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三
龍蓋寺
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鐘の音に、浅い眠りの上皇・鸕野は目を覚ました。
また大友の悪戯か
そう思ったが、夜着のままの阿閇が走り込んできたのである。
完全に目が覚めてしまった。
「大来皇女の宮が焼けました」
「大来!!」
鸕野は起き上がり、外を見た。
夜だというのに、天が赤い。
ゆらゆらと、南の方に赤いものが進んで行く。
龍か。
龍は、南の飛鳥の方向へ飛び、東の山に消えた。
「あれは、」
「野口の、大帝の陵墓の手前ではございませんか?」
阿閇が答えた。
ー岡の上の宮のあるあたりではあるまいか
「我が産み、あの那津から連れ帰り、育てた子は、無事か、」
阿閇は耳を疑った。誰のことだ。草壁は死んだ。
「大来は無事か?」
鸕野は再度聞いた。
ー大来は太田皇女が産んだ娘ではないのか
阿閇は慌てて答えた。
「使者をやりましょうね」
鸕野は何度も頷いた。
しかし、事態が分かったのは、夜が明けてからである。
大来の宮の侍女たちの話は要領を得ない。大来皇女が年の瀬の舞踏を行い、火に巻かれた。美豆良の男が火炎龍になり、やはり男は神の化身である。
阿閇からすればさっぱりわからない。
侍女たちは、大来の唯一の遺品として煤けた鈴を持ってきた。骨まで廃になり、それ以外には何も残らない。
「これは、大帝が伊勢に下がるときに持たせた鈴に、似ている」
ある侍女が答えた。
「代替わりの前に、法興寺の工房で古い鈴を修理したときに、同時に作らせたものです」
鸕野には絵が見えた。
美豆良の男は、大友か。
大友が誑かして、我が最後の子をこの鈴を持ったまま、火の中に奪った。
がくりと鸕野は崩れ落ちた。
龍の行方は、その日の昼前には分かった。
義淵は法興寺で散々鸕野と共に育ったと言っていたので、誰かが気を利かせたのである。
法興寺から来た智鳳という和尚が言った。
「北からきた火炎龍を、義淵が岡の上の池に封じました」
義淵は全身に火傷を負ったと言う。
鸕野はそれから起き上がれなくなった。
阿閇は自ら鸕野の世話をした。
起き上がれなくなったとは言っても、それでも意識ははっきりしている。ある日、阿閇はそっと聞いてみた。
「大来皇女は、太田の姉君さまが産まれたお子でございましょう?」
ぎろりと鸕野は阿閇を見て答えた。
「もしもそうならば、なぜ我は大来を草壁に合わせなんだ」
異母の姉と弟の組み合わせは禁忌に触れない。
「それは、伊勢におられましたゆえ」
「伊勢には十市を行かせ、大来は手元に残し、草壁の妃にした方が良いと思わぬか。最も高貴な娘ではないか」
阿閇は黙った。
「あの頃、大帝は我が姉君と我と、交互に訪れられたものであった。先に我が妊娠し、次に姉君が孕まれた。ところが我らは西征に行き、船上で姉君は流産された」
鸕野は、はあっとおおきなため息をついた。
「朕の母君が亡くなられた後、そなたの母は我ら、太田、鸕野、建の三人を連れて岡の上の宮の嫡母さまの庇護を求めてくれた。朕の祖母の大王は、当時は難波の宮におられ、建と姉君を可愛がり、二人を難波へ送らせた。そこにそなたの母もついて行き、父帝のお手がついたのであったな。その頃、朕は岡の上で、嫡母さまの庇護の下にあった。祖母の大王から見れば、かわいいのは我が姉君であって、朕ではない。大王は、朕が大伯の港で出産した娘を、子を亡くして悲しむ姉君の子にした」
阿閇にもようやくわかった。
「もしも、大来が草壁の実の姉ではないならば、かならず大来を草壁の正妃にした。重要な娘ゆえに、大友も側妃に求めた。しかし、我が娘は、成長しても凡庸でなあ。大乱の後に我は考えた。その立場の尊さゆえ、誰に嫁しても草壁を脅かしかねぬ。その争いの中で凡庸さゆえに哀れなことになりかねぬ。ならばと、伊勢へ送った。それだけじゃ」
阿閇は聞いた。
「つまり、上皇さまは、大来皇女、我が背の君のお二人を産まれたのですか?」
鸕野は首を振った。
「もう一人、大津。あれは、流行り病で亡くなった姉君に捧げた、朕が産んだ子じゃ」
阿閇は息を呑んだ。
「朕にもまた、そなた同様、子が三人いた」
ならば、なぜ。
その疑問に答えるかのように、鸕野は続けた。
「大津は、大帝に似て、逞しく美しい子であった。もしも戦乱の世ならば、大津にこそ継がせたい。しかしながら、すでに新羅や唐とは和解を果たしていた。そのような世ならば、我が姉君に似たのか、それとも蘇我の祖父にでも似たのか、穏やかな草壁の方が相応しいではないか。戦はならぬ。朕は母ではなく、皇后として判断せねばならなかった」
阿閇は全身に鳥肌を立てた。
法興寺では、ようやく義淵が少し体を動けるようになった。
義淵が山でとってきた薬草で、行基が作った薬が効いたのだ。
蒸気にやられて、掠れ声しか出ない。
「義淵さん、手は動かせますか」
新羅僧の智鳳は、木簡と筆を渡した。
義淵は書いた。
「尼君は」
智鳳にはよくわからない。
行基が道鏡という弟弟子とともに煎じた薬を持ってやってきた。
智鳳は行基に木簡を見せた。
誰のことか行基にはわかったらしい。
ーこの師匠が混乱している様子を、幼い弟弟子に見せてはならぬな
行基は道鏡を下がらせた。
「大后であられた尼君さまですか?あの方はもう亡くなって何年にもなるではありませんか。義淵さまはずっと尼君さまの代わりに、あの庵を守っておられたでしょう」
義淵は驚愕した。
大友のみならず、尼君も死者であったか。
「火傷で少し混乱されておられる。いずれ落ち着かれましょう」
智鳳は言った。
行基は頷きながら、良い話があるとばかりに言った。
「帝の勅令で、岡の上に寺を建てることになりましたよ。龍蓋寺という名もいただきました。義淵さまの寺になりますね」
また大友の悪戯か
そう思ったが、夜着のままの阿閇が走り込んできたのである。
完全に目が覚めてしまった。
「大来皇女の宮が焼けました」
「大来!!」
鸕野は起き上がり、外を見た。
夜だというのに、天が赤い。
ゆらゆらと、南の方に赤いものが進んで行く。
龍か。
龍は、南の飛鳥の方向へ飛び、東の山に消えた。
「あれは、」
「野口の、大帝の陵墓の手前ではございませんか?」
阿閇が答えた。
ー岡の上の宮のあるあたりではあるまいか
「我が産み、あの那津から連れ帰り、育てた子は、無事か、」
阿閇は耳を疑った。誰のことだ。草壁は死んだ。
「大来は無事か?」
鸕野は再度聞いた。
ー大来は太田皇女が産んだ娘ではないのか
阿閇は慌てて答えた。
「使者をやりましょうね」
鸕野は何度も頷いた。
しかし、事態が分かったのは、夜が明けてからである。
大来の宮の侍女たちの話は要領を得ない。大来皇女が年の瀬の舞踏を行い、火に巻かれた。美豆良の男が火炎龍になり、やはり男は神の化身である。
阿閇からすればさっぱりわからない。
侍女たちは、大来の唯一の遺品として煤けた鈴を持ってきた。骨まで廃になり、それ以外には何も残らない。
「これは、大帝が伊勢に下がるときに持たせた鈴に、似ている」
ある侍女が答えた。
「代替わりの前に、法興寺の工房で古い鈴を修理したときに、同時に作らせたものです」
鸕野には絵が見えた。
美豆良の男は、大友か。
大友が誑かして、我が最後の子をこの鈴を持ったまま、火の中に奪った。
がくりと鸕野は崩れ落ちた。
龍の行方は、その日の昼前には分かった。
義淵は法興寺で散々鸕野と共に育ったと言っていたので、誰かが気を利かせたのである。
法興寺から来た智鳳という和尚が言った。
「北からきた火炎龍を、義淵が岡の上の池に封じました」
義淵は全身に火傷を負ったと言う。
鸕野はそれから起き上がれなくなった。
阿閇は自ら鸕野の世話をした。
起き上がれなくなったとは言っても、それでも意識ははっきりしている。ある日、阿閇はそっと聞いてみた。
「大来皇女は、太田の姉君さまが産まれたお子でございましょう?」
ぎろりと鸕野は阿閇を見て答えた。
「もしもそうならば、なぜ我は大来を草壁に合わせなんだ」
異母の姉と弟の組み合わせは禁忌に触れない。
「それは、伊勢におられましたゆえ」
「伊勢には十市を行かせ、大来は手元に残し、草壁の妃にした方が良いと思わぬか。最も高貴な娘ではないか」
阿閇は黙った。
「あの頃、大帝は我が姉君と我と、交互に訪れられたものであった。先に我が妊娠し、次に姉君が孕まれた。ところが我らは西征に行き、船上で姉君は流産された」
鸕野は、はあっとおおきなため息をついた。
「朕の母君が亡くなられた後、そなたの母は我ら、太田、鸕野、建の三人を連れて岡の上の宮の嫡母さまの庇護を求めてくれた。朕の祖母の大王は、当時は難波の宮におられ、建と姉君を可愛がり、二人を難波へ送らせた。そこにそなたの母もついて行き、父帝のお手がついたのであったな。その頃、朕は岡の上で、嫡母さまの庇護の下にあった。祖母の大王から見れば、かわいいのは我が姉君であって、朕ではない。大王は、朕が大伯の港で出産した娘を、子を亡くして悲しむ姉君の子にした」
阿閇にもようやくわかった。
「もしも、大来が草壁の実の姉ではないならば、かならず大来を草壁の正妃にした。重要な娘ゆえに、大友も側妃に求めた。しかし、我が娘は、成長しても凡庸でなあ。大乱の後に我は考えた。その立場の尊さゆえ、誰に嫁しても草壁を脅かしかねぬ。その争いの中で凡庸さゆえに哀れなことになりかねぬ。ならばと、伊勢へ送った。それだけじゃ」
阿閇は聞いた。
「つまり、上皇さまは、大来皇女、我が背の君のお二人を産まれたのですか?」
鸕野は首を振った。
「もう一人、大津。あれは、流行り病で亡くなった姉君に捧げた、朕が産んだ子じゃ」
阿閇は息を呑んだ。
「朕にもまた、そなた同様、子が三人いた」
ならば、なぜ。
その疑問に答えるかのように、鸕野は続けた。
「大津は、大帝に似て、逞しく美しい子であった。もしも戦乱の世ならば、大津にこそ継がせたい。しかしながら、すでに新羅や唐とは和解を果たしていた。そのような世ならば、我が姉君に似たのか、それとも蘇我の祖父にでも似たのか、穏やかな草壁の方が相応しいではないか。戦はならぬ。朕は母ではなく、皇后として判断せねばならなかった」
阿閇は全身に鳥肌を立てた。
法興寺では、ようやく義淵が少し体を動けるようになった。
義淵が山でとってきた薬草で、行基が作った薬が効いたのだ。
蒸気にやられて、掠れ声しか出ない。
「義淵さん、手は動かせますか」
新羅僧の智鳳は、木簡と筆を渡した。
義淵は書いた。
「尼君は」
智鳳にはよくわからない。
行基が道鏡という弟弟子とともに煎じた薬を持ってやってきた。
智鳳は行基に木簡を見せた。
誰のことか行基にはわかったらしい。
ーこの師匠が混乱している様子を、幼い弟弟子に見せてはならぬな
行基は道鏡を下がらせた。
「大后であられた尼君さまですか?あの方はもう亡くなって何年にもなるではありませんか。義淵さまはずっと尼君さまの代わりに、あの庵を守っておられたでしょう」
義淵は驚愕した。
大友のみならず、尼君も死者であったか。
「火傷で少し混乱されておられる。いずれ落ち着かれましょう」
智鳳は言った。
行基は頷きながら、良い話があるとばかりに言った。
「帝の勅令で、岡の上に寺を建てることになりましたよ。龍蓋寺という名もいただきました。義淵さまの寺になりますね」
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