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三
生への欲求
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多紀皇女が伊勢に降るまでの間、大来皇女は何度も、何度も初瀬へ赴き、まだ年若い異母妹を励ました。
それがようやく伊勢へ向かい、今ようやく全ての肩の荷が降りたと思う。
もはや舞踏を請われることもない。
上皇が恐ろしいことには変わらないが、落ち着いて考えてみれば、怯えることは何もない。
第一に、この身に何かあって困るのは、ここにいる侍女たちであろう。
ずっと、「斎宮」と呼ばれたこの宮においては、侍女たちは「采女」と呼ばれてきたが、すでに新たな斎王が伊勢にいる以上、この宮に「采女」はもういない。
その「采女」ではない身分にも不満がある者も、行き先を失う者も香具山宮に送り返せば良いだけではないか。
高市も、大津もいない。大津の遺児すらいない。十市もいなければ、斎宮の重荷すらない。
そうすると、気持ちは歳を取らぬ美しい男に向く。
一日中、部屋に篭り、見飽きぬ美しい顔を愛で、いつまでも歳を取らぬ肉体を楽しんだ。
一方で、鏡に向かえば不快である。
髪には白髪が目立つ。
初めは抜かせていたのだが、侍女が言った。
「皇女さま。これ以上抜いては、銭のような大きさの禿げができてしまいます」
禿げた頭の女であることも、白髪混じりの女であることも、大来皇女にはどちらも不快である。
愛でられる大友は出歩きたい。
確かに当初は、大来に触れることができるそのことに喜びを感じた。
しかし、次第に触れられるものが増えると、飽きて来ないわけではない。
だが、どう考えてもこの変化は大来にある。
大来を抱くようになって、ようやく力がみなぎるようになったのだから。
そこに気づけば無下にもできない。
まだ日が高いうちから、大来を疲れさせて眠らせ、その束の間の散歩を楽しんだ。
夜の散歩は大して面白くない。
理由は人がいないからである。
都の喧騒も、さすがに夜は静まる。
仕方がなく、大友は鸕野を訪れ、脅かして遊んだ。
ある月夜の晩、思い立って岡の上の宮に飛んだ。
岡の上の宮で大友は育った。
梅の花とたたえられた倭女王は、岡の上の宮で、気ままに暮らしていたように思ったが、今思えばそれは違う。
女王が薬草を取り、薬を作ったのは、戦の多い時代だったゆえである。
岡の上に住んだのは、この岡には井戸があった。雨水も貯めていたし、食料の備蓄さえあれば、籠城も可能である。
西征のときもそうだ。
とうとう韓半島へ出兵したと聞き、多麻呂に手伝わせて作り続けた薬を、兵糧と共に一気に西へ送った。
それが敗戦した父を救った。
大乱後、倭大后は大后の位を投げ捨て、この地で出家して庵を建てさせた。
ーひたすら、父大王と、我、そして大乱の戦死者の成仏を祈られたものだなあ
祈りの最中に亡くなられた。
それから打ち捨てられただろう岡の上だが、誰かが住んでいるのだろうか。
人の出入りがあるらしく、月夜の中、庵はこじんまりと佇む。
その周囲もきれいに掃除してあった。
ー水害には遭いにくい土地ゆえ、誰かが食糧の貯蔵にでも使っているのだろうか
雨水を貯める池も水の漏れがないように石が組んであり、石に絡みつく草もとってある。虫除けか、水草の下に魚が眠るようだ。
庵の扉は閉まっていた。
中を開けてみようとして、大友はその手を引っ込めた。
その代わりに庵の縁側に座って、月や星を見た。
すでに秋は深い。空気が乾燥して、良く見える。
ギギッと音がして、扉が開いた。
ーまずい
中の人に見られて良いとは思わない。しかし、この庵にいるのは誰だろうか。
慌てて消えようとしたのだが、好奇心には勝てない。
振り向くと、そこには僧侶がいた。それも、すでに老年にあるような僧侶であった。
「…我が、君」
僧侶が乾いた声で言った。
「…多麻呂か」
大友はその僧侶の正体を知った。
まさしく、共に育った義淵である。その幼名は多麻呂と言った。
義淵は思わず唾を飲んだ。
懐かしい顔は、月の冷たい輝きの中で美しさと凄みを増していた。
百済人をして、長身玉立、風華無双とその美しさを称えられたものである。そんなものかと思ったが、年を経て、身分の高きも低きも、様々な顔を見てきた。顔の作り、佇まい、全てどれを取ってもこのお人に敵う人はいなかった。
しかし、同時に悲しく思うのである。
ーやはりまだ成仏されぬか
経文を唱えるか。それとも、説法によって折伏し去らせるか。
しかし、その意図も読めぬ相手には、空っぽになるしかない。
空っぽになることすらできないのは、修行が足りぬゆえか。それとも、死すべき人ゆえか。
「さすがに、仏門に入った者は違うなあ。朕のことを思い出す者の前に現れるというのに、そなたは我を呼ばなんだ」
大友は、美しい顔には不似合いな低い声で話すが、機嫌が悪いわけではない。元からこのような声である。
「この義淵、我が君の成仏と来世のご多幸を、朝に夕に祈祷しておりました」
大友はふんと笑った。
「血筋も違うゆえ、呼ばれにくかったやもしれぬな」
まだ話しそうだったのに、ふっと風に消えた。
ー誰か、宝大王の血筋で、我が君に執着のあるお方がおられるのではあるまいか
義淵は気づいた。
ーそのお方に飼われておられるのか。もしくは囚われておられるのか、いや、誰が誰に囚われるのか
執着は、執着される者と同時に執着する者本人を捕らえる。
義淵は指を折って数えた。
大友の異母姉妹、異母弟の中で、最も大友に執着しそうなのは、異母姉の上皇ではあるまいか。
ー…もしや、上皇さまご本人が
上皇は自らの生命を無意識のうちに大友に与えているのではあるまいか。
次に思い当たるのは、今上のご生母である。この方もまた異母妹にあたる。皇太后と呼ばれず、いまだに「皇太妃」の位にあるお方は、大乱がなければ生んだ子が即位することはなかった。
上皇が五年前に亡くなっていれば、即位したのは高市皇子であろう。この方はおどろくほど早く亡くなったが、その正妃も我が君の異母妹である。
香具山の正妃と皇太妃の姉妹は、あの、岡の上の宮に上皇さまがたをお連れした蘇我姪娘を母にするではないか。
ーまさか、高市皇子の生命を、我が君に与えるような邪術を行なったか
義淵はめまいがしそうである。
尼君に問いただしてみたいが、あのとき話題に上らせようとしなかった。平穏に暮らす尼君のお心を乱すわけにもゆかぬ。
唯一希望があるならば。
凄みのある美男子の顔からは、険というものがなかった。
大来皇女は変わらぬ日々を過ごしている。
たまに、稗田阿礼という采女がやってくる。なんでも、記憶力に優れるという触れ込みでこの若い女は、古い神々の話を集めているらしい。
采女が来たのだ。もちろん、帝か上皇の指図である。
大来は、知る限り、と断りながら、この都でなかなか聴かないだろう伊勢の国の話をしてやる。
倭建命が伊勢で、父に疎まれているのかと嘆く話。
伊勢で天照に仕える倭媛が倭建命に草薙剣を与え、二人が嘆きながら分かれた話。
大来は自ら語りながら、倭媛に自らを重ね、そして倭大后を思い出した。悲劇の倭建命には大津を、高市を、そして、大友を重ねた。
しかし、若い采女が去れば、老いを思わずにはいられなかった。
日々深まる自らのシワを不快に思う。白髪も増えた。
腹立たしいことに、傍にいる男は年を取らない。
年齢を重ねていく大来皇女から見れば、年を取らないということは、若返るということと同義である。
そこにはたと気付くと、手に持っていた簪を床に投げ捨てた。
「どうしたんだい」
大友は相変わらず、大来皇女の側にいる。それだけが唯一の生きる道と心得たのである。
「腹立たしいではありませんか。わたくしは一人老いゆくのに、我が君は変わらぬ。変わらぬということは、老いゆくわたくしから見れば、若返ることではありませんか」
大友はちゅうと大来に吸い付いてそっと言った。
「何わけがわからないことを言うの。こっちにいらっしゃい」
素直に抱きついてみせるが、内心は穏やかではない。
ー我はいずれ老いて根の国へ行くのに、我が君は一人漂い、誰かにまたこうやって
大友は昼間に出かけることがあるようだ。
ふと、思い出せば、部屋の片隅や寝床の上にいるのは、年を取らぬ者の神通力のなすものだろう。
誰と一緒にいるのだろうか。
ーまさか、若い女
一人でいると歯軋りでもしかけるのだが、大友は必ず現れて、こうやって機嫌を取る。
人がいれば、大きな厨子の中にでも入っておとなしくしているものである。
良く飼い慣らされた犬のようなものだと思う。
そうして、大宝と、久しぶりに名付けられた元号の元で、冬が来る。
三月に、金が献上され、これを記念して、久しぶりに大宝という元号を用いるようになった。
この大宝元年の八月、大帝の御代から指示してきた律令がここに完成した。
大帝から三代に渡って、律と令を模索し続けていた。上皇の御代に、飛鳥浄御原令の、令はあったが、これで唐のような、律令を整えたと言える。それゆえの改元でもあった。
任されてきた藤原史はホッとした。
「この残暑に体を壊されませぬように」
側女が体を揉みながら言った。
その通りである。この事業はこれからである。
完成したが、全国一律に施行するためには、これを知らしめねばならぬ。明法博士を派遣して、講義を行わせる。
翌年の十月に施行する予定である。
この律令、すなわち大宝律令が大来皇女に影響がないわけではない。
この律令では、皇子を親王、皇女を内親王と呼ぶ。
来年には大来皇女ではなく、大来内親王と呼ばれることになろう。
死者もまた、親王と呼ばれるのだろうか。
「大友親王」
大友は口の中で唱えた。
ー慣れぬな。しかし、時代は移り変わる
韓半島での敗戦から、近江で我が父が企画し、成し遂げられなかったことを、この姉はやってのけたか。
大友は再び自らに問い直した。
ー我に成せたか
そして思った。
ー奇跡の子として、義淵と共に育つべきは、鸕野ではなかったか
しかしながら、公のことと私のことを大友は区別した。
ー仇であることには変わらぬ
相変わらず、気が向けば脅かして遊ぶのだが、敵もさるものである。
「また来たか。暇な男よ」
「そのかわいい顔を見せるが良い」
「実に男にしておくのはもったいない」
「誠にかわいい。こっちにおいで。朕の腕の中で眠ってみるか?」
脅かすだけと見破られて、鸕野には揶揄われる始末である。
ー多麻呂に会ったせいだ
義淵が、特に害意がないのではないかと進言したに違いない。
しかし、これからは容赦する必要はあるまい。
あの可留も二十歳を超えた。
宮子は、男児を出産した。
その子の顔を見れば、誰もが草壁を思い出した。
ー葛野王の胤ではあるまい
しかし、宮子を脅しておいた。
「実にありがたい。我が子葛野の男児が次の帝か」
宮子は恐れ慄き、産後の肥立が悪い。奇妙な話をするようになったとして、史が軟禁した。
可留の訪れの後にのみ葛野が訪れることが許されていた。
ー次はあるまいよ
血の濃い高貴な女人から、可留の子ができるだろうか。
宮子は元は紀州の海人の子である。貧しさゆえに、幼い頃から見てくれの良かった宮子は売りに出されて、哀れに思った史がそれを買ったのであった。
史は史で、県犬養道代に女児を産ませたところである。
史は、可留の男児と自らの女児の二人を共に育て、組み合わせるつもりでいるらしい。
ー好きにするがいい
大友にはもう興味はなかった。
ー生きたい
いかに、人の前に姿を現すことがあったとしても、何者でもない。
髪を解き、髷を結ってみる。
しかし、すぐにその髷は元に戻る。
衣を脱いでも、そのうち元に戻る。
宝剣を、そして勾玉を置いていっても、いつの間にか戻っている。
宝剣で胸を突いても死なない。
大乱のあのときと全く変わらぬ、若者の顔と体である。
一方の大来はというと、毎日のように、白髪が増えた、シワが増えたと嘆き、肌からも若さが消えていく。
これが生きているということではあるまいか。
つまり、死なぬということは、生きていないのである。
ある晩、大友は大来に言った。
「朕は生きたいと思うようになった」
大来には良くわからない。
「今と何が変わりますの?」
「考えてもみよ」
大友は諭すように続けた。
「良いか。十市も、高市も根の国に行った。我が父大王も、母后さまも、生母も根の国へ行った。大津に草壁もいない。そのうち鸕野も去り、次に妃だろう。そして我が子葛野も去る。生きている者は、去るであろう。しかし、我は一人この世に一人で漂う。これは、生きているとは言えるであろうか」
誰も見ぬ、透明な存在として過ごした年月を、再び味わうのか。
そして、鸕野の孫と史の作っていく、この国の繁栄を一人見るのか。
地獄の責め苦とはこれであろう。
謀反という手段は正しくないと、大友は声を大にして主張する。
しかしながら、結果としてもたらされたこの新都の繁栄を見れば、定められようとしている律令制度を見れば、鸕野は偉大な為政者ではないか。
この点は否定できなかった。
悪辣な悪戯も、鸕野本人が根の国へ行ってしまえば、終わる。
言ったことが大来通じたのだろうか。
通じないのであろうな、と大友が諦めたときに大来は言葉を選びながら答えた。
「つまり、我が君は、生きるために黄泉比良坂を下りたいと」
「その通りである」
義淵ならば、その後に輪廻と転生の話をするだろう。
しかしながら、この人は古い神に仕えた巫女であった。
「山吹の立ちよそいたる山清水」
「汲みに行かめど道の知らなく」
どちらともなく、かつて高市皇子が十市皇女のために詠んだ和歌を唱えた。
大来は思う。蘇りの水があるなら、この身を捧げてでも汲みに行きますとも。
それがようやく伊勢へ向かい、今ようやく全ての肩の荷が降りたと思う。
もはや舞踏を請われることもない。
上皇が恐ろしいことには変わらないが、落ち着いて考えてみれば、怯えることは何もない。
第一に、この身に何かあって困るのは、ここにいる侍女たちであろう。
ずっと、「斎宮」と呼ばれたこの宮においては、侍女たちは「采女」と呼ばれてきたが、すでに新たな斎王が伊勢にいる以上、この宮に「采女」はもういない。
その「采女」ではない身分にも不満がある者も、行き先を失う者も香具山宮に送り返せば良いだけではないか。
高市も、大津もいない。大津の遺児すらいない。十市もいなければ、斎宮の重荷すらない。
そうすると、気持ちは歳を取らぬ美しい男に向く。
一日中、部屋に篭り、見飽きぬ美しい顔を愛で、いつまでも歳を取らぬ肉体を楽しんだ。
一方で、鏡に向かえば不快である。
髪には白髪が目立つ。
初めは抜かせていたのだが、侍女が言った。
「皇女さま。これ以上抜いては、銭のような大きさの禿げができてしまいます」
禿げた頭の女であることも、白髪混じりの女であることも、大来皇女にはどちらも不快である。
愛でられる大友は出歩きたい。
確かに当初は、大来に触れることができるそのことに喜びを感じた。
しかし、次第に触れられるものが増えると、飽きて来ないわけではない。
だが、どう考えてもこの変化は大来にある。
大来を抱くようになって、ようやく力がみなぎるようになったのだから。
そこに気づけば無下にもできない。
まだ日が高いうちから、大来を疲れさせて眠らせ、その束の間の散歩を楽しんだ。
夜の散歩は大して面白くない。
理由は人がいないからである。
都の喧騒も、さすがに夜は静まる。
仕方がなく、大友は鸕野を訪れ、脅かして遊んだ。
ある月夜の晩、思い立って岡の上の宮に飛んだ。
岡の上の宮で大友は育った。
梅の花とたたえられた倭女王は、岡の上の宮で、気ままに暮らしていたように思ったが、今思えばそれは違う。
女王が薬草を取り、薬を作ったのは、戦の多い時代だったゆえである。
岡の上に住んだのは、この岡には井戸があった。雨水も貯めていたし、食料の備蓄さえあれば、籠城も可能である。
西征のときもそうだ。
とうとう韓半島へ出兵したと聞き、多麻呂に手伝わせて作り続けた薬を、兵糧と共に一気に西へ送った。
それが敗戦した父を救った。
大乱後、倭大后は大后の位を投げ捨て、この地で出家して庵を建てさせた。
ーひたすら、父大王と、我、そして大乱の戦死者の成仏を祈られたものだなあ
祈りの最中に亡くなられた。
それから打ち捨てられただろう岡の上だが、誰かが住んでいるのだろうか。
人の出入りがあるらしく、月夜の中、庵はこじんまりと佇む。
その周囲もきれいに掃除してあった。
ー水害には遭いにくい土地ゆえ、誰かが食糧の貯蔵にでも使っているのだろうか
雨水を貯める池も水の漏れがないように石が組んであり、石に絡みつく草もとってある。虫除けか、水草の下に魚が眠るようだ。
庵の扉は閉まっていた。
中を開けてみようとして、大友はその手を引っ込めた。
その代わりに庵の縁側に座って、月や星を見た。
すでに秋は深い。空気が乾燥して、良く見える。
ギギッと音がして、扉が開いた。
ーまずい
中の人に見られて良いとは思わない。しかし、この庵にいるのは誰だろうか。
慌てて消えようとしたのだが、好奇心には勝てない。
振り向くと、そこには僧侶がいた。それも、すでに老年にあるような僧侶であった。
「…我が、君」
僧侶が乾いた声で言った。
「…多麻呂か」
大友はその僧侶の正体を知った。
まさしく、共に育った義淵である。その幼名は多麻呂と言った。
義淵は思わず唾を飲んだ。
懐かしい顔は、月の冷たい輝きの中で美しさと凄みを増していた。
百済人をして、長身玉立、風華無双とその美しさを称えられたものである。そんなものかと思ったが、年を経て、身分の高きも低きも、様々な顔を見てきた。顔の作り、佇まい、全てどれを取ってもこのお人に敵う人はいなかった。
しかし、同時に悲しく思うのである。
ーやはりまだ成仏されぬか
経文を唱えるか。それとも、説法によって折伏し去らせるか。
しかし、その意図も読めぬ相手には、空っぽになるしかない。
空っぽになることすらできないのは、修行が足りぬゆえか。それとも、死すべき人ゆえか。
「さすがに、仏門に入った者は違うなあ。朕のことを思い出す者の前に現れるというのに、そなたは我を呼ばなんだ」
大友は、美しい顔には不似合いな低い声で話すが、機嫌が悪いわけではない。元からこのような声である。
「この義淵、我が君の成仏と来世のご多幸を、朝に夕に祈祷しておりました」
大友はふんと笑った。
「血筋も違うゆえ、呼ばれにくかったやもしれぬな」
まだ話しそうだったのに、ふっと風に消えた。
ー誰か、宝大王の血筋で、我が君に執着のあるお方がおられるのではあるまいか
義淵は気づいた。
ーそのお方に飼われておられるのか。もしくは囚われておられるのか、いや、誰が誰に囚われるのか
執着は、執着される者と同時に執着する者本人を捕らえる。
義淵は指を折って数えた。
大友の異母姉妹、異母弟の中で、最も大友に執着しそうなのは、異母姉の上皇ではあるまいか。
ー…もしや、上皇さまご本人が
上皇は自らの生命を無意識のうちに大友に与えているのではあるまいか。
次に思い当たるのは、今上のご生母である。この方もまた異母妹にあたる。皇太后と呼ばれず、いまだに「皇太妃」の位にあるお方は、大乱がなければ生んだ子が即位することはなかった。
上皇が五年前に亡くなっていれば、即位したのは高市皇子であろう。この方はおどろくほど早く亡くなったが、その正妃も我が君の異母妹である。
香具山の正妃と皇太妃の姉妹は、あの、岡の上の宮に上皇さまがたをお連れした蘇我姪娘を母にするではないか。
ーまさか、高市皇子の生命を、我が君に与えるような邪術を行なったか
義淵はめまいがしそうである。
尼君に問いただしてみたいが、あのとき話題に上らせようとしなかった。平穏に暮らす尼君のお心を乱すわけにもゆかぬ。
唯一希望があるならば。
凄みのある美男子の顔からは、険というものがなかった。
大来皇女は変わらぬ日々を過ごしている。
たまに、稗田阿礼という采女がやってくる。なんでも、記憶力に優れるという触れ込みでこの若い女は、古い神々の話を集めているらしい。
采女が来たのだ。もちろん、帝か上皇の指図である。
大来は、知る限り、と断りながら、この都でなかなか聴かないだろう伊勢の国の話をしてやる。
倭建命が伊勢で、父に疎まれているのかと嘆く話。
伊勢で天照に仕える倭媛が倭建命に草薙剣を与え、二人が嘆きながら分かれた話。
大来は自ら語りながら、倭媛に自らを重ね、そして倭大后を思い出した。悲劇の倭建命には大津を、高市を、そして、大友を重ねた。
しかし、若い采女が去れば、老いを思わずにはいられなかった。
日々深まる自らのシワを不快に思う。白髪も増えた。
腹立たしいことに、傍にいる男は年を取らない。
年齢を重ねていく大来皇女から見れば、年を取らないということは、若返るということと同義である。
そこにはたと気付くと、手に持っていた簪を床に投げ捨てた。
「どうしたんだい」
大友は相変わらず、大来皇女の側にいる。それだけが唯一の生きる道と心得たのである。
「腹立たしいではありませんか。わたくしは一人老いゆくのに、我が君は変わらぬ。変わらぬということは、老いゆくわたくしから見れば、若返ることではありませんか」
大友はちゅうと大来に吸い付いてそっと言った。
「何わけがわからないことを言うの。こっちにいらっしゃい」
素直に抱きついてみせるが、内心は穏やかではない。
ー我はいずれ老いて根の国へ行くのに、我が君は一人漂い、誰かにまたこうやって
大友は昼間に出かけることがあるようだ。
ふと、思い出せば、部屋の片隅や寝床の上にいるのは、年を取らぬ者の神通力のなすものだろう。
誰と一緒にいるのだろうか。
ーまさか、若い女
一人でいると歯軋りでもしかけるのだが、大友は必ず現れて、こうやって機嫌を取る。
人がいれば、大きな厨子の中にでも入っておとなしくしているものである。
良く飼い慣らされた犬のようなものだと思う。
そうして、大宝と、久しぶりに名付けられた元号の元で、冬が来る。
三月に、金が献上され、これを記念して、久しぶりに大宝という元号を用いるようになった。
この大宝元年の八月、大帝の御代から指示してきた律令がここに完成した。
大帝から三代に渡って、律と令を模索し続けていた。上皇の御代に、飛鳥浄御原令の、令はあったが、これで唐のような、律令を整えたと言える。それゆえの改元でもあった。
任されてきた藤原史はホッとした。
「この残暑に体を壊されませぬように」
側女が体を揉みながら言った。
その通りである。この事業はこれからである。
完成したが、全国一律に施行するためには、これを知らしめねばならぬ。明法博士を派遣して、講義を行わせる。
翌年の十月に施行する予定である。
この律令、すなわち大宝律令が大来皇女に影響がないわけではない。
この律令では、皇子を親王、皇女を内親王と呼ぶ。
来年には大来皇女ではなく、大来内親王と呼ばれることになろう。
死者もまた、親王と呼ばれるのだろうか。
「大友親王」
大友は口の中で唱えた。
ー慣れぬな。しかし、時代は移り変わる
韓半島での敗戦から、近江で我が父が企画し、成し遂げられなかったことを、この姉はやってのけたか。
大友は再び自らに問い直した。
ー我に成せたか
そして思った。
ー奇跡の子として、義淵と共に育つべきは、鸕野ではなかったか
しかしながら、公のことと私のことを大友は区別した。
ー仇であることには変わらぬ
相変わらず、気が向けば脅かして遊ぶのだが、敵もさるものである。
「また来たか。暇な男よ」
「そのかわいい顔を見せるが良い」
「実に男にしておくのはもったいない」
「誠にかわいい。こっちにおいで。朕の腕の中で眠ってみるか?」
脅かすだけと見破られて、鸕野には揶揄われる始末である。
ー多麻呂に会ったせいだ
義淵が、特に害意がないのではないかと進言したに違いない。
しかし、これからは容赦する必要はあるまい。
あの可留も二十歳を超えた。
宮子は、男児を出産した。
その子の顔を見れば、誰もが草壁を思い出した。
ー葛野王の胤ではあるまい
しかし、宮子を脅しておいた。
「実にありがたい。我が子葛野の男児が次の帝か」
宮子は恐れ慄き、産後の肥立が悪い。奇妙な話をするようになったとして、史が軟禁した。
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ー次はあるまいよ
血の濃い高貴な女人から、可留の子ができるだろうか。
宮子は元は紀州の海人の子である。貧しさゆえに、幼い頃から見てくれの良かった宮子は売りに出されて、哀れに思った史がそれを買ったのであった。
史は史で、県犬養道代に女児を産ませたところである。
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ー好きにするがいい
大友にはもう興味はなかった。
ー生きたい
いかに、人の前に姿を現すことがあったとしても、何者でもない。
髪を解き、髷を結ってみる。
しかし、すぐにその髷は元に戻る。
衣を脱いでも、そのうち元に戻る。
宝剣を、そして勾玉を置いていっても、いつの間にか戻っている。
宝剣で胸を突いても死なない。
大乱のあのときと全く変わらぬ、若者の顔と体である。
一方の大来はというと、毎日のように、白髪が増えた、シワが増えたと嘆き、肌からも若さが消えていく。
これが生きているということではあるまいか。
つまり、死なぬということは、生きていないのである。
ある晩、大友は大来に言った。
「朕は生きたいと思うようになった」
大来には良くわからない。
「今と何が変わりますの?」
「考えてもみよ」
大友は諭すように続けた。
「良いか。十市も、高市も根の国に行った。我が父大王も、母后さまも、生母も根の国へ行った。大津に草壁もいない。そのうち鸕野も去り、次に妃だろう。そして我が子葛野も去る。生きている者は、去るであろう。しかし、我は一人この世に一人で漂う。これは、生きているとは言えるであろうか」
誰も見ぬ、透明な存在として過ごした年月を、再び味わうのか。
そして、鸕野の孫と史の作っていく、この国の繁栄を一人見るのか。
地獄の責め苦とはこれであろう。
謀反という手段は正しくないと、大友は声を大にして主張する。
しかしながら、結果としてもたらされたこの新都の繁栄を見れば、定められようとしている律令制度を見れば、鸕野は偉大な為政者ではないか。
この点は否定できなかった。
悪辣な悪戯も、鸕野本人が根の国へ行ってしまえば、終わる。
言ったことが大来通じたのだろうか。
通じないのであろうな、と大友が諦めたときに大来は言葉を選びながら答えた。
「つまり、我が君は、生きるために黄泉比良坂を下りたいと」
「その通りである」
義淵ならば、その後に輪廻と転生の話をするだろう。
しかしながら、この人は古い神に仕えた巫女であった。
「山吹の立ちよそいたる山清水」
「汲みに行かめど道の知らなく」
どちらともなく、かつて高市皇子が十市皇女のために詠んだ和歌を唱えた。
大来は思う。蘇りの水があるなら、この身を捧げてでも汲みに行きますとも。
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