蛍の君

垂水わらび

文字の大きさ
上 下
1 / 1

蛍の君

しおりを挟む
 寛平三年の初夏のことである。
 緑の楓の葉が太陽の光に青く眩しく映るある日、近院の大納言・源能有(みなもとのよしあり)の邸宅にはひっきりなしに名医と呼ばれる人たちが呼ばれていた。
 大納言の北の御方(おんかた)の、藤原滋子(ふじわらのしげるこ)は、春に亡くなった、父の堀河の太政大臣・藤原基経(ふじわらのもとつね)の喪に服している。
 そろそろ暑くなると言うのに、滋子は真っ黒な墨染の衣を着て、落ち着かない様子で、北の対の、御簾の降りた部屋の中を行ったり来たりして一日を過ごすのである。
 女房たちは、滋子がその血筋を誇る割に、その育ちが悪いことに、気づいているようで気づかないふりをするのが常である。
 キュッキュと鶯張りの簀の子縁が鳴ったのに気づいて、ある女房が声をかけた。
「御方さま」
「殿か」
 喪中の人のけがれがうつらないように、室内には入らずに立って話をするのが通例である。
 太り気味の大納言・源能有は蔀(しとみ)越しに北の御方に対面した。
「医師(くすし)はなんと」
 大納言は再び頭を振った。
「食べないのが問題である」
「加持も祈祷も効果がない。これは都を離れ、北山の山荘にでも連れていくべきなのでしょうか」
 北山の山荘には、未だ来させたことのない、霊験あらたかな阿闍梨(あじゃり)が庵を結んでいると聞いていた。
 中の君は、早世した大君同様に入内させるか、親王でも婿取りしようと大切に大切に育ててきたのである。ところが、中の君はある日から物を食べなくなってしまった。ようやく口にできるのは、重湯だけである。
「しかし、本当に痩せてしまってね。あの様子で牛車に乗せて良いものやら」
 夫妻は沈痛な面持ちで同時に下を向いた。
 夫妻の大君はまだ幼いといって良かった頃、当時の弘徽殿(こきでん)の女御・藤原高子(ふじわらのたかいこ)に請われて水尾の帝・清和天皇の女御にした。
 ところが、すぐに帝が譲位され、さらに大君本人も突然亡くなった。それはもう数年前のことだ。
 年頃になれば中の君には大君の分も幸せをつかませよう、ときめかせようとしていたのに、中の君は裳着の直後に物を食べるのをやめてしまった。
 また、キュッキュと足音がして、西の対から父に似てむっちりとした、まだ幼い一番下の姫が歩いてきた。
「父上さま、母上さま」
 小君である。
「どうした」
「姉さまがまた、お会いしたいと繰り返されます」
「ですから、母は喪中ですからと」北の御方は小君に言った。
 しばらく前から中の君は、発作のように「お会いしたい」と呟く。
 小君の乳母が「恐れながら」と言った。「姫さまは恋わずらいではございますまいか」
 ふうっと大納言はため息をついた。
「まろはこれから出仕じゃ。その後に方違えである。任せるぞ」
 方違えと言うが、別の女のところに行くのだろう。こんな時になんて無責任なんだと滋子は心の中で毒づいた。
「恋わずらいならば、会って密かに話を聞くが良い。相手がわかれば婿に取る手配をせよ」
 妃にしようとしていた姫なのに、なんと言うことだろう。
「しかし、入内は」
「姫が大君のように亡くなるよりは良いではないか」
 それもそうだ。
「ただし、相手は公達の息子に限定するぞ」
 大納言は滋子に念を押した。
 姫に会えば、喪のけがれが姫の病を悪化させやしまいか、という北の御方のつぶやきに、大納言は「喪のけがれも何も、姫はどのみち床についているではないか」と無視した。
「任せるぞ。大納言家からの縁談を断る阿呆はいまい」と、キュッキュと足音を立てて去っていった。

***
 その夜、北の御方は西の対にいる、中の君のところに行った。
 物音にぼんやりと中の君は目を開けた。その目に力はない。
 誰もが入内、入内と言い続け、中の君の話は聞かない。
 中の君には入内とは恐怖である。
 幼心に、入内する日の美しい姉の様子を覚えていた。
 なんてめでたいのだ、私もこのように美しく入内したいと思った。
 しかし、その姉はすぐに亡くなった。
 宮中というところは、なんと恐ろしいのだろうか。
 見知らぬ帝に女御としてお仕えするよりも、一度だけ見かけた、あの人。忘れられない、あの人ではないなら、死ぬ方がいい。
 裳着を終えて、その次は入内と言い聞かされた姫は、食を絶って死んでしまう決意をした。
 念仏を唱え続ければ、極楽にも行けよう。
「姫はどなたに会いたいのです」
 母に問われて、姫は乾いた唇で「じろうぎみ」と力なく答えた。
 北の御方の中で怒りがふつふつと湧き上がった。
 どこの小僧がこの中の君に手を出したのか。
 怒鳴りつけたいのを押さえると、自分でも気持ちの悪い猫なで声が出た。
「姫や。どちらの二郎君です。言ってくれれば婿に取りましょうとも。父上は公達のご子息なら婿に取っても良いと私にお任せになりましたよ」
「本当ですか!」
 姫は目をぐっと見開き、乾ききった唇で叫んだので、唇が切れた。姫にはその痛みも感じず、声がしゃがれていることにも気がつかなかった。
「入内しなくてもよろしいのですか!?」
 姫の生気のなかった目は爛々と見開かれ、骨と皮だけの顔の中で妖しく輝きはじめた。
 これはまずいことになった。
 しかし、大君に続いてこの中の君にも先立たれることだけは避けたい。
 大納言も言う通り、大納言家の正室の娘からの縁談を断る男は滅多にいまい。
 女系ではあるが、この姫は太政大臣の孫娘なのだ。よほど身分の低い男でもなければ、なんとかなろう。
「あなたは一世源氏の大納言家の姫なのです。釣り合う相手なのですか」
 姫はしゃがれた声で不気味に笑い出し、吐き出すように言った。
「釣り合うも合わないも。二郎君が私に釣り合わないならば、母上も父上に釣り合いませんとも」
 かわいそうに頭がおかしくなったのだろうか。
 私の父は太政大臣でしたよ、と北の御方は言いたいところをぐっと堪えた。
 臣下で大納言よりも高位の位は大臣だけである。
 最上位にいたのが、堀河の太政大臣である。
 河原の左大臣の次男は大納言と年が離れないではないか。
 新しく右大臣になったのは故堀河の太政大臣の伯父に当たる人だ。
 我が父の従兄弟にあたる二郎君はまだ存命だっただろうかと北の御方は思案した。
 これは親王家か王家の若い次男坊のことだろう。八条宮あたりに年頃の次男がいたような気がする。
「そんなに身分の高い二郎君はどちらにおられるのです」
「婿取ってくれるのですね」
「起きて食べてくれるの」
「二郎君に食べさせていただくのでなければ嫌です」
「ならば、来ていただきましょう。その二郎君のお手からなら食べてくれるのですね」
「婿取ってくれますか」
「ではおっしゃい。どちらの二郎君ですか」
「母上、約束してくださいますか」
 致し方あるまい。
 滋子はため息をつきながら答えた。「約束しますよ」
 姫は大きく息を吸って答えた。
「堀河の二郎君、右衛門の佐さまです」
 思いもよらぬ人が指し示された。
「母上の、弟君」
 滋子は驚きのあまり、返事ができない。
「約束ですよ、母上」
 滋子は必死で記憶を手繰り寄せた。

***
 父の堀河の太政大臣・藤原基経が亡くなり、九条の本邸に赴いたときのことしか考えられない。
 滋子は基経の一番上の娘である。
 母は基経の叔父にして養父の、染殿の太政大臣・藤原良房の家女房だ。滋子はその母の元で染殿の片隅で大きくなった。
 滋子にとっては「おとど」というと、遥か昔に亡くなった良房の方だった。父よりも頻繁に見かけ、たまに頭を撫でて甘いものをくれた爺さんだ。
 大切に扱われぬ妾腹の身で、滋子は他の姉妹とは異なり、入内することもなければ、親王を婿とることもなかった。
 けれども、娘と扱われずに異母妹の乳母子にされたわけでもなければ、入内に当たって女房として出仕させられたわけではない。
 それどころか、九条の嫡母の女王の口添えで、一世源氏を婿取ってもらえたのは、この出自では幸運だったとすら言える。
 ほとんど会ったこともない父だが、この近院は父が与えてくれたものだし、婿取ってくれた人が大納言に登り、滋子を正室「北の御方」として大切にしてくれるのは、明らかに父のおかげだろう。
 異母妹たちは、当今の女御に、故上皇の御息所、親王の正室という顔ぶれで、一番下の異母妹はまだ髪も尼削ぎの幼児である。その幼児の穏子(やすらいこ)が当然のように生母の九条の女王の膝の上に座ったので、一番年上の滋子が一番下に座ることになってしまった。
 親王家の懐事情は大納言家よりもはるかに厳しく、父の支援が必要なことも想像がつく。
 それでも、大納言の正室では一段低いところに座らざるを得ない。
 夫だって皇子として生まれた人だし、娘だって故上皇の女御だったと滋子は胸を張った。
 子の少ない妹たちに、美しい二人の姫たちを見せびらかす予定を立てた。そのために、姫たちは遅れて到着させた。
 だが、中の君も小君も、皇女を生んだばかりの、うら若い異母妹の弘徽殿女御・温子の威厳に満ちた佇まいには負けることは認めざるを得ない。
 ようやく、姫たちが客人として到着した。立ったままお祖父さまにお別れを申しあげなさいという言いつけを、姫たちはよく守った。

***
 滋子は必死にその時の姫たちの様子を思い出そうとした。
 姫たちが入ってくるところも、出ていくところも全て見たわけではない。
 これはもう片方の姫に聞いてみるしかないではないか。
 翌朝、滋子は小君を呼んでそっと聞いた。
「姫は九条に行ったのを覚えていますか」
「ええ」
「そのときに堀河の叔父君にお会いしましたか?」
「右衛門の督(かみ)さまですか?」
 右衛門の督は美貌で知られる、嫡男・時平である。滋子が能有を婿とったときには、まだ時平は生まれていなかった。
「他には?」
「佐(すけ)さまにもご挨拶いたしました」
 時平の下の弟、堀河の二郎君こと仲平は右衛門の佐である。
 中の君はこのときに仲平を見かけたのだ。
「小君はどう思いましたか?」
「どうって。皆が美しいと言う右衛門の督さまですが、私は四郎君の方がいいと思う」
 うっとりとした様子で小君は答えた。
 四郎君とは、まだ元服前の末弟の忠平のことだ。
「佐さまは姉上に何か言ったりしましたか?」
「覚えてません。四郎君は気をつけて帰ってねと言われたんですよ」とニコニコと小君は言った。
 まさか、この子にまで弟の一人を婿取らねばならないのかもしれないと思うと、滋子はクラクラしてきた。
 いや、今は、仲平だ。
 中の君はは仲平を見たことがある。それだけは確かだ。
 そこで一目惚れをしてしまったのだろうか。
 急ぎ、使者を九条か枇杷殿かにいるだろう、仲平のところに行かせた。

***
 近院の、滋子からの使者が、役目を果たしたのはすでに夕刻になろうとする頃である。
 都の南端の九条では枇杷殿と言われ、一条まで戻って枇杷殿に行けば右衛門府と言われて、使者はようやく仲平を探し出した。
 急ぎ来るように、と顔すら覚えない異母姉の滋子に言われても、仲平に心当たりはない。
「右衛門の督ではないのか」と問えば、使者は「確かに、枇杷殿の佐さま、と言われました」と返答した。
 遺産だろう。
 仲平は嫌そうな顔をした。
 確か近院は父が用意した邸である。
 母のものは娘にゆく。娘がいなければ息子にゆく。
 父のものは息子にゆく。
 父と母に大きな財産の差がある場合、父は娘にも体面を保たせるために、娘にも邸宅を用意する。
 確かに、最も多くの部分を兄が得たが、他の兄弟や姉妹もその体面を保つ程度には、妾腹の姉妹たちにもそれぞれ邸宅を用意してあった。
 もっと欲しいなら嫡男に言えよと思うが、兄の右衛門の督としての多忙を極める様子は、仲平も側で見て知っている。
 そういえば、近院の大納言は左衛門の督を勤めたこともあったな、と思い出した。ならば、滋子は時平の忙しさを推測して自分を呼ぶのだろう。
 兄には「近院の姉上に呼ばれました」と伝言を残して馬に乗った。
 渋々ながら仲平が近院に入った頃には日が落ちていた。
 こちらですと案内されたのは、北の対ではなく西の対である。方違えかと特に不審に思わず、部屋に通された。
 御簾の向こうには横たわった人と、その横に墨染の衣の人が座っていた。
「近く寄られよ」と墨染の衣をきた人は言った。
 墨染の衣を着ているということは、相手は喪中である。
 仲平が躊躇していると、その人は「私はあなたの父上の喪に服しているのです」と言った。
 これが姉か。
 九条で父の喪に服しているのは、ただ一人、母だけだというのに、この滋子は遠く離れた近院で、古風に長く喪を守ってみせているらしい。
 滋子は半ば強引に仲平を御簾の近くに来させた。
「御用とは」
「この中の君が、九条で右衛門の佐さまをみかけました」
「はぁ」
「一目ぼれです」
「一目ぼれ」
 仲平はおうむ返しに聞き返した。
「ええ。恋わずらいで食を絶ち、今にも死にそうになって、ようやく恋する相手が右衛門の佐さまだとわかりました」
 仲平にとっては寝耳に水である。
「人の心があるならば、どうかこの娘に食べさせてやってください」
 粥が運ばれて来た。
 さあ、と仲平は御簾の中に引き入れられ、やせ細った娘に引き合わされた。
 確かに、葬儀のときに近院の姫たちは見かけている。顔までは見ていないが、近院の上の姫はそろそろ裳着かなと思った記憶はあった。
 こんなにやせ細っていたわけはない。普通の女の子たちだった。
 弘徽殿に仕える美しい女房たちを見慣れた仲平の目には、特に記憶に残るような美貌でもなかった。
 仲平を見て、骨と皮だけになった中の君の頬をつつっと涙が伝った。
 中の君が「本当に来てくださった」と言ったのだろうか。
 流されるように仲平は中の君を助け起こし、抱きかかえた。
 匙で粥をすくって、昔、乳母がしてくれたように、ふうと息を吹きかけてから姫中の君口に運んでやった。
「お食べなさい」
 口に入れられて中の君はむせた。
「最近重湯しか口にできなかったのですよ」と非難めいたことを滋子が言う。
 ならば、と上澄みをすくって口に入れてやると、中の君は飲んだ。
「今度は飲めましたね」
 仲平は中の君が飲んだのを確認して、また上澄みをすくって口に入れてやった。
 中の君が笑ったような気がする。
「私を思って絶食してはいけませんよ」
 また中の君が笑ったような気がする。朗らかな姫だったのだろう。
「思いを伝える方法がなくてこんなことをしたのですか」
 中の君が頷いたような気がした。
「今度は少し、粥のね、米の実の方も口に入れてみませんか」
 中の君は首を横に振らない。
「あーん」
 一晩かけて、仲平の腕の中でゆっくりと中の君は粥を食べた。
 気がつけば夜も更け、周囲に人はいなかった。
「そろそろお暇にしよう」仲平がそう言うと、中の君が袖を引っ張った。
 力がなく、するりと中の君の手から袖が抜けたが、仲平は袖の抵抗をはっきりと感じた。
「嫌なの」
 中の君が頷いた。
「添い寝をしてください」と中の君が言ったような気がした。
「私にここで共寝をせよと?」
 これは婿取られるということだ。
 仲平には将来を誓った相手がいた。
 異母姉の弘徽殿の女御・温子に女房として仕える、伊勢という若い女房である。
 仲平は伊勢の気持ちが、自分を向いていないのではないかと恐れていた。
 伊勢の相手は、おそらく兄・時平。
 時平も時平で美しい伊勢を気に入り、弘徽殿にいけば取り次ぎは伊勢に頼む。
 美しい伊勢が同輩の女房にやっかまれていたときも、伊勢ではなく、その同輩の女房を辞めさせて伊勢を救いもした。
 仲平は、この二人がまだ通じていないことだけは信じている。
 ただし、惹かれあっている二人だ。時間の問題だと気を揉んできた。
 対して、この姫は自分に思いを伝えるために命まで危険に晒した。
 伊勢は大和守の娘に過ぎない。こちらは大納言家の姫君である。
 こうなったら、伊勢は側室にしてしまえ。
 兄の「側室」になるのが嫌で、私ならば「正室」になれると思ったのだろうか。
 伊勢よ、それは甘い。
 仲平は冠と束帯を脱いで姫の隣に横たわった。姫が力の入らない腕で夜具をかけてくれようとした。
「もう夏になるんだ。夜具をかけて寝るには私には暑い。だがあなたは痩せて寒いんだね」
 仲平は束帯を姫と自分の上に広げた。
 姫がまた笑ったような気がする。
 仲平は、これまた昔乳母がしてくれたように、姫の背中を優しくトントンとして「私はここにいるからね、安心しておやすみ」と言った。

***
 夜が白み始めた頃に、人の気配がして目が覚めた。
「佐さま」
 姫付きの女房だろうか。
「なんだ」
「佐さまの朝餉の用意をいたしました。姫さまは」
「粥を全部お食べになったよ。今朝も食べられるのではないかな」
 昨夜の粥の入っていた器を御簾の際に押し出した。連れてきていた随身を呼んで、枇杷殿に束帯と肌着を取りに行かせた。
 しばらくすると、仲平用の膳が用意された。
 ようやく姫も目を覚まして、顔を向けた。
「うーむ!大納言家ではうまい食事を食べているんだね。これをお食べにならないとは、もったいない」
 姫は少し食べたそうな顔をしているように思えた。
「姫君の粥です」
 粥が運ばれてきた。
「またこの右衛門の佐が食べさせて進ぜようか?」
 姫は明らかに頷いた。
 姫の小さな体は軽く、やっぱり華奢だった。
 ふうふうと息を吹きかけて、重湯を飲ませてやると、夕べよりもよく飲む。
 ならばと、米をすくってやれば今度はむせずに飲み込んだ。
 医師が、姫が食べられるようになったらゆっくりと量を増やすようにと言った、と誰かが仲平に言った。
「あいわかった」と仲平は生返事をした。
「白湯も飲みますか?」
 姫が「はい」と今度は声を出した。しゃがれていた。痩せて声がしゃがれるほど私を思ったのか。哀れな娘だ。
 哀れで、愛おしい。
 粥を食べさせ、すっかり冷えた朝餉を仲平が食べ終えると、また姫が袖を引っ張った。
「今夜また来ます。だから日中も少しお食べ」
 随身が戻ると、仲平は姫にそれまで着ていた肌着を渡した。
「夜に私が来るのをお待ち。あなたはきっともう少し太った方が美しい」
 中の君が頷いた。
 右衛門府に出仕した後に、後朝の和歌まで作って送った。
 肌着と和歌を与えた。
 これは自分はあなたと関係を持ったと姫に示したのである。姫から返歌が届いたが、これは女房が作ったのだろう。
 兄は特に近院について何も聞かないので仲平も何も言わない。
 その晩、約束通り仲平は近院の姫を訪れた。
「姫君は髪と体を拭かせ、粥を召し上がりました」と姫付きの女房が言った。
 言われてみれば、姫は夕べ少し臭った。
 今夜は、姫は体をもたれかからせるようにしていたが、辛うじて起きていた。
 美しい衣を着せられていたが、それでは重くないかと心配になる。
 今夜は夜具も枕も並べて、二つずつ用意されていた。
「起きられるようになったのですか」と仲平が言うと、姫は「はい」と答えた。
「今夜は自分で食べてみます?」
「食べさせてくださらないなら、また絶ってやる」
 姫の声は、今朝よりも美しく聞こえる。
 相変わらずやせ細っているが、香を焚き染め髪をとかした様子は、元の美貌をうかがわせた。
 ぎゅっと抱きしめると折れそうなので、そっと抱きしめて頬に口づけをすると、姫は嬉しそうにクスクス笑った。
「あの人は体を強張らせるだけで、喜びやしなかった」
 伊勢を抱きしめたとき、伊勢は体を硬直させた。すぐさま、伊勢の侍女には「伊勢さまを怯えさせて、どうなさいますか!」と非難されたくらいだ。騒ぎを聞きつけて飛んできた時平には、太刀まで突きつけられた。 
 この姫は違う。
 そっと抱きしめてやれば喜んでくれる。
 再び仲平は、中の君に粥を食べさせて添い寝をした。
 朝、姫に粥を食べさせて出ると西の対の角に大納言が立っていた。
「大納言さま」
「まさか、中の君が思いわずらったのが右衛門の佐とは思わなんだ。今夜も、来てくれると思っていいのかね」
 三日夜の所顕しの宴をしていいかと聞かれたと思い、仲平は答えた。
「もちろんでございますとも」
「では今夜は所顕しの宴をひらきますぞ。婿殿」
 大納言は、最後の「婿殿」をゆっくりと発音した。
 仲平は噛みしめるように答えた。
「はい」
 大納言はすぐさま姫の部屋に入った。しゃがれた歓喜の声が聞こえた。
「あの人ならば、こう喜びはしないだろう」
 そう思えば、伊勢への罪悪感は消えた。
 その晩、仲平は大納言家で小さな餅を三つ食べた。
 形だけ姫にも餅が出たが、姫が食べたのは粥である。

***
 所顕しの宴には、もちろん仲平の兄の右衛門の督・時平も呼ばれた。
 時平にとっては青天の霹靂である。
 昔、父が滋子を入内させるか、今はもう亡き佳珠子(かずこ)を入内させるかと悩んだことがあると聞いていた。
 二人とも、それぞれまだ父が若く何者でもなかった頃に設けた、染殿の大臣の家女房と、染殿の后の女房を母に持つ庶出の娘だ。
 まだ幼妻だった時平の母が二人を見て佳珠子を選び、佳珠子は入内して院の宮を出産した。
 母上のおっしゃる通りだ。
 滋子は浅はかだ。短慮で先のことを考えられない。
 時平は伊勢を思った。
 底意地の悪い誰かから聞かされる前に、自分で伝えよう。
 時平は兎にも角にも近院に行った。
 確かに、新郎として現れたのが仲平だと確かめた後、言い繕って、急ぎ東七条院の温子を訪ねた。
 仲平の所顕しを聞かされた温子は絶句した。同じ話を伊勢にすると、伊勢は抜けるように白い顔を真っ青にして崩れた。

 みわの山いかに待ち見む年ふとも たづぬる人もあらじと思へば

 恋人の通う三輪山だが、何年経っても私を訪ねてくれる人はいない。
 伊勢はその一首だけを残して、両親のいる大和に落ちた。
 はるか以前、まだ童姿だった伊勢が「我が庵は三輪の山もと 恋しくはとぶらひ来ませ杉立てる門」の古歌を覚えたと、ニコニコと言った。
 さぞ美しい娘になるだろうと思いながら、「好きな男ができたら送っておあげ」と答えたのが昨夜のことのように思い出された。
 その伊勢が都から三輪山を越えて大和の国に入った。それに際して「自分の住む三輪山には、誰も訪ねてくれない」と詠んだのだ。
 伊勢の心中を思えば、時平の目から、ポロポロと涙が溢れた。
 時平から伊勢の句を見させられても、仲平は伊勢はそれほど己の体面が大切かと疑った。
 途端に時平は美しい顔に怒りを満たせ、ガミガミと、「なんということをするんだ、お前は。仮にも太政大臣の息子だろう。せっかく相思相愛の娘を妻にできる立場にあったのに。それがわざわざ一人の娘を傷つけて、大納言家に婿とられるとは」と吐き捨てるように言った。
 その時平の正妻は親王家の女王で、側室も河原の左大臣の孫娘である。仲平は「才走る嫡男」の苦悩をようやく理解しかけた。
 仲平が大納言家の姫君が食を絶った話をしようとしても、短気な時平は「言い訳など聞きたくないわい」と手をふりスタスタと行ってしまった。

***
 時平は、結局伊勢を追って大和まで行った。 
 伊勢はやはり時平と結ばれたのである。
 仲平は、当初こそ伊勢に未練がましい和歌も贈った。

 花すすき我こそしたに思ひしか ほに出でて人にむすばれにけり

 あなたのことを誰よりも思っていたのに、年頃になったあなたは別の男に結ばれた。 
 本心から溢れでた和歌に、返歌はなかった。
 近院での生活に慣れるに従い、仲平は思うようになった。
 伊勢は時平と、自分はこの姫と結ばれるべくして結ばれたのだ。
 姫の体はしだいにふっくらとしてきて、月のものも始まった。
 元の美貌が戻っていないのが残念だと、気の利かない女房が言っても、仲平にとっては姫は誰よりも愛おしい。
 姫は今でも仲平の手から食べたいと甘える。
 姫はよく笑い、たどたどしく琴を弾いた。
 仲平は横笛、姫は琴で合奏したが、間違えては二人で笑い転げた。
 伊勢とはこうはいくまい。
 伊勢は音楽も一人前以上にした。
 仲平の笛に、伊勢が琵琶や箏で「合わせて」くれたのだ。
 そういうところも、伊勢はやはり、箏の名手の時平とお似合いなのだ。
 まだ幼い小君が、仲平に慣れてきて、何かを言いたそうに仲平の前で体をくねくねさせた。一番下の妹の、穏子もこうやって体をくねらせるなあと思いながら、仲平が聞きだすと、四郎君はどうしておられますか、と言う。
 姉妹そろって、私の弟たちに恋してしまったと滋子が嘆いた。
 小君が真顔で、「私も食を断てば、四郎君を連れてきてくださいますか?」と言うので、仲平は慌てて弟の忠平を引っ張って近院に連れてきた。
 中の君の妹だ。極端なことをしでかしかねない。
 殿上童として毎日のように参内する末弟の忠平は、妹の穏子のみならず、当今の一の宮さまの相手で年下の子どもの扱いがうまかった。
 本当は体を動かすのが好きなのに、根気よく小君と貝合わせのような女の子のやる遊びに付き合ってやる。
 それを見ながら、大君も、生きていれば時平に恋しただろうか。ふと滋子は思って、若い人たちにはわからないように袖で涙を拭った。
 穏やかで、平凡な毎日だ。
 幸せとはこう言うことなのかもしれない。
 仲平は満足していた。
 そんなある日、中の君は意地悪な人に、仲平には伊勢という人がいたと聞かされて驚き、震える声で伊勢とはどんな人かと尋ねた。
 仲平は思案した。いかに答えるべきだろうか。
「花よりも美しく、舞えば蝶。楽器を弾けば鳥が寄る。和歌を詠めば額田王の再来」
 姫はワッと泣いてそっぽを向いた。仲平は姫をぐっと抱き寄せ涙を拭いて髪の毛を撫でた。
「しかし、あの人は姫ほど私を思ってくれる人ではないのだ。お気になさるな」

***
 翌年の冬に姫は懐妊した。
 大納言も滋子も喜んだが、最も喜んだのは仲平である。
 春の除目で仲平は右近衛の少将に昇進した。
 出世街道をまっしぐらに進む時平ほどではないが、仲平もまた、他の同年代の若い公達と比べても出世が早いと言える。
 仲平は姫の腹を優しく撫でながら、赤子の首が座ったら、枇杷殿に姫と赤子を引き取ろうと言った。
「あなたにはまだ小君という妹もおられ、弟たちもおられる。幸い私は岳父さまの世話なしでやっていけそうだからね。あなたを枇杷殿で自分でお世話させてほしい」
 正室として正式に迎えたいと仲平は言ったのだ。
 姫はたいそう喜んだ。
 仲平は「男の子なら嫡男にしよう。女の子なら好きな男を婿取ろう。母親のように食を断つような真似はさせぬよ」と言って笑った。
 梅雨が明けて、水無月も末になった。
 姫の出産のための陰陽師の祈祷が響く中、北の御方は今度も落ち着きなく部屋の中を歩き回った。
 時間がかかりすぎてはいまいか。
 右近衛の少将・仲平も大納言と共に一身に祈祷した。
 姫の出産は夜から始まり、とうとう朝が来た。
 遠慮のない足音がして、姫づきの女房が駆け込んだ。
「産まれたか!?」
 大納言の問いに、女房は声を振り絞った。
「お亡くなりになりました」
 誰が?誰が死んだと言うのだ。
「死産か」
「はい。姫さまも、力尽きてしまわれました」
 大納言の制止も振り切り、仲平は姫の産屋に飛び込んだ。
「姫!姫!私の姫!」
 姫の体はまだ温もりがあった。仲平は姫の体を抱きしめ、揺さぶった。
「起きるのだ、姫!」
 中の姫の首がぐらりと揺れた。
「少将さま!」
 女房たちが仲平を非難した。
「姫!置いていかないでくれ!」
 土気色の姫の顔を仲平の涙が濡らした。
 仲平は自分の傍に小さな小さな人形が置かれたことに気づいた。
「男の子でございました」
 そう言われて、その「人形」が赤ん坊の遺骸であることにようやく気づいた。
 近院には産声の代わりに、二人の遺骸を抱きしめた仲平の慟哭が響いた。

***
 伊勢は時平から、例の大納言家の中の君が産褥で亡くなったことを聞かされた。
「人の世は儚いものだが、実に気の毒なことだね」
 一度は恨んだ人である。
 自分が仲平の真心を時平の形代にしていたこと。そして仲平がそれを知っていたこと。
 それを伊勢に突きつけたのが、この近院の中の君だった。
 かつて伊勢は、仲平の思いを知りながら、その兄への思いが断ち切れず、ニッチもサッチも行かない地獄にいた。
 あれよあれよという間に、話がまとまってしまい、いつ仲平が五条の伊勢の実家に通うのかというところまで行ってしまった。
 伊勢の戸惑った様子は、幼い、もしくは恥ずかしがっていると捉えられた。
 伊勢はただただ、見ないふりをした。
 そして事件は起こった。
 東七条院に与えられた自分の曹司で休んでいるときに、突然仲平に抱きしめられたときには嫌悪感と恐怖だけを覚えた。
 幸い、伊勢の侍女が気づいて騒いで時平が飛んできた。
 時平の手で仲平を引き離されたのは良かったが、時平には「伊勢はまだ幼い。そんな娘を怖がらせてはならない。五条に通うのはもっと先にしておけ」と言われた。
 伊勢は必死に、びっくりしたのだと言い繕った。
「裳着を済ませたばかりの年端も行かぬ娘が、背伸びをする必要はないのだ」と、時平は言うが、伊勢には慰めているのかそうでないのかがわからない。
 思う人に幼いと言われ続けて、伊勢は人とも数えてもらえないのかと悲しくなった。しかし、「あなたに抱きしめて欲しいのだ」と白状して、時平に「幼い娘に興味はない」と拒絶されるよりはずっと良かった。
 だが、仲平は知っていたのだ。
 ずっと、ずっと、伊勢が一身に思うその相手が誰なのかを。
 だから、伊勢よりもはるかに身分の高い、大納言家の姫君に婿取られて、受領階級の伊勢に恥をかかせた。
 大和に降った伊勢は、仲平への申し訳なさと自己嫌悪で心が苦しくてたまらず、そのきっかけになった近院の中の君を深く深く逆恨みにした。
 時平は熱心に和歌を送ってくれて、実際に忙しい中、大和まで来てくれた。
「そんなに苦しむだなんて子どもだねえ。あんな薄情な男ではなくて、私を頼りにしなさい」
 時平は伊勢を口説いた。
 しかし、地獄から伊勢を救ったのは、時平ではない。
 確かに、時平は大和まで来た。
 伊勢を地獄から救ったのは、伊勢自身である。
 拒絶すれば、気の短い時平はさっと身を引き、そのまま指も触れずに京に帰っていっただろう。
「帰らないで。側にいて。ずっと好きだった。時平さまだけが好きだったのです」と、震える声で答えたのは伊勢自身である。
 そのきっかけを作ったのが、近院の中の君だった。
 あの姫が仲平を婿とってくれて仲平を解放したのだ。
 極端なやり方ではあったが、中の君は自分で仲平に思いを伝えた。
 それをきっかけにして伊勢も、ようやく自分で時平に思いを伝えることができた。
 確かに、その後、伊勢は陰口を叩かれた。
「弟君との間がだめになり、今度は兄君」
「とにかく、堀河のご兄弟がお好きなのね」
 権門好きの伊勢、と言われれば落ち込む。だが、時平本人が「失恋して悲しんでいる娘を慰めているうちに、私になびいたことにすればいいのだ」と笑って、自分で言いふらしてまわった。
 おかげで今はそのような陰口は減った。
 あの姫あって自分は、地獄から這い出してこの殿と結ばれたと思い直せば、恨みは溶けて感謝がある。
 日が落ちて、少し気温が下がった。
「出てきてごらん。今夜は妙なほど蛍が多い」
 伊勢ではない人が仕立てた、涼しげな白い直衣を美しく着崩した時平に誘われて泉殿に行くと、蛍が高く飛んだ。
 確かに、今夜は蛍が多い。
 時平は箏の琴を出させた。時平がみごとに奏でる箏を聴きながら伊勢は聞いた。
「聞きなれぬ曲でございますが、なんという曲でございますの?」
「即興よ。題をつけるならば、蛍かな。あの姫君の魂がまるで蛍のように見える」
 時平が言うのは、在五の中将の和歌のことである。
 伊勢は少し微笑み、紙と墨を用意させた。
 時平は、目の前の女が好きなのか、この女の才能が好きなのだろうかと思うが、好きなことには変わりがない。
 機嫌よく奏でる時平の箏を聞きながら伊勢は小さく揺れるたくさんの灯りを頼りに一気に書いた。

***
 昔男ありけり。
 人のむすめのかしづく、いかでこの男に物言はむと思ひけり。うち出でむことかたくやありけむ、物病みになりて死ぬべきときに、「かくこそ思ひしか」といひけるを、親ききつけて、泣く泣く告げたりければ、まどひ来たりけれど、死にければ、つれづれとこもり居りけり。時はみな月のつごもり、いと暑きころほひに、よひは遊びをりて、夜ふけて、やや涼しき風吹きけり。蛍高く飛びあがる。この男臥せりて、
 
 ゆく蛍雲のうへまでいぬべくは 秋風吹くと雁につげこせ


 そこで伊勢は筆を一度置いた。
 少し思案したのちに、伊勢が一首詠んだ。

 暮れがたき夏の日ぐらしながむれば そのこととなく物ぞ悲しき

 
 昔、ある男がいた。
 身分の高い人が、娘を大切に育てていた。その娘はなんとかしてこの男に愛を語りたいと思った。しかし、どうしようもない。恋煩いで病気になってしまった。瀕死になってようやく親に「ずっとあの人に恋していたの」と言ったので、親は泣きながら男にその話をした。男はびっくりして娘のところに行ったが、娘は死んでしまった。男は夫として喪に服した。水無月も終わりのことである。とても暑い頃に庭で涼んでいた。夜になって少し涼しい風が吹き、蛍が高く飛び上がった。男は横になって詠んだ。

 蛍や。雲の上まで飛んでいけ。雁に秋風が吹くから早くおいでと言ってほしい
 日の長い夏も日が暮れる。ぼんやりと過ごす喪中は悲しいものだ


 人はこれを「伊勢が歌物語」もしくは「在五が物語」と呼んだ。  
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する

みんなの感想(1件)

堅他不願(かたほかふがん)

 おおお、ハンストしてまで想い人と添い遂げたのになんという……。紅の涙を絞るとはこのことでしょうか。

解除

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。