岡の上の宮

垂水わらび

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義淵

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 女帝・鸕野は手の中の銅牌を見た。
 煌めきは失われていたが、確かに、皇后時代に近江の者に与えたものだ。
「通せ」
 鸕野は采女たちを下がらせた。
 入ってきたのは一人の薄汚れた農夫である。
「面をあげよ。久しいな」
 鸕野は縮こまっている農夫に声をかけた。
「へ、へぇ」
「して、」
 鸕野は農夫を促した。
 農夫はぽつぽつと語った。
 農夫の言葉は要領を得ない。
 鸕野は辛抱強く農夫の言葉を聞き、脳内でまとめていく。
 要するにこういうことか。
 偽王が斬られた。
 斬った男は、美豆良の美丈夫だった。
 美丈夫は「この、大友の名を騙るとは許せぬ。葛城大王と宅子娘の子は我一人」と叫んだと言う。
 鸕野は動悸が早まるのを感じた。
ーまた来るよ、姉上
 鸕野の耳にあの低い声が蘇る。
 体の、毛という毛が逆立つ。
 無表情のまま、老女帝は言う。
「良く教えてくれた。何か異変があれば知らせるように」
 鸕野は農夫に銅牌を手ずから渡した。
「朕は譲位するのじゃ。譲位の後にはこれは使うでない。溶かしてしまえ」 
 次に髪から簪を引き抜いたが、思い直す。
「このようなものを持っていては、疑われてしまうであろうな、」
 そう呟くと農夫は嬉しそうな顔をした。
 鸕野は采女を呼び、まだ染色していない麻布を三巻き持って来させた。
「こちらの方が、使いやすいであろうな」
 農夫が去ると、まだ若い采女が顔をしかめてあおいだ。
「香を炊きますか」
 確かに、まだ土と汗の臭いが残っている。
 鵜野はいつもの思考を取り戻した。
 この采女はどこから来た采女だっただろうか。ああ、吉備だ。いつのまに都擦れしたが、元を正せば吉備の国造の娘にすぎない。
 汗と涙、そして血の染み込んだ土こそ、この国の基礎であることをこの娘は知らぬ。
 美貌というのはこのような凡庸な女を形容するのではない。例えば額田の才気であり、宅子娘の利発さであり、宝大王の迫力であり、大友に与えられた祝福のことである。
 この娘の息が止まるまで、美しいと思い込んでいる顔を、涙と汗と血の染み込んだ土の中に突っ込みたい。
「風を入れよ」
 鸕野はそれだけを言った・ 
 鸕野の耳に、かつての采女、額田かの女の声が響く。
ー偽王には近江の恨みを封じました。
 額田はその一言だけを良い、皇后だった鵜野の全ての質問を無視して立ち去った。捕らえて尋問させたかったが、大帝が行かせた。あれから、額田に会うことはなかった。
 その額田ももうこの世にいない。
 誰に、何を聞けば良いのじゃ。
ーまた来るよ、姉上
 耳にあの声が蘇る。
 牡丹のように、美しい弟!
 父に、嫡母の倭大后に、祖母の宝大王に祝福された、あの弟!
 鸕野は一人の少年の顔を思い浮かべた。
ーあの者ならば
 鸕野は無言で侍っていた一人の采女に命じた。
「義淵を呼べ」
 采女は脳内にある、名前の書かれた木簡を必死で繰る。
 ぎえん、ぎえん、ぎえん。
 誰だ。
 時間を稼ごうと采女は尋ねてみる。
「役小角ではございませんか?」
 役小角は、大帝が気に入っていた者である。一応、法師になっているが、むしろ古来からの我が国の神々に仕える。
 名前を挙げられた鸕野は、確かに額田の封が破られたならば、次は小角の術、と思わなくもない。しかし、根本的な解決にはならない。やはり、ここは義淵であろう。
 鸕野は見当がつかず焦る采女に言った。
「義理の義、淵の淵、これで義淵である。僧侶じゃ」
 僧侶ならば、寺を辿ればよかろうと采女は思った。
 鸕野は畳み掛ける。
「どこから探す」
「薬師寺で分からねば大官大寺へ」
 鸕野は首を振った。
「まず厩坂寺うまやさかでらへゆけ。いなければ、飛鳥の法興寺へ」
 厩坂寺は、元は山背の山階にあった藤原氏の山階寺である。額田が藤原鎌足のために建立した私寺だった。
 一方飛鳥の法興寺とは、かつては蘇我氏宗家の寺であった、我が国で最も古い寺である。
 女帝が飛鳥に行くときには、蘇我氏の中でも支族の山田寺へ行く。そちらが母君のご実家だったから。
 なぜだ。なぜ、藤原氏の寺か蘇我氏宗家の寺なのか。
「ゆけ」
 鸕野は吉備采女きびのうねめ下道多米児しもつみちのためこの疑問を封じた。


 藤原史ふじわらふひとは、皇太妃・阿閇皇女に仕える県犬養道代が内裏から下がるのを待った。
 何よりも、道代の話すたわいない噂話を聞くことが何よりも楽しみである。他の女のする噂話など聞く気は無い。
 道代が話すのは、皇太妃の話なのだ。
 ああだこうだ、ああだ、こうだと道代は采女の誰それがどうのこうのと言う話をした。吉備から来た下道多米児しもつみちのためことかいう采女が、帝に使いに出されてどこかに行って二日経っても帰ってこないせいで、仕事が増えて疲れたのだと愚痴愚痴されるのは、放置である。くだらない話のその先。
 いや、帝に使いに出された采女がまだ戻らない?
「何か、事件にでも巻き込まれていなければ良いのだが」
 いやあねえ、と道代が答えた。
「僧侶を探していると言う話ですよ」
 帝の命令を受ける僧侶?誰のことだ。
「しかし、帝に仕える采女だろう」
 不服そうに道代は言う。
「もう何日か帰ってこないようでしたら、力になってくださいませよ」
 ああ、他の女に興味を示したとでも思ったのか。
 年甲斐もなく、膨らませた頬をつんつんとつついて、史は道代を抱き寄せた。
「あなたの仕事が増えなければいいと思っただけなのだから、ね」
 女を抱きながら、史は思う。
 帝は確かに、仏法に敬虔なお方だ。
 しかし、若い采女を使いに行かせて、二日経っても戻ってこれぬ。そんな場所にいるような僧侶とは誰だ。山深いところで修行をしているのか。
 それとも、采女が消えたのか。
 史の瞼の裏に、美豆良の美しい男の顔が浮かび、背筋を震わせた。
「どうなさったの?」
 不思議そうに道代が問う。答えてどうしようか。

 夏に聖地初瀬はせよりもさらに奥にある、室生の地で修行をしていた僧侶の義淵は、突然帝に呼び出された。
 呼びに来たのは、まだ若い采女である。
 采女は、なんと法興寺にいた行基まで使った。実際に険しい室生の山を登ってきたのは行基である。
 行基が来たということは、道昭上人が指揮したのであろうか。
 室生から降りたところにある、役行者のいる大野の庵で待っていたこの采女は、帝のすぐ側に近侍する采女であった。
 帝はなぜ、このような采女を使ったのか。
 理由は一つしかない。
 夏に修行していた僧侶である。帝の前に出るには見苦しいと、体を清めさせられ、法衣も法興寺から届けられていたものに変えられた。
 その間に義淵は思い出してはならぬ人の代わりに、岡の上の尼君のことを思い出した。
ー尼君。母上さま
 ようやく帝の御前に出る。
「久しいな」
 その声は弱々しい。
 あの女傑も老いて、小さくなったと思う。
「実に、お久しゅうございます」
 美しさよりも気の強さの方が勝ったような女人であった。
「朕は若さに執着したことはないが、そなたにだけは嫉妬を覚える」
「何をおっしゃる」
 海よりも深い苦悩も嫉妬も、山よりも高い国家の重圧も全て自らの心の中のことでしかない。
 それが仏の道であるが、実に困難なのである。
 煩悩を捨てることができないのが、人間である。
「何かが、起きましたな」
 なかなか本題に入らぬ帝に助け舟を出した。
「拙僧なんぞを呼ぶということは、もしや」
 鸕野は頷いた。
「…近江の偽王が切られた」
ー思えば、現れる。考えてはならぬ、忘れてはならぬが、思ってはならぬ
 それが藤原氏の嫡男が「何か」を見たときに、額田が語って聞かせたことである。
「額田は近江に偽王を置き、恨みを封じたと言った。その偽王が切られた。監視させた者は、美豆良の男が、葛城大王と伊賀采女の子は我一人と叫んだとも」
 義淵は、何度も頷いた。
 鸕野はゆっくりと続けた。
「誰にも言えぬことであるが、朕の前に朕の弟を名乗る、美豆良の男が現れ、消えた。市中には、美豆良の美男が現れては消えると言う。神の化身ではないかという噂まで立つ。知っての通り、朕は太子を立て、秋には太子に譲位する。この状況である」
 義淵は答えた。
「神の化身の噂については、逆に噂を流させませ。太子の徳の高さを讃えて、神が現れるのだと」
 鸕野は頷いた。
「それは手配済みである」
 義淵は思案した。
「帝に、美豆良の男は何かなさいましたか?」
「老けたと言い、また来ると」
「帝はそのとき、弟君のことを考えておられましたか?」
「まさか。朕は寝ていた。顔を触られて目を覚ました」  
 かつて、額田は言った。
ー思えば、現れる。考えてはならぬ、忘れてはならぬが、思ってはならぬ
「帝は、不安であられるのですね」
「いかにも」
「帝に関しては、怖がらせることを目的にしているように思われます。気丈にあられよ」
「他には」
 鸕野は身を乗り出して畳み掛けるように聞いた。
 義淵は首を振った。
「相手は実体がないのです。信じなければ、危害はおよびますまい」
 気になる点がないわけではない。
 あの、額田が「思えば現れる」と言ったではないか。
 その後に義淵一人に額田は言った。
「かの大王は、宝大王の血筋には見えるが、その血筋に連らぬ者には見えまい」
 それが、今は思わずとも、そして、宝大王の血筋ではない者にも見えるとは。
 それが気にならないわけではない。
  
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