たちに混じって、彼らも芝生の上で向かい合い、踊り始めた。
「こうしてマリーンと踊るなんて、久しぶりだね」
「そうね」
嬉しそうなのはリュシアンだけではない。マリーンの方も、軽やかに踊りながら、生き生きとその頬を紅潮させていた。
「それもこの庭園で、しかもお母様のいる前でこうして踊っているなんて……なんだか、不思議な気持ちだわ」
「ああ」
曲は最近はやりの、ワルツを今風にした感じの楽しい曲で、たぶん雇ったこの楽団の選曲であろう。お堅い宮廷では決して聴かれないような、軽やかで、心まで踊るようなヴァイオリンの音色が耳に楽しい。
三拍子のステップに合わせて、マリーンを引き寄せ、一緒に横に踏み出し、向きを変えてくるりと回る。ひらひらと揺れるマリーンのスカート。ふわりとなびく黒髪がリュシアンの鼻をそっとくすぐる。
晴れ渡った空に、緑の梢がまぶしく輝く。若者たちの笑い声と楽しげなざわめき。
流れてゆく音楽と、白い雲……人びとの手拍子が庭園の芝生にこだまする。
こんなに楽しい時間はいつ以来だったろう。ここにいる多くの者がそう思っていたに違いない。
見習い騎士の少年も、若手の騎士として期待を受ける青年たちも、この夏が過ぎれば、また過酷な稽古や任務に戻ってゆく。
少女たちとても、そろそろ大人になりそめる年頃だろう。貴族であるからには、そろそろ親の取り決めた縁談のひとつふたつも持ち上がり、別に意中の者がいる場合には、悲しい恋や憂鬱な物思いを経験してゆくことになるに違いない。
誰もが、同じ場所にはいられない。時が流れ、季節が移ろい、ものごともうつり変わり、すべてが変わってゆく。
歳をとり、人は成長し、少しずつ、少しずつ、悩みや問題の数が増してゆく。いちいち感情的になり、繊細な心で涙していた少年、少女であった頃……やがて、それらが思い出になってゆき、たくさんの痛みに耐えてくことで、触れるだけで切なくなり、言葉ひとつで傷ついていたあの頃の自分を、少しずつ捨ててゆくのだ。
大人になるということは、敏感な薄い皮膚に服を重ねてゆくことだ。脱ぎたくても脱げない服を、一枚、また一枚と……
重ねられた年月とともに、かつての痛みの記憶も服の下に密かに重ねられてゆく。人はそうして、かつての純粋な感情と敏感で傷つきやすかった心を己の深くにしまいこみ、そして忘れてゆく。歳をとり、また歳をとり、いつかそれを、ふと思い出すときまで。
少年たちは踊る。少女たちも踊る。
今、手を取り合う、この相手の顔を、この一瞬にだけ胸に刻みながら。
鳴り響く、楽しげなヴァイオリン。美しいリュートの音色は、まるで人生を経てきた老人のように優しい。
笑い声とさんざめき。夏の日差しが、少女の白いドレスを輝かせる。
リュシアンは笑った。
このひとときを楽しむやり方を、彼は少年を卒業した日に教わっていた。
だから、
マリーンの笑顔が、たとえかつてよりもいくぶん、大人の翳りを含んでいたとしても、
それでいいのだと。
一曲ごとに、ときが流れてゆく。
それを楽しみ、喜びとすることは、そんなに驕慢なことではないはずだ。
リュシアンはそう信じた。
楽団の奏でる曲が静かなバラードになると、リュシアンはマリーンを引き寄せた。
他の少年たちも、みな思い思いに、意中の娘や、気になる相手に歩み寄り、震える心でその手を取った。彼らは、この夏の一日の魔法のようなひとときを、ゆったりとした恋の曲に身を任せるようにして踊るのだった。
何曲かが終わり、リュシアンは名残惜しげにマリーンの手を離した。
あまりマリーンとだけ一緒にいては、他の皆やレスダー伯夫人にも怪しまれるだろう。彼はひと息ついて、テーブルの飲み物を手に仲間たちの談笑に加わった。
シャンパンのグラスに口をつけながらちらりと見ると、マリーンは他の少年からダンスを申し込まれていた。彼女は仕方なさそうにその誘いを受けたようだった。
昔のように、彼がそれを見て嫉妬にかられることはなかった。おそらく彼女も同様に、自分とだけ踊ったのでは変に思われると考えたのだろう。今のリュシアンには、それくらいのことを思いやることができた。
「およよ。やっぱもてるねえ、彼女は」
横に来たフィッツウースが、踊りはじめたマリーンの方に目をやりながら言った。
「ああ。お前も踊ってもいいよ」
リュシアンはすまし顔で、友人にうなずいて見せた。
「ちぇっ。やめとくぜ。お前の女と知って踊ってもちっとも面白くねえからな」
「そうか」
「ふうん。お前もちっとは大人になったってことか。前は他の男と踊ってるのを見てあからさまにいらいらしてたのに」
フィッツウースは、まったく落ち着いた様子のリュシアンを感心したように見た。
「僕も騎士として立派な男になったのさ」
「ふん。えらそうに。だが、いいのかー?あの様子だとマリーンさん、もうお前と踊る暇はなさそうだぞ」
言われてそちらを見ると、マリーンの踊っている周りには、次のダンスを申し込もうと男たちが殺到していた。
「皆も、よっぽど女に飢えているとみえる。今や人妻になった彼女があそこまで人気だとは。ああ、そうか……今日はコステルが来ていないからかな。あの子のもてぶりはたたごとじゃないからな。そのせいもあるか」
「……さあな」
リュシアンは、それについてはそれ以上何も言わなかった。
「ところで、そちらの首尾はどうかね?もて男のフィッツくん」
「ああー。まあ……なんだ」
派手派手しい服装に身を包んだ親友は、やや声を小さくした。
「さっきから色々な女の子と踊ったがね、しかし、すばらしい美人てのはなかなかいないもんだ」
「贅沢なことを」
「馬鹿。こういう日だからよ。せっかくの威勢のいいパーティだってのに、適当な相手をみつくろってくどいたって、ちっとも面白くねえだろ」
グラスのシャンパンをぐいと飲み干すと、フィッツウースはぷはあと豪快に息をはいた。
「でもな、まあまあの子はいたよ。まだ踊ってねえけどな」
「へえ、どの子だよ」
興味をもったリュシアンが、踊っている女性たちの方に目をやる。
「あれ。あの右の方で踊っている、白いひらひらドレスの子。名前はサリナっていう」
「どれどれ」
フィッツウースの目がねにかなうのはどんな娘なのだろうと、そちらを見ると、
「……ああ、なるほど」
リュシアンは納得したようにうなずいた。
「へえ、あんな子いたんだ」
踊り方はややぎこちないが、遠目にもなかなか笑顔が可愛らしい。茶色がかった金髪を後ろで三つ編みにした、清楚な感じの少女である。
「何でまだ踊らないんだ?お前ともあろうものが。さっさと行ってくればいいのに」
「馬鹿。こういうのはな、作戦てのがあるんだよ」
「作戦?」
「ああそうさ」
フィッツウースはきらりと目を光らせた。
「彼女の方も、さっきから俺の方を時々ちらちらと見ているんだ。きっと俺に少しは気があるんだろう」
「だったらなんで……」
「まあ、そう慌てるな。いいか、女をものにするコツってのはな、気のある相手にこっちからガツガツいかねえことだ。分かるか?」
「いいや」
「よし、教えてやる」
恋の達人然と、フィッツウースは胸をはった。別に胸を張るほどのことでもなかろうとリュシアンは思ったが、それは口には出さずにおいた。
「まずは、こっちを徹底的に意識させる。もう誘ってくるだろう。そろそろ誘ってくるはずだ。そう思わせながら、あえてまだじらす。誘ってくれるはず……誘って欲しい。そう相手が悶々としはじめたらこっちのもの。いても立ってもいられなくなり、ついつい相手の方をちらちらと見てしまう」
「ははあ……」
半ば呆れたように感心しながら、リュシアンはうなずいた。
「ついには、今踊っている相手のことなどどうでもよくなってきて、うわのそらさ。そして、相手の足を踏んじまったりなんかして」
フィッツウースが言ったとたん、向こうの方で「ごめんなさい」という少女の声が上がった。
「見ろ。言ったとおりだ」
「本当かよ」
半信半疑のリュシアンだったが、また見ると、その当の彼女がこちらの方をちらりと見てまた目をそらしたところだった。
「ああ、確かに今こっちを見てた」
「ああ。分かったか。それでこそ、こういう服を着てきた甲斐があるのさ。どんなところにいても目立つだろう。向こうからすれば、俺の姿を常に意識せずにはいられないわけだ」
そう言って、フィッツウースは金の拍車のついたブーツを、仰々しくカチャンと鳴らしてみせた。
「よーし。もうちょいだ。もうちょいだけじらして……あとは」
ふふふ、と笑ったフィッツウースは、自分のグラスになみなみとシャンパンを注ぎ、それを飲み干した。
「ふう……ときにリュシアン、提案があるのだが」
何杯かのシャンパンですでにいい気分になったのか、彼は貴公子めいた大仰な口調で言い出した。
「ダンスのあとでしばらくしたら、川べりにでもピクニックに行かないか」
「ピクニック?」
「そうだ」
魂胆ありげにフィッツウースは、にやりとした。
「今日は天気もいいし。夕方になればだいぶ涼しくなるだろう。川べりでの夕時のひととはロマンティックだぜ」
「もしかして、茂みで女といちゃつくつもりか?」
「それもある」
図星を指されながらも、フィッツウースは堂々とあごをそらした。
「しかし、むろん川べりでの美しい夕日を楽しむ、というのが本来の目的であることは、いわずもがなだ」
「……」
リュシアンは、友人のこの素晴らしい思いつきに、思わず苦笑していた。
「お前だって、なんなら川べりでマリーンさんとな、いろいろしたかろう」
「そりゃあ、まあな」
「いいぞう。外でするのは。風に揺れる梢の音、川のせせらぎ……そして女の感触」
フィッツウースはうっとりとするように目を閉じた。つられるようにリュシアンも目を閉じ、二人はそれぞれの相手との川べりでの甘い睦言を想像した。
「ああ……けっこういいかも」
「だろ?」
目を開けたフィッツウースはぐっと親指を立てた。
「なら決まりだ。俺はそれまでに、あの子をものにする。なあに、時間ぎりぎりで一度踊ってやって、それから川べりの茂みでロマンチックに口説けば、落ちない女はいねえ。おーし、燃えてきたぞ!」
再び注いだシャンパンを飲み干すと、フィッツウースはのっしのっしと、ダンスを踊る若者たちの輪のなかに入っていった。
「川べりか……」
そうつぶやいたリュシアンは、またさきほどの想像にひたりながら、ぼんやりとゆるやかなヴァイオリンの音色を聴いていた。
パーティはたけなわとなり、何曲もの曲が演奏され、ときに陽気なポルカや、また上品なワルツや、王国に伝わる懐かしい伝統曲などに合わせて、皆が踊り、ときに歌い、手を叩いて盛り上がった。
料理人のアドマールとメアリが作った料理は、その多くがきれいに平らげられた。シャンパンや果実酒が何十本も開けられ、用意された氷漬けの果物や、山ほどあった砂糖菓子も大半がテーブルから消え失せた。若者たちの食欲は見事なもので、それも踊ったり談笑したりしながらなので、食べても飲んでもまたお腹がすくのは道理であった。
さすがに踊るのにも少々疲れたのか、多くの者はテーブルを囲んで、わいわいと語らいだしていた。もちろん、中にはまだまだ踊り足りないというように、片端から女性にダンスを申し込むような者もいたが、楽団の演奏もはじめのころよりは静かな曲が増え、庭園の雰囲気は落ち着きを見せはじめていた。
レスダー伯夫人は、やはり長い時間夏の日差しにあたるのはつらいのか、すでに途中で退座していた。ミルダに支えられて立ち上がった夫人は、マリーンに、「私は充分楽しみましたから。私のことは気にせず楽しみなさい」と言い残し、屋敷に戻っていった。
頃合いを見て、リュシアンは皆の前で軽い挨拶をして、集まった仲間たち一人一人と握手を交わし、パーティを締めくくった。フィッツウースが提案した川辺に遊びに行くことについては、一緒に行くのも帰るのも好き好きとして、半数ほどの者がここで行儀よく帰っていった。
マリーンは、夫人が屋敷に戻った手前、自分も戻った方がいいのではないかと考えたようだったが、リュシアンの熱心な引き止めに折れた恰好でついてゆくことになった。
こうして、リュシアンにフィッツウースら、十数名の一行は、近くの川を目指して、わいわいと愉快に歩きだした。
「あっ、ああっ……」
喜びに満ちた、恋人を受け入れる吐息であり、そうでいて、どこか押し殺すような響きもあった。
「あっ、リュシアン……そんなにしちゃ」
「マリーン、マリーン!」
愛しい人の名を呼びながら、彼は自分自身を深く突き入れてゆく。
汗ばんだリュシアンの体は、二年まえよりもずっと逞しくなり、マリーンの体を包み込むのは立派な男の背中であった。
彼女はその背に腕を回し、しがみつくようにして、また喘ぐ。
「ん……あっ、ああっ」
激しい動きに、たまらず高い声が漏れてしまう。この部屋と同じ階には、母であるレスダー伯夫人の部屋があるのだ。それを頭の片隅に置きながらも、徐々にマリーンは、自分の身体が悦びに熱されてゆくのを抗えなかった。
「ああっ、リュシアン……もう」
「まだだよ。マリーン」
少年が耳元で告げる。
かつては、自分が教え導いた少年は、今では逆に彼女をリードし、優しく快感を与えてくれる。
「ああ……」
マリーンは感動に体を震わせた。
(こんなに……逞しくなったのね)
ずっと大きくなった背中に手を回す。
じわじわと押し寄せる肉体の喜びと、どこかに恐れの入り交じった心の震えとが、いっそうせめぎ合いながら、それらは深い快楽の中へと彼女を呑み込んでゆく。
「すごい……リュシアン。ああっ」
「もっと、もっと聞かせて。マリーンの声」
妻となってからは、なるべく抑えようとしてきた彼女の中の「女」が、その体に迎えるべき相手を見いだしたかのように、あらわになってゆく。
(こわい……私、このまま……)
体の奥に封じ込めていたリュシアンへの情愛が、まるで全身の血管を伝わって広がってゆくかのように、マリーンには感じられた。自分ではどうしようもないほどに、それは彼女の肉体を燃え上がらせてゆく。
(もう……もう、私……)
リュシアンを深くまで受け入れる度に、腕の先、指先のひとつひとつにいたるまでが、しびれるような快感に包まれるのだ。
「リュシアン……もうダメ、私……」
「マリーン」
体を重ねる二人の目が合わさる。
それは同じものを求めるときの、高まりあってひとつになった恋人たちのまなざしだった。
「お願い……一緒に」
「うん」
マリーンに口づけをすると、リュシアンはまた己自身を打ち込んでいった。
最後の激しさで。深く……もっと深く、と。
「あっ、ああっ、い……くっ」
「僕も……マリーンッ!」
二人は同時に叫び、互いを抱きしめた。
たとえようもない快感と、熱いほとばしり……
「ああ……マリーン、好きだよ」
何度も体を震わせながら、リュシアンは囁く。
荒い息をつきながら、倒れ込むように寝台に寝そべり、二人は見つめ合った。
汗に濡れたマリーンの白い裸体が、なまめかしくとても美しい。そう言うと、彼女は頬を染めて、くすりと笑った。
「ふふ。君も、なんだか、すごくたくましかったわ。びっくりしちゃった」
「鍛えられたおかげで、こっちの方も強くなつたのかな」
「まあ……馬鹿ね」
互いの体を手でなぞりながら、くすくすと笑い合う。
それは、ずっとリュシアンが待ち望んでいた幸せなひとときだった。
「さて、そろそろ花瓶に花を生けて、お母様に持っていかないと。ずいぶん遅くなっちゃったわ」
「そうだ。僕も掃除の途中だった」
二人は顔を見合わせて笑うと、起き上がって身づくろいを始めた。
それからの日々は、リュシアンにとって、まるであの蜜月が戻ってきたような時間だった。
庭の見回りや、屋敷の掃除、馬車での買い物など、ひととおりの仕事を、彼は生き生きとこなした。夕食にはマリーンの他、伯爵夫人も同席することはあったが、それはかつてのように厳しいマナーの指導の時間ではもうなくなり、たわいない世間話に、冗談を言ったりして夫人を笑わせるくらいのことは、もう彼にはできた。
そして、夜になり屋敷が寝静まると、待ち望んでいた二人の時間が訪れた。
昔とは反対に、こっそりと廊下をわたり、相手の部屋にゆくのはマリーンの方だった。夫人の部屋が二階に移ったとこともあって、同じ階の彼女の部屋よりは、三階にあるリュシアンの部屋の方が安全に思えたからだ。
侍女のミルダの部屋は一階にあり、執事のカストロは離れの小屋に泊まるのが常だったので、夜になると三階にはまったく人の気配がなくなる。
「誰もいなくて、廊下は真っ暗だし、なんだか怖いわ」
燭台を手にリュシアンの部屋に忍んで来たマリーンは、部屋に入るとそう言ってほっと息をついた。
「昔、僕が味わったスリルが分かっただろう」
くすくすと笑うリュシアン。
「もう。今度から階段のところまで迎えに来て」
「ああ」
唇が合わさる。
服を滑りおとし、燭台の火を吹き消すと、そこはもう誰にも邪魔されない、二人の場所だ。
抑えがちな甘い喘ぎと、吐息にからまる睦言……恋人たちの甘い夜が、またふけてゆく。
リュシアンの夏期休暇……レスダー伯夫人邸での日々は、仕事と恋とに塗りつぶされ、いよいよ濃密に流れはじめていった。
それから数日後、屋敷にフィッツウースが訪ねてきた。
「よう。なんだ、おめえ。夏の休暇で戻ってたって?知らなかったぜ。なんで言わないんだよ。水くさいじゃんか」
「ああ、ごめん。なにせ家に戻ってきて、その翌日にはこっちの屋敷にくることになったんで、あわただしくてさ」
二人は屋敷の玄関前の石段に腰を下ろした。
「マリーンさんがこっちに戻ってきたからだろ?」
「あ、ああ……まあ。それに、レスダー伯夫人の具合もあまり良くないし、なにしろ、この屋敷には男手が足りてないからさ」
「なーに言ってやがる」
フッィツウースはにやりと笑って、リュシアンの背中をどやしつけた。
「人妻になってからも、付き合っているとは、いい度胸じゃねえか」
「おい、フィッツ、人に聞かれる……」
小声で言い返しつつ、リュシアンは屋敷の扉を振り返った。
「大丈夫だって。耳ざといカルードはもういねえんだし。屋敷には婆さんの侍女がいるだけなんだろ」
「まあ、そうだけどさ」
リュシアンはふと思い出したように、友人に尋ねた。
「カルードは、まだずっと帰ってこないのかな?」
「ああ、らしいぜ。なんでも、どっかのでかい騎士団の中隊長になったとかで、そういや、そのうち国境警備とかにも駆り出されるってな噂も聞いたな」
「そうなのか」
カルードは彼らの元隊長であり、マリーンの姉でもある、リュシアンにとっては剣を師事しただけでなく、時には兄のようでもあったひとかたならぬ存在である。そのカルードが、まったく顔を見せないことは寂しくもあったが、また同時に、彼に会わずにすむという密かな安堵感もリュシアンにはあった。
かつて、マリーンとリュシアンとの関係を知り、二人を引き離そうとしたのもカルードであったし、その後、マリーンを半ば強引に結婚させたのも彼のしたことである。少なくとも、リュシアンにはそう思えていた。
なので、たとえ見習い騎士時代の恩師であり、なにくれと心配をかけてくれた相手であっても、カルードへの思いは複雑であった。久しぶりに会いたいような、しかしまだ会いたくないような……リュシアンにはそんな気持ちであったのだ。
「しかし、マリーンさんが戻ってきて、お前もここに住み込んでいると、こう……なんだかさ、昔に戻ったみたいだなあ」
フィッツウースはしみじみとそう言った。
「そうだな」
「マリーンさんも、結婚して伯爵夫人になってから、なんだかまた色っぽくなったみたいだし。お前はお前で、ちっとは背も伸びて、見かけはけっこう男らしくなったし……中身はどうだか知らんがな」
「うるせっ」
「ははは」
それからフィッツウースは、自嘲ぎみに言った。
「変わってないのは俺くらいのもんか。相変わらずの騎士見習いだし、女にはまたフラれ、剣の腕もさっぱり……てなもんよ」
「またふられたのか?今度はどんな子だよ」
「ああー、伯爵令嬢でな。名前はバージットってんだが。これが見かけは綺麗でしとやかなんだが、なかなかのワガママ娘でさ。会うたびにあれこれと命令してくるわ、あれが欲しい、これが食べたいと駄々をこねたりで」
「へえ」
「あげくの果てには、アレをした後にだぜ……ぼそっと、他の男の名前を言いやがった。これにはさすがに俺も頭に来たぜ」
フィッツウースはうんざりとした顔で言った。
「ははあ……で、ふったのか?」
「いや、それが振られたんだよ。俺の方は……まあ、綺麗で伯爵令嬢で、ワガママを別にすりゃ、それなりに付き合ってもいいかと思わないでもなかったんだが。その三日後に手紙が届いて、あなたとはこれきりにします。ありがとう。なんて書いてありやがったのさ」
「なんとまあ……」
フィッツウースはぺっと唾をはいた。
「何様のつもりだってんだ。この俺だってな、パーティのひとつにも行きゃあ、女の四、五人は寄ってくるモテ男だってのに。あの女ときたら……くそっ。確かに綺麗だし、金持ちだし、そりゃあ取り巻きの何人かはいるんだろうけどよ。しっかし、あったまくる。こんな風に扱われたのは初めてだぜ」
「なるほどねえ……」
リュシアンは、なんと言ったらいいものかと首をひねるだけだった。フィッツウースの女遊びの遍歴については、昔からいやというほど聞かされていたので、いくら深刻そうな顔をしていても、どうせこのお調子者はすぐにまた、別の女のことで顔を輝かせるようになるのだと、彼には分かっていた。
「なあ……リュシアン」
案の定、さっそくフィッツウースは、目を輝かせて違うことを口にした。
「パーティやろうぜ!」
「パーティ?」
「ああ。昔みたいにさ。ほら、前にもこの屋敷でやったろう。あれはお前が剣技大会で怪我をした後だったか……その復帰祝いかなんかでさ。あのときは楽しかったなあ!騎士団の仲間もいて。マリーンさんもいて。シャンパンを飲んで、歌って、踊って……」
リュシアンは苦笑気味に親友を見た。こういう話になると、いつだってフィッツウースは生き生きとなるのだ。
「なあ、やろうぜ。せっかくお前も、マリーンさんもここに帰ってきたんだし。それに、レスダー伯爵夫人だって……いい気晴らしになるぜ、きっと」
「そうだな……」
昔のことを思い出しながら、リュシアンは庭園の方を見やった。
(パーティか……そうそう、あのときは、マリーンと他の連中が踊っているのを見て、焼きもちをやいたりしたっけ)
十五歳の見習い騎士だった頃……血気盛んで、強くなりたいとただ闇雲に剣を振り、喧嘩したり怪我をしたり、マリーンに恋をして、勝手に嫉妬をしたり、自己嫌悪をしたり……不器用で、熱情的で、そして純粋に追い求めていた、少年の頃。
「……なつかしいな」
リュシアンはぽつりとつぶやいた。その口元には、かつての幼かった自分への、憐憫と微笑ましさのまざった、かすかな笑みが浮かんだ。
「なあ。みんなを呼んで、また楽しくやろうぜ」
フィッツウースはぽんとリュシアンの肩を叩いた。
「この前のお前の家でのパーティには、来られなかった連中もけっこういるしさ。そう、マリーンさんも含めて、ちょっとした俺たちの同窓会って感じでさ。ぱーっと騒ごう」
「ああ。いいな」
確かにこの屋敷の広い中庭でなら、皆が踊って騒ぐのに充分だろう。それに、フィッツウースの言う通り、自分とマリーンが屋敷に戻るまで、まるで老木のように寂しくひっそりと過ごしていた伯爵夫人にも、良い気晴らしになるかもしれない。
(それに……マリーンとも、久しぶりに踊りたいな)
リュシアンは頭の中に、楽しい想像を膨らませてうなずいた。
「よし。じゃあ、さっそくマリーンと伯爵夫人に聞いてみるよ」
「ああ、そうこなくちゃ!」
ぱちりと指を鳴らすフィッツウース。
愉快なパーティにしようと約束し、二人は立ち上がった。
真夏の訪れを感じさせる、ヘリアンサスの花が、庭園の所々に黄金色に咲き始めていた。
空は晴れ渡り、青々とした芝生の上に、若者たちの笑い声が響いていた。
屋敷の庭園には、次々と見習い騎士時代の仲間たちが集まりはじめ、辺りにはにぎやかな気配が満ちてゆく。
並べられたテーブルには、たくさんの皿やグラスが置かれ、やがてここには出来立ての料理が運ばれて湯気を立てはじめるだろう。日差しをよけて過ごせるよう、庭園の木陰には、伯爵夫人やマリーン、それに女性客のための椅子が設けられ、その周りは花々で飾られた。
皿を運んでいたリュシアンはその手をとめ、少しずつ増えはじめた客たちを満足げに見回していた。
(今日は楽しい一日になりそうだな)
にぎやかな庭園を見渡して、彼自身もとてもうきうきとしていた。
パーティの開催にはなかなかの困難がともなった。
はじめは、リュシアンからその提案を聞かされたマリーンは、心情的には賛同しつつも、実際の問題を考えて難色を示したのだが、その後に思いがけずいくつかの幸運が重なった。
まずは、肝心のレスター伯爵夫人の意向であったが、これは案外すぐに許可が下りた。
かつての夫人であれば、由緒ある屋敷の庭園に、粗暴な若い連中が集まって大騒ぎをするなどけしからぬ、と眉をつり上げたことだろう。だが、体を弱くし、侍女一人執事一人とともに寂しく暮らしていた彼女にとって、戻ってきたマリーンとリュシアンのおかげでよっぽど気分が若返り、屋敷にも活気が戻ったことは、認めざるを得なかったようだ。
部屋を訪れたマリーンとリュシアンから話を聞き、夫人は一瞬だけ眉間に皺を寄せたが、すぐに柔和な顔になって言った。
「よろしい。たまには、そうした愉快な事もあってよいでしょう」
リュシアンとマリーンは、拍子抜けするくらいの夫人の答えに、思わず顔を見合わせたものだった。
「ただ、私はこのようにあまり動けないから、いろいろな準備がミルダだけでは大変でしょう。掃除やら飾りつけやら、料理の支度やら、とても一人では無理だと思うけど」
夫人のその指摘はもっともだった。現在、屋敷にいるのは侍女のミルダと執事のカストロだけだ。執事にできるのは馬車の御者や荷物運びくらいがせいぜいであるから、お客をもてなすための細やかな支度は、どうしてもミルダ一人に任せっきりになってしまう。それについては、リュシアンとマリーンも、出来る限りのことは手伝うつもりであったが、問題はもうひとつあった。
かつては数名雇っていた料理人たちはみなやめてしまっていたので、今は料理を含む家事いっさいはミルダの仕事となっていた。いくら侍女頭として名を馳せた彼女にしても、パーティに来るお客分の料理を一人で作るのは大変な大仕事であるに違いなかった。前日から仕込みをするにしても、当日の朝はどうしても、焼いたり、煮たり盛りつけたりと、おおわらわになることは目に見えていた。しかも、彼女には他にも掃除やら洗濯やら、それに伯爵夫人の世話もしなくてはならないのだ。
こうしたことを考えれば、大勢の人間を呼ぶのは、とても無理だという結論に達せざるを得なかった。
いったんはしょげかえったリュシアンだったが、翌日、翌々日と、立て続けに奇跡のような幸運が起こった。
まずは、一年前に辞めていった料理人の一人が、たまたま久しぶりに屋敷を訪れた。この絶好のタイミングにリュシアンとマリーンは大変喜び、ぜひとも料理を手伝ってもらいたいと彼に頼み込んだ。料理人のアドマールは、恩ある伯爵夫人のためならば、と快く引き受けてくれた。
さらにその翌日、屋敷にやってきたのは、旅楽団の一座であった。リュートやキターラ、笛にヴァイオリンなどの六名ほどの楽団は、地方都市からやってきてしばらくこの町に滞在するということだった。お金を払えば、貸し切りの演奏もするという彼らは、パーティでのダンス曲の演奏にうってつけであった。リュシアンは大急ぎで夫人の部屋にゆき、熱心に頼み込んだ。夫人はやや苦笑気味にうなずき、楽団を雇うことを了承したのだった。
こうして、前日までは屋敷は準備や料理や掃除などで大変などたばたであったが、リュシアンとフィッツウースの企画したパーティは、無事開催されることとなったのだった。
「よう、リュシアン」
「来たか、フィッツ」
庭園に現れたフィッツウースは、気合の入った服装でのしのしと芝生を歩いてきた。
「へえ、決めてきたなあ」
「ったぼうよ!」
エヘンとのけぞって見せる彼は、袖の膨らんだ白ブラウスに、短ズボンの裾をブーツに収めた、まるでお洒落な貴族騎士という恰好だった。ベルトには銀の飾り、ブーツには金の拍車、ブラウスの袖にもさり気なく銀糸の刺しゅうがほどこされており、そのこりようは、普通ならばやや失笑ものであるが、フィッツウースが着ると、これがなかなかさまになっている。
「どうだ。立派な騎士姿だろう?これで、新たな恋をゲットするワケよ。美人の貴婦人カモーン!」
颯爽と剣を抜く仕種をして見せるフィッツウース。
「ああ、立派に見えるぞ。たとえ中身はまだただの見習い騎士だろうともさ」
リュシアンは苦笑しながら、やる気満々の親友の肩を叩いてやった。
そうこうするうちに、中庭にはしだいに若者たちの人数が増えていった。
招待されてやって来るのは、多くは昔の見習い騎士仲間の少年たちだったが、中には年上の騎士や、誰それの従兄弟といった、めったに会うことのなかった者もおり、それぞれに顔を見て挨拶をしたり、肩を叩き合ったりと、久しぶりの再会を喜ぶのだった。
門の前には次々に馬車が到着し、降りてくる客たちを案内するのは執事のカストロの役目だった。
「女性たちが到着しましたぞ」
執事の言葉を聞いて、騎士の少年たちは一斉に色めきたった。
ダンスをするからには、女性の人数もそれなりに必要だろうと、リュシアンとフィッツウースが苦心して、知り合いや友人たちのつてで若い少女たちを招待したのだ。
馬車から降りてきたのは、可愛らしいドレスに身を包んだ女性たちである。人数にして十数人というところだったが、彼女たちは静々と中庭の芝生に足を踏み入れると、少年たちに向かって優雅に貴婦人の礼をした。
「おい、やっぱりソランに頼んで良かったな」
フィッツウースが横から耳打ちする。
「ああ」
ソランは、見習い騎士時代の仲間で、貴族として由緒ある家柄の少年であった。昔はリレュシアンもよくフィッツウースらとともに、ソランの屋敷のパーティに遊びに行っては、上流貴族の若者に混じってダンスをしたものである。
「うんうん。なかなか可愛い娘もいるじゃないか。よしよし」
女性たちを見ながら鼻の下を伸ばすフィッツウースを横にして、リュシアンはおやと思った。
「コステルがいないな」
「ああ、そういえば……」
フィッツウースもそれに気づいたようだった。
彼女はソランのいとこであるから、パーティの話を聞けば必ずやってくるだろうと思っていたのだが……
「うーむ。この前の様子からして、彼女はまだお前に気があると思っていたんだが」
腕を組んでフィッツウースが言った。
「……」
リュシアンにすれば、ほっとしたような、少々拍子抜けしたような複雑な気分だった。しかし、これで気兼ねなくマリーンとダンスが踊れるという、たわいない喜びがこみ上げた。
「まあ、彼女が来ないんじゃ、男どもは残念かもしれないけどね。俺にはマリーンがいるからいいのさ」
リュシアンはそう、うきうきとして言ってのけた。
テーブルに料理が運ばれてくると、歓声が上がった。
次々に運ばれてくるのは、鴨のローストや、ほろほろ鳥の煮込み、たくさんのハムやソーセージ、巨大なチーズ、豆のシチュー、野菜の酢漬けなど、それらはみな、料理人のアドマールと侍女のミルダが、昨日から二日がかりで準備した成果だった。さらに、料理の皿の横には、果物やちょっとした砂糖菓子などが置かれ、並べられたグラスにはシャンパンやシードルが音を立てて注がれてゆく。
「こりゃ、なかなかのごちそうだな」
湯気の立つ料理の乗った皿を見回して感心するフィッツウース。その横で、リュシアンは誇らしげにうなずくのだった。
大きな杏のケーキを運んできたのはマリーンだった。
彼女は、明るい橙色の胴着の上に、襞の入った白いサテンの長スカートを着た姿で、いつになく若々しく、華やいで見えた。もちろん、彼女も実際にはまだ二十五歳という若さなのだが、結婚して伯爵夫人となってからは外出する機会も減り、彼女自身も妻としてのつつましさを意識していたのだろう、あまり派手やかに着飾ることはなくなっていた。さらに、夫であるモンフェール伯爵の体調が思わしくなくなってからは、彼女はなるべく落ち着いた色の服を選んで、できるだけ質素にと、周りに気をつかっていたのである。
なので、この屋敷にまた戻ってきて、自室に残っていたかつての自分の服をたくさん見つけたときは、いかに自分が女性としての華やかさから遠ざかっていたのかを、ひどく実感したのであった。このパーティではリュシアンの勧めもあり、久しぶりに色合いの豊かな服を着てみようと、彼女は朝から鏡の前に立って、密かに心踊らせていたのであった。
後ろに束ねた黒髪に真珠の髪飾りを巻き、うっすらと化粧をした彼女の姿は、匂い立つような、大人の女性としての艶めいた美しさを感じさせた。白いスカートを揺らして彼女が庭園を横切ってゆくと、そこにいた少年騎士たちからはため息のような声がもれた。
「綺麗だなあ、マリーンさん」
「ああ……」
フィッツウースの言葉に、その横に立つリュシアンもうなずいた。
「このっ。うらやましいぜ。あんな綺麗な人妻と……」
「ああ……」
うっとりとなって彼女を見つめるリュシアンの顔は、だらしなくゆるんでいた。それは二年前と変わらぬ、年上の女性に恋する騎士見習いの少年の顔であった。
すべての料理が運ばれると、それぞれ思い思いに談笑していた少年たち、少女たちがテーブルの前に集まった。屋敷の扉が開いて、侍女のミルダに介添えされたレスダー伯夫人が現れると、すぐにリュシアンとマリーンが寄っていって、両側から夫人を助ける。
ここのところ、夫人はだいぶ体力を持ち直してきたようで、こうして支えられれば自分の足で歩けるようにもなっていた。夫人は、久しぶりに庭園の芝生を踏みしめると、晴れやかな笑顔を見せた。
皆が拍手で迎える中、夫人はリュシアンとマリーンに支えられて、中庭の木陰に置かれた椅子に腰掛けた。
「ありがとう。みなさん」
夫人は楽しそうに、テーブルの周りの若者たちを見渡し、普段よりもずっとほがらかな口調で言った。
「そして、ようこそ。このように若い方達が集まるのを見るのはいつ以来かしら。若い騎士の方々、それに若いお嬢様方。いつもリュシアンや、マリーンがお世話になっていますね。今日はささやかながら、この屋敷のパーティを楽しんでいってくださいね」
飲み物の注がれた杯を受け取り、夫人はそれをかかげた。
「乾杯」
「乾杯!」
若者たちがそれに調和する。
リュシアンもシャンパンの入った杯を一気に飲み干した。
先日雇った楽団が、庭園の一角からゆったりと音楽を奏ではじめると、辺りには楽しげな談笑の声が広がってゆく。皆の先頭をきってさっそく女性陣に歩み寄り、ダンスを申し込む者もいた。それにつられて、一人、また一人と、若者たちが芝生の上で踊りはじめる。
夫人のそばにいるマリーンの方をちらちらと見ながら、リュシアンは杯を片手にそわそわとしていた。
「ったく、じれったいやつめ」
フィッツウースが笑いながらその背中を押す。
「とっとといってこいよ。早くしないと、他の奴らにさらわれるぞ」
「ああ……」
近づいていったリュシアンに気づくと、マリーンが振り返りにこりと笑った。
「伯爵夫人、お加減はどうですか?」
まずは紳士らしく、隣の夫人の方に声をかけるのを忘れない。
「とても気分がいいわ」
夫人はいつにない穏やかな笑顔で答えた。
「はじめはパーティなんて、うわついたものは反対した方がいいかしらとも思っていたのだけれど。でも、久しぶりにお庭に出て、それにこうして若い人たちに囲まれていると、私の方もなんだか楽しくなってくるようよ」
「そうですか。それはよかった」
そう言って、リュシアンはちらりと横にいるマリーンを見た。
「マリーン……さんは、踊らないんですか?」
夫人の手前、気軽に彼女をダンスに誘うのも気が引けた。なにより、気安く名前を呼べないのももどかしい。なにしろ表向きは、自分よりもずっと年上の伯爵夫人であるのだから。
ぎこちないリュシアンの言い方に、マリーンは思わずくすっと笑いをもらした。
「そうね。ここのところしばらく踊っていなかったし。それに、私は仮にも伯爵夫人の身になったのだから、前みたいに誰かれなく気安く踊ったり、男性と話をしたりするのも、少しは考えた方がいいかしら、と思うのだけど……」
彼女はちらりと、母である夫人の方を見る。
「それは、そうね」
かつては誇り高き厳しさと、慎ましさを矜持にしていたレスダー伯夫人は、分別ある娘の言葉に満足したようにうなずいた。だが、その顔の楽しげな笑顔は消してしまわなかった。
「でもね、今日ばかりは好きに踊っていらっしゃい」
やや驚きながら、マリーンは夫人の顔を見つめた。
「あなたは、これまでいろいろとつらい苦労したり、我慢したりしてきたのだから。伯爵夫人となったことで、あなたにも妻として、女としての生きかたが少しずつ分かってきたでしょう。それに、こうして家に戻ってきて、今度は私の世話や屋敷のために働くことになって。世の中には安楽な暮らしをしている夫人たちもたくさんいるというのに、あなたにはまた、このような苦労をかけてしまっている。母として、とてもありがたくも、そして申し訳なくも思っています」
「お母様……」
マリーンは、昔よりもずっと細くなってしまった母の手をとった。
「そんなことありません。私は幸せですわ。こうして、お母さまと一緒に、この屋敷で過ごせる日がまた来るとは。それに、これは苦労でもなんでもないのです。この屋敷は私の生まれ育った場所。私の一部です。お掃除をしながら廊下を歩いて、窓の外を眺めたり、古い壁の傷を見て昔の出来事を思い出したり、お花を植えて、花壇の土をいじったり、水をやったりするのはとても楽しいですわ。それに、こうやって少しずつでもお母様が元気になられるのを毎日見ているのは、なんて幸せなことなんでしょう」
「マリーン。私の娘」
夫人は涙ぐみながら、娘の手を握りしめた。
「そんなふうに言ってもらえると、私もとても気が楽になります。あなたたちが戻ってきてから、とても屋敷が華やかになったように思えるわ。そうなると、ちょっとしたことでも……綺麗なお花が飾ってあったり、あなたやリュシアンの笑い声が廊下から聞こえてきたり、そんなことでも心が踊るようになったわ。それまではただ、部屋で寝て過ごすだけだったのに、こうして歩いたり、一緒に食事をしたりできるようになって、はじめて自分がそんなに不幸ではないのだ、と思えるようになったのよ。なんて傲慢なことでしょう。世の中にはもっと大変な人びとがいて、娘も息子もなく、独りぼっちでつらい思いをしている人たちもいるでしょうに。そう考えると、私はよっぽど幸せなのだわ」
「お母様」
マリーンの目にも涙が浮かんだ。
「ありがとう。二人とも。リュシアンも」
夫人は手を伸ばして、リュシアンの手をとった。
「戻ってきてくれて。今までゆき届かなかった屋敷のいろいろなことをしてくれて。屋根もすっかり直ったそうね。それに、そう……こんなに立派な騎士になって。天国のお父上もさぞお喜びでしょう。私も、カルードもとても鼻が高いわ」
「いえ、そんな……」
リュシアンはなんといってよいものか分からず、鼻をこすった。彼にしてみれば、ただマリーンをダンスに誘おうとしただけなのだが、思いもかけない夫人の涙まじりの言葉を聞かされ、それに感銘を受けなくもなかったのだが、実際の親子であるマリーンのように、溢れる思いに涙することはなかった。
「でも、僕だって……この屋敷と夫人にはとてもご恩がありますから。恩返し、なんていうと偉そうですけど、こうして少しでもお役に立てるなら、とても嬉しく思っています」
半分は社交辞令にも聞こえるようなリュシアンの言葉であったが、夫人はますます感激した様子で涙ぐんだ。
「なんて立派なことを。あのやんちゃでどうしようもないいたずらの、不作法で乱暴だったあなたが!」
夫人の言葉に、内心で(俺ってそんなにひどかったかな?)と、やや閉口したが、リュシアンは口許の優しい笑みを崩さなかった。この二年ほどで、少なくとも彼の精神の忍耐力は、かつてよりは驚くべきほどに成長していたのである。
マリーンから差し出されたハンケチで涙を拭いて、夫人は言った。
「踊っていらっしゃいマリーン。立派に成長したリュシアンと一緒に。二人の踊る姿を私に見せておくれ」
「はい」
待ってましたとばかりに、リュシアンはマリーンに手を差し出した。
手をとった二人は中庭の中央に進み出た。すでに次の曲が始まり、踊り始めている者たちに混じって、彼らも芝生の上で向かい合い、踊り始めた。
「こうしてマリーンと踊るなんて、久しぶりだね」
「そうね」
嬉しそうなのはリュシアンだけではない。マリーンの方も、軽やかに踊りながら、生き生きとその頬を紅潮させていた。
「それもこの庭園で、しかもお母様のいる前でこうして踊っているなんて……なんだか、不思議な気持ちだわ」
「ああ」
曲は最近はやりの、ワルツを今風にした感じの楽しい曲で、たぶん雇ったこの楽団の選曲であろう。お堅い宮廷では決して聴かれないような、軽やかで、心まで踊るようなヴァイオリンの音色が耳に楽しい。
三拍子のステップに合わせて、マリーンを引き寄せ、一緒に横に踏み出し、向きを変えてくるりと回る。ひらひらと揺れるマリーンのスカート。ふわりとなびく黒髪がリュシアンの鼻をそっとくすぐる。
晴れ渡った空に、緑の梢がまぶしく輝く。若者たちの笑い声と楽しげなざわめき。
流れてゆく音楽と、白い雲……人びとの手拍子が庭園の芝生にこだまする。
こんなに楽しい時間はいつ以来だったろう。ここにいる多くの者がそう思っていたに違いない。
見習い騎士の少年も、若手の騎士として期待を受ける青年たちも、この夏が過ぎれば、また過酷な稽古や任務に戻ってゆく。
少女たちとても、そろそろ大人になりそめる年頃だろう。貴族であるからには、そろそろ親の取り決めた縁談のひとつふたつも持ち上がり、別に意中の者がいる場合には、悲しい恋や憂鬱な物思いを経験してゆくことになるに違いない。
誰もが、同じ場所にはいられない。時が流れ、季節が移ろい、ものごともうつり変わり、すべてが変わってゆく。
歳をとり、人は成長し、少しずつ、少しずつ、悩みや問題の数が増してゆく。いちいち感情的になり、繊細な心で涙していた少年、少女であった頃……やがて、それらが思い出になってゆき、たくさんの痛みに耐えてくことで、触れるだけで切なくなり、言葉ひとつで傷ついていたあの頃の自分を、少しずつ捨ててゆくのだ。
大人になるということは、敏感な薄い皮膚に服を重ねてゆくことだ。脱ぎたくても脱げない服を、一枚、また一枚と……
重ねられた年月とともに、かつての痛みの記憶も服の下に密かに重ねられてゆく。人はそうして、かつての純粋な感情と敏感で傷つきやすかった心を己の深くにしまいこみ、そして忘れてゆく。歳をとり、また歳をとり、いつかそれを、ふと思い出すときまで。
少年たちは踊る。少女たちも踊る。
今、手を取り合う、この相手の顔を、この一瞬にだけ胸に刻みながら。
鳴り響く、楽しげなヴァイオリン。美しいリュートの音色は、まるで人生を経てきた老人のように優しい。
笑い声とさんざめき。夏の日差しが、少女の白いドレスを輝かせる。
リュシアンは笑った。
このひとときを楽しむやり方を、彼は少年を卒業した日に教わっていた。
だから、
マリーンの笑顔が、たとえかつてよりもいくぶん、大人の翳りを含んでいたとしても、
それでいいのだと。
一曲ごとに、ときが流れてゆく。
それを楽しみ、喜びとすることは、そんなに驕慢なことではないはずだ。
リュシアンはそう信じた。
楽団の奏でる曲が静かなバラードになると、リュシアンはマリーンを引き寄せた。
他の少年たちも、みな思い思いに、意中の娘や、気になる相手に歩み寄り、震える心でその手を取った。彼らは、この夏の一日の魔法のようなひとときを、ゆったりとした恋の曲に身を任せるようにして踊るのだった。
何曲かが終わり、リュシアンは名残惜しげにマリーンの手を離した。
あまりマリーンとだけ一緒にいては、他の皆やレスダー伯夫人にも怪しまれるだろう。彼はひと息ついて、テーブルの飲み物を手に仲間たちの談笑に加わった。
シャンパンのグラスに口をつけながらちらりと見ると、マリーンは他の少年からダンスを申し込まれていた。彼女は仕方なさそうにその誘いを受けたようだった。
昔のように、彼がそれを見て嫉妬にかられることはなかった。おそらく彼女も同様に、自分とだけ踊ったのでは変に思われると考えたのだろう。今のリュシアンには、それくらいのことを思いやることができた。
「およよ。やっぱもてるねえ、彼女は」
横に来たフィッツウースが、踊りはじめたマリーンの方に目をやりながら言った。
「ああ。お前も踊ってもいいよ」
リュシアンはすまし顔で、友人にうなずいて見せた。
「ちぇっ。やめとくぜ。お前の女と知って踊ってもちっとも面白くねえからな」
「そうか」
「ふうん。お前もちっとは大人になったってことか。前は他の男と踊ってるのを見てあからさまにいらいらしてたのに」
フィッツウースは、まったく落ち着いた様子のリュシアンを感心したように見た。
「僕も騎士として立派な男になったのさ」
「ふん。えらそうに。だが、いいのかー?あの様子だとマリーンさん、もうお前と踊る暇はなさそうだぞ」
言われてそちらを見ると、マリーンの踊っている周りには、次のダンスを申し込もうと男たちが殺到していた。
「皆も、よっぽど女に飢えているとみえる。今や人妻になった彼女があそこまで人気だとは。ああ、そうか……今日はコステルが来ていないからかな。あの子のもてぶりはたたごとじゃないからな。そのせいもあるか」
「……さあな」
リュシアンは、それについてはそれ以上何も言わなかった。
「ところで、そちらの首尾はどうかね?もて男のフィッツくん」
「ああー。まあ……なんだ」
派手派手しい服装に身を包んだ親友は、やや声を小さくした。
「さっきから色々な女の子と踊ったがね、しかし、すばらしい美人てのはなかなかいないもんだ」
「贅沢なことを」
「馬鹿。こういう日だからよ。せっかくの威勢のいいパーティだってのに、適当な相手をみつくろってくどいたって、ちっとも面白くねえだろ」
グラスのシャンパンをぐいと飲み干すと、フィッツウースはぷはあと豪快に息をはいた。
「でもな、まあまあの子はいたよ。まだ踊ってねえけどな」
「へえ、どの子だよ」
興味をもったリュシアンが、踊っている女性たちの方に目をやる。
「あれ。あの右の方で踊っている、白いひらひらドレスの子。名前はサリナっていう」
「どれどれ」
フィッツウースの目がねにかなうのはどんな娘なのだろうと、そちらを見ると、
「……ああ、なるほど」
リュシアンは納得したようにうなずいた。
「へえ、あんな子いたんだ」
踊り方はややぎこちないが、遠目にもなかなか笑顔が可愛らしい。茶色がかった金髪を後ろで三つ編みにした、清楚な感じの少女である。
「何でまだ踊らないんだ?お前ともあろうものが。さっさと行ってくればいいのに」
「馬鹿。こういうのはな、作戦てのがあるんだよ」
「作戦?」
「ああそうさ」
フィッツウースはきらりと目を光らせた。
「彼女の方も、さっきから俺の方を時々ちらちらと見ているんだ。きっと俺に少しは気があるんだろう」
「だったらなんで……」
「まあ、そう慌てるな。いいか、女をものにするコツってのはな、気のある相手にこっちからガツガツいかねえことだ。分かるか?」
「いいや」
「よし、教えてやる」
恋の達人然と、フィッツウースは胸をはった。別に胸を張るほどのことでもなかろうとリュシアンは思ったが、それは口には出さずにおいた。
「まずは、こっちを徹底的に意識させる。もう誘ってくるだろう。そろそろ誘ってくるはずだ。そう思わせながら、あえてまだじらす。誘ってくれるはず……誘って欲しい。そう相手が悶々としはじめたらこっちのもの。いても立ってもいられなくなり、ついつい相手の方をちらちらと見てしまう」
「ははあ……」
半ば呆れたように感心しながら、リュシアンはうなずいた。
「ついには、今踊っている相手のことなどどうでもよくなってきて、うわのそらさ。そして、相手の足を踏んじまったりなんかして」
フィッツウースが言ったとたん、向こうの方で「ごめんなさい」という少女の声が上がった。
「見ろ。言ったとおりだ」
「本当かよ」
半信半疑のリュシアンだったが、また見ると、その当の彼女がこちらの方をちらりと見てまた目をそらしたところだった。
「ああ、確かに今こっちを見てた」
「ああ。分かったか。それでこそ、こういう服を着てきた甲斐があるのさ。どんなところにいても目立つだろう。向こうからすれば、俺の姿を常に意識せずにはいられないわけだ」
そう言って、フィッツウースは金の拍車のついたブーツを、仰々しくカチャンと鳴らしてみせた。
「よーし。もうちょいだ。もうちょいだけじらして……あとは」
ふふふ、と笑ったフィッツウースは、自分のグラスになみなみとシャンパンを注ぎ、それを飲み干した。
「ふう……ときにリュシアン、提案があるのだが」
何杯かのシャンパンですでにいい気分になったのか、彼は貴公子めいた大仰な口調で言い出した。
「ダンスのあとでしばらくしたら、川べりにでもピクニックに行かないか」
「ピクニック?」
「そうだ」
魂胆ありげにフィッツウースは、にやりとした。
「今日は天気もいいし。夕方になればだいぶ涼しくなるだろう。川べりでの夕時のひととはロマンティックだぜ」
「もしかして、茂みで女といちゃつくつもりか?」
「それもある」
図星を指されながらも、フィッツウースは堂々とあごをそらした。
「しかし、むろん川べりでの美しい夕日を楽しむ、というのが本来の目的であることは、いわずもがなだ」
「……」
リュシアンは、友人のこの素晴らしい思いつきに、思わず苦笑していた。
「お前だって、なんなら川べりでマリーンさんとな、いろいろしたかろう」
「そりゃあ、まあな」
「いいぞう。外でするのは。風に揺れる梢の音、川のせせらぎ……そして女の感触」
フィッツウースはうっとりとするように目を閉じた。つられるようにリュシアンも目を閉じ、二人はそれぞれの相手との川べりでの甘い睦言を想像した。
「ああ……けっこういいかも」
「だろ?」
目を開けたフィッツウースはぐっと親指を立てた。
「なら決まりだ。俺はそれまでに、あの子をものにする。なあに、時間ぎりぎりで一度踊ってやって、それから川べりの茂みでロマンチックに口説けば、落ちない女はいねえ。おーし、燃えてきたぞ!」
再び注いだシャンパンを飲み干すと、フィッツウースはのっしのっしと、ダンスを踊る若者たちの輪のなかに入っていった。
「川べりか……」
そうつぶやいたリュシアンは、またさきほどの想像にひたりながら、ぼんやりとゆるやかなヴァイオリンの音色を聴いていた。
パーティはたけなわとなり、何曲もの曲が演奏され、ときに陽気なポルカや、また上品なワルツや、王国に伝わる懐かしい伝統曲などに合わせて、皆が踊り、ときに歌い、手を叩いて盛り上がった。
料理人のアドマールとメアリが作った料理は、その多くがきれいに平らげられた。シャンパンや果実酒が何十本も開けられ、用意された氷漬けの果物や、山ほどあった砂糖菓子も大半がテーブルから消え失せた。若者たちの食欲は見事なもので、それも踊ったり談笑したりしながらなので、食べても飲んでもまたお腹がすくのは道理であった。
さすがに踊るのにも少々疲れたのか、多くの者はテーブルを囲んで、わいわいと語らいだしていた。もちろん、中にはまだまだ踊り足りないというように、片端から女性にダンスを申し込むような者もいたが、楽団の演奏もはじめのころよりは静かな曲が増え、庭園の雰囲気は落ち着きを見せはじめていた。
レスダー伯夫人は、やはり長い時間夏の日差しにあたるのはつらいのか、すでに途中で退座していた。ミルダに支えられて立ち上がった夫人は、マリーンに、「私は充分楽しみましたから。私のことは気にせず楽しみなさい」と言い残し、屋敷に戻っていった。
頃合いを見て、リュシアンは皆の前で軽い挨拶をして、集まった仲間たち一人一人と握手を交わし、パーティを締めくくった。フィッツウースが提案した川辺に遊びに行くことについては、一緒に行くのも帰るのも好き好きとして、半数ほどの者がここで行儀よく帰っていった。
マリーンは、夫人が屋敷に戻った手前、自分も戻った方がいいのではないかと考えたようだったが、リュシアンの熱心な引き止めに折れた恰好でついてゆくことになった。
こうして、リュシアンにフィッツウースら、十数名の一行は、近くの川を目指して、わいわいと愉快に歩きだした。
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