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1.湖の再会
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◆登場人物
リュシアン ・・・見習い騎士
マリーン・・・モンフェール伯爵夫人
モンフェール伯爵・・・湖畔の城に住む大貴族
フィッツウース・・リュシアンの友人
コステル ・・・貴族令嬢
レスダー伯爵夫人 ・・・マリーンの母
クレア ・・・リュシアンの母
「あっ」
薄暗い納屋の中で……
吐息まじりの艶めいた声が上がっていた。
「ああ……んっ」
「いいわ……もっと」
荒い息づかいと、淫らな呻き……
かすかな命令の口調をただよわせた、若い女の声。
「そう……そうよ、もっと、して」
暗がりの中、
敷きつめられた藁の上に、男女の裸体が重なり合い、うごめいていた。
「いいっ、いいわっ」
快楽の響きを強めた声は、しだいに大きくなり、
「あっ……いく」
ついに絶頂の喘ぎとともに、組み合った二つの体が、びくんと反り返った。
そして、重なり合って倒れ込む、二つの肉体。
はあはあ、という、男女の息づかいが小さくなってゆくと、やがて、暗がりは静けさに包まれた。
しばらくの後、暗がりの中で、かさり、と藁の音がした。続いて女のため息がもれる。
「ねえ……終わったんなら、早くどいてよ。重いわ」
まだ若い女の声だった。それを聞いて、かぶさっていた男が慌てたようにして体を起こす。
「あ、あの……」
「いいから、どいて」
命じるような強い口調で女は言い、白い裸体……一糸まとわぬ体を、恥ずかしげもなく起こした。
「なかなか良かったわ。でも、あんたよりもロディの方がずっといいわ。だって、もっと長持ちだし」
「そんな……でも、さっきは」
「まあいいわ」
立ち上がった女は、さっさとシュミーズを着て、絹のカルソン(下着のズボン)をはいた。そして慣れた様子でペティコートをつけると、男を残して歩きだした。
「ま、まってくれよ」
男の方は、急いで服を身につけて彼女の後を追いかける。その様子からしても、男の方も若い……あるいは少年ででもあるようだ。
女が扉を開けると、とたんにまぶしい光が納屋の中に差し込んだ。
「なあ、待ってくれって」
後ろから男が声をかけると、蜂蜜色の金髪を両手でまとめながら、その少女が振り返った。
「なあに?」
にこりと笑ったその顔には、年齢には似合わぬような、はっとするなまめかしさがあった。
陽光に照らされて、きらきらと光る金髪に、なめらかな白い肌……相当の美少女であるが、自分自身でもすでに己の女の魅力を存分に知っているかのような、その瞳には高慢さと同時に、ときに相手に媚びて見せるかのような色があった。
「ああ……」
どぎまぎとしながら、少年はごくりと唾を飲み込んだ。
「な、なあ。また会えるだろう?」
「さあね、どうかしらね」
くすりと笑って、少女は首をかしげてみせた。それはあきらかに、この恋愛ゲームを楽しんでいるという風であった。
「なあ、今度また……いいだろ?」
肩を寄せてくる少年から、すいとその顔をそむけつつも、それでいて握らせた手は振りほどかない。こうした男の扱いにも、彼女はかなり慣れている様子だった。
「じゃあ、また……そのうちにね」
ちらりと顔を向けた少女が耳元で囁くと、とたんに少年は顔を紅潮させた。
「あ、ああ……また!」
その目を輝かせて何度もうなずく。
それを見て、少女はまたくすりと笑うのだった。
納屋を出た二人は手を握りながら、花々に彩られた庭園を、恋人のように歩いてゆく。
「……」
少年の横をゆく彼女は、まるで己の所有物を品定めするときのような、冷たく覚めきったまなざしを一瞬だけ相手に向けた。そしてまた、男を悩ませるかすかに色香をまとわせた微笑を、その口許に浮かべるのだった。
春を迎えた湖畔の城は、新緑の森に包まれて、心浮き立つような色彩に彩られていた。
青々と繁った緑の中に、咲き乱れるビオラの花々が、大地の息吹を感じさせる。たゆたうような湖の水面には、ときおり魚を狙った水鳥が舞い降りる。
緑の香りを含んだ風が、木々の梢と湖面を揺らせ、その輝く水面にはゆったりと流れゆく雲がたゆたってゆく。
やってきた春の季節。
冬の間、雪に包まれていた湖畔の城は姿を変え、その青い屋根を太陽に向けて湖と森を背に美しくたたずんでいる。
鳥たちのさえずりに、ゆるやかにハミングするような風の囁き。湖の水面からは、ときおり魚がぽんと顔を覗かせ、湖面にぽっかりと波紋が広がってゆく。
鳥たちも、魚たちも、そして緑の木々も、それぞれが春の盛りを歓迎し、それを満喫しているように楽しげに躍動している。
湖畔の春は、生けるものたちの息吹に満ちて、降り注ぐ日差しのもと、きらきらと輝いていた。
今、その湖に一隻のボートが浮かんでいた。
ゆっくりと、周りの景色を楽しむようにして、その白いボートは水面を流れてゆく。
小さなボートの上には、白い日除けの傘が見える。乗っているのは女性のようだった。
おそらく貴族の女性のようだが、湖の真ん中までこのように供も連れずに一人で櫂を手に漕いでくるというのは、ただごとではない。この時代の一般の女性にとっては大変な勇気である。
しかし、ボートの女性は、まるでのんびりと日傘を手にし、ごく自然体の様子で静かに湖面を見つめている。
ボートの板の上に広がる、春らしい薄い色の緑のスカート。日傘の下に覗くのは長い黒髪。今は櫂から手を放し、くつろいだその姿は、こうして湖でのんびりとした時間を過ごすことに慣れている風だった。
ゆったりとした時間が流れてゆく。
午後の日差しが落ちついてくる時分になると、ボートの女性は日傘をたたみ、再び櫂を手にした。
湖面には、彼女の漕ぐ白いボートの他に、舟影はひとつも見当たらない。この湖自体が、湖畔の城に住まうモンフェール伯爵の所有する庭のようなものであるから、それは当然ではあったが。そして、この湖にこうして自由に出入りできるのは、その伯爵夫人だけである。
「ああ、風が気持ちいいわ」
湖面を渡る風に、気持ち良さそうにときおり目を閉じながら、ボートの女性……モンフェール伯爵夫人は、ゆっくりと、しかし慣れた手つきでボートを漕いでいった。
この二年ほどで、この湖の上はすっかり自分の場所となった。ここは彼女にとって、誰にも邪魔されないでくつろげる場所であり、こうして水の上にただよう時間は、とても心安らぐひとときなのだった。
(二年……か)
(もう、二年たったのね)
水面の向こうにたたずむ、湖畔の城に目をやりながら、彼女……マリーンはいつものように一人感慨にふけった。
(なんて早いのだろう。時のながれは)
それは、季節ごとに毎年思う、彼女の心のつぶやきだった。
(春が来て……また夏が来て)
(こんなにも、なにもかもを追いやるようにして季節は変わってゆく)
(ああ……)
マリーンは櫂を手にしたまま目を閉じた。
(どうしているかしら……あの子は)
どんな時でも、思い出さずにはいられない。
春に咲き誇るプルヌスの花のように……
あの、激しく燃え上がった恋。
(ああ……)
ときには後ろめたい背徳感と、それをも上回る強い意思が、あの頃確かにあったことを思い返すたびに、身体が震えるようだ。
自分が愛した少年の顔……笑い声、そして、自分の体に刻みつけられた感触が、体の隅々にまでいまだに記憶されていることを、ここのところ毎日のように思い出す。
(最後に会ってから、もう一年もたったなんて……)
彼女はこの何年かで、まるで自分が急速に歳をとったように感じていた。
あれほどの激情……燃え上がり、一度は消えかけたものの、どうしようもなくくすぶりつづけた、あの激しい恋の炎……あれはいったいいつのことだったろう。
五年前……十年前……いや、たった二年前のことなのだ。そう、思い返す度に彼女は愕然として、帰らぬ日のことをたどるように思い出してゆく。
(まるで……昔の恋を懐かしむ老婆のようだわ)
マリーンは苦笑した。
彼女にとっては、やはり伯爵との結婚が大きな別れ道になった。それは、彼女の生活のすべてを変えたともいって良かった。
口うるさく生真面目な弟のカルードも、厳格な母であるレスダー伯爵夫人も、ここにはいない。ここは、夜になれば、まったく静かな湖にたたずむ田舎の城。
夫である伯爵と、何人かの侍女たちとだけ顔を合わせて暮らす、平穏な日々……実際には、まだたった二年ほどのことであったが……彼女にとっては、それは五年にも十年にも感じるほどの、そんなゆるやかな時間であった。
(そして、またこうして春がきたのね……)
新緑が繁る緑の森と、澄んだ水をたたえる美しいこの湖は、そうした季節の移り変わりを毎年変わらず、ここに住まうものたちに教えてくれる。
色とりどりの花々が咲き始め、空気に新緑の香りがまじり、鳥たちが水辺で羽をはばたかせる季節……たとえ、どんなものであっても、心浮き立たせずにはおられない。それが湖畔の城の春である。
ゆっくりと、櫂を水面にすべらせるようにしてボートを漕ぎながら、マリーンはそれらの風景を見回した。
(ああ。やっぱり春なのね。こうしているだけで、とてもいい気持ちになる……)
やはり、彼女はまだ若く、移りゆく季節や、ささやかな命の輪廻に感動する心を持っていた。そして、妻となった今でも、彼女は変わらずに美しかった。
頭の後ろで束ねた黒髪が背中に揺れ、その深い緑色の瞳は、魚たちの泳ぐ湖を見つめながらきらきらと輝くようだ。
地位ある伯爵夫人となり、数年前よりは外見上はずっとしとやかに、そして貴婦人らしく振る舞えるようにもなった彼女だったが、その内面はかつてとまったく変わっていない。花や木々を眺めては心踊らせ、そよぐ風に胸をときめかせる、そんな無邪気な少女のような心は、彼女の中でずっと生きていた。
(静かで、綺麗な場所……この湖のお城。ここが私の住む場所……)
(私は……幸せなのだわ)
そう小さくつぶやいてみると、時の流れに呆然としたり、なんともいえない悲しみが沸き起こっていた、さきほどまでの気分はすっかり晴れていた。
彼女はしばらくゆっくりとボートを漕がせ、ときおり櫂を置いて湖面に手を入れたり、岸辺に咲くアイリスの花を眺めたりしながら過ごした。
そうして、どれくらいたったか……
ボートの上でまどろむように目を閉じていたマリーンは、そよぐ風を頬に受け、ふと顔を上げた。
まるでなにかに教えられたかのように、彼女は湖の岸辺の方を見つめた。まるでそこに、なにかが現れたというように。
「……」
マリーンはふっと笑うと、軽く首を振った。
「そろそろ、戻らないと……」
日差しはだいぶ落ち着いてきた。もう数刻もすれば、日が傾きはじめるだろう。
再び櫂を手に、彼女は岸に向けてボートを漕ぎはじめた。
そのとき、どこか遠くの方で、馬車の音が聞こえたような気がした。
(ああ、きっと伯爵が戻ってらしたのだわ)
彼女はそう思い、ボートを漕ぐ手を急がせた。
最近、夫であるモンフェール伯は、やや体調を崩しぎみで、出掛けて行っても日が沈む前には戻ってくることが多い。そんな時は、伯爵をいたわりながら一緒に部屋で過ごし、共に食事をとることが、妻としての彼女の務めでもあった。
だが、ボートが岸辺に近づくにつれ、なぜだかマリーンは胸騒ぎのようなものを覚えた。
(なに……かしら)
櫂を持つ手にぐっと力が入る。
岸まですぐというあたりまで来ると、ふと誰かに見られているような気配を感じた。侍女のクインダが自分を呼びに来たのだろうか。
最後のひと漕ぎでボートを岸に付けると、マリーンはボートから降りた。そのとき、今度は確かな人の気配と同時に、かさり、と草を踏む足音がした。
「誰?」
マリーンは声に出した。
日傘を手に見上げると、土手の上の方に人影が見えた。ちょうど太陽を背にして、その顔は影になって見えない。
「クインダ?」
侍女の名を呼ぶが応えはない。その人影は黙ったまま、そこに立っている。
マリーンは人影を見上げながら、ふと眉を寄せた。この湖の敷地に、屋敷の者以外が入ることなどありえない。
(誰……かしら)
だが……
「マリーン」
彼女の名を呼ぶその声に、彼女ははっとなった。
「誰?」
聞き覚えのある、その声……
マリーンは、にわかに胸のざわめきを覚えた。
「誰なの?」
目陰をさしながら、まぶしそうに目を細めて、その相手を見つめる。
「僕だよ。マリーン」
「あっ」
いきなりマリーンは、手にした日傘を取り落とした。
「ああ……」
その、声!
もう、聞き間違えようがない、その声に、彼女はみるみる驚きに目を見開いた。
「リュ……」
その口から、長いこと口にしていなかったその名前が、こぼれた。
「リュシアン……なの?」
「ああ」
一歩ずつ、土手を降りてくるその姿から、マリーンはまったく目をそらすことができなかった。
「僕だよ」
その場に立ちすむマリーンに微笑みかけて、彼はこちらを安心させるように、もう一度言った。
「僕だよ。マリーン」
「ああ……ああ、本当に?」
マリーンの瞳から涙がこぼれた。
「リュシアン!」
彼女の前に立っていたのは、まぎれもない彼……見習い騎士の恋人であった。
「リュシアン、ああ、リュシアン!」
「マリーン」
衝動的に、彼女は相手の胸に飛び込んでいた。
「ああ、リュシアン!本当にあなたなのね」
「ああ。僕だよ。マリーン」
自分を抱きとめる腕の感触、耳元で聞くその声……長い間、夢の中でだけしか会えなかった、その相手が、ここにいた。
涙に濡れた顔を上げ、彼女は少年の顔をよく見つめた。
「ああ、リュシアン……なんて、なんて久しぶりなのかしら」
「うん、そうだね」
少年は……いや、もう少年と言うにはすっかり背も伸びて、たくましくなったその姿は、立派に騎士の凛々しさを備えていたが……うなずき、優しく微笑んだ。
「なんだか……、とても大人っぽくなったわ」
「そうかな?」
リュシアンは照れたように頭を掻いた。
確かに、しばらく見ないうちに、彼はだいぶ変わっていた。
おそらく、背丈は一年前よりも拳ひとつぶんは伸びただろうか、かつてのいたずらなすばしこいイメージはもうどこにもなく、マリーンよりは顔半分も大きい。赤茶色の巻き毛はいくぶん伸びて、今は大人っぽく襟首まで流れている。
「それに、少し痩せたんじゃない?」
マリーンは、成長したリュシアンの姿を前に、にわかに胸のときめきを覚えていた。
「うーん、自分では分からないけど。そうかもね」
そう言って微笑する様子は、かつての少年めいた面影をいくぶんは残してはいた。ただ、その顔つきは以前よりはずっと精悍に、男らしくなっていた。
そのことを言うと、彼はまた少し照れながら微笑んだ。
「まあ、見習いと違って正規の騎士団の稽古だからね。それなりには厳しいさ。鍛えられたのかな」
「そうなの。ああ、でも……本当に久しぶりだわ」
「そうだね……」
二人は改めて互いを見つめ合った。こみ上げてくる胸の高鳴りに、マリーンははちきれそうになっていたが、少年のおだやかな様子を見て、自らも気を落ち着かせるべくひとつ息をはいた。
「さっきは……本当に驚いちゃった」
胸に手を当てたままマリーンは言った。どきどきとする胸の鼓動は、まだ完全にはおさまっていない。
「ああ、本当だね」
リュシアンはくすくすと笑った。
「なにか幽霊でも見ているようだったもの。さっきのマリーンの目は」
「だって……いきなり現れるから」
「あれ?ちょっとした休みがとれたんで、これからそっちに行くよ、って手紙を出したんだけどさ。まだ届いていなかった?」
「いいえ」
マリーンは首をかしげた。
「ああ。でも、そういえば……今朝、クインダが手紙が来てますよ、って言っていたようだけど。まさかあなたからのだとは思わないから、後回しにしていて、そのまますっかり読むのを忘れていたわ」
「あーっ、ひでえなあ」
「ごめんなさい」
口を尖らせるリュシアンを見て、マリーンは思わずくすりと笑った。それは、前と変わらぬ少年らしい表情だったからだ。
「今日はすごく暖かくて、いいお天気だから湖に出てボートに乗ろうって、朝から決めていたのよ」
「うん。たぶんそうだろうと思って、俺もそこに馬をつなげて、直接こっちに来たんだ。当たったね」
得意気に言ったリュシアンだったが、マリーンは目を丸くしていた。
「まあ。リュシアン、あなた、俺って……前はそんな風に言わなかったのに」
「えっ?そうかなあ。前から言っていたよ、俺、って」
「そうだったかしら?」
「そうさ」
「そうかしら」
「そうさあ」
二人はまた顔を見合わせると、笑い出した。
「ね、これからどうする?お屋敷に寄っていくでしょ?」
「うん……」
尋ねられたリュシアンは、すまなそうにマリーンを見た。
「でも、あまり今日は時間はないんだ。久しぶりに家の方に戻る途中だからさ」
「そう。……そうよね」
マリーンは少し残念そうにしたが、すぐににっこりと笑った。
「お母さまもきっと、早くあなたに会いたがっているはずね」
「ああ。マリーンも……さっき伯爵が戻ったみたいだよ。馬車の音がしたから」
「そうね……。じゃあ、もう行かないと……」
「行くの?」
「……」
寂しげなリュシアンの顔を見て、じわりと彼への愛しさが胸の中に突き上げるのをマリーンは感じた。その心地よいうずきが、いまだ自分の中にあるのを彼女は知った。
「……こっち」
リュシアンの手をとり、ボートの方にいざなう。
「乗って」
「僕が漕ぐよ」
「うん」
マリーンから櫂を受け取り、リュシアンはボートを漕ぎだした。
二人を乗せたボートは、岸を離れ、再び湖面を滑りはじめた。
櫂を漕ぎながら、リュシアンは向かい合って腰かけるマリーンを見つめた。
「……」
二人きりの時間はいつ以来だったろうか。マリーンは、胸の鼓動がにわかに早まるのを感じていた。
ボートが湖の中ほどまで来ると、リュシアンは櫂を置いた。
「マリーン」
相手を求めるように、彼はその名を呼んだ。
「リュシアン……」
それを待っていたかのように、彼女もリュシアンに身を寄せる。
「ああ。マリーン!」
二人はボートの上で抱き合った。
「会いたかった!」
「私も。……私も」
先程はいったん落ち着きかけた感情が、再び高まり、広がってゆく。こらえきれぬように、二人は唇を重ね合わせた。
「ん……」
「はぁ……んん」
固く抱きしめ合い、互いの唇をむさぼるように重ねては吸う。
それは、いったん離れていた恋人たちの時間が、また重なり、動きだすかのような、そんな瞬間だった。
「ああ、リュシア……ン」
マリーンがあえいだ。
「マリーン……マリーン!」
「んっ、リュシアン……もっと、ぎゅっとして。強く抱きしめて!」
「ああ」
マリーンの体のぬくもりと、唇の感触を思い出し、それを味わうかのように、
リュシアンは優しく、そして激しく彼女を抱いた。
「嬉しい……ずっと、ずっと会いたかったの。ずっと、こうされたかったの」
「俺も。俺もマリーンが欲しかったよ。ずっと、ずっと、夜も眠れないほどに」
「嬉しい……」
リュシアンはボートの上にマリーンを寝かせると、上から体を重ねた。
その背中に手を回して、マリーンはぎゅっと恋人を引き寄せる。
「ああ、リュシアン!」
そして、また口づけと愛撫……
久しぶりに感じる互いの体のぬくもり、相手の存在そのものを確かめ合うように、二人は抱き合っていた。
揺れる水面に、重なった二人の影がゆらゆらと揺れる。久しぶりの抱擁に酔う恋人たちには、水の上の揺らめきさえもが心地よかった。
名残惜しそうに身を離したマリーンがつぶやいた。
「もう……、そろそろ戻らないと」
「ああ、そうだね」
「……」
身を起こした二人は、ボートの上でもう一度抱き合い、口づけを交わした。
「じゃあ、戻ろう」
櫂を手にしたリュシアンは、ボートを漕ぎはじめた。それでも彼は、飽くことがないようにマリーンの顔を見つめ続けていた。
「なあに?」
「いや……マリーンは全然変わらないなって。前と同じに、ずっと綺麗なままだ」
「ふふ……ありがとう」
マリーンは嬉しそうに頬を染めた。
「そうだわ、ところで、正騎士の審査は受かったの?」
「ああ、ほとんど大丈夫だと思うよ」
リュシアンは自信ありげにうずいてみせた。
「去年の剣技大会でも三位に入ったし、配属先の騎士団でも先輩たちによくしてもらっているし。あとは、正規の合格証を受け取って、叙任式を受ければ正式に騎士になれる」
「そう」
それを聞いて、マリーンにはなにかこみ上げてくるものがあった。
「よかったわ。本当に……」
かつてのやんちゃでいたずらな見習い騎士の少年が、こうして立派に成長したのだと、それは感動にも似た、彼女の素直な気持ちだった。
「あなたが騎士になったら、私も嬉しいし、カルードや、そしてあなたのお母様もとても喜ぶことでしょう。本当に良かった……」
目を潤ませるマリーンに、リュシアンが笑いかける。
「大げさだなあ。マリーン。そりゃ俺だってもう十七歳だしね。そろそろ大人の仲間入りってわけさ。もうそのうち、実戦にも出ることもあるかもしれないし」
「そうなの?」
それを聞いて、マリーンはやや心配そうな顔になった。
「うん、まあ、今のところは大丈夫だと思うけど。任務といっても、せいぜい地方領主の城か砦で稽古したり、城門で見張りしたりするくらいだから。でも、それこそ正式に騎士になってからは、またどこか別の配属先を言い渡されるかもしれないしね。国境警備隊とかに行ったら、それはいくさのひとつやふたつはあるだろうし」
「ああ、そういえば、カルードも騎士になりたての頃には、国境の砦に半年いたこともあったらしいわ」
「うん。そうなると、また簡単には帰れなくなるね。下手すると何年も。マリーンにも会えなくなる」
「そんなの……いや」
マリーンは甘えたように小さな声で言った。
「大丈夫だよ。とりあえず、今はこうして帰ってきたんだし。またしばらくは時々、マリーンにも会いに来れるから」
「うん」
ボートの上でマリーンは身を乗り出して、櫂を持つリュシアンに口づけをした。
「さあ、本当にそろそろ戻ろう。暗くなる前に馬をとばして家に帰らないと、母さんが心配しそうだ。向こうにも手紙で知らせてあるから。今日は短い時間だったけど……」
「ええ。でも、嬉しかった。思いもかけずリュシアンに会えて」
「僕もさ」
そう言ってにこりと笑ったリュシアンの顔は、すっかり大人の顔つきになっていた。かつてのやんちゃで熱情的な少年は、その面影をかすかに残しつつも、今は自制心と誇りとを身につけた、立派な青年に変わってゆこうとしていた。
そんなリュシアンをながめながら、マリーンは変わらぬ愛しさとともに、ほんのかすかな寂しさと、流れゆく時間の重みを思うのだった。
二人のボートは再び岸に向かっていった。
食事を終えると、モンフェール伯爵はここのところのお決まりの様子で、妻を隣に肘かけ椅子に深々と座り、ゆったりとくつろいでいた。
冬であれば、暖炉に赤々と燃える炎を見ながら、のんびりとワインをたしなむのがなにより好きな伯爵であるが、この季節にはそうした楽しみよりは、春を迎えていっそうの輝きを増したような、年若い妻の横顔をながめている方がずっと楽しいようだった。
「ふむ。今日はなんだか……」
手にした本を読むでもなく、ときおり目を落としてはまた妻の方に目を向けながら、伯爵は言いかけた。
「はい?」
「ああ、いや……いいんだが」
「なんですの?途中までおっしゃって」
首をかしげるマリーンを見て、伯爵は手元の本を適当にめくりながら、やや照れたようにして言葉を続けた。
「いや。なんだか今日は……お前がとても輝いているように見えると思ってな」
「まあ」
「いや、いつだってそれはお前は美しいのだが、今日は何故だか……とくにそう思える」
「まあ、あなた」
少々驚いたような顔をして、マリーンは笑った。
「そんなことを言っていただけるとは。結婚してからは、そんなにないことですわね」
「そうだったか」
「でも……嬉しいですわ。昔は会うたびにそうして褒めてくれましたものね」
「うむ。そうだったかな」
照れくさそうに伯爵はまた本に目をやり、それを読むふりをしながらも、美しい妻の横顔に、またちらちらと目をやらずにはおれないようだった。
「あの少年……リュシアンくんか」
「えっ」
突然その名を出されて、マリーンは思わずびくりとした。
「ここしばらくは、顔を見ていないが、彼は元気でやっているだろうかな」
「ええ……そうですわね」
マリーンは曖昧に答えた。まさか、今日の昼間にそのリュシアンがやって来て、久しぶりの再会をしたばかりであるとは、伯爵も知らないだろう。
マリーンはそのことを言うべきかどうか、一瞬迷ったが、ちらりと夫に目をやっただけで、なんとなく言いそびれた。
「きっと……元気でしょう」
「騎士見習い……いや、もう正式な騎士にもなるころだろう。十六才、十七だったか?ふむ。その年頃というのは、一年ごとの成長がとても早いからな」
「ええ……」
久しぶりに会ったリュシアンの、以前よりも逞しく、男らしくなった姿を思い出し、マリーンは密かにまた胸をときめかせた。
(私を抱きしめたあの腕……なんて、なんて力強くなったのかしら。それに、もうずっと私より背も高くなって。男の子というのは、あんなにも変わってゆくものなのね)
「……」
かすかに頬を染めたような妻の横顔を見つめ、伯爵はしばらく黙っていたが、次に思いがけないことを言った。
「彼がまた、戻ってきたら……この屋敷はまたにぎやかになるだろうね」
「えっ」
「私は、かまわないよ。立派に騎士となった彼を歓迎するのは、当たり前だろう」
「……」
マリーンはなんと言ったらいいか分からなかったが、伯爵は彼女の横でただ優しく微笑んでいるだけだった。
「それに、お前も彼に会いたいのだろう。前は、教師として彼の勉強を見ていたのだから。いろいろとその成長ぶりも気になろう」
「ええ……」
マリーンはうなずいた。同時に、昼間の感触……久しぶりに抱かれたリュシアンの腕の感触が、それを思い出す彼女を後ろめたい思いにさせた。
そんな妻の様子を見ながら、伯爵は言った。
「私は、ここのところどうにも体調がすぐれない。ただの疲れによる風あたりかもしれないがね。以前のように、お前を連れ出してあちこち出掛けたりすることもできない。今日のようないい陽気のときにはとくに、一緒に野山を歩いたり、ボートで湖に漕ぎだしたりできないことが、とても残念に思うよ」
「平気ですわ」
マリーンは優しく言った。
「私も、こうしてゆっくりとあなたと並んで座っていると、それだけで気が休まりますから。本当に。それに、ボートは私一人でも漕げますし。今日もお昼から一人で水の上をお散歩していましたのよ」
「ああ。そうだね」
伯爵は弱々しい笑顔を見せ、やや寂しげに言った。
「さっき屋敷に帰ったとき、この部屋の窓から見ていたよ。湖に浮かぶ遠くのボートを。ああ、お前がまた楽しそうに漕いでいるなと思って」
「……」
マリーンは黙り込んだ。そのとき、自分がボートの上で誰と抱き合っていたのか、伯爵はもう気づいていたのだろうか。
「……ふむ。少し疲れたな。今日は早めに寝るとしよう」
そう言って伯爵は本を閉じた。それは、もう部屋から出ていけという言葉でもあった。
ここのところ、決まって寝るときは別々の部屋だ。体調のせいもあってか、伯爵はマリーンを抱くことも、その体に触れることすら、今ではめっきり少なくなっていた。
ときおり、それを寂しく思いもしたが、マリーンにとくに不満はなかった。彼女にとっては、モンフェール伯爵は大学に通っていたころの講師でもある。かつては恋愛の対象というよりは、むしろ人生の相談者、彼女のよき理解者という関係だったのだ。
「では……あなた」
「ああ、おやすみ」
立ち上がった妻にうなずきかける、その伯爵の顔は、この数年でだいぶ老けたように思えた。
もともと、頑健な方ではなく、すらりとした体格で学者肌の落ち着いた人物であったが、今ではさらに痩せて、髪には白髪が多くなった。四十を迎えたばかりの、まだまだ男盛りの年齢のはずなのだが、その風貌はときおり枯れたイチイの木のように痩せ細って見えた。
「あなた……」
マリーンは夫の顔を見つめ、やや心配そうに言った。
「一度、ちゃんとお医者さまに診ていただいた方がよいかと思いますわ」
「ああ……そうだな」
伯爵は、椅子の上で目を閉じながらそう答えただけだった。そのまま眠るように黙り込んだ夫を、もう一度振り返ってから、マリーンは部屋を出た。
後ろ手に扉を閉めたとたんに、彼女は自分の体を両手でぎゅっとかき抱いた。
なんともいえない感情……喜びと、不安と……複雑な思い。
それらが、彼女の中を駆けめぐった。
だが一方で、リュシアンとの再会は、久しぶりに彼女の心を踊らせていた。
(ああ……)
夫への申し訳なさもあったが、マリーンは、昼間のボートの上での感触をまざまざと蘇らせ、その甘い疼きは、しばらく彼女の身体から消えることはなかった。
リュシアン ・・・見習い騎士
マリーン・・・モンフェール伯爵夫人
モンフェール伯爵・・・湖畔の城に住む大貴族
フィッツウース・・リュシアンの友人
コステル ・・・貴族令嬢
レスダー伯爵夫人 ・・・マリーンの母
クレア ・・・リュシアンの母
「あっ」
薄暗い納屋の中で……
吐息まじりの艶めいた声が上がっていた。
「ああ……んっ」
「いいわ……もっと」
荒い息づかいと、淫らな呻き……
かすかな命令の口調をただよわせた、若い女の声。
「そう……そうよ、もっと、して」
暗がりの中、
敷きつめられた藁の上に、男女の裸体が重なり合い、うごめいていた。
「いいっ、いいわっ」
快楽の響きを強めた声は、しだいに大きくなり、
「あっ……いく」
ついに絶頂の喘ぎとともに、組み合った二つの体が、びくんと反り返った。
そして、重なり合って倒れ込む、二つの肉体。
はあはあ、という、男女の息づかいが小さくなってゆくと、やがて、暗がりは静けさに包まれた。
しばらくの後、暗がりの中で、かさり、と藁の音がした。続いて女のため息がもれる。
「ねえ……終わったんなら、早くどいてよ。重いわ」
まだ若い女の声だった。それを聞いて、かぶさっていた男が慌てたようにして体を起こす。
「あ、あの……」
「いいから、どいて」
命じるような強い口調で女は言い、白い裸体……一糸まとわぬ体を、恥ずかしげもなく起こした。
「なかなか良かったわ。でも、あんたよりもロディの方がずっといいわ。だって、もっと長持ちだし」
「そんな……でも、さっきは」
「まあいいわ」
立ち上がった女は、さっさとシュミーズを着て、絹のカルソン(下着のズボン)をはいた。そして慣れた様子でペティコートをつけると、男を残して歩きだした。
「ま、まってくれよ」
男の方は、急いで服を身につけて彼女の後を追いかける。その様子からしても、男の方も若い……あるいは少年ででもあるようだ。
女が扉を開けると、とたんにまぶしい光が納屋の中に差し込んだ。
「なあ、待ってくれって」
後ろから男が声をかけると、蜂蜜色の金髪を両手でまとめながら、その少女が振り返った。
「なあに?」
にこりと笑ったその顔には、年齢には似合わぬような、はっとするなまめかしさがあった。
陽光に照らされて、きらきらと光る金髪に、なめらかな白い肌……相当の美少女であるが、自分自身でもすでに己の女の魅力を存分に知っているかのような、その瞳には高慢さと同時に、ときに相手に媚びて見せるかのような色があった。
「ああ……」
どぎまぎとしながら、少年はごくりと唾を飲み込んだ。
「な、なあ。また会えるだろう?」
「さあね、どうかしらね」
くすりと笑って、少女は首をかしげてみせた。それはあきらかに、この恋愛ゲームを楽しんでいるという風であった。
「なあ、今度また……いいだろ?」
肩を寄せてくる少年から、すいとその顔をそむけつつも、それでいて握らせた手は振りほどかない。こうした男の扱いにも、彼女はかなり慣れている様子だった。
「じゃあ、また……そのうちにね」
ちらりと顔を向けた少女が耳元で囁くと、とたんに少年は顔を紅潮させた。
「あ、ああ……また!」
その目を輝かせて何度もうなずく。
それを見て、少女はまたくすりと笑うのだった。
納屋を出た二人は手を握りながら、花々に彩られた庭園を、恋人のように歩いてゆく。
「……」
少年の横をゆく彼女は、まるで己の所有物を品定めするときのような、冷たく覚めきったまなざしを一瞬だけ相手に向けた。そしてまた、男を悩ませるかすかに色香をまとわせた微笑を、その口許に浮かべるのだった。
春を迎えた湖畔の城は、新緑の森に包まれて、心浮き立つような色彩に彩られていた。
青々と繁った緑の中に、咲き乱れるビオラの花々が、大地の息吹を感じさせる。たゆたうような湖の水面には、ときおり魚を狙った水鳥が舞い降りる。
緑の香りを含んだ風が、木々の梢と湖面を揺らせ、その輝く水面にはゆったりと流れゆく雲がたゆたってゆく。
やってきた春の季節。
冬の間、雪に包まれていた湖畔の城は姿を変え、その青い屋根を太陽に向けて湖と森を背に美しくたたずんでいる。
鳥たちのさえずりに、ゆるやかにハミングするような風の囁き。湖の水面からは、ときおり魚がぽんと顔を覗かせ、湖面にぽっかりと波紋が広がってゆく。
鳥たちも、魚たちも、そして緑の木々も、それぞれが春の盛りを歓迎し、それを満喫しているように楽しげに躍動している。
湖畔の春は、生けるものたちの息吹に満ちて、降り注ぐ日差しのもと、きらきらと輝いていた。
今、その湖に一隻のボートが浮かんでいた。
ゆっくりと、周りの景色を楽しむようにして、その白いボートは水面を流れてゆく。
小さなボートの上には、白い日除けの傘が見える。乗っているのは女性のようだった。
おそらく貴族の女性のようだが、湖の真ん中までこのように供も連れずに一人で櫂を手に漕いでくるというのは、ただごとではない。この時代の一般の女性にとっては大変な勇気である。
しかし、ボートの女性は、まるでのんびりと日傘を手にし、ごく自然体の様子で静かに湖面を見つめている。
ボートの板の上に広がる、春らしい薄い色の緑のスカート。日傘の下に覗くのは長い黒髪。今は櫂から手を放し、くつろいだその姿は、こうして湖でのんびりとした時間を過ごすことに慣れている風だった。
ゆったりとした時間が流れてゆく。
午後の日差しが落ちついてくる時分になると、ボートの女性は日傘をたたみ、再び櫂を手にした。
湖面には、彼女の漕ぐ白いボートの他に、舟影はひとつも見当たらない。この湖自体が、湖畔の城に住まうモンフェール伯爵の所有する庭のようなものであるから、それは当然ではあったが。そして、この湖にこうして自由に出入りできるのは、その伯爵夫人だけである。
「ああ、風が気持ちいいわ」
湖面を渡る風に、気持ち良さそうにときおり目を閉じながら、ボートの女性……モンフェール伯爵夫人は、ゆっくりと、しかし慣れた手つきでボートを漕いでいった。
この二年ほどで、この湖の上はすっかり自分の場所となった。ここは彼女にとって、誰にも邪魔されないでくつろげる場所であり、こうして水の上にただよう時間は、とても心安らぐひとときなのだった。
(二年……か)
(もう、二年たったのね)
水面の向こうにたたずむ、湖畔の城に目をやりながら、彼女……マリーンはいつものように一人感慨にふけった。
(なんて早いのだろう。時のながれは)
それは、季節ごとに毎年思う、彼女の心のつぶやきだった。
(春が来て……また夏が来て)
(こんなにも、なにもかもを追いやるようにして季節は変わってゆく)
(ああ……)
マリーンは櫂を手にしたまま目を閉じた。
(どうしているかしら……あの子は)
どんな時でも、思い出さずにはいられない。
春に咲き誇るプルヌスの花のように……
あの、激しく燃え上がった恋。
(ああ……)
ときには後ろめたい背徳感と、それをも上回る強い意思が、あの頃確かにあったことを思い返すたびに、身体が震えるようだ。
自分が愛した少年の顔……笑い声、そして、自分の体に刻みつけられた感触が、体の隅々にまでいまだに記憶されていることを、ここのところ毎日のように思い出す。
(最後に会ってから、もう一年もたったなんて……)
彼女はこの何年かで、まるで自分が急速に歳をとったように感じていた。
あれほどの激情……燃え上がり、一度は消えかけたものの、どうしようもなくくすぶりつづけた、あの激しい恋の炎……あれはいったいいつのことだったろう。
五年前……十年前……いや、たった二年前のことなのだ。そう、思い返す度に彼女は愕然として、帰らぬ日のことをたどるように思い出してゆく。
(まるで……昔の恋を懐かしむ老婆のようだわ)
マリーンは苦笑した。
彼女にとっては、やはり伯爵との結婚が大きな別れ道になった。それは、彼女の生活のすべてを変えたともいって良かった。
口うるさく生真面目な弟のカルードも、厳格な母であるレスダー伯爵夫人も、ここにはいない。ここは、夜になれば、まったく静かな湖にたたずむ田舎の城。
夫である伯爵と、何人かの侍女たちとだけ顔を合わせて暮らす、平穏な日々……実際には、まだたった二年ほどのことであったが……彼女にとっては、それは五年にも十年にも感じるほどの、そんなゆるやかな時間であった。
(そして、またこうして春がきたのね……)
新緑が繁る緑の森と、澄んだ水をたたえる美しいこの湖は、そうした季節の移り変わりを毎年変わらず、ここに住まうものたちに教えてくれる。
色とりどりの花々が咲き始め、空気に新緑の香りがまじり、鳥たちが水辺で羽をはばたかせる季節……たとえ、どんなものであっても、心浮き立たせずにはおられない。それが湖畔の城の春である。
ゆっくりと、櫂を水面にすべらせるようにしてボートを漕ぎながら、マリーンはそれらの風景を見回した。
(ああ。やっぱり春なのね。こうしているだけで、とてもいい気持ちになる……)
やはり、彼女はまだ若く、移りゆく季節や、ささやかな命の輪廻に感動する心を持っていた。そして、妻となった今でも、彼女は変わらずに美しかった。
頭の後ろで束ねた黒髪が背中に揺れ、その深い緑色の瞳は、魚たちの泳ぐ湖を見つめながらきらきらと輝くようだ。
地位ある伯爵夫人となり、数年前よりは外見上はずっとしとやかに、そして貴婦人らしく振る舞えるようにもなった彼女だったが、その内面はかつてとまったく変わっていない。花や木々を眺めては心踊らせ、そよぐ風に胸をときめかせる、そんな無邪気な少女のような心は、彼女の中でずっと生きていた。
(静かで、綺麗な場所……この湖のお城。ここが私の住む場所……)
(私は……幸せなのだわ)
そう小さくつぶやいてみると、時の流れに呆然としたり、なんともいえない悲しみが沸き起こっていた、さきほどまでの気分はすっかり晴れていた。
彼女はしばらくゆっくりとボートを漕がせ、ときおり櫂を置いて湖面に手を入れたり、岸辺に咲くアイリスの花を眺めたりしながら過ごした。
そうして、どれくらいたったか……
ボートの上でまどろむように目を閉じていたマリーンは、そよぐ風を頬に受け、ふと顔を上げた。
まるでなにかに教えられたかのように、彼女は湖の岸辺の方を見つめた。まるでそこに、なにかが現れたというように。
「……」
マリーンはふっと笑うと、軽く首を振った。
「そろそろ、戻らないと……」
日差しはだいぶ落ち着いてきた。もう数刻もすれば、日が傾きはじめるだろう。
再び櫂を手に、彼女は岸に向けてボートを漕ぎはじめた。
そのとき、どこか遠くの方で、馬車の音が聞こえたような気がした。
(ああ、きっと伯爵が戻ってらしたのだわ)
彼女はそう思い、ボートを漕ぐ手を急がせた。
最近、夫であるモンフェール伯は、やや体調を崩しぎみで、出掛けて行っても日が沈む前には戻ってくることが多い。そんな時は、伯爵をいたわりながら一緒に部屋で過ごし、共に食事をとることが、妻としての彼女の務めでもあった。
だが、ボートが岸辺に近づくにつれ、なぜだかマリーンは胸騒ぎのようなものを覚えた。
(なに……かしら)
櫂を持つ手にぐっと力が入る。
岸まですぐというあたりまで来ると、ふと誰かに見られているような気配を感じた。侍女のクインダが自分を呼びに来たのだろうか。
最後のひと漕ぎでボートを岸に付けると、マリーンはボートから降りた。そのとき、今度は確かな人の気配と同時に、かさり、と草を踏む足音がした。
「誰?」
マリーンは声に出した。
日傘を手に見上げると、土手の上の方に人影が見えた。ちょうど太陽を背にして、その顔は影になって見えない。
「クインダ?」
侍女の名を呼ぶが応えはない。その人影は黙ったまま、そこに立っている。
マリーンは人影を見上げながら、ふと眉を寄せた。この湖の敷地に、屋敷の者以外が入ることなどありえない。
(誰……かしら)
だが……
「マリーン」
彼女の名を呼ぶその声に、彼女ははっとなった。
「誰?」
聞き覚えのある、その声……
マリーンは、にわかに胸のざわめきを覚えた。
「誰なの?」
目陰をさしながら、まぶしそうに目を細めて、その相手を見つめる。
「僕だよ。マリーン」
「あっ」
いきなりマリーンは、手にした日傘を取り落とした。
「ああ……」
その、声!
もう、聞き間違えようがない、その声に、彼女はみるみる驚きに目を見開いた。
「リュ……」
その口から、長いこと口にしていなかったその名前が、こぼれた。
「リュシアン……なの?」
「ああ」
一歩ずつ、土手を降りてくるその姿から、マリーンはまったく目をそらすことができなかった。
「僕だよ」
その場に立ちすむマリーンに微笑みかけて、彼はこちらを安心させるように、もう一度言った。
「僕だよ。マリーン」
「ああ……ああ、本当に?」
マリーンの瞳から涙がこぼれた。
「リュシアン!」
彼女の前に立っていたのは、まぎれもない彼……見習い騎士の恋人であった。
「リュシアン、ああ、リュシアン!」
「マリーン」
衝動的に、彼女は相手の胸に飛び込んでいた。
「ああ、リュシアン!本当にあなたなのね」
「ああ。僕だよ。マリーン」
自分を抱きとめる腕の感触、耳元で聞くその声……長い間、夢の中でだけしか会えなかった、その相手が、ここにいた。
涙に濡れた顔を上げ、彼女は少年の顔をよく見つめた。
「ああ、リュシアン……なんて、なんて久しぶりなのかしら」
「うん、そうだね」
少年は……いや、もう少年と言うにはすっかり背も伸びて、たくましくなったその姿は、立派に騎士の凛々しさを備えていたが……うなずき、優しく微笑んだ。
「なんだか……、とても大人っぽくなったわ」
「そうかな?」
リュシアンは照れたように頭を掻いた。
確かに、しばらく見ないうちに、彼はだいぶ変わっていた。
おそらく、背丈は一年前よりも拳ひとつぶんは伸びただろうか、かつてのいたずらなすばしこいイメージはもうどこにもなく、マリーンよりは顔半分も大きい。赤茶色の巻き毛はいくぶん伸びて、今は大人っぽく襟首まで流れている。
「それに、少し痩せたんじゃない?」
マリーンは、成長したリュシアンの姿を前に、にわかに胸のときめきを覚えていた。
「うーん、自分では分からないけど。そうかもね」
そう言って微笑する様子は、かつての少年めいた面影をいくぶんは残してはいた。ただ、その顔つきは以前よりはずっと精悍に、男らしくなっていた。
そのことを言うと、彼はまた少し照れながら微笑んだ。
「まあ、見習いと違って正規の騎士団の稽古だからね。それなりには厳しいさ。鍛えられたのかな」
「そうなの。ああ、でも……本当に久しぶりだわ」
「そうだね……」
二人は改めて互いを見つめ合った。こみ上げてくる胸の高鳴りに、マリーンははちきれそうになっていたが、少年のおだやかな様子を見て、自らも気を落ち着かせるべくひとつ息をはいた。
「さっきは……本当に驚いちゃった」
胸に手を当てたままマリーンは言った。どきどきとする胸の鼓動は、まだ完全にはおさまっていない。
「ああ、本当だね」
リュシアンはくすくすと笑った。
「なにか幽霊でも見ているようだったもの。さっきのマリーンの目は」
「だって……いきなり現れるから」
「あれ?ちょっとした休みがとれたんで、これからそっちに行くよ、って手紙を出したんだけどさ。まだ届いていなかった?」
「いいえ」
マリーンは首をかしげた。
「ああ。でも、そういえば……今朝、クインダが手紙が来てますよ、って言っていたようだけど。まさかあなたからのだとは思わないから、後回しにしていて、そのまますっかり読むのを忘れていたわ」
「あーっ、ひでえなあ」
「ごめんなさい」
口を尖らせるリュシアンを見て、マリーンは思わずくすりと笑った。それは、前と変わらぬ少年らしい表情だったからだ。
「今日はすごく暖かくて、いいお天気だから湖に出てボートに乗ろうって、朝から決めていたのよ」
「うん。たぶんそうだろうと思って、俺もそこに馬をつなげて、直接こっちに来たんだ。当たったね」
得意気に言ったリュシアンだったが、マリーンは目を丸くしていた。
「まあ。リュシアン、あなた、俺って……前はそんな風に言わなかったのに」
「えっ?そうかなあ。前から言っていたよ、俺、って」
「そうだったかしら?」
「そうさ」
「そうかしら」
「そうさあ」
二人はまた顔を見合わせると、笑い出した。
「ね、これからどうする?お屋敷に寄っていくでしょ?」
「うん……」
尋ねられたリュシアンは、すまなそうにマリーンを見た。
「でも、あまり今日は時間はないんだ。久しぶりに家の方に戻る途中だからさ」
「そう。……そうよね」
マリーンは少し残念そうにしたが、すぐににっこりと笑った。
「お母さまもきっと、早くあなたに会いたがっているはずね」
「ああ。マリーンも……さっき伯爵が戻ったみたいだよ。馬車の音がしたから」
「そうね……。じゃあ、もう行かないと……」
「行くの?」
「……」
寂しげなリュシアンの顔を見て、じわりと彼への愛しさが胸の中に突き上げるのをマリーンは感じた。その心地よいうずきが、いまだ自分の中にあるのを彼女は知った。
「……こっち」
リュシアンの手をとり、ボートの方にいざなう。
「乗って」
「僕が漕ぐよ」
「うん」
マリーンから櫂を受け取り、リュシアンはボートを漕ぎだした。
二人を乗せたボートは、岸を離れ、再び湖面を滑りはじめた。
櫂を漕ぎながら、リュシアンは向かい合って腰かけるマリーンを見つめた。
「……」
二人きりの時間はいつ以来だったろうか。マリーンは、胸の鼓動がにわかに早まるのを感じていた。
ボートが湖の中ほどまで来ると、リュシアンは櫂を置いた。
「マリーン」
相手を求めるように、彼はその名を呼んだ。
「リュシアン……」
それを待っていたかのように、彼女もリュシアンに身を寄せる。
「ああ。マリーン!」
二人はボートの上で抱き合った。
「会いたかった!」
「私も。……私も」
先程はいったん落ち着きかけた感情が、再び高まり、広がってゆく。こらえきれぬように、二人は唇を重ね合わせた。
「ん……」
「はぁ……んん」
固く抱きしめ合い、互いの唇をむさぼるように重ねては吸う。
それは、いったん離れていた恋人たちの時間が、また重なり、動きだすかのような、そんな瞬間だった。
「ああ、リュシア……ン」
マリーンがあえいだ。
「マリーン……マリーン!」
「んっ、リュシアン……もっと、ぎゅっとして。強く抱きしめて!」
「ああ」
マリーンの体のぬくもりと、唇の感触を思い出し、それを味わうかのように、
リュシアンは優しく、そして激しく彼女を抱いた。
「嬉しい……ずっと、ずっと会いたかったの。ずっと、こうされたかったの」
「俺も。俺もマリーンが欲しかったよ。ずっと、ずっと、夜も眠れないほどに」
「嬉しい……」
リュシアンはボートの上にマリーンを寝かせると、上から体を重ねた。
その背中に手を回して、マリーンはぎゅっと恋人を引き寄せる。
「ああ、リュシアン!」
そして、また口づけと愛撫……
久しぶりに感じる互いの体のぬくもり、相手の存在そのものを確かめ合うように、二人は抱き合っていた。
揺れる水面に、重なった二人の影がゆらゆらと揺れる。久しぶりの抱擁に酔う恋人たちには、水の上の揺らめきさえもが心地よかった。
名残惜しそうに身を離したマリーンがつぶやいた。
「もう……、そろそろ戻らないと」
「ああ、そうだね」
「……」
身を起こした二人は、ボートの上でもう一度抱き合い、口づけを交わした。
「じゃあ、戻ろう」
櫂を手にしたリュシアンは、ボートを漕ぎはじめた。それでも彼は、飽くことがないようにマリーンの顔を見つめ続けていた。
「なあに?」
「いや……マリーンは全然変わらないなって。前と同じに、ずっと綺麗なままだ」
「ふふ……ありがとう」
マリーンは嬉しそうに頬を染めた。
「そうだわ、ところで、正騎士の審査は受かったの?」
「ああ、ほとんど大丈夫だと思うよ」
リュシアンは自信ありげにうずいてみせた。
「去年の剣技大会でも三位に入ったし、配属先の騎士団でも先輩たちによくしてもらっているし。あとは、正規の合格証を受け取って、叙任式を受ければ正式に騎士になれる」
「そう」
それを聞いて、マリーンにはなにかこみ上げてくるものがあった。
「よかったわ。本当に……」
かつてのやんちゃでいたずらな見習い騎士の少年が、こうして立派に成長したのだと、それは感動にも似た、彼女の素直な気持ちだった。
「あなたが騎士になったら、私も嬉しいし、カルードや、そしてあなたのお母様もとても喜ぶことでしょう。本当に良かった……」
目を潤ませるマリーンに、リュシアンが笑いかける。
「大げさだなあ。マリーン。そりゃ俺だってもう十七歳だしね。そろそろ大人の仲間入りってわけさ。もうそのうち、実戦にも出ることもあるかもしれないし」
「そうなの?」
それを聞いて、マリーンはやや心配そうな顔になった。
「うん、まあ、今のところは大丈夫だと思うけど。任務といっても、せいぜい地方領主の城か砦で稽古したり、城門で見張りしたりするくらいだから。でも、それこそ正式に騎士になってからは、またどこか別の配属先を言い渡されるかもしれないしね。国境警備隊とかに行ったら、それはいくさのひとつやふたつはあるだろうし」
「ああ、そういえば、カルードも騎士になりたての頃には、国境の砦に半年いたこともあったらしいわ」
「うん。そうなると、また簡単には帰れなくなるね。下手すると何年も。マリーンにも会えなくなる」
「そんなの……いや」
マリーンは甘えたように小さな声で言った。
「大丈夫だよ。とりあえず、今はこうして帰ってきたんだし。またしばらくは時々、マリーンにも会いに来れるから」
「うん」
ボートの上でマリーンは身を乗り出して、櫂を持つリュシアンに口づけをした。
「さあ、本当にそろそろ戻ろう。暗くなる前に馬をとばして家に帰らないと、母さんが心配しそうだ。向こうにも手紙で知らせてあるから。今日は短い時間だったけど……」
「ええ。でも、嬉しかった。思いもかけずリュシアンに会えて」
「僕もさ」
そう言ってにこりと笑ったリュシアンの顔は、すっかり大人の顔つきになっていた。かつてのやんちゃで熱情的な少年は、その面影をかすかに残しつつも、今は自制心と誇りとを身につけた、立派な青年に変わってゆこうとしていた。
そんなリュシアンをながめながら、マリーンは変わらぬ愛しさとともに、ほんのかすかな寂しさと、流れゆく時間の重みを思うのだった。
二人のボートは再び岸に向かっていった。
食事を終えると、モンフェール伯爵はここのところのお決まりの様子で、妻を隣に肘かけ椅子に深々と座り、ゆったりとくつろいでいた。
冬であれば、暖炉に赤々と燃える炎を見ながら、のんびりとワインをたしなむのがなにより好きな伯爵であるが、この季節にはそうした楽しみよりは、春を迎えていっそうの輝きを増したような、年若い妻の横顔をながめている方がずっと楽しいようだった。
「ふむ。今日はなんだか……」
手にした本を読むでもなく、ときおり目を落としてはまた妻の方に目を向けながら、伯爵は言いかけた。
「はい?」
「ああ、いや……いいんだが」
「なんですの?途中までおっしゃって」
首をかしげるマリーンを見て、伯爵は手元の本を適当にめくりながら、やや照れたようにして言葉を続けた。
「いや。なんだか今日は……お前がとても輝いているように見えると思ってな」
「まあ」
「いや、いつだってそれはお前は美しいのだが、今日は何故だか……とくにそう思える」
「まあ、あなた」
少々驚いたような顔をして、マリーンは笑った。
「そんなことを言っていただけるとは。結婚してからは、そんなにないことですわね」
「そうだったか」
「でも……嬉しいですわ。昔は会うたびにそうして褒めてくれましたものね」
「うむ。そうだったかな」
照れくさそうに伯爵はまた本に目をやり、それを読むふりをしながらも、美しい妻の横顔に、またちらちらと目をやらずにはおれないようだった。
「あの少年……リュシアンくんか」
「えっ」
突然その名を出されて、マリーンは思わずびくりとした。
「ここしばらくは、顔を見ていないが、彼は元気でやっているだろうかな」
「ええ……そうですわね」
マリーンは曖昧に答えた。まさか、今日の昼間にそのリュシアンがやって来て、久しぶりの再会をしたばかりであるとは、伯爵も知らないだろう。
マリーンはそのことを言うべきかどうか、一瞬迷ったが、ちらりと夫に目をやっただけで、なんとなく言いそびれた。
「きっと……元気でしょう」
「騎士見習い……いや、もう正式な騎士にもなるころだろう。十六才、十七だったか?ふむ。その年頃というのは、一年ごとの成長がとても早いからな」
「ええ……」
久しぶりに会ったリュシアンの、以前よりも逞しく、男らしくなった姿を思い出し、マリーンは密かにまた胸をときめかせた。
(私を抱きしめたあの腕……なんて、なんて力強くなったのかしら。それに、もうずっと私より背も高くなって。男の子というのは、あんなにも変わってゆくものなのね)
「……」
かすかに頬を染めたような妻の横顔を見つめ、伯爵はしばらく黙っていたが、次に思いがけないことを言った。
「彼がまた、戻ってきたら……この屋敷はまたにぎやかになるだろうね」
「えっ」
「私は、かまわないよ。立派に騎士となった彼を歓迎するのは、当たり前だろう」
「……」
マリーンはなんと言ったらいいか分からなかったが、伯爵は彼女の横でただ優しく微笑んでいるだけだった。
「それに、お前も彼に会いたいのだろう。前は、教師として彼の勉強を見ていたのだから。いろいろとその成長ぶりも気になろう」
「ええ……」
マリーンはうなずいた。同時に、昼間の感触……久しぶりに抱かれたリュシアンの腕の感触が、それを思い出す彼女を後ろめたい思いにさせた。
そんな妻の様子を見ながら、伯爵は言った。
「私は、ここのところどうにも体調がすぐれない。ただの疲れによる風あたりかもしれないがね。以前のように、お前を連れ出してあちこち出掛けたりすることもできない。今日のようないい陽気のときにはとくに、一緒に野山を歩いたり、ボートで湖に漕ぎだしたりできないことが、とても残念に思うよ」
「平気ですわ」
マリーンは優しく言った。
「私も、こうしてゆっくりとあなたと並んで座っていると、それだけで気が休まりますから。本当に。それに、ボートは私一人でも漕げますし。今日もお昼から一人で水の上をお散歩していましたのよ」
「ああ。そうだね」
伯爵は弱々しい笑顔を見せ、やや寂しげに言った。
「さっき屋敷に帰ったとき、この部屋の窓から見ていたよ。湖に浮かぶ遠くのボートを。ああ、お前がまた楽しそうに漕いでいるなと思って」
「……」
マリーンは黙り込んだ。そのとき、自分がボートの上で誰と抱き合っていたのか、伯爵はもう気づいていたのだろうか。
「……ふむ。少し疲れたな。今日は早めに寝るとしよう」
そう言って伯爵は本を閉じた。それは、もう部屋から出ていけという言葉でもあった。
ここのところ、決まって寝るときは別々の部屋だ。体調のせいもあってか、伯爵はマリーンを抱くことも、その体に触れることすら、今ではめっきり少なくなっていた。
ときおり、それを寂しく思いもしたが、マリーンにとくに不満はなかった。彼女にとっては、モンフェール伯爵は大学に通っていたころの講師でもある。かつては恋愛の対象というよりは、むしろ人生の相談者、彼女のよき理解者という関係だったのだ。
「では……あなた」
「ああ、おやすみ」
立ち上がった妻にうなずきかける、その伯爵の顔は、この数年でだいぶ老けたように思えた。
もともと、頑健な方ではなく、すらりとした体格で学者肌の落ち着いた人物であったが、今ではさらに痩せて、髪には白髪が多くなった。四十を迎えたばかりの、まだまだ男盛りの年齢のはずなのだが、その風貌はときおり枯れたイチイの木のように痩せ細って見えた。
「あなた……」
マリーンは夫の顔を見つめ、やや心配そうに言った。
「一度、ちゃんとお医者さまに診ていただいた方がよいかと思いますわ」
「ああ……そうだな」
伯爵は、椅子の上で目を閉じながらそう答えただけだった。そのまま眠るように黙り込んだ夫を、もう一度振り返ってから、マリーンは部屋を出た。
後ろ手に扉を閉めたとたんに、彼女は自分の体を両手でぎゅっとかき抱いた。
なんともいえない感情……喜びと、不安と……複雑な思い。
それらが、彼女の中を駆けめぐった。
だが一方で、リュシアンとの再会は、久しぶりに彼女の心を踊らせていた。
(ああ……)
夫への申し訳なさもあったが、マリーンは、昼間のボートの上での感触をまざまざと蘇らせ、その甘い疼きは、しばらく彼女の身体から消えることはなかった。
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