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二
古都
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大来皇女は心地よさそうに眠っている。
大友は起きようとして、袖を大来に握られているのに気づいた。
ただただ、かわいい。
ただただ、愛おしい。
手を伸ばすと、かつて共に封じられた宝剣が大友の手に飛んできた。躊躇なく宝剣で袖に切れ目を入れて引き裂いた。
大来が寒くないように夜具をかけてやり、大友は目を閉じた。
華々しい藤原の地を後にし、向かった先は古都近江である。
切った袖はすでに大友の元に戻っていた。
水の音がして目を開けた。
ああ。あの。あの岩か。
川島、高市、草壁、大津と、十市に大来のいたあの夏。
高市が瓜を冷やして割った岩の上に大友は腰掛けていた。
残っているのは大来ただ一人である。
ー来ればいいのに
大友は思う。高市でも、大津でもいい。川島や草壁でも良いのだ。十市すらも根の国に行ってしまったか。
大津は深い恨みを抱かなかったのか。
大津には事実、野心があった。
ひ弱な草壁よりも自らの方がふさわしい。草壁本人もまたそれを認めていた。
「我が逝ったのちに、弟よ、そなたが立つべし」
病の折に草壁は大津に言った。
誤算だったのは、草壁よりも先に大海人が死んだことか。
かつての大乱を恐れた皇后が先手を打った。
大津の死を知って慟哭したのは大来だけではない。最も近しい兄であり、友でもあった草壁その人である。草壁は嘆き、鸕野も阿閉もいないところで食べた物を吐いた。穏やかで、よくいうことを聞く男の、ささやかな抵抗である。
草壁の死は自死のようなものである。
大津は、すんなりと負けを認め、根の国で草壁を待ったか。
高市が死ぬ前に願ったことは、許しと子の未来である。
川島は、後悔を抱いて死んだ。
ー彷徨うほどの恨みを抱いたのは我だけか
大友は、淡海の向こうから朝日が登るのを見た。
ここ数年引き寄せられることもなかった、近江の古い都を見に行ってみようか。
今度は目を閉じずに、馬に乗ってみたいと思った。
手を伸ばし、走ってきた荒ぶる漆黒の馬の立て髪をつかんだ。
誰が乗った馬だろうか。少し古めかしい意匠の馬具をつけた馬であった。死んだことを理解しない荒馬を、大友は難なく乗りこなした。
股で馬の体を挟む、その力の入れ方。
馬があまりに上下するので腰を浮かせる、その乗り方。
懐かしいと思う。
廃都の近くで荒馬を解放してやった。馬は大きくいななき、走っていく。
年月は、愛おしき廃都を森に変えていた。
大友は木々の中を歩く。
途中に朽ち果てた家らしきものの痕跡がないわけではない。
獣道だろうか、踏み固められた道のようなものがある。大友はそれに従って歩いた。
真夏の木々の香りの中に、煙がある。
煙?
人がいるのだろうか。
大友は森の中の細い道を辿った。
ーこれは?
大友は目を瞬かせた。
目の前に現れたのは内裏だった建物のなれの果てである。
檜皮葺の天井は一部崩れている。
これが、大友がさまよった年月である。
「誰じゃ」
声をかけられ、大友はびくっと振り向いた。
ー我を見ることができると?
「朕が自ら誰じゃと問うておるのじゃ」
ー朕?
大友の目の前に現れたのは、薄くなった髪の毛を無理やり髷にしたような男である。薄汚く、衣は近頃の頃のものというよりも、正しく父王の頃のものだ。
「大変ご無礼をいたしました。馬が暴れ、この森の中に入り込みましたが、とうとう振り落とされてしまいました」
「そうか。大変だったな。どこからきた」
どこだろうか。伊賀采女宅子娘が、大友の生母である。
「伊賀です」
男は懐かしそうな顔をした。
「伊賀か。我が母君のお生まれになったところだ。みな、つつがなきや」
大友は腰を低くして答えてみた。
「ありがたくも、平和に暮らしております。我が名は伊賀の葛城彦と申します」
大友は、今度は父の名を出した。
「葛城か。我が父と同じだな」
何を言っているのか、この男は。
「あなたさまは」
大友は汚らしい男に聞いた。
「朕こそ、この国の大王、大友なり」
何を言っているのか。
狂人か。
確かに、大王の座を大海人と鸕野に奪われた。
しかし、偽王とまでは言わぬ。
大王だった大友は死に、大海人は即位し、鸕野も即位した。
正しく、今のこの国の君主は鸕野である。それは大友も認める。
目の前にいるのは、死んだ我が名を名乗る狂人である。
ー許せぬ
大友は宝剣に手をかけた。
ー見えるなら、使えるか。使えるならば、死んだこともわからぬままに根の国に送ってやる。
太陽に剣がきらめき、しばらくしてドン、ドンと何かが落ちる音が森の中に響いた。
狂人は最後に何を見ただろうか。
大友は顔に何か生暖かいものを感じた。手で拭うと鮮血である。
それでも、我とは異なり、生きていたか。
首と胴体を切断された男の死体に向かって、大友は呟いた。
「この、大友の名を騙るとは許せぬ。葛城大王と宅子娘の子は朕一人」
ガサゴソっと草が揺れた。
大友は血のついた顔で振り向いた。そこには枝が揺れるだけである。
鹿か何かだろう。
大友は起きようとして、袖を大来に握られているのに気づいた。
ただただ、かわいい。
ただただ、愛おしい。
手を伸ばすと、かつて共に封じられた宝剣が大友の手に飛んできた。躊躇なく宝剣で袖に切れ目を入れて引き裂いた。
大来が寒くないように夜具をかけてやり、大友は目を閉じた。
華々しい藤原の地を後にし、向かった先は古都近江である。
切った袖はすでに大友の元に戻っていた。
水の音がして目を開けた。
ああ。あの。あの岩か。
川島、高市、草壁、大津と、十市に大来のいたあの夏。
高市が瓜を冷やして割った岩の上に大友は腰掛けていた。
残っているのは大来ただ一人である。
ー来ればいいのに
大友は思う。高市でも、大津でもいい。川島や草壁でも良いのだ。十市すらも根の国に行ってしまったか。
大津は深い恨みを抱かなかったのか。
大津には事実、野心があった。
ひ弱な草壁よりも自らの方がふさわしい。草壁本人もまたそれを認めていた。
「我が逝ったのちに、弟よ、そなたが立つべし」
病の折に草壁は大津に言った。
誤算だったのは、草壁よりも先に大海人が死んだことか。
かつての大乱を恐れた皇后が先手を打った。
大津の死を知って慟哭したのは大来だけではない。最も近しい兄であり、友でもあった草壁その人である。草壁は嘆き、鸕野も阿閉もいないところで食べた物を吐いた。穏やかで、よくいうことを聞く男の、ささやかな抵抗である。
草壁の死は自死のようなものである。
大津は、すんなりと負けを認め、根の国で草壁を待ったか。
高市が死ぬ前に願ったことは、許しと子の未来である。
川島は、後悔を抱いて死んだ。
ー彷徨うほどの恨みを抱いたのは我だけか
大友は、淡海の向こうから朝日が登るのを見た。
ここ数年引き寄せられることもなかった、近江の古い都を見に行ってみようか。
今度は目を閉じずに、馬に乗ってみたいと思った。
手を伸ばし、走ってきた荒ぶる漆黒の馬の立て髪をつかんだ。
誰が乗った馬だろうか。少し古めかしい意匠の馬具をつけた馬であった。死んだことを理解しない荒馬を、大友は難なく乗りこなした。
股で馬の体を挟む、その力の入れ方。
馬があまりに上下するので腰を浮かせる、その乗り方。
懐かしいと思う。
廃都の近くで荒馬を解放してやった。馬は大きくいななき、走っていく。
年月は、愛おしき廃都を森に変えていた。
大友は木々の中を歩く。
途中に朽ち果てた家らしきものの痕跡がないわけではない。
獣道だろうか、踏み固められた道のようなものがある。大友はそれに従って歩いた。
真夏の木々の香りの中に、煙がある。
煙?
人がいるのだろうか。
大友は森の中の細い道を辿った。
ーこれは?
大友は目を瞬かせた。
目の前に現れたのは内裏だった建物のなれの果てである。
檜皮葺の天井は一部崩れている。
これが、大友がさまよった年月である。
「誰じゃ」
声をかけられ、大友はびくっと振り向いた。
ー我を見ることができると?
「朕が自ら誰じゃと問うておるのじゃ」
ー朕?
大友の目の前に現れたのは、薄くなった髪の毛を無理やり髷にしたような男である。薄汚く、衣は近頃の頃のものというよりも、正しく父王の頃のものだ。
「大変ご無礼をいたしました。馬が暴れ、この森の中に入り込みましたが、とうとう振り落とされてしまいました」
「そうか。大変だったな。どこからきた」
どこだろうか。伊賀采女宅子娘が、大友の生母である。
「伊賀です」
男は懐かしそうな顔をした。
「伊賀か。我が母君のお生まれになったところだ。みな、つつがなきや」
大友は腰を低くして答えてみた。
「ありがたくも、平和に暮らしております。我が名は伊賀の葛城彦と申します」
大友は、今度は父の名を出した。
「葛城か。我が父と同じだな」
何を言っているのか、この男は。
「あなたさまは」
大友は汚らしい男に聞いた。
「朕こそ、この国の大王、大友なり」
何を言っているのか。
狂人か。
確かに、大王の座を大海人と鸕野に奪われた。
しかし、偽王とまでは言わぬ。
大王だった大友は死に、大海人は即位し、鸕野も即位した。
正しく、今のこの国の君主は鸕野である。それは大友も認める。
目の前にいるのは、死んだ我が名を名乗る狂人である。
ー許せぬ
大友は宝剣に手をかけた。
ー見えるなら、使えるか。使えるならば、死んだこともわからぬままに根の国に送ってやる。
太陽に剣がきらめき、しばらくしてドン、ドンと何かが落ちる音が森の中に響いた。
狂人は最後に何を見ただろうか。
大友は顔に何か生暖かいものを感じた。手で拭うと鮮血である。
それでも、我とは異なり、生きていたか。
首と胴体を切断された男の死体に向かって、大友は呟いた。
「この、大友の名を騙るとは許せぬ。葛城大王と宅子娘の子は朕一人」
ガサゴソっと草が揺れた。
大友は血のついた顔で振り向いた。そこには枝が揺れるだけである。
鹿か何かだろう。
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