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一
漂う存在
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大来皇女は大極殿を辞すとすぐさま自分の宮に戻った。
這い出すように車から出、少ない髪の飾りもそのままに寝台に横になった。
皇女に仕える采女たちは、氷高皇女の命令でついてきた吉備采女こと下道多米児に言われたように、残暑のせいだろうと皇女の衣を緩め、髪の飾りをとって皇女の額に濡れた布を乗せた。
「気持ちいいわね。少し休みたい」
大来皇女はそのまま采女たちを退出させた。
ーあの低い声は誰だろう
高市皇子と思った。
いや、違うような気がする。
では大津だろうか。
伊勢に赴く前の大津は、声変わりも始まらぬ少年だった。その子が亡くなったときはすでに二十三。ならば、あの声が大津でもおかしくない。だが、聞き覚えがある声なのだ。
いや、可留を太子にしようとしたあの声の主は、可留の父・草壁かもしれない。
では、川島。
ーまさか
大津に謀反の意志ありと今上に密告した川島を、我は川島が亡くなるまで訪問すら拒絶し続けた。その川島のはずはない。
ぼんやりと微睡ながら皇女は亡き人たちを思った。
ひゅるりと風が吹き、大来はぶるりと体を震わせた。
夜になったのだろうか。
もう一枚、何か脇にあっただろうか。
目を閉じたまま、皇女は何かないかと手を伸ばした。
その瞬間のことである。
皇女の足元に座っていた誰かがそっと立ち上がったような気がした。
ー無礼な
どの若い采女だろうか。主の寝台に腰かけるなど。
かっと目を見開いた皇女の目に、美豆良の男の後ろ姿が見えた。少年というには体ががっしりしすぎている。つまり、一人前の男とは見なされないような、低い身分の男。
大来皇女の宮では、高市皇子が遣わした下人たち以外には采女しかいない。彼ら下人は力仕事を任されていて、宮の主たる皇女の目にふれることはほとんどない。
高市皇子の没後は、香具山宮の御名部皇女もしくは、皇太妃の指揮下にあろう者たちが、こんな狼藉を働くとは!
「誰かある!」
大来皇女は叫び声をあげたいが、乾き切った口では声は声にならない。それでも、すぐそばにいる男には皇女の声ならぬ声が聞こえた。
「おや。そなた、朕が見えるか」
美豆良の男は振り返りざまに皇女に言った。
美貌には、多少似つかわしくない低い声は、確かにあの声である。
誰だ。
薄暗くてよく見えない。
いや。
朕だと?
天皇と言うのか。
「だ、誰じゃ。父さまの名を騙る者は」
男はぷふっと笑い、今度は皇女の枕元に身をかがめて肘をついた。
「叔父上の名など、騙りはせぬよ、大来や、大来」
男が顔を寄せ、皇女の髪を撫でた。
大来皇女の背を、つつっと冷たい汗が伝った。
ーガチガチと鳴るのはなんだ。我の、歯か!
全身の毛という毛が逆立ち、大来皇女はずずっと後退りをしながら起き上がった。
若い男の顔が皇女の胸のすぐ近くにある。
色白の瓜実顔は、並の女人よりも美しい。少し尖った顎から耳にかけて伸びる線のたくましさが、この男の力強さを示した。長い睫毛と唐風の桃花眼の化粧に縁取られた、大きな漆黒の瞳はくりくりとしていて、今日の葛野王どころではない美しさである。整った鼻筋のその下の、牡丹の花弁のような唇が横に広がっていく。
皇女が後退りをすれば、男はそのままくつくつと笑いながら、じわりと皇女の寝台に上がってくる。美しい瞳の中の、果てしない闇に取り込まれそうで、皇女は唾を飲み込んだ。
皇女の寝台はそれほど大きなものではない。
すぐに皇女は壁の際に追いやられてしまった。
ーどう逃げる?
皇女はぶるぶると震えながらきょろきょろと見渡した。
「怖がらないでも良いではないか」
恐ろしくないわけがない。
この男が誰か知っている。
美豆良姿の理由も知っている。
川島皇子ならば、こちらが恨んでいる。ここに出てくるわけがない。
草壁皇子にも恨まれる筋合いはない。
大きな恨みを抱いて亡くなっただろう大津皇子にも、命ぜられずとも殉死した妃の山辺皇女ごと、粟津王の親代になったことを感謝してもらいたい。確かに、粟津王は成人する前に病で亡くなったが。
最後まで心配してくれた高市皇子が我を恨むことはあるまい。
しかしながら、このお方は別だ。
大友大王。
少女時代の恋慕の相手だった美男子は、年を経て見ても凄みのある美しさである。
怨霊としてこの宮に出て、害をなすだけの、恨まれる理由がある。
美豆良姿なのは、王位簒奪を隠したい人が、結い上げてあった髻をほどき、美豆良姿の少年の姿で父王の太子として埋葬したからである。
「皇女さま、お目覚めですか」
物音に気づいたのだろうか、采女が声をかけた。
大友は興を削がれたでも言いたげに声の方を向き、ふっと消えた。
ー幻影。幻影に過ぎぬ
大来皇女は、胸に手を当て大きく息を吸った。
「少し冷えてきましたね」
皇女は上にかけるべき何かを求めた。
大来皇女は、夜が不安である。
大友大王が現れるのではないだろうか。
我が身を守るための結界を張れるような霊力はない。
こういうとき、母帝ならどうされるだろうか。
生母の顔を覚えない大来皇女にとって、母とは鸕野である。
ー攻撃せよ、大来
母帝の声がしたように思う。
確かに、母帝が守りに入ったことはない。常に「攻撃とは最大の防御」と考えるお人である。
それが自らの同胞の大友だろうが、自ら乳を分け与え、那津の地から連れて帰った大津だろうが迷うことも容赦することもない。おそらく、十市も高市もその手にかかった。
引いて駄目なら押してみよう。
大来皇女は、唐から渡った、心を落ち着けるという「茶」という薬湯を口に含んだ。まろやかな香味と、苦味の中にある爽やかな甘みを楽しみ、大来皇女は大きく呼吸を繰り返した。
采女たちを下がらせ、寝台に再び横たわる。
ー待ってやる
白い靄でも、怨霊でも来るが良い。
天照大神に捧げられたこの身に危害を加えるならばしてみれば良い。大友の子・葛野王を呪ってやる。
ー甘く見るでないぞ
目を瞑った大来皇女の寝台に、誰かが近づいた。
ー来たか、大友
「昼間は怯えさせてすまぬなあ」
皇女は糠に釘でも打つような気がした。
大友大王は続けた。
「だってほら、壬申の大乱から、すぐ側にいるのにだれもこの姿を見ず、声も聞かぬ。十市ですら声を聞いてくれぬ。朕に気づいたのはそなただけであった」
ー十市の館は、大友が来ると笑いが絶えぬ
近江の京で、母帝がまだ妃だったころに吐き捨てるように言われた言葉を思い出した。
十市が、淡海に足をつけ、水しぶきが輝いただけで笑った。
その隣にいたのが、大友。
笑わぬ十市を笑わせたのが大友。
大友とは、そういう人だった。
幼心に美しい人だと思った。
「草壁、大津、川島、こら、三人とも深いところまでいくんじゃない」
半裸の大友と高市がまだ幼い三人組を水の中で追い回した。志貴や忍壁はまだ赤子か生まれる前の話である。阿閇や御名部がいなかったのはよくわからない。
その水しぶきをあびて、ころころと十市が笑った。
水を怖がる大来に、大友はふと言った。
「ここは那津じゃない。用心すれば水は怖いものではないよ」
正妃は十市の座だ。
東宮、と名付けられた新しい宮が完成すれば、姉上はそちらに住うことになる。父上の妃として、太田・鸕野の姉妹が選ばれて父上の宮に住んだように、我も姉上と東宮に住うことはできるだろうか。
そう、思ったのだった。
吉野に父母が隠遁するとき、大来は共に吉野に向かった。
文字通り後ろ髪を引かれた。
父母の挙兵の後、二度と見えることのないと思った十市が、葛野王を伴って高市に守られて連れられて現れた。
夫と父の間に挟まれた十市が、どちらの人質にもならぬようにと、大友の手で母の額田のいた山階寺に送られて難を逃れた。
そうだ。そういう、お人だった。
大来は手を震わせながら伸ばした。
その手を、大きな手が包んだ。
「側におられたの」
「いた」
「いつも私の側に?」
「そういうわけでもないが。妃に迎えるはずだった人のことを気にかけなかったことはない」
高市皇子が言った通りのことを、大友も言う。
「大后は十市だが、妃嬪に迎えようと吉野に人をやった」
母帝さま。
母帝さま。
あなたが挙兵しなければ。
今でも京は近江にあり、王宮では無表情の氷高や怯えた顔をする阿閇の代わりに、十市の笑い声がこだましただろうに。
我は。
我は天照大神に仕えるのではなく、大王の妃嬪の一人になった。
今ごろ、氷高より少し大きな子がいて、孫が生まれる頃だったかもしれない。
病弱な草壁はわからないが、大津と川島も仲良くまだ生きていたかもしれないのに。高市はきっと、勇敢な将軍として陸奥の蝦夷でも討伐に行った。大津と川島はきっとその副官だ。
不惑を前にした大来皇女は、亡くなった頃と同じ二十歳を少し過ぎたばかりの美青年の腕の中で泣いた。
大友大王は機嫌が良い。
傍には満足そうに眠る大来がいた。
夜着からはだけた白い乳房が隙間から差し込む月の柔らかい光に輝いて見える。
大友はまた大来に口付けをした。
温かな、体温!
触れば、触れられるというのは、なんたる幸せか。
しかしながら、何度掴もうとしても、上掛けは掴めない。指が空を切る。
苦肉の策である。
乱れた大来の髪の毛先を束で掴んだ。
大来の髪を間に挟んで、上掛けを掴んでみた。髪の毛がつるつる滑るのだが、きちんと顎まで上掛けをかけてやることができた。
触れるのは、大来一人か。
女人が寝返りを打った。
足を絡め、女人を腕に抱けば、息吹を感じた。
生命!!!
触れられるのが大来一人で何が悪い。
眠らぬ存在は、大来の寝顔を見て機嫌良く微笑んでいた。
空が白み始めた。
昔は女人を抱いて、果てれば心地よい疲労を感じたが、なぜか力がみなぎる。
ーこれはもしや
眠らぬ大友は、大来皇女が眠っているのを再び確認して、寝室を出てみた。
これまでならば、決して出ることの出来なかった室内から、いつの間にやら容易に出ていくことができた。
ーうまくいくか
大友は大来の宮も抜け出すことができた。
ー内裏に向かってみようか
いや?
大友は念じてみた。
次は内裏へ。
あの、老女帝の寝台の前へ。
目を開けると、確かに死が近い老女帝がいた。
ー死臭にまみれてやがる
大友は顔をしかめた。
朝が早い老人は、寝台の中で片目を開けた。
ふむ。見えるか。
近寄るが、そう言うわけでもないらしい。
宝剣を引き抜き、何度目かのように、その首を刎ねた。
ゴホっと女帝は咳き込んだ。大友がもう一度、次はどこを刺してやろうかと考えているうちに、引っ張られるようにして、再びいたのは大来の寝台であった。
大来皇女に仕える采女たちは、主人の体調が優れないことを気に病んでいた。ただでさえ、後ろ盾になっていた高市皇子が亡くなったばかりである。高市皇子の香具山宮でも人が一人、また一人と姿を消して行っていた。まして、この大来皇女の宮である。行き場のない采女たちを置いて、下人たちは次々に姿を消していった。
高市皇子の遺児・長屋王が、新たに冊立される太子・可留皇子の姉妹の一人に通うようになるという話は采女たちのところにも聞こえてきた。つまり、主を失った香具山宮は皇太妃の後ろ盾を得たということだ。
「それはそうですわよ、母君は皇太妃の同母姉ですもの。新太子に何かがあれば長屋王が即位するのでしょう」
香具山宮に人が戻っても、後ろ盾を亡くした大来の宮には人は戻らない。
元々が世捨て人のようなお方だったのに、それが病となればどうしようもないではないか。
その采女たちは、大来皇女が日に日に変わっていく様子を訝しく見た。
この夏から秋の弱り方を見ても先が短いお方と思っていたが、若さに執着するようになった。
昔はそれなりに黒々としていた髪の毛にも年々白髪が増えた。それも気にせずに結い上げさせていたものを、最近では白髪を見つけ次第切るようにと命じる。そのせいで髪の量が減ってきたが、皇女は構わず切らせた。
目尻にできたシワやたるみが気になるようで、こめかみを揉ませて皮膚を持ち上げようとする。
眉根を寄せる癖はなくなり、刻み込まれたシワだけが残った。
その代わりに伊勢にいた頃から、皇女に仕える古株の采女も見たことのないような、柔らかい表情をするようになった。
もしも、伊勢で亡くなった皇女の乳母の大伯氏がまだ生きていれば「これこそ皇女さまの本来のお顔」と言っただろう。
この新都で、大来皇女は怯えて暮らしてきた。
それはもちろん、伊勢を退出した理由にあった。
父帝の崩御が最大の理由であることは変わらない。
次の帝が立ち、新たな斎宮が定まるまで、大来は伊勢に留まり天照大神に仕えるように。
それが伊勢に向かうときに父帝に申し渡された言葉である。
ところが、次の帝の即位を待たずに大来皇女は伊勢を退出した。
弟の大津皇子が謀反により死を賜ったことが理由である。
馴染みのある顔は、皇后・鸕野と皇太妃の他には草壁皇子と高市皇子、そして忍壁皇子しか残っていなかった。川島皇子を皇女は拒絶した。
伊勢からの退出以来、謀反人の同母姉として大来皇女は常に怯えて、息を潜めて暮らして久しい。
その皇女の顔が綻んでいる。
采女たちは困惑した。
大来皇女は目立たぬように生活していた。しかしながら、それは決して采女たちにとっても仕えやすい主人という意味ではない。
皇女は節制と規律を自分だけでなく、采女たちにも求めた。
朝起きたときには、皇女は内衣の襟もピシッときれいに正してある。
その人が夜寝乱れるようになり、朝もなかなか起きなくなった。
体調がすぐれぬと言い訳をして。
起きたら起きたでぼわんとした顔をして、なんと前をはだけていることまである。
ふとしたことでも頬を赤く染める。
何が起きたのだ。
這い出すように車から出、少ない髪の飾りもそのままに寝台に横になった。
皇女に仕える采女たちは、氷高皇女の命令でついてきた吉備采女こと下道多米児に言われたように、残暑のせいだろうと皇女の衣を緩め、髪の飾りをとって皇女の額に濡れた布を乗せた。
「気持ちいいわね。少し休みたい」
大来皇女はそのまま采女たちを退出させた。
ーあの低い声は誰だろう
高市皇子と思った。
いや、違うような気がする。
では大津だろうか。
伊勢に赴く前の大津は、声変わりも始まらぬ少年だった。その子が亡くなったときはすでに二十三。ならば、あの声が大津でもおかしくない。だが、聞き覚えがある声なのだ。
いや、可留を太子にしようとしたあの声の主は、可留の父・草壁かもしれない。
では、川島。
ーまさか
大津に謀反の意志ありと今上に密告した川島を、我は川島が亡くなるまで訪問すら拒絶し続けた。その川島のはずはない。
ぼんやりと微睡ながら皇女は亡き人たちを思った。
ひゅるりと風が吹き、大来はぶるりと体を震わせた。
夜になったのだろうか。
もう一枚、何か脇にあっただろうか。
目を閉じたまま、皇女は何かないかと手を伸ばした。
その瞬間のことである。
皇女の足元に座っていた誰かがそっと立ち上がったような気がした。
ー無礼な
どの若い采女だろうか。主の寝台に腰かけるなど。
かっと目を見開いた皇女の目に、美豆良の男の後ろ姿が見えた。少年というには体ががっしりしすぎている。つまり、一人前の男とは見なされないような、低い身分の男。
大来皇女の宮では、高市皇子が遣わした下人たち以外には采女しかいない。彼ら下人は力仕事を任されていて、宮の主たる皇女の目にふれることはほとんどない。
高市皇子の没後は、香具山宮の御名部皇女もしくは、皇太妃の指揮下にあろう者たちが、こんな狼藉を働くとは!
「誰かある!」
大来皇女は叫び声をあげたいが、乾き切った口では声は声にならない。それでも、すぐそばにいる男には皇女の声ならぬ声が聞こえた。
「おや。そなた、朕が見えるか」
美豆良の男は振り返りざまに皇女に言った。
美貌には、多少似つかわしくない低い声は、確かにあの声である。
誰だ。
薄暗くてよく見えない。
いや。
朕だと?
天皇と言うのか。
「だ、誰じゃ。父さまの名を騙る者は」
男はぷふっと笑い、今度は皇女の枕元に身をかがめて肘をついた。
「叔父上の名など、騙りはせぬよ、大来や、大来」
男が顔を寄せ、皇女の髪を撫でた。
大来皇女の背を、つつっと冷たい汗が伝った。
ーガチガチと鳴るのはなんだ。我の、歯か!
全身の毛という毛が逆立ち、大来皇女はずずっと後退りをしながら起き上がった。
若い男の顔が皇女の胸のすぐ近くにある。
色白の瓜実顔は、並の女人よりも美しい。少し尖った顎から耳にかけて伸びる線のたくましさが、この男の力強さを示した。長い睫毛と唐風の桃花眼の化粧に縁取られた、大きな漆黒の瞳はくりくりとしていて、今日の葛野王どころではない美しさである。整った鼻筋のその下の、牡丹の花弁のような唇が横に広がっていく。
皇女が後退りをすれば、男はそのままくつくつと笑いながら、じわりと皇女の寝台に上がってくる。美しい瞳の中の、果てしない闇に取り込まれそうで、皇女は唾を飲み込んだ。
皇女の寝台はそれほど大きなものではない。
すぐに皇女は壁の際に追いやられてしまった。
ーどう逃げる?
皇女はぶるぶると震えながらきょろきょろと見渡した。
「怖がらないでも良いではないか」
恐ろしくないわけがない。
この男が誰か知っている。
美豆良姿の理由も知っている。
川島皇子ならば、こちらが恨んでいる。ここに出てくるわけがない。
草壁皇子にも恨まれる筋合いはない。
大きな恨みを抱いて亡くなっただろう大津皇子にも、命ぜられずとも殉死した妃の山辺皇女ごと、粟津王の親代になったことを感謝してもらいたい。確かに、粟津王は成人する前に病で亡くなったが。
最後まで心配してくれた高市皇子が我を恨むことはあるまい。
しかしながら、このお方は別だ。
大友大王。
少女時代の恋慕の相手だった美男子は、年を経て見ても凄みのある美しさである。
怨霊としてこの宮に出て、害をなすだけの、恨まれる理由がある。
美豆良姿なのは、王位簒奪を隠したい人が、結い上げてあった髻をほどき、美豆良姿の少年の姿で父王の太子として埋葬したからである。
「皇女さま、お目覚めですか」
物音に気づいたのだろうか、采女が声をかけた。
大友は興を削がれたでも言いたげに声の方を向き、ふっと消えた。
ー幻影。幻影に過ぎぬ
大来皇女は、胸に手を当て大きく息を吸った。
「少し冷えてきましたね」
皇女は上にかけるべき何かを求めた。
大来皇女は、夜が不安である。
大友大王が現れるのではないだろうか。
我が身を守るための結界を張れるような霊力はない。
こういうとき、母帝ならどうされるだろうか。
生母の顔を覚えない大来皇女にとって、母とは鸕野である。
ー攻撃せよ、大来
母帝の声がしたように思う。
確かに、母帝が守りに入ったことはない。常に「攻撃とは最大の防御」と考えるお人である。
それが自らの同胞の大友だろうが、自ら乳を分け与え、那津の地から連れて帰った大津だろうが迷うことも容赦することもない。おそらく、十市も高市もその手にかかった。
引いて駄目なら押してみよう。
大来皇女は、唐から渡った、心を落ち着けるという「茶」という薬湯を口に含んだ。まろやかな香味と、苦味の中にある爽やかな甘みを楽しみ、大来皇女は大きく呼吸を繰り返した。
采女たちを下がらせ、寝台に再び横たわる。
ー待ってやる
白い靄でも、怨霊でも来るが良い。
天照大神に捧げられたこの身に危害を加えるならばしてみれば良い。大友の子・葛野王を呪ってやる。
ー甘く見るでないぞ
目を瞑った大来皇女の寝台に、誰かが近づいた。
ー来たか、大友
「昼間は怯えさせてすまぬなあ」
皇女は糠に釘でも打つような気がした。
大友大王は続けた。
「だってほら、壬申の大乱から、すぐ側にいるのにだれもこの姿を見ず、声も聞かぬ。十市ですら声を聞いてくれぬ。朕に気づいたのはそなただけであった」
ー十市の館は、大友が来ると笑いが絶えぬ
近江の京で、母帝がまだ妃だったころに吐き捨てるように言われた言葉を思い出した。
十市が、淡海に足をつけ、水しぶきが輝いただけで笑った。
その隣にいたのが、大友。
笑わぬ十市を笑わせたのが大友。
大友とは、そういう人だった。
幼心に美しい人だと思った。
「草壁、大津、川島、こら、三人とも深いところまでいくんじゃない」
半裸の大友と高市がまだ幼い三人組を水の中で追い回した。志貴や忍壁はまだ赤子か生まれる前の話である。阿閇や御名部がいなかったのはよくわからない。
その水しぶきをあびて、ころころと十市が笑った。
水を怖がる大来に、大友はふと言った。
「ここは那津じゃない。用心すれば水は怖いものではないよ」
正妃は十市の座だ。
東宮、と名付けられた新しい宮が完成すれば、姉上はそちらに住うことになる。父上の妃として、太田・鸕野の姉妹が選ばれて父上の宮に住んだように、我も姉上と東宮に住うことはできるだろうか。
そう、思ったのだった。
吉野に父母が隠遁するとき、大来は共に吉野に向かった。
文字通り後ろ髪を引かれた。
父母の挙兵の後、二度と見えることのないと思った十市が、葛野王を伴って高市に守られて連れられて現れた。
夫と父の間に挟まれた十市が、どちらの人質にもならぬようにと、大友の手で母の額田のいた山階寺に送られて難を逃れた。
そうだ。そういう、お人だった。
大来は手を震わせながら伸ばした。
その手を、大きな手が包んだ。
「側におられたの」
「いた」
「いつも私の側に?」
「そういうわけでもないが。妃に迎えるはずだった人のことを気にかけなかったことはない」
高市皇子が言った通りのことを、大友も言う。
「大后は十市だが、妃嬪に迎えようと吉野に人をやった」
母帝さま。
母帝さま。
あなたが挙兵しなければ。
今でも京は近江にあり、王宮では無表情の氷高や怯えた顔をする阿閇の代わりに、十市の笑い声がこだましただろうに。
我は。
我は天照大神に仕えるのではなく、大王の妃嬪の一人になった。
今ごろ、氷高より少し大きな子がいて、孫が生まれる頃だったかもしれない。
病弱な草壁はわからないが、大津と川島も仲良くまだ生きていたかもしれないのに。高市はきっと、勇敢な将軍として陸奥の蝦夷でも討伐に行った。大津と川島はきっとその副官だ。
不惑を前にした大来皇女は、亡くなった頃と同じ二十歳を少し過ぎたばかりの美青年の腕の中で泣いた。
大友大王は機嫌が良い。
傍には満足そうに眠る大来がいた。
夜着からはだけた白い乳房が隙間から差し込む月の柔らかい光に輝いて見える。
大友はまた大来に口付けをした。
温かな、体温!
触れば、触れられるというのは、なんたる幸せか。
しかしながら、何度掴もうとしても、上掛けは掴めない。指が空を切る。
苦肉の策である。
乱れた大来の髪の毛先を束で掴んだ。
大来の髪を間に挟んで、上掛けを掴んでみた。髪の毛がつるつる滑るのだが、きちんと顎まで上掛けをかけてやることができた。
触れるのは、大来一人か。
女人が寝返りを打った。
足を絡め、女人を腕に抱けば、息吹を感じた。
生命!!!
触れられるのが大来一人で何が悪い。
眠らぬ存在は、大来の寝顔を見て機嫌良く微笑んでいた。
空が白み始めた。
昔は女人を抱いて、果てれば心地よい疲労を感じたが、なぜか力がみなぎる。
ーこれはもしや
眠らぬ大友は、大来皇女が眠っているのを再び確認して、寝室を出てみた。
これまでならば、決して出ることの出来なかった室内から、いつの間にやら容易に出ていくことができた。
ーうまくいくか
大友は大来の宮も抜け出すことができた。
ー内裏に向かってみようか
いや?
大友は念じてみた。
次は内裏へ。
あの、老女帝の寝台の前へ。
目を開けると、確かに死が近い老女帝がいた。
ー死臭にまみれてやがる
大友は顔をしかめた。
朝が早い老人は、寝台の中で片目を開けた。
ふむ。見えるか。
近寄るが、そう言うわけでもないらしい。
宝剣を引き抜き、何度目かのように、その首を刎ねた。
ゴホっと女帝は咳き込んだ。大友がもう一度、次はどこを刺してやろうかと考えているうちに、引っ張られるようにして、再びいたのは大来の寝台であった。
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高市皇子の遺児・長屋王が、新たに冊立される太子・可留皇子の姉妹の一人に通うようになるという話は采女たちのところにも聞こえてきた。つまり、主を失った香具山宮は皇太妃の後ろ盾を得たということだ。
「それはそうですわよ、母君は皇太妃の同母姉ですもの。新太子に何かがあれば長屋王が即位するのでしょう」
香具山宮に人が戻っても、後ろ盾を亡くした大来の宮には人は戻らない。
元々が世捨て人のようなお方だったのに、それが病となればどうしようもないではないか。
その采女たちは、大来皇女が日に日に変わっていく様子を訝しく見た。
この夏から秋の弱り方を見ても先が短いお方と思っていたが、若さに執着するようになった。
昔はそれなりに黒々としていた髪の毛にも年々白髪が増えた。それも気にせずに結い上げさせていたものを、最近では白髪を見つけ次第切るようにと命じる。そのせいで髪の量が減ってきたが、皇女は構わず切らせた。
目尻にできたシワやたるみが気になるようで、こめかみを揉ませて皮膚を持ち上げようとする。
眉根を寄せる癖はなくなり、刻み込まれたシワだけが残った。
その代わりに伊勢にいた頃から、皇女に仕える古株の采女も見たことのないような、柔らかい表情をするようになった。
もしも、伊勢で亡くなった皇女の乳母の大伯氏がまだ生きていれば「これこそ皇女さまの本来のお顔」と言っただろう。
この新都で、大来皇女は怯えて暮らしてきた。
それはもちろん、伊勢を退出した理由にあった。
父帝の崩御が最大の理由であることは変わらない。
次の帝が立ち、新たな斎宮が定まるまで、大来は伊勢に留まり天照大神に仕えるように。
それが伊勢に向かうときに父帝に申し渡された言葉である。
ところが、次の帝の即位を待たずに大来皇女は伊勢を退出した。
弟の大津皇子が謀反により死を賜ったことが理由である。
馴染みのある顔は、皇后・鸕野と皇太妃の他には草壁皇子と高市皇子、そして忍壁皇子しか残っていなかった。川島皇子を皇女は拒絶した。
伊勢からの退出以来、謀反人の同母姉として大来皇女は常に怯えて、息を潜めて暮らして久しい。
その皇女の顔が綻んでいる。
采女たちは困惑した。
大来皇女は目立たぬように生活していた。しかしながら、それは決して采女たちにとっても仕えやすい主人という意味ではない。
皇女は節制と規律を自分だけでなく、采女たちにも求めた。
朝起きたときには、皇女は内衣の襟もピシッときれいに正してある。
その人が夜寝乱れるようになり、朝もなかなか起きなくなった。
体調がすぐれぬと言い訳をして。
起きたら起きたでぼわんとした顔をして、なんと前をはだけていることまである。
ふとしたことでも頬を赤く染める。
何が起きたのだ。
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