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4.吟遊詩人とガシュウィン
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「さあ、まだまだ歌は続くよ。つぎはまた楽しい祭りの歌だ!」
ステージからは詩人の声が陽気に響いてくる。その声はまるで枯れることがないように、レファルドは高らかに次の歌を歌いはじめる。人々の喝采と手拍子は続いてゆく。
広場の人々は、それぞれに踊ったり、ステージを見ながら食べたり、飲んだりと、祭りのひとときを大いに楽しんでいた。大人たちの中には、すでにそうとう酔っぱらっているものもおり、大声でげらげらと笑って、肩を叩き合うようなものもいた。今日ばかりは、つらい仕事のことは忘れ、日頃のうさをはらすように笑い、また酒を飲み、酔うだけ酔っても誰も文句は言わない。
祭りの夜はいよいよたけなわであった。
すっかり喉がかわいたペトルは、人々の間を通り抜けて、飲み物の屋台の前にきていた。
「おお、ぼうや。さっきの笛はなかなかだったねえ」
屋台のおじさんが、笑顔で声をかけてくる。
「ありがとう。ええと、レモンのはちみつ水わりをください」
「あいよ。ちょっと待ってな」
飲み物ができるのを待つ間、ペトルはなにげなく、広場の人々を見回した。
ふと見ると、広場の外れの暗がりに、一人の男が立っていた。その男は、さっきからこちらを見ているようだった。
(なんだろう……あの人)
男は、がっしりとして背が高く、顔はここからではよく見えなかったが、口許もとは黒々とした髭におおわれている。
(あっ……)
ペトルは思い当たった。
(あの男は、たしか木こりの……)
そうだ。昨日、村の入り口で老人と会い、その家に向かう途中にすれ違った、丸太をかついだあの木こりの男だ。そういえば、あのときもすれ違った自分の方を、じろりとすごい目で見ていた。そして今もまた、男は同じように、こちらをずっと見ているのだ。
(なんだろう。……なんだか、怖いな)
見知らぬ相手が、そうして自分の方をずっと睨むように見ているというのは、どうにもひどく不気味なことだった。
「はい、お待ち。はちみつレモン水だよ」
「あ、ありがとう」
飲み物を受け取って、少年が振り向くと……さっきまでいたはずの男は、もういなくなっていた。
(いない……)
いっそう不気味に思い、ペトルはもう一度辺りを見回した。だがもう、男の姿はどこにもない。
(なんなんだろう……)
少年は、思わずぞくりと体を震わせた。
(早く戻ろう)
ペトルは急いで、ステージ近くの老夫婦のもとへ走り出した。
夜遅くまで続くかに思われた祭りも、ようやく終わりの時が近づいていた。
人々が少しずつ帰りはじめると、広場からは騒がしさが薄れてゆき、舞台で最後の出番を待っていた芸人が、歌と踊りを披露し終える頃には、ステージ前に残っていたものたちも、ぞろぞろと家路につきはじめた。
酔っぱらった人々は、歌を歌いながら村の小道を歩いてゆき、屋台を閉めるものたちは、祭りの後の静寂とともに、それぞれに片付けを始める。こうしてまた、明日になれば、普段と変わらぬ日々が始まってゆく。
畑を耕し、家畜を育て、薪を拾い、粉を引く、そうした日々の暮らしが。ほんのひとときハメを外し、祭りの酒に酔って、たくさん笑い、歌い、踊って、人々は満足し帰ってゆく。自分の家へ。日々の生活へと。
ペトルもまた、いっときの興奮の名残にまだ頬を火照らせながら、老夫婦と詩人とともに木の上の家に帰ってきた。
「楽しかったかい?ペトや」
「うん、とっても」
「ほんと、よく吹けたねえ。上手かったよ」
老夫婦から頭を撫でられると、ペトルは嬉しそうにしながら、眠そうに目をこすった。
「今日は疲れたろう。もうお眠り」
「はい。おやすみなさい」
「では、僕も部屋で休ませてもらいます」
「はい、詩人さんも。おやすみなさい」
詩人のレファルドも、結局十曲以上は軽く歌って、こちらもさすがに少し疲れたような様子だった。ペトルは屋根裏の部屋へ、詩人はその下の階の客間へと、それぞれの寝床へ戻っていった。眠気と疲れとで、ペトルは部屋に入るやすぐに寝台に横になった。普段であれば、とっくに眠っているはずの時間である。
「ああ、でも楽しかったなあ……」
寝台から天井を見上げながら、そうつぶやく。
人々の拍手や手拍子、楽しそうなたくさんの笑顔が、今でも目の前に浮かぶようだった。そして自分は初めて、たくさんの人々の前で笛を吹き、つたないとはいえ詩人と合奏をしたのだ。少し恥ずかしかったが、音楽をやることの楽しさ、自分の音を出すということの心地よさは、とても不思議なものだった。これまで生きてきた中で、自分は忘れられない経験をしたのだ。ペトルはそう思った。
やがて、老夫婦も寝静まったのか、階下の方も静かになった。
明日の朝はまた、水汲みに出掛けて、薪を拾い集める手伝いをしなくては。少年はそう思い出し、眠ろうと目を閉じた。
しばらくして、ペトルがうとうととしかけていると、階下からかすかな物音が聞こえた。はじめは気にならなかったが、扉の開く音と、それに続いて階段を下りてゆく足音が聞こえた。
(詩人さんかな?どこかへゆくのかしら)
少年は寝台から体を起こし、眠い目をこすりながら部屋を出た。
階段を下りていって、下の部屋を覗いてみると、そこには誰もいなかった。詩人の荷物や竪琴も消えていた。
(まさか、詩人さん、行ってしまったの)
ペトルは、直観的にそう思った。
(でも誰にも言わず、こんな夜に出て行ってしまうなんて……)
いずれは詩人が旅立って行ってしまうだろうことは分かっていたが、別れの挨拶もしないまま、こんな形で行ってしまうなんて。
(そんなのいやだ……)
沸き起こる悲しさに突き動かされるように、ペトルは階段を下りた。老夫婦の寝ている部屋の前を忍び足で通りすぎ、家の外へ。
夜闇の中バルコニーから見下ろすと、広場を横切ってゆく詩人の姿が見えた。その後を追うように、少年も巨木の階段を駆け降りる。
(詩人さん……)
人けのない村の広場を、帽子をかぶり竪琴を背負った詩人が、振り返りもせずすたすたと歩いてゆく。その後を追いかけるペトルは、しだいに、自分も一緒についてゆきたいような気持ちになっていた。
レファルドが話してくれた旅の話は、少年にとっては憧れそのものだった。知らない場所に行って、知らない人々に会って、初めての町を見たり、初めての食べ物を食べたり。それはまさに、彼が本の中で見た、心踊る冒険そのものだった。
(僕も……僕も一緒に)
連れていってほしい。少年は心からそう思った。すっかり寝静まった村の小道を歩いてゆく詩人の後を、ペトルは月明かりを頼りに追いかけた。
「詩人さん」
村の出口の手前で、ペトルは思い切って詩人に走り寄った。
驚いた詩人が振り返る。
「な、なんだ。お前か……おどかすなよ」
「詩人さん、行っちゃうの?」
悲しげなペトルの顔を見て、レファルドは複雑そうな顔をしたが、やがて仕方なさそうにうなずいた。
「ああ、気づかれちまっちゃしょうがないな。まあ、どうせ朝になれば、この村ともおさらばだから、夜のうちに出ていくのも変わらないだろうと思ったんだが」
「そんな……だって、お別れのあいさつもしないで」
「ははっ、お別れのあいさつね」
詩人は笑って言った。
「そんなお行儀のいいことはオレたちはしないさ。祭りが終われば黙って出てゆく。そしてまた次の町へ。な、それがオレの生活なのさ。分かったかい、ペトルのぼうや」
少年の頭に軽く手をやると、詩人はまた歩きだした。ペトルもついてゆく。
村の外へ出たところで、詩人は立ち止まった。
「さあ、ここまでだ。わかったらもう帰りな」
「でも……」
だがペトルは、どうしてもこのまま帰りたくはなかった。
「でも、レファルドは……僕に笛と竪琴を教えてくれるって言ったよ。笛は教わったけど、竪琴はまだだよ」
「まあな。笛はともかく、竪琴はなかなか短い時間じゃ無理だ。でも笛の方は、初めてにしてはなかなかセンスが良かったぜ」
詩人は懐から縦笛を取り出すと、それを少年に手渡した。
「これをやるよ。もっと練習すれば、ずっと上手くなるぜ。もし今度会うときがあったら、また合奏しよう。じゃあな、ペトル」
そう言うと軽く手を振り、詩人は村の外へと歩きだした。ペトルはしばらくそこに立っていたが、詩人の姿が夜の暗がりに消えると、慌ててその後を追いかけた。
「詩人さん……レファルド、どこなの?」
夜の闇が広がる川沿いの道を、ペトルは詩人の姿を探しながら歩いていった。
だが、しばらく行っても、いっこうに詩人は見えなかった。
いつのまにか、前も後ろも真っ暗な闇に覆われていた。やはり村に戻った方がよかったろうか。そう思って少年が立ち止まったときだ。
すぐそばで、草を踏む音がした。
「詩人さん?」
振り返ったペトルは、暗がりの中に目をこらした。
だが、耳をすますと、近づいてくる足音はひとつではなかった。
「だ、誰……」
不安になって辺りを見回す。
息を殺すようなかすかな息づかいとともに、人の気配が近づいてくる。それも一人や二人ではなかった。
「……」
少年は恐ろしさにその場に立ちすくんだ。こんな夜中に、それも村はずれの林に囲まれた所に、どうしてこんなに人がいるのだろう。
そう思っていると、いきなり目の前に人影が現れた。
「わっ……」
声を出しかけた少年の口を、大きな手がふさいだ。
「お迎えに上がりました」
低い声が耳元で聞こえた。
少年がもがこうとすると、今度は両側から別の手が伸びてきて、体を押さえつけられた。手にしていた笛が草の上に落ちる。
「お静かに願います」
顔はよく分からなかったが、聞き覚えのない声だ。
「う……うう」
口を布できつく縛られると、もう声も出せず体も動かせなかった。
「よし。馬車まで連れていけ」
また男の声がして、ふわりと三人がかりで担がれると、少年はそのまま森の奥へと連れ去られた。
あとにはただ、夜の静寂が残るばかりだった。
雲に隠れていた月が夜空に顔を出した。
すると、近くの林の影から、一人の男がひょいと現れた。男は、川べりの道まで歩いてくると、少年が落としていった縦笛を拾い上げた。
「まあ、ちょっとかわいそうだったけどな……」
そう言って、笛をチョッキのポケットにしまう。月明かりに照らされたその顔は、詩人のレファルドであった。
「なんていうか、楽な仕事だったなあ」
懐から取り出したのは、じゃらじゃと音を立てる革袋だった。
「あのこどもと引き換えに、金貨五百枚とはね。こりゃ当分は遊んで暮らせるぜ」
幸せそうにつぶやくと、詩人は大切そうにまた革袋をしまった。
「月がきれいだ」
川べりに腰掛け、夜空を見上げる。
背負っていた竪琴を取り出してつまびきはじめると、誰も聞くもののない夜の川べりに、典雅な音色が響きだした。
ペトルは、自分がいったいどうされようとしているのか、まったく分からなかった。
暗闇から現れた数人の男たちに、いきなり捕まえられ、悲鳴を上げるいとまもなく、そのまま連れ去られたのだ。
(怖い……)
口を塞がれたペトルの目には、暗い林の木々と、わずかに星の見える夜空、それに不気味な男たちの横顔であった。
(僕は、どうなってしまうんだろう?)
身動きがとれない中で、ペトルはもがき、身じろぎをしようとした。しかし、両手足を左右からがっちりと捕まれては、少年の力ではどうにもならない。
男たちは何も言わず、ペトルの体を持ち上げて、足早に運んでゆく。
いったいどこへ。それに、彼らはいったい何者なのだろう?
(……ああ。きっとそうだ)
少年はようやく思い当たった。
(きっと……こいつらは、あの魔法使いの仲間だ)
(あいつが、僕を捕まえにきたんだ)
今ペトルに分かるのはただそれだけだった。
自分がこれからどこへ連れてゆかれるのか、どんなことをされるのか……そんなことまでは想像ができない。そして想像したくなどなかった!
(助けて……誰か)
少年は、心の中で必死にそう願った。
「よし、馬車はすぐそこだ。いいか、丁寧に運べよ。なにしろこのこどもは……」
男の声が途中で途切れた。
「どうした?」
「まてよ……おい。あそこにいるのは誰だ」
少年をかついだ男が、前方を指さした。それとほとんど同時に、
「うわっ。だ、誰だ!」
別の男の口から悲鳴が上がった。
つづいて、するどい剣の響きが上がり、
「ぎゃあっ」
「な、何者だ!」
男たちの叫び声と、荒々しく土を踏みしめる音が、ペトルの耳にも聞こえた。
気づくと、いつのまにか彼は草の上に放り出されていた。うっすらと目を開けると、男たちはそれぞれに剣を抜き、誰かを相手に戦っているようだった。
「きさま……いったい」
男の一人が剣を手に持ち、誰かを睨み付けている。どうやら相手は一人のようだが、かなりの腕前らしい。ペトルをさらった三人のうち、すでに一人は草の上に倒れていた。
「何者だ!答えろ」
怒りと驚きの混ざった声で、男が尋ねる。だが相手は無言のまま、ゆっくりと剣を構えると、俊敏な動きで踏み込んできた。
「わあっ!」
あっと言う間もなく、はね上げられた剣が地面に突き刺さり、男が倒れこむ。
「くそっ、貴様……」
最後に残った一人は、相手が手ごわいと見てか、じりじりと後退した。
「我等に歯向かうとは、どういうことになるか……分かっているのか?」
「分かっているとも」
静かな声が上がった。
「なんだと……きさま」
「その子どもは私が守る。そうゲルフィーに伝えるのだな」
「なっ、なんだと。きさま……なぜ、それを知って。きさま、いったい何者だ!」
「私は……私は、ガシュウィン。そう伝えれば分かるだろう」
草の上で意識を失う直前、ペトルはその名を耳にしていた。
(ガシュウィン……)
「覚えておくぞ、その名を。そして、このままで済むと思うなよ」
ペトルは最後に馬車が走り出す音を聞いた。
そして、そのまま気を失った。
次に目を覚ましたとき、部屋にはうっすらと夜明けの光が差し込んでいた。
何度か目をまたたいて、ペトルは目を開けた。そこは、見覚えのない小屋の中であった。
「気がついたか」
自分を覗き込む、相手の顔を見たとたん、少年は「あっ」と叫んで身を起こした。
目の前にいるのは、がっしりとした体格をした黒いひげの男……それは、村に入ったときにすれ違った木こりの男、そして祭りの夜にじっと自分を見ていた、あの男だった。
「あ、ああ……」
ペトルは恐ろしさに声を失った。小屋の隅の壁際を見ると、そこには、縄で縛られた詩人のレファルドがいた。
「詩人さん!」
ペトルが声をかけると、詩人は黙ったままこちらを向き、力なく笑いかけた。
「僕を……僕たちを、どうするの?」
ペトルは男から後ずさり、恐ろしそうに声を震わせた。
「落ちつけ」
低い声で男が言った。すぐそばには大きな剣の鞘が置いてある。
「私は、ガシュウィン。君の敵ではない」
「ガシュウィン……」
不思議とその名を聞くと、少し恐ろしさがやわらいだ。
そう……確か、気を失う前に聞いた名前。
「じゃあ、あなたが、さっきの……」
「そうだ。君はこの詩人にだまされて、奴らに連れ去られそうになったのだ」
「だまされて?」
「もう少し駆けつけるのが遅かったら、君はおそらく、ゲルフィーのもとに連れてゆかれていただろう」
「ゲルフィー……」
その名を聞いて、少年はぶるっと体を震わせた。
「安心しろ。やつはここにはいない。ここは、村のはずれにある水車小屋だ」
そう言われてみると、部屋の壁際には、大きな水車がゆっくりと回っていた。小屋の中には粉を引くための大きな石臼もある。確かにここは村近くにある水車小屋のようだ。
「もう夜も明けたから、もう少ししたら村に戻るといいだろう」
男の声はぶっきらぼうであったが、それでいて、不思議と信じられそうな響きがあった。それによく見れば、口もとはもじゃもじゃと黒い髭で覆われているが、目もとを見ると、意外と若そうにも見える。目つきは鋭く、まるで戦士のようだったが、こちらを見るときには少しだけ穏やかになる。
「……」
恐ろしい気持ちが消えてくると、ペトルはほっと息をついた。
「あの……じゃあ、あなたは僕を助けてくれたんですね。……どうもありがとう」
おずおずとお礼を言うと、男はにこりと笑ってうなずいた。
「なんの、それが私の務め……いや、そのようなものだ」
男はそう言うと、縛られている詩人を指さした。
「さて、あいつをどうする?君をだましていたんだぞ」
「そんな……詩人さんが?」
「革袋いっぱいの金貨を持っていた。それで君を売ったんだろう」
「まさか……」
ペトルには、それがどうしても信じられなかった。
「嘘。嘘だよね?詩人さん」
「……」
だがレファルドは何も言わず、ただじっと壁際でうつむいていた。
「金貨と引き換えに、こどもの命を売り渡すなど、許してはおけない」
木こりとは思えないするどい目で、男は詩人を睨み付けた。
「詩人さん……」
ペトルの声に、ようやく顔を上げたレファルドは、小さく「すまなかった」と、ひと言つぶやいた。
「どうする?君の気が済むようにするといい。私に命じれば、この場で斬り捨てるぞ」
男が剣の鞘に手をやると、詩人はびくりとして体を揺らせた。
「縄をほどいてあげて」
「いいのか?君をだましてしたんだぞ?」
「ううん」
ペトルは首を振った。
「詩人さんは、僕をだましてなんかいない。だって、僕に笛を教えてくれたもの。一緒にステージに立って、歌に合わせて演奏したんだよ。僕……すごく楽しかった」
「……」
レファルドは黙ったまま、少年を見上げた。
「だから、いいんだ。それに、また詩人さんは旅に出かけるんだから。お金だって必要でしょ」
「では、君は……金も、楽器も持たせて、この詩人を放してやれと言うのか?」
「うん。そうしてあげようよ。ガシュウィンさん」
「……」
男は少しの間、驚いたように少年を見つめていたが、それから、黙って詩人に近づくと、その縄をほどいてやった。
「さあ、行くがいい」
「……あ」
詩人はためらいがちに、金貨の入った革袋を受け取ると、ちらりと少年の方に目をやった。
「ありがとう、よ……」
うわずった声で言うと、いそいそと竪琴を背負う。少年の見る前で、詩人は逃げるように小屋から出ていった。
「これでよかったのか?」
ペトルはうなずいた。
「それから、ガシュウィンさん。本当にありがとう。あの……村で見たときから、あなたを怖い人だと思っていたけど、そうじゃなかったんだね。本当にごめんなさい」
「いや……さっきも言ったように、それが私の務め……いや、子どもを助けるというのは当たり前のことだしな。それに……」
そう言いなおすと、男は照れるように髭を撫でた。
「私のことは呼び捨てでいい」
「分かった。じゃあガシュウィンね」
「うむ」
「ガシュウィン」
その名を呼ぶと、なんとなく、とても安心できる気分がした。それはなんとも不思議な感覚だった。
「じゃあ、僕のこともペトルでいいよ」
「ペトル……ペトルか」
男はふっと笑い、つぶやいた。
「ふむ、いい名だな」
「そう?ありがとう」
少年は何故だか、しだいにこの男といるのが楽しくなってきた。
このガシュウィンは自分よりとても大きいし、歳もずっと上のはずなのだが、あまり緊張もせずに話せるし、それに、何を言っても許してくれそうな、そんな穏やかで大きな雰囲気があるのだ。
「ところで、ペトル」
ガシュウィンが、やや重々しい口調になってきりだした。
「実をいうと、私は元からこの村の木こりであったわけではない。実は、私はかつては王国に仕える騎士をしていたことがあった」
「へえ、そうなんだ」
少年は驚いて男を見つめた。
「うむ。前国王陛下の時代に、私は城に仕えていた。あの頃は、平和で豊かな日々だった。城の中は穏やかな空気と、高貴な威厳に満ち、町にはいつも楽しげな声と活気が溢れていた。だが、幸せな時代は長くは続かなかった」
ガシュウィンの眉間にぎゅっと皺が寄った。
「国王夫妻と王子殿下の相次ぐ失踪、そして王弟の即位……とくにあの、怪しい魔法使いが城に来てからは、王国は少しずつ、不気味な闇の中に取り込まれてしまった」
「……」
ペトルはごくりとつばを飲み込んだ。
男が話していることは、まさに彼自身が巻き込まれた事件に他ならなかったのだ。そして城を出る前に耳にした、あの女中たちの話が、再び耳の奥でよみがえってくるのだった。
(国王夫妻はね……処刑されたのよ)
ペトルは、ぎゅっと拳を握りしめていた。
そんな少年の様子を見つめながら、男はまた話しだした。
「私は、最後まで王弟とゲルフィーに逆らい、ついに城を追われた。そして三年ほど前から、この村のはずれに住むようになり、木こりとして暮らしていたのだ」
「そうなんだ。ガシュウィンも……大変だったんだね」
男の話と城を出てきた自分と重ねるように、ペトルはつらそうに声を震わせた。
「ふむ。私自身はどうということもないが、城に置いてきた妻のことが気掛かりでな。あれも城で女中をしているので、いつゲルフィーに目をつけられるかと心配なのだ」
「女中……」
ふと、城の廊下で見かけた二人の女中のことが思い出される。
「しかし、ともかくも私は、またこうして、城の追手を追い払い、ゲルフィーの敵となったわけだ。ところで、聞いてもよければ、ペトルはどうして追われているのだ?」
「そ、そんなの……わからないよ」
ペトルはあわてて首を振った。自分が王子として、あの魔法使いに捕らわれ、塔から逃げ出してきた、などとはとても言えなかった。それに、ドラゴンのことや……もうひとつ、魔法の鍵のこと……
「あっ。な、ない!」
ペトルは、そのときはじめて、胸元にあるはずのペンダントがなくなっているのに気づいた。
「僕の……鍵が」
「これのことか?」
ガシュウィンが差し出した手の中に、きらりと光る銀色の鍵があった。
「さっき、君を襲った男の一人が持ち去ろうとしていたのだ」
「あ……」
男の手から鍵を受け取ると、ペトルはそれを大切そうに握りしめた。
「それは、なにか特別なものなのかな?」
「こ、これは……あの」
ペトルは口ごもった。
「言いたくないのなら、いいさ。それはきっと、君の大切なものなんだろう」
「う、うん……」
魔力を持った銀の鍵。ドラゴンと友達になれた大切な鍵……ペトルは、それをまたしっかり首にかけた。
「さて、そろそろ村の連中も起き出すころだろう」
男はゆっくりと立ち上がった。
「村長の家まで送ろう。立てるか?」
「うん」
差し出しされた大きな手を握ると、もうなんの心配もないのだと思えた。
「ペト、ペトルや」
村の広場まで来ると、巨木の家の前に老夫婦が立っていた。
「おじいさん!おばあさん!」
ペトルは駆け寄って老夫婦に抱きついた。
「ペトルや。心配したぞ。朝になったらお前がいなくなっていたから」
「ごめんなさい、おじいさん」
目にいっぱいの涙をためた少年の頭を、老人は優しく撫でた。
「いいんじゃよ。お前がこうして無事に戻ってきたんだから」
「うん。本当にごめんなさい」
「なにも怖いことはなかったかい?」
老婦が尋ねるのにうなずいて、ペトルはガシュウィンを紹介した。
「この人が助けてくれたんだよ」
「お前さんは……」
老人の前で、ガシュウィンはうやうやしく頭を下げた。
「ガシュウィンと申します。村長」
「おお、確か木こりの……」
老人はしげしげと男を見た。
「ええ。ペトルくんは、明け方村を出ていった詩人の後を追って、村の外へ出てきたのですが、そこで山賊かなにか……ならずものに連れ去られそうになっていたのです」
「おお、なんということだ」
「私は、そこを偶然通り掛かったものですから、ならずものを追いやって、彼を連れ帰ってきたのです」
「なんと……そうだったのか」
ことの成り行きを理解したように、老人は何度もうなずく。
「詩人を追って……そうか、ペトや、お前はあの詩人がたいそう気に入っておったからな。それに、そうか……お前さんが、ペトを助けてくれたのだな」
男に対して、老人は初めて笑顔を見せた。
「これは本当に礼をいわねばなるまいて。わしと婆さんは、ペトがいなくなってしまったと、それは大騒ぎをはじめるところだったのだからな。本当にありがとう、ガシュウィンさんや」
「いいえ。私はただ、己の使命にそって行動したまで」
頭を下げるガシュウィンの横で、ペトルが自慢そうに言った。
「ガシュウィンはね、もとはお城の騎士さんだったんだって」
「ほう、それは本当ですかの」
目を丸くする老人に、ガシュウィンは穏やかに言った。
「ええ。ただ、もう昔のことですので」
「そうか。騎士殿か……ふむ、そうだったのか」
老人は白い髭に手をやりながら、何度かうなずいた。
「まあ、ともかくペトも帰ってきたんじゃ。いったん家に入ろう。そあ、ガシュウィンさんも一緒に来てくだされ。おい、婆さん、お茶の支度だ。いや、食事の方がよかろう。ペトもお腹が空いているだろうね。婆さんや、まだパイの残りはあったかの。さ、ガシュウィンさん、こちらへ」
「かたじけない」
パンやクルミのパイなどをいくつもたいらげると、少年はすっかり満腹になってほっと息をついた。隣に座るガシュウィンの方は、一切れのパンとミルクだけで、もう充分というように、老夫婦に丁重に礼をいった。
「もういいのかな?ガシュウィンどのは。もっとお食べなさい。パイはどうかな?」
「いえ。もうこれで充分です。美味しいパンをいただきました」
「そうかの。では今お茶を入れさせよう。婆さんや」
「はいはい」
夫人が台所へ立ってゆくのを待って、老人はやや声を落として言い出した。
「ところで、さきほど言っておった、ペトルを襲った山賊というものたちのことだがの」
実際には、少年を連れ去ろうとしたのは山賊ではなく、城からの追手であったのだが、あまりことを大きくしない方がいいというガシュウィンの判断で、それは隠しておくことにしたのだった。
「それはどのような輩だったのだ?」
「それは……」
ガシュウィンは、どう説明したらいいものかと、いったん考えるように言葉を切った。
「もしかして、それはあのギルではなかったろうな?」
「ギル?」
「うむ。お前さんも噂だけは聞いたことがあろう。西の森の廃墟に住む巨人のことを」
「ああ……見たことはありませんが」
「ギルのやつはな、年に何度か周りの村を襲うのだ。この村ももう何度も襲われた」
そう話す老人の声には、怒りと恐ろしさが混じっていた。
「畑を荒され、家を壊され、家畜や食べ物を根こそぎ奪ってゆく、悪魔のような奴だよ。身の丈は三メートルはあろうかという巨人でな、力は牛よりもはるかに強い。わしらではとうてい太刀打ちができん怪物じゃよ。この家をこんな巨木の上に建てたのも、ギルが村にきたときに、ここに村人たちを逃げ込まれるためなのじゃ」
「なるほど、そうでしたか」
うなずいたガシュウィンも、ペトルも、この家がどうしてこんな高い木の上にあるのかを、ようやく納得したのだった。
しかしペトルの方は、それ以上に「巨人」という言葉に、とても興味を持った。
(巨人さんか……いったいどのくらい大きいんだろう)
少年らしい冒険心とともに、未知のものへの尽きせぬ興味が、ふつふつと沸いてくる。
(まさか、あのドラゴンさんみたいに大きいのかな。そんな人が、この世に本当にいるのかしら)
そんなことをペトルが思っていると、
「ペトや、もう食事はすんだかの?」
「う、うん」
「それではすまんが、ちょっと向こうへ行っていてくれるか。いや、いろいろとあって疲れたじゃろうから、部屋へ上がって休んでいるといい。そうしなさい」
老人の言葉は優しかったが、少しだけ命令に近いものが含まれていた。
「はい」
ペトルは立ち上がり、老人とガシュウィンを残して部屋を出た。後ろ手に扉を閉めながら、しかし、ペトルはそのまま階段を上ってゆく気にはなれなかった。
「……」
悪いこととは知りながらも、彼はこっそりと扉に耳を当てた。
長い塔での暮らしで、少年はかすかな物音や声などを、敏感に聞き取ることができる。耳をすますと、扉の向こうから、老人の話す声が聞こえてきた。
「ほんとうに、あの子を助けてもらって、感謝しています。ガシュウィンどの。なにしろあの子は、今ではもう、なんだかわしらの本当の孫のような気がしているんです。なあ、婆さんや」
「ええ、本当に。あの子は……セシリーがいなくなってから、私たちのもとに来てくれた、私達の新しい孫のような、そんな気がしているんです」
「婆さんや、このガシュウィンどのになら、話してもよいのではないかと思う。この方は、お城の騎士様だったそうじゃ。ペトを助けてくれたのだから、お強くて、度胸もおありになる。わしは、ガシュウィンどのにお願いしたいのじゃ。どうかの?婆さんや」
「ええ、ええ。そうしましょう。私達にはもう、なにも頼るものがないのですから」
老夫婦の声には、これまで少年の前では見せなかった、深い悲しみが込められているように思えた。
「はじめからお話しましょう」
老人は話しだした。
「私らにはセシリーという、十歳になる孫がおりました。生きていれば今年で十三歳になります。セシリーの母親はとても病弱な女で、セシリーが三歳のときに亡くなりました。それ以来、セシリーはわしとこの婆さんとで、それは大切に育ててきたのです」
「ええ。セシリーは明るくて、とても活発な女の子でした。蜂蜜のような金色の髪を結ってやると、それは嬉しそうにして走り回っていました。それに歌が好きで、どんなときでも楽しく歌を歌っていました。それが……そんなあの子が、どうして……」
老婦の声が涙まじりになった。
「婆さんや。泣くのはおよし。上にいるペトルにも聞こえてしまうよ」
「そうですね。はい……」
少し間をあけて、また老人は話し続けた。
「セシリーはすくすくと育って、十歳になるころには、水汲みや薪拾い、それに料理の手伝いもしてくれるようになりました。今のペトルのように。わしと婆さんは、ますます幸せに思って、神様に感謝しながら、これからもこの村で、三人で楽しく暮らしていけるとばかり思っていたのです。しかし……一昨年のことです。ギルがこの村に現れたのは」
「ギル……巨人に襲われたのですか」
「ええ。奴は、最初は村の畑を荒らし、食料を持ちかえるだけだったのですが、次に来たときには牛や豚を襲い、そして、三度目にきたときに……奴は、あの怪物は、こともあろうに孫のセシリーをさらっていったのです」
老人の声が震えていた。
「やつめ……あの巨人めは、セシリーを……おお、忘れもしない、我々の目の前であの子を肩にかつぎ、家を踏みつぶして去っていったのです」
「……」
扉の外で、ペトルはぐっと息をのんだ。
部屋の中からは、老人の震える声とともに、老婦の嗚咽も聞こえてきた。
「家を壊され、食料、家畜を奪われ、そして孫までさらわれた。我々は絶望し、怒り、涙にくれました。娘を、セシリーを返してほしいと、毎日神に祈りながら暮らしました。あのときから、私たちの心にはぽっかりと大きな穴が開いてしまいました。毎日、毎日、わしは沈みゆく太陽を見つめ、明日はきっと孫が帰ってくると希望しました。孫は、セシリーは、きっと生きているとそう信じて。しかし、セシリーは、帰ってきませんでした」
老人の声は、この話をする間にも、またたくさんの歳を取ってしまったようにしわがれ、弱々しくかすれていた。
「そうして、もう三年近くがたってしまいました。セシリーの音沙汰はなにもありません。わしは、村の若者に頼んで、何度か西の森の廃墟へ行ってもらいました。しかし、誰もギルのいる廃墟の地下まではたどり着けませんでした。わしも何度か、自分で孫を助けに行こうと思ったこともありましたが、しかし、この婆さんを置いたまま、わしに万一のことがあったらと思うと、どうしても……」
老人と老婦のすすり泣く声が、ペトルの耳に響いてくる。
「ガシュウィンどの……どうか」
最後の気力をふり絞るような声で、老人が言った。
「あなたを騎士と見込んで頼みたい。どうか、孫を、セシリーを助けてはくれませんか。西の森の廃墟へ、わしらの代わりに行ってはくれませんか」
「どうか……お願いします」
老夫婦の哀願の声が、痛々しく震えていた。
「勝手な願いであることは、重々分かっております。ただ、わしらには誰も……もう誰も頼るものがおらぬのです。あの子がまで生きているのか、それとも、もうとうに死んでいるのか、それすらも分からぬまま、このまま毎日を過ごしていては気が狂いそうなのです。ギルを倒してほしいとか、セシリーを連れ帰ってほしいとか、それすらももう望みません。ただ、あの子がまだ生きているのかどうか、それだけでも分かれば……」
「……」
しばらくの沈黙のあと
「分かりました」
静かな声でガシュウィンが答えた。
外で聞いていたペトルも、扉の前で思わずはっとなった。
「騎士どの……それでは」
「お力になれるかは分かりませんが、ともかく西の廃墟へ行ってみましょう」
「おお、ありがとう。ありがとうございます」
「ただ……ひとつ条件というか、お願いしたいことがあります」
「おお、もちろん。なんなりとおっしゃってください」
「私がいない間、あの子を……ペトルをしっかりと守ってやってください」
ガシュウィンの言葉に、老人は即座に答えた。
「ああ、それはもちろんですぞ。ペトは我々の大切な、本当の孫のような子ですから。なあ、婆さんや」
「ええ、本当に……あの子が孫の、セシリーの生まれ変わりだったら、どんなによいでしょう。この頃はつい、そんなことを思ってしまって……」
「なにを言っているのだ、婆さん。セシリーは、もしかしたらちゃんと生きているかもしれないんだから。この騎士どのが、お助けしてくれるやもしれぬのだから。そのようなことは言うでない。セシリーはセシリー、ペトルはペトルじゃよ」
「ええ、ええ。そうですねえ……」
扉の外で老婦の言葉を聞きながら、ペトルはこみ上げてくるものをこらえていた。
(おじいさん、おばあさん……)
「では、さっそく明日の朝にでも出発することにしましょう。できれば、その廃墟までの道のりを詳しく教えていただいて……」
「待って」
ガシュウィンが言いおえる前に、少年は扉を開けていた。
「僕も……僕も行きます!」
「ペト……お前、聞いておったのか」
驚き顔で振り向く老人と老婦に、ペトルは言った。
「僕もセシリーを助けに行く」
「いかん。危険じゃよ、ペト」
「そうですよ。危ないからおやめ」
だが、少年は断固とした顔をして首を振ると、言った。
「おじいさん、おばあさん。ありがとう……僕にこんなによくしてくれて。見も知らない僕を、家に置いてくれて、とても親切に、優しくしてくれて、僕はとても嬉しかった」
あふれ出す言葉を大切に拾うように、ペトルは話しつづけた。
「暖かなパンや美味しいミルク、それに木の香りのする部屋で眠って、僕はほんとうに生きていてよかったと思った。こんなに、楽しく思えたのは、生まれてはじめてかもしれない。お祭りで笛を吹いたり、おばあさんの作ったパイやお菓子を食べたり、詩人さんは行っちゃったけど……でも、僕にはなにもかもがとても素晴らしくて、嬉しいことばかりだった。僕は、僕は……幸せです。おじいさんとおばあさんと一緒に過ごせて」
「ペト……」
「ペトや……」
老夫婦が涙ぐむ横で、ガシュウィンはじっと少年の言葉を聞いている。
「だから、僕は、今度は僕が役に立ちたい。セシリーのことを部屋の外で聞いていて、僕もとてもつらく悲しかった。そんな可哀相な子がいたんだって、彼女はおじいさんとおばあさんの本当の孫なのに、そんなつらいめに合っているんだって、そう考えたら、僕はただ待っていることなんてできないよ。僕も、僕もなんとかセシリーを助け出す手伝いがしたい。僕は、ここにきて初めて、人のためになにかをしたいと、本当に思うようになったよ。それもおじいさんとおばあさんのおかげ。二人は僕を、あの暗い塔にいた僕を、また人間に戻してくれたんだよ。だから、」
頬を真っ赤にしながらペトルは続けた。それはこの少年が、心の底からなにかを伝えたいともっとも願った一瞬だったかもしれない。
「ガシュウィン、僕を連れていってください。なぜだか分からないけど、僕はそうしなくてはならない。そんな気がするんだ!」
「……」
少年の言葉に腕を組み、騎士はしばらく黙り込んでいた。向かいに座る老夫婦も、ただ黙って心配そうにペトルを見つめている。
「村長ご夫妻……」
口を開いたガシュウィンは、その目に強い光をたたえていた。
「ペトルを、しばらく私がお預かりしてもよいでしょうか」
「ガシュウィンどの……それは」
「ご安心ください。ペトルは絶対に安全にお守りします。私の命に代えても」
その言葉に、ペトルは目を輝かせた。
「しかし、この子にもし、もしもものことがあったら……」
「必ずお守りします。どんなことをしても。それが……私の使命であるからです」
そう言った騎士の目を見て、老人はなにかを感じ取ったのだろうか。それ以上は反対の言葉を口にすることはしなかった。
「……分かりました。ではこの子を、どうかよろしく頼みます」
「そんな、おじいさん。この子をそんな危険なめに……」
「婆さんや。大丈夫じゃよ。このガシュウィンどのが、きっとペトルを守ってくれるじゃろう。この方は、どうやらなかなか立派な騎士でおられるようじゃ。信頼できるお人に違いない」
「恐れ入ります」
ガシュウィンは腰にあった剣の鞘を手にすると、それを顔の前にかざした。
「我が命と、すべての力をかけて、彼を守ることを誓います」
重々しくそう告げると、彼はペトルを見た。
「勇敢な少年。君の決意を尊敬する。なにがあろうとも、私は君を助けるだろう」
「ありがとう、ガシュウィンさん」
ペトルは笑顔でうなずいた。それから、そっと老婦の手をとる。
「おばあさん、大丈夫だよ。僕はきっと戻ってくるから。セシリーを連れて。ね、きっとだよ」
「ペト、ペトルや……」
涙声になる老婦の横で、老人が笑って言った。
「そうとも。わしらのペトルはまたすぐ帰ってくるさ。さあ、婆さん。泣いてばかりいないで。明日の出発の準備をしないとな。二人にもたせる弁当も作ってやらんと」
「はい、はい。そうですね」
老婦はうなずくと、涙を隠すように台所へ入っていった。それから老人は、囁くようにペトルに言った。
「婆さんはきっと、死ぬほど心配するだろうからな。なるべく早く帰ってきておくれ。なに、わしの方は大丈夫じゃ。むしろ、お前さんがそんなに勇敢な子どもだと知って、今は誇らしい気持ちだよ」
「おじいさん……」
涙ぐんだ少年の頭を撫で、老人は皺深い顔に笑顔を見せた。
「さあ、ペト。だが今はゆっくりお休み。明日に備えてな。ガシュウィンさんも、今日はここに泊まってゆくがいい。明日の朝は、せめて婆さんと二人で見送らせておくれ」
ステージからは詩人の声が陽気に響いてくる。その声はまるで枯れることがないように、レファルドは高らかに次の歌を歌いはじめる。人々の喝采と手拍子は続いてゆく。
広場の人々は、それぞれに踊ったり、ステージを見ながら食べたり、飲んだりと、祭りのひとときを大いに楽しんでいた。大人たちの中には、すでにそうとう酔っぱらっているものもおり、大声でげらげらと笑って、肩を叩き合うようなものもいた。今日ばかりは、つらい仕事のことは忘れ、日頃のうさをはらすように笑い、また酒を飲み、酔うだけ酔っても誰も文句は言わない。
祭りの夜はいよいよたけなわであった。
すっかり喉がかわいたペトルは、人々の間を通り抜けて、飲み物の屋台の前にきていた。
「おお、ぼうや。さっきの笛はなかなかだったねえ」
屋台のおじさんが、笑顔で声をかけてくる。
「ありがとう。ええと、レモンのはちみつ水わりをください」
「あいよ。ちょっと待ってな」
飲み物ができるのを待つ間、ペトルはなにげなく、広場の人々を見回した。
ふと見ると、広場の外れの暗がりに、一人の男が立っていた。その男は、さっきからこちらを見ているようだった。
(なんだろう……あの人)
男は、がっしりとして背が高く、顔はここからではよく見えなかったが、口許もとは黒々とした髭におおわれている。
(あっ……)
ペトルは思い当たった。
(あの男は、たしか木こりの……)
そうだ。昨日、村の入り口で老人と会い、その家に向かう途中にすれ違った、丸太をかついだあの木こりの男だ。そういえば、あのときもすれ違った自分の方を、じろりとすごい目で見ていた。そして今もまた、男は同じように、こちらをずっと見ているのだ。
(なんだろう。……なんだか、怖いな)
見知らぬ相手が、そうして自分の方をずっと睨むように見ているというのは、どうにもひどく不気味なことだった。
「はい、お待ち。はちみつレモン水だよ」
「あ、ありがとう」
飲み物を受け取って、少年が振り向くと……さっきまでいたはずの男は、もういなくなっていた。
(いない……)
いっそう不気味に思い、ペトルはもう一度辺りを見回した。だがもう、男の姿はどこにもない。
(なんなんだろう……)
少年は、思わずぞくりと体を震わせた。
(早く戻ろう)
ペトルは急いで、ステージ近くの老夫婦のもとへ走り出した。
夜遅くまで続くかに思われた祭りも、ようやく終わりの時が近づいていた。
人々が少しずつ帰りはじめると、広場からは騒がしさが薄れてゆき、舞台で最後の出番を待っていた芸人が、歌と踊りを披露し終える頃には、ステージ前に残っていたものたちも、ぞろぞろと家路につきはじめた。
酔っぱらった人々は、歌を歌いながら村の小道を歩いてゆき、屋台を閉めるものたちは、祭りの後の静寂とともに、それぞれに片付けを始める。こうしてまた、明日になれば、普段と変わらぬ日々が始まってゆく。
畑を耕し、家畜を育て、薪を拾い、粉を引く、そうした日々の暮らしが。ほんのひとときハメを外し、祭りの酒に酔って、たくさん笑い、歌い、踊って、人々は満足し帰ってゆく。自分の家へ。日々の生活へと。
ペトルもまた、いっときの興奮の名残にまだ頬を火照らせながら、老夫婦と詩人とともに木の上の家に帰ってきた。
「楽しかったかい?ペトや」
「うん、とっても」
「ほんと、よく吹けたねえ。上手かったよ」
老夫婦から頭を撫でられると、ペトルは嬉しそうにしながら、眠そうに目をこすった。
「今日は疲れたろう。もうお眠り」
「はい。おやすみなさい」
「では、僕も部屋で休ませてもらいます」
「はい、詩人さんも。おやすみなさい」
詩人のレファルドも、結局十曲以上は軽く歌って、こちらもさすがに少し疲れたような様子だった。ペトルは屋根裏の部屋へ、詩人はその下の階の客間へと、それぞれの寝床へ戻っていった。眠気と疲れとで、ペトルは部屋に入るやすぐに寝台に横になった。普段であれば、とっくに眠っているはずの時間である。
「ああ、でも楽しかったなあ……」
寝台から天井を見上げながら、そうつぶやく。
人々の拍手や手拍子、楽しそうなたくさんの笑顔が、今でも目の前に浮かぶようだった。そして自分は初めて、たくさんの人々の前で笛を吹き、つたないとはいえ詩人と合奏をしたのだ。少し恥ずかしかったが、音楽をやることの楽しさ、自分の音を出すということの心地よさは、とても不思議なものだった。これまで生きてきた中で、自分は忘れられない経験をしたのだ。ペトルはそう思った。
やがて、老夫婦も寝静まったのか、階下の方も静かになった。
明日の朝はまた、水汲みに出掛けて、薪を拾い集める手伝いをしなくては。少年はそう思い出し、眠ろうと目を閉じた。
しばらくして、ペトルがうとうととしかけていると、階下からかすかな物音が聞こえた。はじめは気にならなかったが、扉の開く音と、それに続いて階段を下りてゆく足音が聞こえた。
(詩人さんかな?どこかへゆくのかしら)
少年は寝台から体を起こし、眠い目をこすりながら部屋を出た。
階段を下りていって、下の部屋を覗いてみると、そこには誰もいなかった。詩人の荷物や竪琴も消えていた。
(まさか、詩人さん、行ってしまったの)
ペトルは、直観的にそう思った。
(でも誰にも言わず、こんな夜に出て行ってしまうなんて……)
いずれは詩人が旅立って行ってしまうだろうことは分かっていたが、別れの挨拶もしないまま、こんな形で行ってしまうなんて。
(そんなのいやだ……)
沸き起こる悲しさに突き動かされるように、ペトルは階段を下りた。老夫婦の寝ている部屋の前を忍び足で通りすぎ、家の外へ。
夜闇の中バルコニーから見下ろすと、広場を横切ってゆく詩人の姿が見えた。その後を追うように、少年も巨木の階段を駆け降りる。
(詩人さん……)
人けのない村の広場を、帽子をかぶり竪琴を背負った詩人が、振り返りもせずすたすたと歩いてゆく。その後を追いかけるペトルは、しだいに、自分も一緒についてゆきたいような気持ちになっていた。
レファルドが話してくれた旅の話は、少年にとっては憧れそのものだった。知らない場所に行って、知らない人々に会って、初めての町を見たり、初めての食べ物を食べたり。それはまさに、彼が本の中で見た、心踊る冒険そのものだった。
(僕も……僕も一緒に)
連れていってほしい。少年は心からそう思った。すっかり寝静まった村の小道を歩いてゆく詩人の後を、ペトルは月明かりを頼りに追いかけた。
「詩人さん」
村の出口の手前で、ペトルは思い切って詩人に走り寄った。
驚いた詩人が振り返る。
「な、なんだ。お前か……おどかすなよ」
「詩人さん、行っちゃうの?」
悲しげなペトルの顔を見て、レファルドは複雑そうな顔をしたが、やがて仕方なさそうにうなずいた。
「ああ、気づかれちまっちゃしょうがないな。まあ、どうせ朝になれば、この村ともおさらばだから、夜のうちに出ていくのも変わらないだろうと思ったんだが」
「そんな……だって、お別れのあいさつもしないで」
「ははっ、お別れのあいさつね」
詩人は笑って言った。
「そんなお行儀のいいことはオレたちはしないさ。祭りが終われば黙って出てゆく。そしてまた次の町へ。な、それがオレの生活なのさ。分かったかい、ペトルのぼうや」
少年の頭に軽く手をやると、詩人はまた歩きだした。ペトルもついてゆく。
村の外へ出たところで、詩人は立ち止まった。
「さあ、ここまでだ。わかったらもう帰りな」
「でも……」
だがペトルは、どうしてもこのまま帰りたくはなかった。
「でも、レファルドは……僕に笛と竪琴を教えてくれるって言ったよ。笛は教わったけど、竪琴はまだだよ」
「まあな。笛はともかく、竪琴はなかなか短い時間じゃ無理だ。でも笛の方は、初めてにしてはなかなかセンスが良かったぜ」
詩人は懐から縦笛を取り出すと、それを少年に手渡した。
「これをやるよ。もっと練習すれば、ずっと上手くなるぜ。もし今度会うときがあったら、また合奏しよう。じゃあな、ペトル」
そう言うと軽く手を振り、詩人は村の外へと歩きだした。ペトルはしばらくそこに立っていたが、詩人の姿が夜の暗がりに消えると、慌ててその後を追いかけた。
「詩人さん……レファルド、どこなの?」
夜の闇が広がる川沿いの道を、ペトルは詩人の姿を探しながら歩いていった。
だが、しばらく行っても、いっこうに詩人は見えなかった。
いつのまにか、前も後ろも真っ暗な闇に覆われていた。やはり村に戻った方がよかったろうか。そう思って少年が立ち止まったときだ。
すぐそばで、草を踏む音がした。
「詩人さん?」
振り返ったペトルは、暗がりの中に目をこらした。
だが、耳をすますと、近づいてくる足音はひとつではなかった。
「だ、誰……」
不安になって辺りを見回す。
息を殺すようなかすかな息づかいとともに、人の気配が近づいてくる。それも一人や二人ではなかった。
「……」
少年は恐ろしさにその場に立ちすくんだ。こんな夜中に、それも村はずれの林に囲まれた所に、どうしてこんなに人がいるのだろう。
そう思っていると、いきなり目の前に人影が現れた。
「わっ……」
声を出しかけた少年の口を、大きな手がふさいだ。
「お迎えに上がりました」
低い声が耳元で聞こえた。
少年がもがこうとすると、今度は両側から別の手が伸びてきて、体を押さえつけられた。手にしていた笛が草の上に落ちる。
「お静かに願います」
顔はよく分からなかったが、聞き覚えのない声だ。
「う……うう」
口を布できつく縛られると、もう声も出せず体も動かせなかった。
「よし。馬車まで連れていけ」
また男の声がして、ふわりと三人がかりで担がれると、少年はそのまま森の奥へと連れ去られた。
あとにはただ、夜の静寂が残るばかりだった。
雲に隠れていた月が夜空に顔を出した。
すると、近くの林の影から、一人の男がひょいと現れた。男は、川べりの道まで歩いてくると、少年が落としていった縦笛を拾い上げた。
「まあ、ちょっとかわいそうだったけどな……」
そう言って、笛をチョッキのポケットにしまう。月明かりに照らされたその顔は、詩人のレファルドであった。
「なんていうか、楽な仕事だったなあ」
懐から取り出したのは、じゃらじゃと音を立てる革袋だった。
「あのこどもと引き換えに、金貨五百枚とはね。こりゃ当分は遊んで暮らせるぜ」
幸せそうにつぶやくと、詩人は大切そうにまた革袋をしまった。
「月がきれいだ」
川べりに腰掛け、夜空を見上げる。
背負っていた竪琴を取り出してつまびきはじめると、誰も聞くもののない夜の川べりに、典雅な音色が響きだした。
ペトルは、自分がいったいどうされようとしているのか、まったく分からなかった。
暗闇から現れた数人の男たちに、いきなり捕まえられ、悲鳴を上げるいとまもなく、そのまま連れ去られたのだ。
(怖い……)
口を塞がれたペトルの目には、暗い林の木々と、わずかに星の見える夜空、それに不気味な男たちの横顔であった。
(僕は、どうなってしまうんだろう?)
身動きがとれない中で、ペトルはもがき、身じろぎをしようとした。しかし、両手足を左右からがっちりと捕まれては、少年の力ではどうにもならない。
男たちは何も言わず、ペトルの体を持ち上げて、足早に運んでゆく。
いったいどこへ。それに、彼らはいったい何者なのだろう?
(……ああ。きっとそうだ)
少年はようやく思い当たった。
(きっと……こいつらは、あの魔法使いの仲間だ)
(あいつが、僕を捕まえにきたんだ)
今ペトルに分かるのはただそれだけだった。
自分がこれからどこへ連れてゆかれるのか、どんなことをされるのか……そんなことまでは想像ができない。そして想像したくなどなかった!
(助けて……誰か)
少年は、心の中で必死にそう願った。
「よし、馬車はすぐそこだ。いいか、丁寧に運べよ。なにしろこのこどもは……」
男の声が途中で途切れた。
「どうした?」
「まてよ……おい。あそこにいるのは誰だ」
少年をかついだ男が、前方を指さした。それとほとんど同時に、
「うわっ。だ、誰だ!」
別の男の口から悲鳴が上がった。
つづいて、するどい剣の響きが上がり、
「ぎゃあっ」
「な、何者だ!」
男たちの叫び声と、荒々しく土を踏みしめる音が、ペトルの耳にも聞こえた。
気づくと、いつのまにか彼は草の上に放り出されていた。うっすらと目を開けると、男たちはそれぞれに剣を抜き、誰かを相手に戦っているようだった。
「きさま……いったい」
男の一人が剣を手に持ち、誰かを睨み付けている。どうやら相手は一人のようだが、かなりの腕前らしい。ペトルをさらった三人のうち、すでに一人は草の上に倒れていた。
「何者だ!答えろ」
怒りと驚きの混ざった声で、男が尋ねる。だが相手は無言のまま、ゆっくりと剣を構えると、俊敏な動きで踏み込んできた。
「わあっ!」
あっと言う間もなく、はね上げられた剣が地面に突き刺さり、男が倒れこむ。
「くそっ、貴様……」
最後に残った一人は、相手が手ごわいと見てか、じりじりと後退した。
「我等に歯向かうとは、どういうことになるか……分かっているのか?」
「分かっているとも」
静かな声が上がった。
「なんだと……きさま」
「その子どもは私が守る。そうゲルフィーに伝えるのだな」
「なっ、なんだと。きさま……なぜ、それを知って。きさま、いったい何者だ!」
「私は……私は、ガシュウィン。そう伝えれば分かるだろう」
草の上で意識を失う直前、ペトルはその名を耳にしていた。
(ガシュウィン……)
「覚えておくぞ、その名を。そして、このままで済むと思うなよ」
ペトルは最後に馬車が走り出す音を聞いた。
そして、そのまま気を失った。
次に目を覚ましたとき、部屋にはうっすらと夜明けの光が差し込んでいた。
何度か目をまたたいて、ペトルは目を開けた。そこは、見覚えのない小屋の中であった。
「気がついたか」
自分を覗き込む、相手の顔を見たとたん、少年は「あっ」と叫んで身を起こした。
目の前にいるのは、がっしりとした体格をした黒いひげの男……それは、村に入ったときにすれ違った木こりの男、そして祭りの夜にじっと自分を見ていた、あの男だった。
「あ、ああ……」
ペトルは恐ろしさに声を失った。小屋の隅の壁際を見ると、そこには、縄で縛られた詩人のレファルドがいた。
「詩人さん!」
ペトルが声をかけると、詩人は黙ったままこちらを向き、力なく笑いかけた。
「僕を……僕たちを、どうするの?」
ペトルは男から後ずさり、恐ろしそうに声を震わせた。
「落ちつけ」
低い声で男が言った。すぐそばには大きな剣の鞘が置いてある。
「私は、ガシュウィン。君の敵ではない」
「ガシュウィン……」
不思議とその名を聞くと、少し恐ろしさがやわらいだ。
そう……確か、気を失う前に聞いた名前。
「じゃあ、あなたが、さっきの……」
「そうだ。君はこの詩人にだまされて、奴らに連れ去られそうになったのだ」
「だまされて?」
「もう少し駆けつけるのが遅かったら、君はおそらく、ゲルフィーのもとに連れてゆかれていただろう」
「ゲルフィー……」
その名を聞いて、少年はぶるっと体を震わせた。
「安心しろ。やつはここにはいない。ここは、村のはずれにある水車小屋だ」
そう言われてみると、部屋の壁際には、大きな水車がゆっくりと回っていた。小屋の中には粉を引くための大きな石臼もある。確かにここは村近くにある水車小屋のようだ。
「もう夜も明けたから、もう少ししたら村に戻るといいだろう」
男の声はぶっきらぼうであったが、それでいて、不思議と信じられそうな響きがあった。それによく見れば、口もとはもじゃもじゃと黒い髭で覆われているが、目もとを見ると、意外と若そうにも見える。目つきは鋭く、まるで戦士のようだったが、こちらを見るときには少しだけ穏やかになる。
「……」
恐ろしい気持ちが消えてくると、ペトルはほっと息をついた。
「あの……じゃあ、あなたは僕を助けてくれたんですね。……どうもありがとう」
おずおずとお礼を言うと、男はにこりと笑ってうなずいた。
「なんの、それが私の務め……いや、そのようなものだ」
男はそう言うと、縛られている詩人を指さした。
「さて、あいつをどうする?君をだましていたんだぞ」
「そんな……詩人さんが?」
「革袋いっぱいの金貨を持っていた。それで君を売ったんだろう」
「まさか……」
ペトルには、それがどうしても信じられなかった。
「嘘。嘘だよね?詩人さん」
「……」
だがレファルドは何も言わず、ただじっと壁際でうつむいていた。
「金貨と引き換えに、こどもの命を売り渡すなど、許してはおけない」
木こりとは思えないするどい目で、男は詩人を睨み付けた。
「詩人さん……」
ペトルの声に、ようやく顔を上げたレファルドは、小さく「すまなかった」と、ひと言つぶやいた。
「どうする?君の気が済むようにするといい。私に命じれば、この場で斬り捨てるぞ」
男が剣の鞘に手をやると、詩人はびくりとして体を揺らせた。
「縄をほどいてあげて」
「いいのか?君をだましてしたんだぞ?」
「ううん」
ペトルは首を振った。
「詩人さんは、僕をだましてなんかいない。だって、僕に笛を教えてくれたもの。一緒にステージに立って、歌に合わせて演奏したんだよ。僕……すごく楽しかった」
「……」
レファルドは黙ったまま、少年を見上げた。
「だから、いいんだ。それに、また詩人さんは旅に出かけるんだから。お金だって必要でしょ」
「では、君は……金も、楽器も持たせて、この詩人を放してやれと言うのか?」
「うん。そうしてあげようよ。ガシュウィンさん」
「……」
男は少しの間、驚いたように少年を見つめていたが、それから、黙って詩人に近づくと、その縄をほどいてやった。
「さあ、行くがいい」
「……あ」
詩人はためらいがちに、金貨の入った革袋を受け取ると、ちらりと少年の方に目をやった。
「ありがとう、よ……」
うわずった声で言うと、いそいそと竪琴を背負う。少年の見る前で、詩人は逃げるように小屋から出ていった。
「これでよかったのか?」
ペトルはうなずいた。
「それから、ガシュウィンさん。本当にありがとう。あの……村で見たときから、あなたを怖い人だと思っていたけど、そうじゃなかったんだね。本当にごめんなさい」
「いや……さっきも言ったように、それが私の務め……いや、子どもを助けるというのは当たり前のことだしな。それに……」
そう言いなおすと、男は照れるように髭を撫でた。
「私のことは呼び捨てでいい」
「分かった。じゃあガシュウィンね」
「うむ」
「ガシュウィン」
その名を呼ぶと、なんとなく、とても安心できる気分がした。それはなんとも不思議な感覚だった。
「じゃあ、僕のこともペトルでいいよ」
「ペトル……ペトルか」
男はふっと笑い、つぶやいた。
「ふむ、いい名だな」
「そう?ありがとう」
少年は何故だか、しだいにこの男といるのが楽しくなってきた。
このガシュウィンは自分よりとても大きいし、歳もずっと上のはずなのだが、あまり緊張もせずに話せるし、それに、何を言っても許してくれそうな、そんな穏やかで大きな雰囲気があるのだ。
「ところで、ペトル」
ガシュウィンが、やや重々しい口調になってきりだした。
「実をいうと、私は元からこの村の木こりであったわけではない。実は、私はかつては王国に仕える騎士をしていたことがあった」
「へえ、そうなんだ」
少年は驚いて男を見つめた。
「うむ。前国王陛下の時代に、私は城に仕えていた。あの頃は、平和で豊かな日々だった。城の中は穏やかな空気と、高貴な威厳に満ち、町にはいつも楽しげな声と活気が溢れていた。だが、幸せな時代は長くは続かなかった」
ガシュウィンの眉間にぎゅっと皺が寄った。
「国王夫妻と王子殿下の相次ぐ失踪、そして王弟の即位……とくにあの、怪しい魔法使いが城に来てからは、王国は少しずつ、不気味な闇の中に取り込まれてしまった」
「……」
ペトルはごくりとつばを飲み込んだ。
男が話していることは、まさに彼自身が巻き込まれた事件に他ならなかったのだ。そして城を出る前に耳にした、あの女中たちの話が、再び耳の奥でよみがえってくるのだった。
(国王夫妻はね……処刑されたのよ)
ペトルは、ぎゅっと拳を握りしめていた。
そんな少年の様子を見つめながら、男はまた話しだした。
「私は、最後まで王弟とゲルフィーに逆らい、ついに城を追われた。そして三年ほど前から、この村のはずれに住むようになり、木こりとして暮らしていたのだ」
「そうなんだ。ガシュウィンも……大変だったんだね」
男の話と城を出てきた自分と重ねるように、ペトルはつらそうに声を震わせた。
「ふむ。私自身はどうということもないが、城に置いてきた妻のことが気掛かりでな。あれも城で女中をしているので、いつゲルフィーに目をつけられるかと心配なのだ」
「女中……」
ふと、城の廊下で見かけた二人の女中のことが思い出される。
「しかし、ともかくも私は、またこうして、城の追手を追い払い、ゲルフィーの敵となったわけだ。ところで、聞いてもよければ、ペトルはどうして追われているのだ?」
「そ、そんなの……わからないよ」
ペトルはあわてて首を振った。自分が王子として、あの魔法使いに捕らわれ、塔から逃げ出してきた、などとはとても言えなかった。それに、ドラゴンのことや……もうひとつ、魔法の鍵のこと……
「あっ。な、ない!」
ペトルは、そのときはじめて、胸元にあるはずのペンダントがなくなっているのに気づいた。
「僕の……鍵が」
「これのことか?」
ガシュウィンが差し出した手の中に、きらりと光る銀色の鍵があった。
「さっき、君を襲った男の一人が持ち去ろうとしていたのだ」
「あ……」
男の手から鍵を受け取ると、ペトルはそれを大切そうに握りしめた。
「それは、なにか特別なものなのかな?」
「こ、これは……あの」
ペトルは口ごもった。
「言いたくないのなら、いいさ。それはきっと、君の大切なものなんだろう」
「う、うん……」
魔力を持った銀の鍵。ドラゴンと友達になれた大切な鍵……ペトルは、それをまたしっかり首にかけた。
「さて、そろそろ村の連中も起き出すころだろう」
男はゆっくりと立ち上がった。
「村長の家まで送ろう。立てるか?」
「うん」
差し出しされた大きな手を握ると、もうなんの心配もないのだと思えた。
「ペト、ペトルや」
村の広場まで来ると、巨木の家の前に老夫婦が立っていた。
「おじいさん!おばあさん!」
ペトルは駆け寄って老夫婦に抱きついた。
「ペトルや。心配したぞ。朝になったらお前がいなくなっていたから」
「ごめんなさい、おじいさん」
目にいっぱいの涙をためた少年の頭を、老人は優しく撫でた。
「いいんじゃよ。お前がこうして無事に戻ってきたんだから」
「うん。本当にごめんなさい」
「なにも怖いことはなかったかい?」
老婦が尋ねるのにうなずいて、ペトルはガシュウィンを紹介した。
「この人が助けてくれたんだよ」
「お前さんは……」
老人の前で、ガシュウィンはうやうやしく頭を下げた。
「ガシュウィンと申します。村長」
「おお、確か木こりの……」
老人はしげしげと男を見た。
「ええ。ペトルくんは、明け方村を出ていった詩人の後を追って、村の外へ出てきたのですが、そこで山賊かなにか……ならずものに連れ去られそうになっていたのです」
「おお、なんということだ」
「私は、そこを偶然通り掛かったものですから、ならずものを追いやって、彼を連れ帰ってきたのです」
「なんと……そうだったのか」
ことの成り行きを理解したように、老人は何度もうなずく。
「詩人を追って……そうか、ペトや、お前はあの詩人がたいそう気に入っておったからな。それに、そうか……お前さんが、ペトを助けてくれたのだな」
男に対して、老人は初めて笑顔を見せた。
「これは本当に礼をいわねばなるまいて。わしと婆さんは、ペトがいなくなってしまったと、それは大騒ぎをはじめるところだったのだからな。本当にありがとう、ガシュウィンさんや」
「いいえ。私はただ、己の使命にそって行動したまで」
頭を下げるガシュウィンの横で、ペトルが自慢そうに言った。
「ガシュウィンはね、もとはお城の騎士さんだったんだって」
「ほう、それは本当ですかの」
目を丸くする老人に、ガシュウィンは穏やかに言った。
「ええ。ただ、もう昔のことですので」
「そうか。騎士殿か……ふむ、そうだったのか」
老人は白い髭に手をやりながら、何度かうなずいた。
「まあ、ともかくペトも帰ってきたんじゃ。いったん家に入ろう。そあ、ガシュウィンさんも一緒に来てくだされ。おい、婆さん、お茶の支度だ。いや、食事の方がよかろう。ペトもお腹が空いているだろうね。婆さんや、まだパイの残りはあったかの。さ、ガシュウィンさん、こちらへ」
「かたじけない」
パンやクルミのパイなどをいくつもたいらげると、少年はすっかり満腹になってほっと息をついた。隣に座るガシュウィンの方は、一切れのパンとミルクだけで、もう充分というように、老夫婦に丁重に礼をいった。
「もういいのかな?ガシュウィンどのは。もっとお食べなさい。パイはどうかな?」
「いえ。もうこれで充分です。美味しいパンをいただきました」
「そうかの。では今お茶を入れさせよう。婆さんや」
「はいはい」
夫人が台所へ立ってゆくのを待って、老人はやや声を落として言い出した。
「ところで、さきほど言っておった、ペトルを襲った山賊というものたちのことだがの」
実際には、少年を連れ去ろうとしたのは山賊ではなく、城からの追手であったのだが、あまりことを大きくしない方がいいというガシュウィンの判断で、それは隠しておくことにしたのだった。
「それはどのような輩だったのだ?」
「それは……」
ガシュウィンは、どう説明したらいいものかと、いったん考えるように言葉を切った。
「もしかして、それはあのギルではなかったろうな?」
「ギル?」
「うむ。お前さんも噂だけは聞いたことがあろう。西の森の廃墟に住む巨人のことを」
「ああ……見たことはありませんが」
「ギルのやつはな、年に何度か周りの村を襲うのだ。この村ももう何度も襲われた」
そう話す老人の声には、怒りと恐ろしさが混じっていた。
「畑を荒され、家を壊され、家畜や食べ物を根こそぎ奪ってゆく、悪魔のような奴だよ。身の丈は三メートルはあろうかという巨人でな、力は牛よりもはるかに強い。わしらではとうてい太刀打ちができん怪物じゃよ。この家をこんな巨木の上に建てたのも、ギルが村にきたときに、ここに村人たちを逃げ込まれるためなのじゃ」
「なるほど、そうでしたか」
うなずいたガシュウィンも、ペトルも、この家がどうしてこんな高い木の上にあるのかを、ようやく納得したのだった。
しかしペトルの方は、それ以上に「巨人」という言葉に、とても興味を持った。
(巨人さんか……いったいどのくらい大きいんだろう)
少年らしい冒険心とともに、未知のものへの尽きせぬ興味が、ふつふつと沸いてくる。
(まさか、あのドラゴンさんみたいに大きいのかな。そんな人が、この世に本当にいるのかしら)
そんなことをペトルが思っていると、
「ペトや、もう食事はすんだかの?」
「う、うん」
「それではすまんが、ちょっと向こうへ行っていてくれるか。いや、いろいろとあって疲れたじゃろうから、部屋へ上がって休んでいるといい。そうしなさい」
老人の言葉は優しかったが、少しだけ命令に近いものが含まれていた。
「はい」
ペトルは立ち上がり、老人とガシュウィンを残して部屋を出た。後ろ手に扉を閉めながら、しかし、ペトルはそのまま階段を上ってゆく気にはなれなかった。
「……」
悪いこととは知りながらも、彼はこっそりと扉に耳を当てた。
長い塔での暮らしで、少年はかすかな物音や声などを、敏感に聞き取ることができる。耳をすますと、扉の向こうから、老人の話す声が聞こえてきた。
「ほんとうに、あの子を助けてもらって、感謝しています。ガシュウィンどの。なにしろあの子は、今ではもう、なんだかわしらの本当の孫のような気がしているんです。なあ、婆さんや」
「ええ、本当に。あの子は……セシリーがいなくなってから、私たちのもとに来てくれた、私達の新しい孫のような、そんな気がしているんです」
「婆さんや、このガシュウィンどのになら、話してもよいのではないかと思う。この方は、お城の騎士様だったそうじゃ。ペトを助けてくれたのだから、お強くて、度胸もおありになる。わしは、ガシュウィンどのにお願いしたいのじゃ。どうかの?婆さんや」
「ええ、ええ。そうしましょう。私達にはもう、なにも頼るものがないのですから」
老夫婦の声には、これまで少年の前では見せなかった、深い悲しみが込められているように思えた。
「はじめからお話しましょう」
老人は話しだした。
「私らにはセシリーという、十歳になる孫がおりました。生きていれば今年で十三歳になります。セシリーの母親はとても病弱な女で、セシリーが三歳のときに亡くなりました。それ以来、セシリーはわしとこの婆さんとで、それは大切に育ててきたのです」
「ええ。セシリーは明るくて、とても活発な女の子でした。蜂蜜のような金色の髪を結ってやると、それは嬉しそうにして走り回っていました。それに歌が好きで、どんなときでも楽しく歌を歌っていました。それが……そんなあの子が、どうして……」
老婦の声が涙まじりになった。
「婆さんや。泣くのはおよし。上にいるペトルにも聞こえてしまうよ」
「そうですね。はい……」
少し間をあけて、また老人は話し続けた。
「セシリーはすくすくと育って、十歳になるころには、水汲みや薪拾い、それに料理の手伝いもしてくれるようになりました。今のペトルのように。わしと婆さんは、ますます幸せに思って、神様に感謝しながら、これからもこの村で、三人で楽しく暮らしていけるとばかり思っていたのです。しかし……一昨年のことです。ギルがこの村に現れたのは」
「ギル……巨人に襲われたのですか」
「ええ。奴は、最初は村の畑を荒らし、食料を持ちかえるだけだったのですが、次に来たときには牛や豚を襲い、そして、三度目にきたときに……奴は、あの怪物は、こともあろうに孫のセシリーをさらっていったのです」
老人の声が震えていた。
「やつめ……あの巨人めは、セシリーを……おお、忘れもしない、我々の目の前であの子を肩にかつぎ、家を踏みつぶして去っていったのです」
「……」
扉の外で、ペトルはぐっと息をのんだ。
部屋の中からは、老人の震える声とともに、老婦の嗚咽も聞こえてきた。
「家を壊され、食料、家畜を奪われ、そして孫までさらわれた。我々は絶望し、怒り、涙にくれました。娘を、セシリーを返してほしいと、毎日神に祈りながら暮らしました。あのときから、私たちの心にはぽっかりと大きな穴が開いてしまいました。毎日、毎日、わしは沈みゆく太陽を見つめ、明日はきっと孫が帰ってくると希望しました。孫は、セシリーは、きっと生きているとそう信じて。しかし、セシリーは、帰ってきませんでした」
老人の声は、この話をする間にも、またたくさんの歳を取ってしまったようにしわがれ、弱々しくかすれていた。
「そうして、もう三年近くがたってしまいました。セシリーの音沙汰はなにもありません。わしは、村の若者に頼んで、何度か西の森の廃墟へ行ってもらいました。しかし、誰もギルのいる廃墟の地下まではたどり着けませんでした。わしも何度か、自分で孫を助けに行こうと思ったこともありましたが、しかし、この婆さんを置いたまま、わしに万一のことがあったらと思うと、どうしても……」
老人と老婦のすすり泣く声が、ペトルの耳に響いてくる。
「ガシュウィンどの……どうか」
最後の気力をふり絞るような声で、老人が言った。
「あなたを騎士と見込んで頼みたい。どうか、孫を、セシリーを助けてはくれませんか。西の森の廃墟へ、わしらの代わりに行ってはくれませんか」
「どうか……お願いします」
老夫婦の哀願の声が、痛々しく震えていた。
「勝手な願いであることは、重々分かっております。ただ、わしらには誰も……もう誰も頼るものがおらぬのです。あの子がまで生きているのか、それとも、もうとうに死んでいるのか、それすらも分からぬまま、このまま毎日を過ごしていては気が狂いそうなのです。ギルを倒してほしいとか、セシリーを連れ帰ってほしいとか、それすらももう望みません。ただ、あの子がまだ生きているのかどうか、それだけでも分かれば……」
「……」
しばらくの沈黙のあと
「分かりました」
静かな声でガシュウィンが答えた。
外で聞いていたペトルも、扉の前で思わずはっとなった。
「騎士どの……それでは」
「お力になれるかは分かりませんが、ともかく西の廃墟へ行ってみましょう」
「おお、ありがとう。ありがとうございます」
「ただ……ひとつ条件というか、お願いしたいことがあります」
「おお、もちろん。なんなりとおっしゃってください」
「私がいない間、あの子を……ペトルをしっかりと守ってやってください」
ガシュウィンの言葉に、老人は即座に答えた。
「ああ、それはもちろんですぞ。ペトは我々の大切な、本当の孫のような子ですから。なあ、婆さんや」
「ええ、本当に……あの子が孫の、セシリーの生まれ変わりだったら、どんなによいでしょう。この頃はつい、そんなことを思ってしまって……」
「なにを言っているのだ、婆さん。セシリーは、もしかしたらちゃんと生きているかもしれないんだから。この騎士どのが、お助けしてくれるやもしれぬのだから。そのようなことは言うでない。セシリーはセシリー、ペトルはペトルじゃよ」
「ええ、ええ。そうですねえ……」
扉の外で老婦の言葉を聞きながら、ペトルはこみ上げてくるものをこらえていた。
(おじいさん、おばあさん……)
「では、さっそく明日の朝にでも出発することにしましょう。できれば、その廃墟までの道のりを詳しく教えていただいて……」
「待って」
ガシュウィンが言いおえる前に、少年は扉を開けていた。
「僕も……僕も行きます!」
「ペト……お前、聞いておったのか」
驚き顔で振り向く老人と老婦に、ペトルは言った。
「僕もセシリーを助けに行く」
「いかん。危険じゃよ、ペト」
「そうですよ。危ないからおやめ」
だが、少年は断固とした顔をして首を振ると、言った。
「おじいさん、おばあさん。ありがとう……僕にこんなによくしてくれて。見も知らない僕を、家に置いてくれて、とても親切に、優しくしてくれて、僕はとても嬉しかった」
あふれ出す言葉を大切に拾うように、ペトルは話しつづけた。
「暖かなパンや美味しいミルク、それに木の香りのする部屋で眠って、僕はほんとうに生きていてよかったと思った。こんなに、楽しく思えたのは、生まれてはじめてかもしれない。お祭りで笛を吹いたり、おばあさんの作ったパイやお菓子を食べたり、詩人さんは行っちゃったけど……でも、僕にはなにもかもがとても素晴らしくて、嬉しいことばかりだった。僕は、僕は……幸せです。おじいさんとおばあさんと一緒に過ごせて」
「ペト……」
「ペトや……」
老夫婦が涙ぐむ横で、ガシュウィンはじっと少年の言葉を聞いている。
「だから、僕は、今度は僕が役に立ちたい。セシリーのことを部屋の外で聞いていて、僕もとてもつらく悲しかった。そんな可哀相な子がいたんだって、彼女はおじいさんとおばあさんの本当の孫なのに、そんなつらいめに合っているんだって、そう考えたら、僕はただ待っていることなんてできないよ。僕も、僕もなんとかセシリーを助け出す手伝いがしたい。僕は、ここにきて初めて、人のためになにかをしたいと、本当に思うようになったよ。それもおじいさんとおばあさんのおかげ。二人は僕を、あの暗い塔にいた僕を、また人間に戻してくれたんだよ。だから、」
頬を真っ赤にしながらペトルは続けた。それはこの少年が、心の底からなにかを伝えたいともっとも願った一瞬だったかもしれない。
「ガシュウィン、僕を連れていってください。なぜだか分からないけど、僕はそうしなくてはならない。そんな気がするんだ!」
「……」
少年の言葉に腕を組み、騎士はしばらく黙り込んでいた。向かいに座る老夫婦も、ただ黙って心配そうにペトルを見つめている。
「村長ご夫妻……」
口を開いたガシュウィンは、その目に強い光をたたえていた。
「ペトルを、しばらく私がお預かりしてもよいでしょうか」
「ガシュウィンどの……それは」
「ご安心ください。ペトルは絶対に安全にお守りします。私の命に代えても」
その言葉に、ペトルは目を輝かせた。
「しかし、この子にもし、もしもものことがあったら……」
「必ずお守りします。どんなことをしても。それが……私の使命であるからです」
そう言った騎士の目を見て、老人はなにかを感じ取ったのだろうか。それ以上は反対の言葉を口にすることはしなかった。
「……分かりました。ではこの子を、どうかよろしく頼みます」
「そんな、おじいさん。この子をそんな危険なめに……」
「婆さんや。大丈夫じゃよ。このガシュウィンどのが、きっとペトルを守ってくれるじゃろう。この方は、どうやらなかなか立派な騎士でおられるようじゃ。信頼できるお人に違いない」
「恐れ入ります」
ガシュウィンは腰にあった剣の鞘を手にすると、それを顔の前にかざした。
「我が命と、すべての力をかけて、彼を守ることを誓います」
重々しくそう告げると、彼はペトルを見た。
「勇敢な少年。君の決意を尊敬する。なにがあろうとも、私は君を助けるだろう」
「ありがとう、ガシュウィンさん」
ペトルは笑顔でうなずいた。それから、そっと老婦の手をとる。
「おばあさん、大丈夫だよ。僕はきっと戻ってくるから。セシリーを連れて。ね、きっとだよ」
「ペト、ペトルや……」
涙声になる老婦の横で、老人が笑って言った。
「そうとも。わしらのペトルはまたすぐ帰ってくるさ。さあ、婆さん。泣いてばかりいないで。明日の出発の準備をしないとな。二人にもたせる弁当も作ってやらんと」
「はい、はい。そうですね」
老婦はうなずくと、涙を隠すように台所へ入っていった。それから老人は、囁くようにペトルに言った。
「婆さんはきっと、死ぬほど心配するだろうからな。なるべく早く帰ってきておくれ。なに、わしの方は大丈夫じゃ。むしろ、お前さんがそんなに勇敢な子どもだと知って、今は誇らしい気持ちだよ」
「おじいさん……」
涙ぐんだ少年の頭を撫で、老人は皺深い顔に笑顔を見せた。
「さあ、ペト。だが今はゆっくりお休み。明日に備えてな。ガシュウィンさんも、今日はここに泊まってゆくがいい。明日の朝は、せめて婆さんと二人で見送らせておくれ」
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