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二
岡の上の庵
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御前を辞した義淵が向かった先は、飛ぶ鳥の飛鳥である。
他の僧侶同様、義淵もまた法興寺に籍がある。師匠と呼ぶ相手は何人もいるが、その中で最も世話になったように思うのは、道昭、そして年のほとんど変わらぬ新羅僧の智鳳である。山から降りれば、忙しい道昭上人まで煩わせることはないが、義淵は必ず智鳳のところへ向かい、挨拶を行う。
このお方はまだ小僧だった頃に新羅からの使節に付き従いこの倭国に渡り、そのまま留まった。のちに、倭国から唐へ渡って、濮陽大師こと智周に学んで「智鳳」の法名をいただいて、新羅ではなく、倭国に帰国したのである。三つの言葉を自在に操り、知識も見聞も広く、義淵は謙虚に恥じ入った。「井の中の蛙大海を知らず」とは自らのことだと思う。
智鳳は言った。
「井の中の蛙大海を知らず、されど空の蒼さを知る。一つのことを突き詰めるのも大切なことです」
そうは言うが、一人で山の中に入ることには良い顔をしない。
「走火入魔なさらぬよう」
かならず釘をさすので、山であったことは話すことにしている。
残念ながら、目の前に仏が現れることも、悟りを開くこともない。
しかし、それは魔境に入っていないことを示す。
それはこのお方のおかげであろうと思うのである。
今回も義淵は智鳳の元に行った。
法興寺の力添えあって、あの采女は室生にいた義淵を探すことができた。
智鳳はいつもの通り、魔に入っておられぬ、と確かめるだけである。予想できたことではあるが、智鳳は帝の話には関心を持たない。
義淵は行基を探した。
行基には遠い昔に読み書きの手ほどきをし、経典の読み方を教えただけである。行基の本来の師匠は道昭である。しかしながら、今でも行基にとっては義淵は師匠の一人であるらしい。
「義淵さま」
帝の話への興味を隠せぬ行基が悪いわけではない。智鳳があまりに尊いだけである。
「帝は、多少気弱になられておられて、昔語りがしたかっただけであるよ」
何か大役を任されたわけでもないと言った。
「行基さん、最近、都ではどんな噂がありましょうや」
帝に最近の人々の暮らしを聞かれたが良く答えられなかったと言い訳をして、行基に尋ねた。
行基の素晴らしいところはいくつもあるが、何よりも市井の中に入ってゆき、人の話を聞いて回ることである。その中で仏の道を教えるのである。
これを遊行と呼ぶ。
人にはそれぞれ得意不得意がある。それは出家しても変わらぬ。
智鳳が遠く唐の知識を持ち帰ったが、直接市井の人の救済を具体的に行うわけではない。
行基の仏の道の知識も、異国の見聞も、智鳳どころか義淵の足元にも及ばない。しかし、目の前にいる人々に手を差し伸べようとするのは行基である。
どこにいようが、生活がある。それは、新羅であろうが、唐であろうが、我が国であろうが、変わらない。
智鳳はそう説く。
ならば、最もありがたい僧侶のあり方を実現しているのは、義淵どころか、道昭でも智鳳でもなく、この行基であろうか。
「消える男の話は聞きましたね」
行基は、大野で義淵から受け取った薬草をどのようにしたかを示した木簡を見せながら答えた。
「ほう」
義淵は木簡を確認しながら答えた。
知識も見聞も智鳳には及ばず、市井の人々の中に入っても居心地の悪さを覚える義淵は、薬草を見つけ出すことにかけては二人に勝ると自負していた。
山に登って一人で悟りを開こうとしていたわけではない。木々のざわめき、水の流れる音、鳥の鳴き声の中で薬草を見つけ出すことにしていたのである。
「実に美しい男だそうですが、何かを話してそのまま立ち去ることもあれば、話している途中でもふっと消えることがあるんだそうです。人々は、そのまま立ち去れば吉、話している途中に消えれば凶とみなすようで」
「辻占いではありませんか」
「まあ、それがどんな仏像よりも美しくありがたいお顔だと」
義淵は笑った。
「絵が描ける者の前に現れれば良いのにな。そうすれば我らはそれに似せた仏像でも作ることもできように」
その手がありましたか、と行基は握った右手を左の手のひらに軽く打ち付けた。
薬草を確認したと、義淵は合図をした。
「しばらく岡の上の庵にいる」
何か帝からあれば、自分は岡の上にいるから、という意味を含めてそう行基に言い置いた。
行基はしばらくあの薬草の山の処理を行うので、法興寺からは出まい。
義淵は法興寺を出てしばらく南に歩いた。
そこにあったのは、新都に遷都する前の古い宮の跡である。すでに建物はほとんどない。
木は切り倒してすぐに建物にできるわけではない。水分の多い切り倒したばかりの木をすぐに柱や板にしてしまうと、その水分でたわんでしまう。乾かして水分を抜き、その上で加工するのである。遷都して、大極殿など、内裏を構成する建物のほとんどは新しく建造してものであるが、それ以外のもの、例えば大官大寺や薬師寺のような、重要視された建物のなかにはこの「岡本の板葺きの宮」「浄御原の宮」と呼ばれた宮の古材を使ったものがある。石材もそのようにした。
その、古い宮の跡の真東に岡がある。
この岡の麓にあったので、古い宮は今上の祖父母に当たる二人の大王の時代から「岡本の宮」と呼ばれていた。
義淵は岡を登った。この岡もなかなかの急勾配である。
ー帝にはもう登れぬかもしれぬ
普段から山を登っている義淵から見ればしれたものである。
中腹に庵がある。これが「岡の上の庵」である。この先には、建物を建てられるような広さがある場所はない。
岡の上の庵からは、岡本の宮の跡のみならず、甘樫丘の東側にあった蘇我氏宗家の本邸の跡が丸見えである。すでに草木に覆われ尽くしているのだが、かつては廃屋が見えた。
当時の大兄は、葛城の異母兄でもある古人大兄御子、葛城、そして厩戸大兄御子の遺児でもあった山背大兄王の三人である。この三人に次の大王位を継ぐ権利があると考えられていた。後に大王になる葛城は中大兄御子とも呼ばれたのである。
山背大兄王と上宮王家が斑鳩の地で果てた後、葛城はここから蘇我氏の本邸を監視させた。
そして乙巳の変で蘇我入鹿を討ち取り、法興寺に兵を集めて、蘇我氏宗家を攻める。
その後に「大兄とは、東宮のことであろう」と言って、岡本の宮の東に当たる、この場所に宮を構えた。そして正妃の倭女王を、その父の古人大兄の宮から、この宮に移したのである。
ところが正妃の倭女王のみならず、蘇我氏傍流に差し出させた側女、母に与えられた采女だった側女も男児をなかなか出産しない。難波の新都にも連れて行った蘇我氏の娘は女児ばかり生んだ。
人は、葛城の悪業が祟ったと噂した。
そこにこの飛ぶ鳥の飛鳥に噂が流れた。
子ができず一心に観音菩薩に祈った夫婦が、男児をもうけ、その後に次々に子ができる。
初めの男児は、奇跡の子、観音菩薩の生まれ変わりと称えられた。
葛城は求めてその男児の「多麻呂」を引き取り、自らの嫡子のように正妃にこの岡の上の宮で育てさせた。
そして、しばらくして伊賀采女が懐妊し、男児が生まれた。
奇跡の子という冠は、この伊賀采女の男児にかけられるようになった。
これが、大友である。
蘇我入鹿を討ち取り、倭女王の父たる古人大兄も死なせた葛城であったが、この役割を果たした子を鳥尽きて弓蔵めらるとはしなかった。そのまま岡の上の宮に引き取った伊賀采女の男児の遊び相手、学友、として置かれた。二人は西征にも連れてゆかず、倭女王と共に大和の地を守った。
その後の近江への遷都に当たって、葛城はこの観音菩薩の生まれ変わりを法興寺に預けて出家させた。
これが義淵である。
後に、葛城の愛妾だった額田が降嫁した中臣鎌足が亡くなると、出家こそしなかったが、額田は山背寺を建てて菩提を弔い、ここに「遺児」と身を寄せた。
葛城はまだ若い僧侶だった義淵を飛鳥から呼び寄せ、山背寺に置いた。
再び、葛城は我が子を義淵に預けたのである。
かつてこの岡の上の宮には、義淵の他には倭女王に預けられた大友がいた。
父の蘇我倉山田石川麻呂と共に死を選んだ蘇我遠智娘は、異母妹の姪娘に太田、鸕野、建の三人を預け、岡の上の倭女王を頼らせた。
どちらも、父を葛城に殺された女人である。最後の最後に相通じるものがあったのだろうか。倭女王は長く夫の身近にいた遠智娘の子らのみならず、姪娘まで受け入れた。
結局、太田と建は当時難波にいた祖母の宝大王が引き取り、姪娘もそこに行くが、鸕野は一人この宮に置かれたのである。
後に、西征の中で太田も宝大王も亡くなり、その中で生まれて、母を亡くした大来と大津も、遷都までの間はこの岡の上の宮で倭女王の庇護の元にあった。
遠くに新都の建物を見ながら、義淵は嘆息した。
ーここで倭大后の庇護にあった者の生き残りは、もはや我と老女帝と、ああ、あの小さな女の子、伊勢に行った女の子だけだ
さすがに、岡の上の宮の建物はそのままでは残らない。
この宮は近江への遷都の後に打ち捨てられた。大乱の後に飛鳥へ覆都したが、月日は容赦なく、建物を崩しつつあった。
倭大后はこの地に戻り、宮の古材で使えるものをかき集めさせ、小さな庵を構えた。
義淵は度々訪れては、この庵の手入れをするのである。
「尼君さま」
義淵が外から声をかけると、これまた年老いて小さく縮んだ尼が出てきた。
俗世では倭大后と呼ばれた老女である。
鸕野は義淵に「年を取らぬ」と言った。義淵は鸕野の嫡母であるこの老女こそ、歳を取らぬと思う。
背中に背負っていた米などをおろしながら、義淵は聞いた。
「何かご不便はありますか」
尼君は遠慮せず答えた。
「雨漏りするようになった」
明日にでも、と答えながら米櫃に米を入れようとして気づく。
「まぁた米を食べてませんね。ほとんど減ってないではありませんか」
尼君は笑って、食欲がなかったと言い訳をした。
「今夜の煮炊きは拙僧に任せて下さいませ」
歯でも悪いかと、粥を作って、食べさせてやるが、尼君の歯に新たな抜けはない。
確かに一部雨漏りがあった。このままでは床も抜けてしまいかねない。
義淵はしばらく大工仕事をする羽目になったなと思った。
夜、尼君と空を見上げた。
空気は夏から秋に変わりつつある。星が澄んで見える。
「我が君がお戻りになった模様です」
義淵はようやく尼君に言うことができた。
何も答えない尼君の表情は見えない。
しばらくして尼君は話を変えた。
「義淵や。池を整備しては貰えぬか」
「池、ですか?」
この他は高く、急勾配で、人が多く住んだ昔も今も、下から水を運び上げるのは困難である。井戸が一つ掘ってあるが、心許なく、雨水を貯める池が作ってあった。主に体を清めたり洗濯をするときに使った。池と呼び習わすが、四角く掘って石を積み上げて作ったもので、大した大きさではない。
「周りの草を取り除き、また雨を貯められるようにしておくれ」
他の僧侶同様、義淵もまた法興寺に籍がある。師匠と呼ぶ相手は何人もいるが、その中で最も世話になったように思うのは、道昭、そして年のほとんど変わらぬ新羅僧の智鳳である。山から降りれば、忙しい道昭上人まで煩わせることはないが、義淵は必ず智鳳のところへ向かい、挨拶を行う。
このお方はまだ小僧だった頃に新羅からの使節に付き従いこの倭国に渡り、そのまま留まった。のちに、倭国から唐へ渡って、濮陽大師こと智周に学んで「智鳳」の法名をいただいて、新羅ではなく、倭国に帰国したのである。三つの言葉を自在に操り、知識も見聞も広く、義淵は謙虚に恥じ入った。「井の中の蛙大海を知らず」とは自らのことだと思う。
智鳳は言った。
「井の中の蛙大海を知らず、されど空の蒼さを知る。一つのことを突き詰めるのも大切なことです」
そうは言うが、一人で山の中に入ることには良い顔をしない。
「走火入魔なさらぬよう」
かならず釘をさすので、山であったことは話すことにしている。
残念ながら、目の前に仏が現れることも、悟りを開くこともない。
しかし、それは魔境に入っていないことを示す。
それはこのお方のおかげであろうと思うのである。
今回も義淵は智鳳の元に行った。
法興寺の力添えあって、あの采女は室生にいた義淵を探すことができた。
智鳳はいつもの通り、魔に入っておられぬ、と確かめるだけである。予想できたことではあるが、智鳳は帝の話には関心を持たない。
義淵は行基を探した。
行基には遠い昔に読み書きの手ほどきをし、経典の読み方を教えただけである。行基の本来の師匠は道昭である。しかしながら、今でも行基にとっては義淵は師匠の一人であるらしい。
「義淵さま」
帝の話への興味を隠せぬ行基が悪いわけではない。智鳳があまりに尊いだけである。
「帝は、多少気弱になられておられて、昔語りがしたかっただけであるよ」
何か大役を任されたわけでもないと言った。
「行基さん、最近、都ではどんな噂がありましょうや」
帝に最近の人々の暮らしを聞かれたが良く答えられなかったと言い訳をして、行基に尋ねた。
行基の素晴らしいところはいくつもあるが、何よりも市井の中に入ってゆき、人の話を聞いて回ることである。その中で仏の道を教えるのである。
これを遊行と呼ぶ。
人にはそれぞれ得意不得意がある。それは出家しても変わらぬ。
智鳳が遠く唐の知識を持ち帰ったが、直接市井の人の救済を具体的に行うわけではない。
行基の仏の道の知識も、異国の見聞も、智鳳どころか義淵の足元にも及ばない。しかし、目の前にいる人々に手を差し伸べようとするのは行基である。
どこにいようが、生活がある。それは、新羅であろうが、唐であろうが、我が国であろうが、変わらない。
智鳳はそう説く。
ならば、最もありがたい僧侶のあり方を実現しているのは、義淵どころか、道昭でも智鳳でもなく、この行基であろうか。
「消える男の話は聞きましたね」
行基は、大野で義淵から受け取った薬草をどのようにしたかを示した木簡を見せながら答えた。
「ほう」
義淵は木簡を確認しながら答えた。
知識も見聞も智鳳には及ばず、市井の人々の中に入っても居心地の悪さを覚える義淵は、薬草を見つけ出すことにかけては二人に勝ると自負していた。
山に登って一人で悟りを開こうとしていたわけではない。木々のざわめき、水の流れる音、鳥の鳴き声の中で薬草を見つけ出すことにしていたのである。
「実に美しい男だそうですが、何かを話してそのまま立ち去ることもあれば、話している途中でもふっと消えることがあるんだそうです。人々は、そのまま立ち去れば吉、話している途中に消えれば凶とみなすようで」
「辻占いではありませんか」
「まあ、それがどんな仏像よりも美しくありがたいお顔だと」
義淵は笑った。
「絵が描ける者の前に現れれば良いのにな。そうすれば我らはそれに似せた仏像でも作ることもできように」
その手がありましたか、と行基は握った右手を左の手のひらに軽く打ち付けた。
薬草を確認したと、義淵は合図をした。
「しばらく岡の上の庵にいる」
何か帝からあれば、自分は岡の上にいるから、という意味を含めてそう行基に言い置いた。
行基はしばらくあの薬草の山の処理を行うので、法興寺からは出まい。
義淵は法興寺を出てしばらく南に歩いた。
そこにあったのは、新都に遷都する前の古い宮の跡である。すでに建物はほとんどない。
木は切り倒してすぐに建物にできるわけではない。水分の多い切り倒したばかりの木をすぐに柱や板にしてしまうと、その水分でたわんでしまう。乾かして水分を抜き、その上で加工するのである。遷都して、大極殿など、内裏を構成する建物のほとんどは新しく建造してものであるが、それ以外のもの、例えば大官大寺や薬師寺のような、重要視された建物のなかにはこの「岡本の板葺きの宮」「浄御原の宮」と呼ばれた宮の古材を使ったものがある。石材もそのようにした。
その、古い宮の跡の真東に岡がある。
この岡の麓にあったので、古い宮は今上の祖父母に当たる二人の大王の時代から「岡本の宮」と呼ばれていた。
義淵は岡を登った。この岡もなかなかの急勾配である。
ー帝にはもう登れぬかもしれぬ
普段から山を登っている義淵から見ればしれたものである。
中腹に庵がある。これが「岡の上の庵」である。この先には、建物を建てられるような広さがある場所はない。
岡の上の庵からは、岡本の宮の跡のみならず、甘樫丘の東側にあった蘇我氏宗家の本邸の跡が丸見えである。すでに草木に覆われ尽くしているのだが、かつては廃屋が見えた。
当時の大兄は、葛城の異母兄でもある古人大兄御子、葛城、そして厩戸大兄御子の遺児でもあった山背大兄王の三人である。この三人に次の大王位を継ぐ権利があると考えられていた。後に大王になる葛城は中大兄御子とも呼ばれたのである。
山背大兄王と上宮王家が斑鳩の地で果てた後、葛城はここから蘇我氏の本邸を監視させた。
そして乙巳の変で蘇我入鹿を討ち取り、法興寺に兵を集めて、蘇我氏宗家を攻める。
その後に「大兄とは、東宮のことであろう」と言って、岡本の宮の東に当たる、この場所に宮を構えた。そして正妃の倭女王を、その父の古人大兄の宮から、この宮に移したのである。
ところが正妃の倭女王のみならず、蘇我氏傍流に差し出させた側女、母に与えられた采女だった側女も男児をなかなか出産しない。難波の新都にも連れて行った蘇我氏の娘は女児ばかり生んだ。
人は、葛城の悪業が祟ったと噂した。
そこにこの飛ぶ鳥の飛鳥に噂が流れた。
子ができず一心に観音菩薩に祈った夫婦が、男児をもうけ、その後に次々に子ができる。
初めの男児は、奇跡の子、観音菩薩の生まれ変わりと称えられた。
葛城は求めてその男児の「多麻呂」を引き取り、自らの嫡子のように正妃にこの岡の上の宮で育てさせた。
そして、しばらくして伊賀采女が懐妊し、男児が生まれた。
奇跡の子という冠は、この伊賀采女の男児にかけられるようになった。
これが、大友である。
蘇我入鹿を討ち取り、倭女王の父たる古人大兄も死なせた葛城であったが、この役割を果たした子を鳥尽きて弓蔵めらるとはしなかった。そのまま岡の上の宮に引き取った伊賀采女の男児の遊び相手、学友、として置かれた。二人は西征にも連れてゆかず、倭女王と共に大和の地を守った。
その後の近江への遷都に当たって、葛城はこの観音菩薩の生まれ変わりを法興寺に預けて出家させた。
これが義淵である。
後に、葛城の愛妾だった額田が降嫁した中臣鎌足が亡くなると、出家こそしなかったが、額田は山背寺を建てて菩提を弔い、ここに「遺児」と身を寄せた。
葛城はまだ若い僧侶だった義淵を飛鳥から呼び寄せ、山背寺に置いた。
再び、葛城は我が子を義淵に預けたのである。
かつてこの岡の上の宮には、義淵の他には倭女王に預けられた大友がいた。
父の蘇我倉山田石川麻呂と共に死を選んだ蘇我遠智娘は、異母妹の姪娘に太田、鸕野、建の三人を預け、岡の上の倭女王を頼らせた。
どちらも、父を葛城に殺された女人である。最後の最後に相通じるものがあったのだろうか。倭女王は長く夫の身近にいた遠智娘の子らのみならず、姪娘まで受け入れた。
結局、太田と建は当時難波にいた祖母の宝大王が引き取り、姪娘もそこに行くが、鸕野は一人この宮に置かれたのである。
後に、西征の中で太田も宝大王も亡くなり、その中で生まれて、母を亡くした大来と大津も、遷都までの間はこの岡の上の宮で倭女王の庇護の元にあった。
遠くに新都の建物を見ながら、義淵は嘆息した。
ーここで倭大后の庇護にあった者の生き残りは、もはや我と老女帝と、ああ、あの小さな女の子、伊勢に行った女の子だけだ
さすがに、岡の上の宮の建物はそのままでは残らない。
この宮は近江への遷都の後に打ち捨てられた。大乱の後に飛鳥へ覆都したが、月日は容赦なく、建物を崩しつつあった。
倭大后はこの地に戻り、宮の古材で使えるものをかき集めさせ、小さな庵を構えた。
義淵は度々訪れては、この庵の手入れをするのである。
「尼君さま」
義淵が外から声をかけると、これまた年老いて小さく縮んだ尼が出てきた。
俗世では倭大后と呼ばれた老女である。
鸕野は義淵に「年を取らぬ」と言った。義淵は鸕野の嫡母であるこの老女こそ、歳を取らぬと思う。
背中に背負っていた米などをおろしながら、義淵は聞いた。
「何かご不便はありますか」
尼君は遠慮せず答えた。
「雨漏りするようになった」
明日にでも、と答えながら米櫃に米を入れようとして気づく。
「まぁた米を食べてませんね。ほとんど減ってないではありませんか」
尼君は笑って、食欲がなかったと言い訳をした。
「今夜の煮炊きは拙僧に任せて下さいませ」
歯でも悪いかと、粥を作って、食べさせてやるが、尼君の歯に新たな抜けはない。
確かに一部雨漏りがあった。このままでは床も抜けてしまいかねない。
義淵はしばらく大工仕事をする羽目になったなと思った。
夜、尼君と空を見上げた。
空気は夏から秋に変わりつつある。星が澄んで見える。
「我が君がお戻りになった模様です」
義淵はようやく尼君に言うことができた。
何も答えない尼君の表情は見えない。
しばらくして尼君は話を変えた。
「義淵や。池を整備しては貰えぬか」
「池、ですか?」
この他は高く、急勾配で、人が多く住んだ昔も今も、下から水を運び上げるのは困難である。井戸が一つ掘ってあるが、心許なく、雨水を貯める池が作ってあった。主に体を清めたり洗濯をするときに使った。池と呼び習わすが、四角く掘って石を積み上げて作ったもので、大した大きさではない。
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