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2.ドラゴンと風の鍵

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「う……ううん」
 目を開けたとき、少年は自分がどこにいるのか分からなかった。
 頭上には夕焼けの空が広がっていて、体はまるで空を飛んでいるようなふわふわとした感覚がある。
 涼しい風が頬をなでつけた。
「僕は、死んでない……」
 それだけは分かった。そして、自分のいるところが、なんだか緑がかったとても固いものの上だということ。
 ふと左右を見ると、長い……長い翼がはためいている。
「あ、ああ……」
 少年はようやく知った。自分のいるのが、巨大な、巨大な竜の背中だったのだと。
「ドラゴン……さん?」
 信じられないように声を震わせ、つぶやく。すると、長い竜の首がかすかに傾いた。
「僕を……助けてくれたの?」
 つやつやとした緑色のうろこに手を触れてみる。表面は固かったが、なんとなくそれが生き物であると分かるような、なめらかな手触りだった。
 後ろを見ると、尖った背びれのようなたてがみが、長い尾の先まで生えていて、その尻尾の長さは、あの高い塔の半分ほどは優にあるくらいだった。少年はすっかり驚きながらも、すべてを理解した。本当に、このドラゴンが自分を助けてくれたのだと。
(これは夢じゃない……)
(僕は、ドラゴンさんの背に乗って、空を飛んでいるんだ)
 後方には、すでにあの塔は小さくかすみ、辺りに見えるのは広大な森と、夕日に映える山々であった。
(ああ、すごい……。世界はこんなに広いんだ)
 竜の背につかまりながら、少年は彼方に広がる森や草原をうっとりと眺めた。美しい世界……光と影に彩られた、自然の景色。
(これを見られたんなら、僕はもう……死んでもいい)
(ありがとう、ドラゴンさん)
 そのときだった。
(王子よ)
 頭の中で、声が響いた。
(青き血をひく気高き王子よ)
「だ、誰?」
 少年は思わず辺りを見回した。
 あまりにも、その声がはっきりと聞こえたので、てっきりそばに誰かがいるのかと思ったが、そうではなかった。
(王子よ)
 竜の首が横を向いた。その大きなコハクのような目が少年を見た。
「ド、ドラゴンさん?」
(声に出さずともよい)
 またはっきりとした言葉が頭の中に聞こえた。
(我はその内なる言葉を聞く。そして語りたい相手に言葉を語る)
 まるで歳を経た賢者のような、それは重々しい声だった。
(風の鍵を手にした守護者として、そなたを認めよう。なんなりと我に命じるがいい)
「風の鍵?……もしかして、これのこと」
 少年は、手の中にずっと握りしめていた銀色の鍵をとり出した。
(風の鍵は風の一族を司る。我は風の竜)
「風の……」
 少年は不思議そうにつぶやき、その鍵を見つめた。
(大地の鍵、水の鍵、火の鍵、そして風の鍵。それらを手にしたとき、この世界の全てを変える力を持つことができる。我ら竜の一族は、その守護者を見守り、あるいは見分け、それにふさわしいものを選ぶ役目もになうものなり)
 ドラゴンの言葉はよく分からなかったが、少年は息を吸い込むと、おそるおそる訊いた。
「じゃあ、この鍵があれば、僕の言うことをなんでも聞いてくれるの?」
(そのように考えてかまわぬ)
 ドラゴンは言った。
(なんなりと命じるがよい、王子よ)
(それに、そう……そなたの乗せ心地は、そう悪くはないようだ)
 その目が、かすかに笑ったようにも見えた。
(我の使命は守護と選択。そなたが風の鍵を持つかぎり……)
「じゃあ、じゃあ僕ね……」
 少年は、こみ上げてくるその願いを口にした。
「家に……帰りたい」
「僕の家……母様のいる、家に」

夕暮れに溶け込む空を、竜の背に乗って飛び西へ。果てし無いかと思われる森を越えると、その先に美しい城が見えた。
 堅固な城壁にぐるりと囲まれ、整然とした屋根屋根が立ち並ぶ城塞都市は、空から見ると素晴らしく壮麗だった。
 町を見下ろす、その一段高い丘の上に王城はあった。美しい白壁を持つその城は、そびえ立ついくつもの尖塔群に守られるように囲まれており、塔の尖った青屋根には、王国の紋章であるえんじ色の鷲が、はためく流旗の中に睨みをきかせている。
 しだいに近づいてくる城を見つめながら、少年が声を上げた。
「そうだ……あれが僕の、僕のお城だよ」
 暮れゆく夕日の最後の残照を受け、光と影の中に美しく浮かび上がる王城の姿。それをこうしてドラゴンの背中にしがみつき、上空から眺めていることが、少年にとっては信じられない気持ちだった。
「母様……父様」
 思わずこみ上げてくるものに声を震わせる。
 なつかしい自分の城。忘れかけていたそこでの思い出が、蘇ってくるようだった。
 物見の塔のてっぺんに上ってじいやに怒られたこと。城の裏にあるお堀りでは釣りを教えてもらったこともあった。城壁の外の畑では秋になれば美味しいブドウがたくさんとれたし、西の森には毎年行われる五月祭の思い出がたくさんある。
「ああ……」
 たまらず、少年は胸をつまらせた。
 まさか、あの塔からここへ戻って来られる日がくるとは!
(母様に会えるんだ。やっと、やっと……)
 ドラゴンは少年をその背に乗せ、城の上空を周りながら、少しずつ高度を下げてゆく。空から舞い降りてくる姿を、城の人間に見られないよう、まるで注意を払っているかのように。
 城の天守に近い、いわば張り出しに造られた空中庭園に、ドラゴンはすべるように着地した。城の窓には明かりが灯っていたが、この庭園の辺りには人けはなく、あたりは静まり返っている。まさか巨大な竜がこんなところに降りてくるとは、誰も思わないだろう。
 翼をたたんだドラゴンが、首をしゃくって少年をうながした。それはまるで「降りろ」という合図のようだった。
 少年は、背中をつたって尻尾の方からすべり降りた。
 見晴らしのよい高い場所に造られたこの庭園は、灌木や草花が植えられた土の地面を囲むようにして、石畳の歩廊が整えられ、城に住むの人間たちの贅沢なくつろぎの場所になっている。よくここで遊んだことがあるので、久しぶりに見る庭園からの景色が、彼にはとてもなつかしい。
「ああ、あんまり変わってないや」
 ここから見える、城を囲む塔たちはとても美しく、父と一緒によくこの景色を眺めたものだ。城の周りを囲む町並みには、日暮れとともに明かりが灯り、そこではたくさんの人々が暮らしているのが分かる。城壁の向こうには、夕闇に包まれ始めた森が広がり、また朝になれば、その森の向こうから輝く太陽が顔を覗かせるのだ。
 少年の記憶にある光景は、そのほとんどがこの城とともにあった。ここは彼が生まれ育ち、父と母とともに暮らしてきた家でもあるのだった。
(ゆくがいい王子よ)
 ドラゴンの声が頭に響いた。
(自らのさだめとともに)
(己の世界を見て、知るべきことを知るがいい)
「ドラゴンさん……もう少し、ここにいてくれる?」
 もじもじと少年は言った。このままドラゴンと別れてしまうのは、不安な気がした。いったい自分は、どれくらいぶりにこの城に戻ってきたのか、それすらも分からないのだ。
 少年の思いを感じたように、ドラゴンは翼をたたみ、まるで彫像のように動かなかった。それの姿はまるで、(いいとも。そなたが戻ってくるまで、ここにいよう)とでも言ってくれているようだ。
 少し安心すると、少年は庭園の歩廊を歩きだした。
 天守への入り口には誰もいなかった。城下を見下ろす空中庭園から、よもや外の人間が入ってくることはありえないであろうから、それも当然ではあったが。
 城内に入ると、彼はなつかしそうに辺りを見回した。
 銀の燭台に飾られた石壁の回廊は、ほんのりとハーブの香りがして、あの塔のようなじめじめとした嫌な匂いはしなかったし、城の中は夜になってもたくさんの蝋燭がともされ、今の彼にとっては驚くほど明るく思われた。足元の絨毯は、ここが王族の居城であることを物語るように、とてもふかふかとしていて、少年の心を浮き立たせてくれた。
 どこもかしこも、記憶の中にある城の景色とまったく変わらない。
(僕は……帰ってきたんだ)
 じわりと涙が出そうになるのを必死にこらえる。母様に会うまでは、泣くものか……彼はそう思って、必死に笑顔を浮かべた。
 階段を上り、いくつかの回廊を抜けると、しだいに人の気配が感じられてきた。廊下の突き当たりに見える扉のひとつへ向かって、少年は歩きだした。
 その扉の前に立つと、中からは楽しそうな声がもれ聞こえてくる。この部屋は、彼が父や母とともに食事をしていた部屋であった。
(母様、父様……)
 少年の頭の中には、暖かな記憶がよみがえってくる。
 湯気のたつスープに、焼きたてのパン、狩りでしとめた鹿やキジの焼き肉、なしのパイにきれいな砂糖菓子……それらたくさんの料理を、その日あったことを父や母に話しながら、満腹になるまで食べたものだ。眠くなれば、清潔な亜麻布がしかれたベッドで眠り、朝が来ればまた、楽しい一日が始まるのだ。パーティや大きな宴会などのある時には、城の人間全員とお客をまじえて、大広間でのにぎやかな食事になるのが普通だったが、そうでない時の方がむしろ少年は好きだった。この部屋での家族だけでのささやかな夕食の時は、父も母もいつも楽しそうに笑っていたし、少年の話をたくさん聞いてくれた。
 この扉を開ければ……
 そうすれば、きっと、また元通りの時間が始まる。
 少年はそう信じた。
「父様……母様」
 期待と緊張に震える手で、彼は扉を開けた。
 部屋の明るさに、まず少年は立ちすくんだ。たくさんの蝋燭の灯が輝くシャンデリア、テーブルの上には彼の想像する通りの出来立ての料理が湯気を立てている。
 だが、聞こえてきた楽しげな話し声は、彼の期待した人々のものではなかった。
 部屋は彼の知る通りの部屋で、テーブルの位置も、壁に飾られた城の絵も、暖炉の横の鎧の置物も、母の気に入りだった大きなタペストリーも、すべて同じ場所にあった。ただ、テーブルの周りに座っている人々だけが、彼の見知らぬ顔をしていた。そこにいたのが誰なのか、はじめ彼にはまったく分からなかった。
(母様……父様、どこ?)
 少年は、一瞬、自分が別の城に来たのかと思ったが、そうでないことくらいはすぐに分かった。そして、そこにいた人々の顔も、自分の記憶の中にある人間であることが、ようやく思い出されてきた。
「お前は、誰だ?」
 それまで愉快そうに談笑していた男が、少年に気づいたようにこちらを見た。男は、錦織りの立派なローブ姿で、頭にはまるで王のように金の冠をしている。
「どうしましたか?あなた」
 その隣に座る女性もこちらを振り向いた。女は、金糸のししゅうの入った豪奢なドレスに身を包んで、胸元にはたくさんの宝石をぶら下げている。
「見ろ、乞食がいるぞ」
「乞食ですって?」
 男の言葉に声を上げたのは、その向かいに座る、可愛らしい少女であった。ピンク色の綺麗なサテンの胴着を着た少女は、こちらを見て少し驚いたように口に手を当てた。
「おい乞食の子供。いったいどこから入ったのだ?」
 冠の男にそう訊かれて、少年は思わず後ろを振り返った。
 その男が乞食と言うのは、どうやら自分のことらしい。
「いえ。あの……僕、」
 少年は口ごもった。
「まあ、汚らしい子供だこと。こんな子、お城にいたかしら」
「さあな、下働きか、さもなくば調理場の見習いかなにかだろう」
 顔をしかめて言い合っている、その男と女……それが誰なのか、やっと少年には分かった。以前に父から紹介されて、何度か会ったことがある。
(叔父……さん)
 口のなかでつぶやく。それは王であった父の弟夫婦だった。
「おい、乞食か下働きか知らんが、ここに入ってきてはだめだと、誰かから言われなかったのか?」
「あなた。早く衛兵を呼んで、つまみ出してもらいましょう。せっかくのお食事がまずくなるわ」
「あの……僕は、違うんです、あの……」
 少年はなんと言っていいのか分からず、言葉につまってまた口ごもった。どうやら叔父は、自分のことに気づいていないようだ。長いことずっと会っていなければ、それも仕方ないのかもしれない。
「よし。おい衛兵……」
「待って」
 声を上げたのは、向かいに座る少女だった。黒い髪をまっすぐに肩まで伸ばした、やさしそうな目をした少女だ。
 叔父夫妻には、自分よりも二つか三つくらい年上の娘がいたことを、少年は思い出した。ずっと前であったが、一度か二度だけ一緒に遊んだことがある。だが目の前のこの少女は、記憶の中の姿よりもずっと綺麗で、それに大人びて見えた。
「待って、お父様」
「なんだね。ルリカや」
 そう名を呼ぶ叔父の顔つきは、大切なものを見るときの甘い表情に変わっていた。
「……」
 ルリカ。確かにそんな名前だったと、少年は思い出した。
「衛兵に追い出させるなんて、可哀相だわ」
 少女が言った。
「そうかね。しかしこんな乞食の子供は、ここにきてはいけないんだ。ここは我々の城、我々の場所なんだからね」
「でもお父様。この子、なんだかお腹かすいているみたいだわ」
 そういえば、そうかもしれないと、少年は腹に手を当てた。小さくぐうと腹が鳴った。
 少女がくすりと笑った。
「ね。だからちょっと一緒に、ここでなにか食べていくといいわ。いいでしょう?お父様」
「しかし、ルリカや」
「ねえ、君」
 少女の目がこちらを見た。
「あ、あの……ええと」
 少年はぱっと顔を赤くした。
「あら……」
 少女が首をかしげた。
「ねえ、お父様……」
「なにかね。愛しい娘よ」
「この子……なんだか、ほら、似ていない?」
「似ている?誰にだね」
 あまり興味がなさそうに、叔父がちらりと少年を見た。
「セトールよ」
「なに?」
「セトール、あの子よ。なんだか、ほら目のあたりとか」
「馬鹿な」
 叔父の顔つきが変わった。いきなり眉をつり上げ、まるで睨むような目をして少年を見る。
「似ておらん。ただの汚い乞食だ」
 その声がかすかに震えていた。
「それに……」
「あの子は、セトールはとうに死んだんだ!」
 部屋中にその声が響きわたった。
「……」
 扉の前で、少年は顔を蒼白にしていた。
(死んだ……僕が?)
 それは、いったいどういうことなのだろう?
 彼にはさっぱり分からなかった。
(だって、現に僕はここにいるのに)
 そう言おうかと口を開きかけたが、叔父の声がそれをさえぎった。
「セトールはもう何年も前に死んだのだ。それはお前も知っておるだろう」
「ええ。そう聞いたわ。でも……なんだか、この子が」
「もうよすんだルリカ。死んだ人間のことを思い出すのは。セトールは死んだ。重い病気でな。ここにいるのは名も知れない、ただの乞食のこどもなのだ」
 そう言うと、叔父はワインの杯を一息に飲み干した。
「ええ、分かったわお父様。だから、そんなに大声を出さないで」
「分かればいいのだ。娘よ」
 ひとつ息をつくと、叔父はようやく声をやわらげた。
「でも……でもそれなら、少しだけでも、このお菓子だけでも食べていかない?君」
 少女は砂糖菓子の皿を手に、少年の方へ歩み寄った。
「ルリカ。おやめ。乞食のこどもにいちいち情けをかけていては、それこそきりがない。我々はこの城だけでなく、王国すべてを統治してゆかなくてはならないのだよ。理性と誇り、それに平等こそが国を守るのだ」
「でもお父様、この子はとても震えているわ。ほら。ねえ大丈夫?君、」
「……」
 そばに立った少女はとても綺麗で、その服からは花のようなよい香りがした。それに比べて、自分の着ているものは、薄汚れた粗末なボロきれのような服である。少年は初めて、自分が乞食と言われたことの意味を知った。
「ねえ、君はなんていうの?」
「僕……僕、は」
 心の中でこみ上げてくるものが、少年の体をぶるぶると震わせた。ここは自分の城ではなかったのか。ここは、父と母と過ごす、自分のいるべき部屋ではなかったのか。
「おやめ、ルリカ」
 じろりと叔父がこちらを睨む。その口から言われた、最後の言葉が少年の心をこなごなに砕いた。
「ここはお前のいるところじゃない。乞食め、早く出ていけ!」
「……」
 少年は部屋を飛び出していた。
 目の前がぼやけた。体がかっと熱くなり、息をするのも苦しい。心の中は「どうして?」という気持ちでいっぱいだった。どうして、叔父たちは自分を見て乞食と言うのか。どうして、母様も父様もいないのか。どうして、自分はこんなに悲しいのか。
 城の廊下を走りながら、叫びだしたい気持ちを必死にこらえる。自分の家であるはずのこの城が、にわかに別の人間の住む場所になっていた。そんな恐怖が彼をとらえていた。
(そんなはずは……)
 そんなはずはない。と、心の中で何度も繰り返しながら、回廊を駆け抜ける。そうして、いくつかの角を曲がって、彼は無意識のうちにその部屋の前に来ていた。
「……」
 かつて自分の部屋であった場所……おそるおそるその扉をあけ中に入ってみると、ふわりと花の香りが彼を包んだ。
 少年はその部屋を見回した。
 花の模様が散りばめられた織物の絨緞に、壁には可愛らしいレース模様のタペストリーが飾られ、小さなテーブルの上には花の生けられた花瓶が置かれている。その横にはさっきまで花占いでもしていたのか、綺麗な花びらが並べられていた。長持ちの上には、女の子らしい色とりどりのドレスや胴着が重ねられている。少女らしい赤やピンクの色彩があふれるその部屋には、かつての名残はまったくなかった。今はここは、あの少女……ルリカの部屋になっているのだろう。
 ずっと前……きっともう何年も前だろう、あの少女と遊んだときのかすかな記憶は残っている。ルリカは明るく活発な女の子で、自分は彼女のことが嫌いではなかった。ついさっき見た彼女は、思い出の中よりもずっと大人っぽくて、とても綺麗だったが、こちらを見て微笑んだ口もとや優しい目には、その昔の面影が残っていた。
(今はここに、あの子が住んでいるのか)
 自分の部屋だったはずの場所が、すっかり女の子の部屋に変わってしまっていたことがとてもショックではあったが、それでもまだ、知らない人よりはいいかもしれない。少年はなんだか奇妙な気分で、部屋の中をぐるりと見渡した。
(そういえば、あの子は僕を見て、セトールに似ていると言っていた……)
 あのとき、どうして「僕はセトールです」と言わなかったのだろう。そうしたら、もしかして、叔父も分かってくれたかもしれない。乞食だなんて言われたことが、彼にはとても悲しかったのだ。
(乞食……僕は乞食に見えるのかな)
 ふと見ると、部屋の向かいの壁に姿見がかかっていた。あの塔には鏡などはなかったから、彼は長いこと自分の姿を見ていなかった。
「……」
 なにげなく、少年は鏡の前ゆき、そこに自分の姿を映してみた。
 とたんに、彼は思わず「あっ」と声を出した。そのまま、そこに立ちすくむ。
 膝まである薄汚れたチュニックを着て、裸足の足は黒く汚れ、すり傷だらけ。ぼさぼさに伸びた髪は、もとは蜂蜜色の金髪だったのだが、今ではまるで古びた亜麻糸のように艶もない。肌は白く青ざめており、ほっそりと痩せた顔の中に、ぎょろりと大きな目が光っているのが、まるで飢えた小ネコのような感じだった。
 鏡の中に見えたのは、そんなとてもみすぼらしい少年だった。
(僕……なの?これが、僕……?)
 少年は鏡の前に立ち尽くした。自分の知る、昔の自分の姿からは、それはかけ離れた姿であった。ひょろりとした細い手足が、小さな服からはみ出している様子は、確かにどこか乞食めいていたし、昔の彼を知るものには、このあまりに痩せ細った生気のないこどもが、あのセトール王子であると気づかないのも無理はなかった。それに何年もへて、彼の背丈はずいぶん伸びていた。
(これが……今のぼく)
 鏡を見ながら、あらためて自分の顔を手で触ってみる。涙の跡で腫れ、おどおどとした目は暗くよどんでいる。痩せこけた頬には、およそ子どもらしい柔らかさはまったくない。それは自分で見ても、たしかにまるで乞食のようだった。
(ああ……)
 彼はすっかりショックを受けていた。またもや、じわりと涙が溢れてくる。
 これでは叔父が自分を分からないのも無理はない。いったい、自分は何才になってしまったのだろう。まるで、ついさっきまで小さなこどもだったのが、魔法で一瞬で歳をとってしまったという、童話の中にあった老人になったような気持ちだった。
 涙にかすむ目であらためて部屋を見回すと、唯一見覚えのあるのは、天蓋つきの寝台であった。レースのカーテンやシーツなどは真新しいものに変えられていたが、寝台の木彫りの木枠は昔のままで、それに触れると、心の中になつかしい思い出が蘇ってくる。眠れないときには、この寝台から天井の模様を見上げて空想を広げたり、病気のときにはお医者さまがきて、あの嫌な放血治療をしてもらった。寝たきりのときには、母様が果物をもってきてくれたりもした。
(もう、ここで眠ることはないのかな)
 楽しい思い出も、嫌な思い出も、それらはとても幸せだった頃のものに思えた。あの塔での絶望の日々に比べれば、それはなんと遠く、そして暖かで輝いていたことだろう。
 ここはもう自分の場所ではない。そう感じられた。彼は最後にもう一度、鏡に映る自分を見つめると、部屋を出た。
(でも、それじゃあ……母様は、父様はどこにいるのだろう?)
 とぼとぼと廊下を歩きながら、少年は考えていた。
(もう……二人ともこのお城にはいないのかしら。それとも、どこか、違う所へ行ってしまわれたのかな)
(もう一度、戻っていって叔父さんに聞いてみればいいかな)
 どうやらそれが一番よい方法に思えた。きっと叔父ならば、父と母の行方を知っているに違いない。自分がセトールであることを説明して、分かってもらえたら、父と母のことを聞いてみよう。もし、二人が別のお城に住んでいるのだとすれば、ドラゴンさんに言ってまたそこへ連れていってもらえばいい。
 そう思うと、しだいに気が楽になってきた。
(そうだ。そうしよう)
 もときた廊下を戻ろうと、少年が次の角を曲がろうとしたとき、向こうの廊下から人が歩いてくるのが見えた。自分を捕まえにきたのかと思い、少年はさっと壁ぎわに身を寄せた。塔での生活が過剰な恐怖心を植えつけてしまっていた。
 ちょうどそこにあった鎧の置物の後ろに、とっさに隠れる。鎧の影から見ると、こちらに歩いて来るのは、城の女中らしい二人の女だった。料理の残りを乗せた皿を両手に運んでいる。
 鎧の後ろで息を殺していると、なにやら話し声が聞こえてきた。
「……だってさ、でもねえ。やっぱり、前の王様の方がずっと良かったわ」
「まあねえ、でもそれはそうだよ。なにしろ今の王様は、前の御方の弟君だったわけだから。それは、いろいろと噂があったし」
「噂って、あらどんな?」
「それはまあ、いろいろさ」
 一人はかなり若い女中のようで、もう一人は、もう少しだけ歳のいった女中であった。
「ちょっとこっちへきなよ」
 女たちはつきあたりの壁際の暗がりに来ると、小さな声で話しだした。そこはちょうど少年の隠れる鎧の置物にすぐ近く、二人の会話ははっきりと聞こえてくる。
「今の王様はさ、いかにも威張っていて、いつだってふんぞりかえっているだろ?まあ、王様なんだからいいんだけどさ、前の王様はさ、それは謙虚で優しくて強い御方だったからね。どうしてもつい比べてしまうんだよ。それに、今の王様は、ほら、あの不気味な魔法使い、あいつとグルなんだよ。知っていた?」
 いかにも城勤めが長そうな、物知り口調の女中の話に、若い女中がうなずく。
「ああ、あの黒ずくめの」
「そうそう、だってさ、考えてもみなよ。どこの馬の骨とも分からない、あんな薄気味悪い魔法使いなんかを、いきなりこの国の宰相にしちまったんだから、これはとんでもないことさ。とりわけ、前の王様の評判がよかったからね。それがいきなりいなくなって、その弟が王様になったもんだから、長いこと城に勤めているあたしなんかにすれば、これは天変地異みたいなもんだよ。ほんと。しかも今の王様ときたら、怒りっぽい上に、ケチで、しかもとてつもない浪費家なんだから。あたしたちの給料は下がるは、お休みはなくなるは、それでいて自分たちだけは毎日豪勢なものばかり食べていて。あれは、ろくでもない王さまだよ」
「ちょっと、そんなこと聞かれちまったら、まずいよ」
 女中がきょろきょろと辺りを見回す。
「バカ。だからこうして小声で話しているんだろう。それにあんただって、本当はそう思っているだろう?」
「まあねえ。私はさ、今の王様になってから城に勤めだしたので、まだ五年めだけど。なんだかね。思っていたより、ここは不気味なところだね。ときどき城に来るあの魔法使いなんて、なにを考えているのか分からないし、この間、食事を運んでいったらいきなり入るなと怒鳴りちらされて、あやうくムチ打ちの刑にされるところだったよ」
「おお怖い。でも確かに、あの魔法使いが来てから、どんどんひどくなるわねえ。夜になると、なにやら不気味な声とか物音が聞こえてくるし、なにかのまじないなのか、ぶつぶつという声が廊下まで聞こえてきたり、それにあの魔法使いが飼っているネコみたいな変な動物!」
「ああ」
「あれの鳴き声とかフンとか、ツメ研ぎで柱が傷だらけになるわ、掃除が大変だわ、一日六回もエサを持っていかされるしで、まったくたまったものじゃないわ」
(にゃーどのことかな)
 置物の後ろで聞き耳を立てる少年は、魔法使いの男とか、ネコみたいな動物とか、女たちの話の中に自分も知っている事が出てくると、思わず興味をひきつけられ、そちらに顔を向けてしまう。
(音を立てないようにしないと)
 なおもじっと話を聞いていると、
「ところでさ、これは噂というか、とても信じられないんだけど、じっさいに本当のことらしいのよ」
 意味ありげに、低い声で女中が囁いた。
「前の王様はさ、ほら王妃さまと、王子とがいきなりいなくなってしまって、それからすぐに弟君が来て戴冠したのだけど……」
「ええ、私は遠くからしか見たことなかったけど、前のお妃さまはそれはたいそう綺麗な方で、王子さまもあの頃は確か七つになったばかりだったかね……とても可愛らしくて」
「そう、あれはその王子様が七つにおなりになった年の五月祭なのよ。あの日、今でも思い出すけど、突然王子様がいなくなってしまってお城は大騒ぎになったの。だけど、不気味な出来事は続くもので、その何日か後には王妃様が、おお、そして最後には王様までがいなくなってしまったのだわ」
「ああ、あの時は国中が大変な騒ぎになったわね。恐ろしいこと」
 若い女中がぶるっと体を震わせた。
「ではあれからもう、六年にもなるのね」
「ええ。そしてその翌年に、今の王様とあの魔法使いが来たのよ。そのときは、王様もお妃様も、そして王子さまも、三人とも流行りの疫病にかかって亡くなったと発表されたでしょう。あのときは、国中がたいそう悲しんで、人々はみな喪服を着て、あちこちから国王一家のために献花をしたいと、それはそれはたくさんの人々がお城のまわりに集まってきて……」
「ええ。私も行ったわ。両手いっぱいにお花をもって」
「でも、でもね……」
 女中の声がいっそう低くなった。
「いいこと?本当は、王様も、王妃様も、疫病なんかにかかったのではないのよ」
「ええっ?」
「だって、考えてもごらんなさい。あのころ城にいた女中たち、炊婦たちは、みな今ではほとんどやめてしまったけれど、流行りの疫病であれば誰かにうつっていただろうし、そうしたら町にも、そんな流行り病の話が出ていたはずでしょう」
「そういえば、そうね……」
「それにあたしだって、あの頃は今よりもずっと給金の安い下働きで、調理場からはほとんど出られなかったけど、あの五月祭までは、王様も王妃さまも、とてもお元気で、そんな病にかかっておられるような様子はまったくなかったのよ」
「そうなの……それでは、」
「ええ。あたしは思うの、王様も王妃様も、本当は病で亡くなられたのではないと」
 女中がゆっくりと言った。
「王様はね、処刑されたのよ」
「しょ……」
 若い女中は、驚いたように口に手を当てた。
「そうよ。王様も、王妃さまも、殺されたのだわ。それもきっと、あの魔法使いにね」
「そんな、そんなことって……」
「だって、あたしね、見たのよ。あるとき、あの魔法使いの部屋にネコのエサを持っていったときに。暗い部屋の中で、あの魔法使いは、まるきり私に気づかずに、テーブルに向かって呪文のようなのを唱えていたのよ。ろうそくが一本だけ灯っていた、暗い部屋はなんだか変な薬みたいな匂いがして、とても不気味だったので早く外へ出たかったのだけど。でもね、思い切ってそっちをちらりと覗き込んだの。そうしたらテーブルの上にあったのはね……」
「な、なに……?」
 若い女中がごくりとつばを飲み込む。
「王冠をかぶった頭蓋骨だったわ」
「ひいっ」
「しっ、静かに」
 女中は指を立て、声を上げそうになった若い女中を制した。
「いいこと、これは誰にも言ってはだめよ。もし誰かに聞かれて、万一あの魔法使いの耳に入ったら、今度はあたしたちが消されるに違いないからね」
 若い女中は恐ろしそうに無言でうなずいた。
「でも、あの骸骨がかぶっていたのは、間違いなく前の王様の王冠だったわ。賭けてもいい。あれは王様の骸骨なのよ。だとすると、前の王様はやっぱり殺されたのよ。あの魔法使いが、きっと今の弟王と結託して、王様と、王妃様、それに王子様を処刑したのよ」
 そのとき、がたんと、そばにあった鎧の置物の方から音がしたので、女たちは飛び上がった。
「ひいっ、神様……」
 皿が何枚か床に落ちてがしゃんと割れた。女中たちは怯えたように顔を見合せると、逃げるようにしてその場を走り去った。
 廊下に人けがなくなると、少年は隠れていた鎧の後ろから出た。
 今しがた聞いてしまった言葉が、頭の中で何度も響いていた。
(王様と王妃様は、処刑されたのよ)
 その話は、少年にはにわかにはとても信じられなかった。
(そんな……父様と母様が)
「そんな、そんな……」
 彼は呆然としたまま、ふらふらと廊下を歩きだした。
(処刑……ころされ……)
(あの五月祭の年……)
(今の王様と魔法使いが……)
(王様の骸骨……)
 女たちの話していた言葉の端々が、頭のなかに浮かんでくる。そのひとつひとつが少年を叩きのめすハンマーのように、頭の中でガンガンと響き渡った。
(じゃあ……、父様と母様は……死んでしまったの?)
(もう、ここにはいないの?)
 あまりのショックのためか、少年は泣くことも、叫ぶこともできなかった。
 なにも、なにも考えられない。ただ……この城にはもう、父も母もいないのだ。それだけは、はっきりと分かった。
(僕は……)
(僕は……どうしてここに)
(これは夢じゃないのかな?)
 そう思う方がまだ気が楽だった。
 夢から覚めれば、自分はまたあの薄暗い塔の部屋にいて、なにも起きない日々を暮らしながら、いつか父様、母様に会えると、信じていられるのではないか。そのほうがずっといい。父も母もどこにもいないよりは。この城に戻れなくても、かまわない。ただ、いつか会えさえすれば。
(これは、夢だ……)
(きっと僕は、城に戻ってきたという夢をみているんだ)
(目が覚めれば……きっと)
 目が覚めれば、父も母もそばにいるかもしれない。目が覚めれば、あの森の祭りのつづきを一緒に過ごしているかもしれない。
 そう。なにもかもが、夢だったらいい。少年はそう思った。
 彷徨うように城の廊下を回り、とぼとぼと階段を降りてゆく。はだしの足に大理石の感触が冷たい。
 階段の中ほどで、壁の上から少年を見下ろす顔があった。それは、彼の父である国王の肖像画であった。おそらく、この絵まで取り外すのは、前国王を愛する城の人間への配慮から断念したのだろう。絵の中の父は、少年の記憶にある通り、口髭をたくわえた力強い表情をして、こちらにうなずきかけている。
「父様……」
 少年の目に涙が浮かんだ。
 厳しくも優しく、そして強かった父は、少年を立派な王子にするためにと、いつも気を配ってくれた。五才から剣を習わせ、彼を後ろに乗せて馬を走らせたり、鷹狩りの鷹に触らせてくれたり、一緒に塔の上から町を眺め、そこに様々な人々が暮らしていることを教えてくれた。ここは父の王国で、そしてお前の王国でもあるのだと。父はいつもそう言っていた。
 少年は階段の途中に立ち止まり、壁にかかったその絵をしばらく見つめた。そこに、まるで生きている父の声を聞くように。
 もときた空中庭園に戻ってくると、辺りは夕闇に包まれていた。
 空はすっかり暗くなり、庭園は静まり返っている。
 ドラゴンの姿はどこにも見えなかった。
 もしや、あのドラゴンまでが、自分を置いてどこかへ行ってしまったのだろうか。少年はそう思い、とてもがっかりした。
(ドラゴンさん……)
 自分はもう独りぼっちで、どこへも行けず、この城で乞食として暮らすしかないのだろうか。そんな悲しい思いがこみ上げてくる。
(それとも、やっぱり、あのドラゴンさんも夢だったのかな)
 泣きそうな気分で庭園をうろうろしていると、心の中で声が響いた。
(王子よ。我はここにいるぞ)
 庭園の隅に目をやると、それまで暗い夜空に溶けていたように、黒々とした影がそこに浮かんだ。
「ドラゴンさん!待っていてくれたの?」
 少年はそちらに駆け寄った。
(約束したからな。王子との神聖な約束だ)
 コハク色に光る二つの目が、彼を見下ろしていた。
 重々しいその声を心の中で聞くと、少年は嬉しくなり、大きな竜の足に体を寄せた。すべすべとしたウロコの感触が冷たくも心地よい。
 見上げると、ドラゴンの体は、さっきまでの暗い空の色から、また緑がかった色に変わっていた。
(目立たぬように空と同化していた。夜の間はたいていはそうして空を飛ぶのだ)
「すごいや。体の色が変わるなんて」
 少年はとても感心して、その緑色のウロコを手で撫でた。
「でも、僕はこの緑色が好きだな」
(そうか。ならば、しばらくはこの姿でいよう)
「本当?ありがとう」
 ドラゴンの静かな優しい声を聞いていると、不思議と気分が落ちついてくるようだった。少年にはまるで、その声は唯一の友達のように、大切に、大切に聞こえるのだ。
(これからどうする?王子よ)
「うん……」
 少年は迷うように口ごもった。
「僕……僕はね」
 再びじわりとこみ上げてくるものを抑えながら、震える声で言う。
「ここにいてはいけないみたい。ここはもう、僕の家じゃないみたいなんだ」
「だからさ……」
 泣くものか。泣くものかと、少年は歯を食いしばった。
「僕をどこかへ……」
「どこかへ連れていって。ドラゴンさん」
 手の中にある銀色の鍵がきらりと輝く。
(では乗るがいい、王子よ)
 ばさりと、竜が翼を広げた。
 少年は最後に一度だけ、城の方を振り返った。
(さようなら)
 誰かに向かってそう告げる。
 父か、母か、それとも、少年の頃を過ごしたこの城に向かってか。
 少年を乗せた竜は、城の上空高く舞い上がり、星の輝きだした夜空を飛んでいった。

「乞食の少年が城に来ただと!」
 深夜になって城に戻ってきた黒い魔術師……ゲルフィーは、城の部下から報告を受けると怒鳴り声を上げた。
「それで?まさかそのまま、なにもせず取り逃がしたのか?」
 部下の衛兵がそれにおどおどとうなずく。
「それが、国王陛下からご命令を受けて駆けつけたときには、すでにその少年の姿はどこにもなく……その後城の中を探してみましたが、やはり見つかりませんでした」
「なんということだ。なんという……」
 黒いフードの中で、ゲルフィーは赤い目を光らせ、その内心の怒りをあらわにした。
「もうよい。下がれ!」
「は」
 衛兵が出てゆくと、男はいらいらとしながら部屋中を歩き回りだした。
 占いに使う大きな水晶が置かれたテーブルには、ドラゴンのような下半身をしたネコがちょこんと座って、丹念に毛づくろいをしている。
「まったくなんというマヌケだ!みすみす王子を取り逃がすとは。あの愚鈍な叔父王陛下ときたら、よもや目の前に現れたのが、かつての自分の甥だとも気づかなかったのだろう。まったく、どうしようもない間抜け王めがっ!」
 男は吐き捨てるように言った。
「くそ。王子を逃がした上に、あの鍵まで取られてしまうとは。なんたることだ。ああ、なんたることだ!」
 かつかつと杖を床に叩きつけ、壁に向かって怒鳴りちらすと、ようやく気が落ちついてきたのか、男は考えるように腕を組んだ。
「ともかく……ともかく王子を見つけなくては。そして鍵を取り返すのだ」
 病的に青白い皺だらけの顔を歪め、口もとに黄色い歯を覗かせる。もし今、城の女中が入ってきたら、たちまち悲鳴を上げて逃げ出すような、それは恐ろしい顔つきだった。
「にゃー」
 ドラゴンネコが鳴いた。カリカリとテーブルにツメを立てる仕種は、ものをねだるふうである。またエサが欲しいのだろう。
 しかし、男にはそんなものにかまうゆとりはなさそうであった。しばらくまた何かを思案するように、部屋をうろつきまわり、それから羽ペンを取ると、羊皮紙に向かってさらさらと何かを書きつけた。
 呼び鈴を鳴らすと、すぐに扉の外から声がした。
「お呼びですか」
 部屋に入ってきたのは、この城の中でも、男の直接の命令下にある従順な下僕であった。まだ若いその下男は、怒鳴られないためにさもうやうやしく頭を下げた。
 ゲルフィーは満足そうにうなずき、
「よいか。城の周囲の密偵たちにこの命令をつたえよ」
 そう言って、丸めた羊皮紙を下男に渡した。
「くれぐれも、他の者には知られるな。ただ、乞食の少年を捕らえるだけだと、そう伝えるのだ。よいか」
「かしこまりました」
 ただ命令をきくだけの人形のように、下男は無表情で頭を下げ、ただちに部屋から出ていった。
「ふう、まったく。手間をかけさせるわ」
 魔術師はテーブルの前に腰掛けると、暗い部屋の中で青く光をはなつ水晶球を見つめた。
「にゃー、にゃー、にゃー」
「うるさいっ。エサならさっきやったろう。この意地汚いドラネコめが!」
 ドラゴンネコに向かって怒鳴りつける。なおもねだるような鳴き声を無視し、ゲルフィーはじっと水晶を覗き込んだ。その口からぼそぼそと、低い呪文のような言葉がもれる。
「にゃー、にゃー」
 ひどく不満げなネコの声と、男の低いつぶやきが混ざり合い、それは薄暗い部屋の中にいつまでも響いていた。
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