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一
鸕野女帝
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老女帝・鸕野《うの》は大来皇女が祈りの最中に伏せたと聞いて顔をしかめた。
ー名目上は朕の快癒を祝ったというが、どう考えても高市のためであろう
隠しきれない、その小賢しさが不快だ。
凡人。
それこそが、鸕野による、太田皇女、そして大来皇女への評価である。
何度も何度も大来に祈らせておきながら、鸕野は大来を凡人と評した。
伊勢に送ったのは、大来が凡人だからだ。
伊勢に十市を送る話がもちあがったときに、未亡人の十市ではなく、大来と進言した。
祈りの力は無視できない。
かの、那津で鸕野は見た。
白村江の敗戦、それも惨敗して彼らは那津に戻ってきた。疫病ももたらした。
本来、朝鮮に出兵するべきではなかった。宝大王が身罷られた折に手を引くべきだった。
太田は父と夫のもたらした疫病にかかって死んだ。
三人の幼児を抱え、目の前には敗戦の責任を問われかねない我が父と我が夫がいた。
ーあの頃朕は我が父・大王の娘であった
そこに、今の氷高とどこが変わろう。誰かの翼の下でぬくぬくとしていた。その翼の主は父であり、夫であった。その二つの翼が失われようとしていた。
ーこの子らを抱えてどう生き延びるか
まだ歩けぬ大津を抱きしめ、草壁と大来が小さな手で裳を掴んで不安に震えた。食料はすでに敗軍に与えられ、那津にいた女人たちのところまでは回らなかった。大津の乳母も草壁の乳母も乳が枯れ、唯一少し出た鸕野自らが草壁と大津にも乳を与えた。
死ぬのだろうか。
殺されるのだろうか。自刎する方が良い。自らの裳を握り締め、自ら乳を与えるこの子らの首をこの手でひねり、自らも首を括るしかあるまいか。
毎日、いや毎刻そう思わぬ日はなかった。
それを変えた女人がいた。
一番大きな船の、高いところに一人の女人が登った。
女盛りの美しい女人は白い衣に身を包み、両手にそれぞれ磨き上げた鏡を持ち、トントンと太鼓に合わせて舞踏した。
日の光を受けて鏡が輝いた。白い衣が光に透け、そして風に押し付けられ、その下の温かくて柔らかな肉体を想像させた。
天女の舞、いや、天照大神の舞踏である。
「天照の国に帰国できて良かった」
鸕野は空気が変わったのを目の当たりにした。
その女人こそ、夫と父が愛した額田女王である。
その直後である。東方からの早馬が到着した。大和を守る、葛城の正妃・倭女王からであった。
「食料も薬も十分運ばせている」
それを聞き、安堵が広がったのである。
額田女王の舞踏は虚である。倭女王の物資は実である。本来人々が感謝せねばならないのは、はるばる東方から何日もかけて物資を送らせた倭女王の方であるにも関わらず、人はみな額田女王の祈りが天に通じたと思った。
そして、平穏が訪れた。
もちろん、倭女王からの使者は先に到着していて、物資が到着することを知った上で額田女王が舞踏したのである。
夫・大海人は額田を女人として愛し、父・葛城は額田の才能と度胸を愛した。
鸕野は聡い。那津のあの瞬間、自分が額田になれぬことを知った。
先年亡くなった、あの額田の舞踏は二度と見たいものではない。
そのために、伊勢に天照大神に捧げる宮を選ぶときに、先帝・大海人が額田の産んだ十市を選ぼうとしたときに、「汚れなき巫女」が良いと大来を推挙した。
皇后・鸕野の推挙により、美豆良の髪を、高く盛り上げたばかりの大来は伊勢に送られた。
それでも、祈りの力は無視できない。
古来より、政治とは、正しく祀りごとである。
だから大津の死を理由に大来を呼び戻し、この新都で祈らせた。
そして、新たな斎宮には伊勢に送らない。
天照大神に捧げられた、唯一の斎宮が女帝に仕える。
まさしく、鸕野は自らを天照に見立てさせるように仕向けたのである。
自らにあの額田のような神性がないならば、伊勢に送った聖なる巫女を平伏させることによって、神性を演出したのである。
ーしかし、祈りの最中に一人前に倒れてしまうなど笑止千万
お呼びでしょうか、と皇太妃・阿閇皇女が現れた。
阿閇もまた、凡人である。
しかし、出しゃばることもなく、実に都合の良い相手だった。
「史も来る」
しばらくして藤原史が参内した。
「そなたらを呼んだのは他でもない。可留の立太子についてである」
「可留はまだ幼くはありませんか」
阿閇皇女は恐る恐る言った。
「朕の年齢を考えよ。先は短い」
藤原史が答えた。
「陛下は不安を感じておられるのですか?」
「当たり前じゃ」
鸕野こそ吉野で挙兵した張本人である。
大海人本人はそのまま一人の僧侶になろうとした。
「ここで挙兵なさらねば、我らが攻め滅ぼされるのです」
鸕野は大海人に説いた。
勝たねば滅ぼされる。
朕は、大友《わがはらから》に何をしたのか。
大友は、我らに何をしよつとしたのか。
我が父君は、難波の宮の大王に、古人大兄御子に何をしたのか。
蘇我入鹿は、山背大兄王に何をしたのか。
ー争いを避けねばならぬ
この手で那津から連れて帰った、愛おしいあの大津も排除した。
高市皇子という男は、あの懐かしい夫によく似た風貌をしていて、そして、操りやすかった。
尽くしてくれた男に帝位を譲らねばならぬかと、意思の力だけで生きてきた。
可留を東宮にして即位したならば、あの男は可留を排除して、自らの長屋王に譲ることになっただろうか。
ー争いを避けねばならぬ
そのためならば、あの大津と比べれば、特にかわいいものでもない長屋王を排除することは厭わないつもりだった。しかし、どんどん高市皇子はやつれていった。
高市皇子の子を排除する前に、即位すべき高市皇子が死んだ。
もはや、することは一つではないか。
「朕の没後の争いは避けねばならぬ。まず、可留の立太子。そして、譲位を行い安定させる」
「後漢のように少帝を戴いた国が滅んだ例がございますよ」
阿閇皇女が伏せ目がちに言った。
確かに彼の地は何度もなんども王朝が変わり、今は「唐」である。
ふむ、と藤原史が腕を組んだ。
「陛下は譲位されて、太上天皇、上皇になられれば良い。譲位された例は、宝大王の例があります。そして少帝を理由に今と同様に政をなさるのはいかがでしょうか」
鸕野は満足そうにうなずき、紅色の厨子を撫でた。
「帝位は、朕と先帝の血を引く者に限る」
その言葉が阿閇皇女を終生縛ることになったが、それはまた別の話である。
大来皇女は老女帝・鸕野に呼ばれて渋々大極殿の朝議に出る。
「大来や。そなたは大帝の御子の中で最も年長にして、最も尊い。皇位についてはそなたの意見も聞きたいのじゃ」
そう言われれば出ないわけにはいかない。
大来皇女の顔色は悪い。
「残暑の疲れのせいでしょう」
そう答えるしかない。
采女のように老女帝に侍る氷高皇女が、珍しく口を開いて同意しした。
「確かに、今年は秋になろうとしているのに残暑が厳しいですね」
母帝が怖い。
本音を言えば、どれだけこの嫡母は怒るだろうか。
「大来のために椅子を」
氷高皇女の差配で、氷高同様にまだ乳臭そうな顔をした采女たちが大来皇女のために椅子を運んだ。
老女帝玉座の左に皇太妃・阿閇皇女が立ち、女帝の右に大来皇女が座った。
群臣たちが並び、女帝が口を開いた。
「太政大臣《高市皇子》が亡くなった。朕は高市皇子に帝位を譲るつもりでいたのに、譲る者がいない。日継の御子には誰が良いと思う」
ある人が口を開いた。
「高市皇子の次に年長の、先帝の皇子は忍壁皇子。こちらに譲られますように」
女帝・鸕野はぎろりと忍壁皇子を見て、忍壁皇子は竦み上がった。
別の誰かが口を開いた。
「いや、そちらにおわします大来皇女こそ、高市皇子の次にお年かさの大帝の御子。しかも、帝がおっしゃられるように、最も尊いお方ではないか。まずは、大来皇女に譲られますように」
一同の視線は、次に大来皇女に集まった。
「大来には継いでくれぬかと打診したことがある。どうじゃ」
老女帝に問われて大来皇女は立ち上がろうとした。
ぐらりと揺れて、あわてて氷高皇女が大来皇女に駆け寄った。
「この通り、私は今年の残暑にも負けるほどでございます。別のお方になさいますよう」
誰もがそれに同意する。
鸕野はぎろりと大来を見た。
「では大来、誰が良いと思う」
大来皇女は誰かがその耳に囁くのを聞いた。
ー鸕野の意中の人以外の名を出すのだよ
意中の人とは、女帝の孫・可留皇子以外にいない。忍壁は忍壁で特に親しいわけでもない。いきなり名を出せば不自然だ。
この二人をを外すならば、高市皇子もその名を出したという阿閇皇女一人しかいまい。
「皇太妃さまではいかがでしょうか」
次に視線が集まったのは阿閇皇女である。
ふむ、と鸕野はうなずいた。
「そうじゃの」
そのとき、末の方から若く張りのある声がした。
「申し上げます」
「誰じゃ」
末から前に出てきたのは、葛野王《かどののおう》である。
姿形が父親に似た美丈夫になってきた。すでに、父親の没年も母親の没年も越すのではないだろうか。ただ、長い睫毛に縁取られた漆黒の瞳は、くりくりとした瞳をしていた父君ではなく、切れ長の目をしていた母君に譲られたものか。大来皇女は葛野王から目を背けた。
「皇太妃さまが即位なさると、姉から妹への譲位でございまする」
「そうなるよの」
舎人皇子が答えた。
葛野王は続けた。
「わが国は神代の頃から親から子へと王位を渡してきました。兄から弟へ渡すときには戦が起こりましょう」
一同はどよめいた。
葛野王こそ、壬申の乱での敗者・大友皇子とその正妃・十市皇女の子である。
近江の大海人宮で生まれ、祖父の葛城大王を支えた葛城氏の支族・葛野氏を乳母に与えられた。大乱がなければ、近江の東宮に育っただろうこの王が即位すべきお人だっただろうに。
東宮で育つ代わりに、この王は十市皇女の没後は、祖母の額田の元で育った。
大王位は、葛城大王からその子大友大王へ、壬申の乱の後に葛城大王の弟の大海人に移った。
その後に、天皇を称した大海人の皇后であり、葛城大王の娘の鸕野が即位した。
兄から弟へ。それはまさしく葛城から大海人への大王位の移行そのものを指す。
「あのような戦は二度と起こしてはならぬ!」
女帝がはっきりと言った。
「しかしながら、歴代には、」
葛野王の意図を図りかねた弓削皇子が口を開こうとした。
「どの御子がふさわしいか天意を測ることができるお方がここにおられましょうか」
葛野王は答えた。
一同の視線が大来皇女に集まった。
斎宮ならば。
大来皇女は再び声を聞いた。
ーできぬと答えよ
やはり懐かしさのある声だと思う。
高市皇子だろうか。
大来皇女は女帝に一礼して答えるしかない。
「わたくしめは凡人にすぎませぬ。凡人ゆえに一身に祈るだけでございます」
女帝・鸕野は満足そうに頷いて答えた。
「朕もまた不徳にして、祖母の、雨乞いをしてみせた宝大王のような霊力の持ち主ではない。かの額田もおらぬ今、天意を測ることのできる者は存在せぬ」
葛野王は続けた。
「みなさま、血筋をお考えくださいませ。長幼を考えれば、皇嗣は自ずと定まるものでございませぬか」
忍壁皇子が志貴皇子の袖を引っ張りながら前に進み出た。
「我ら二人、かつて吉野の地で先帝と当時皇后であられた帝に誓いました」
引っ張り出されてびっくりした顔を見せつつも、志貴皇子が如才なく続けた。
「当時は先日亡くなった高市皇子を筆頭に、遠くに昔に亡くなった大津も川島も健在でした」
女帝が最も聞きたくないであろう、大津の名前が出ても女帝は顔色一つ変えない。
忍壁はさらに続ける。
「先帝は今は亡き草壁を太子にし、我ら異母兄弟同士互いに助けて相争わないことを誓わせました」
正確には、川島皇子と志貴皇子は大来皇女の異母弟ではない。女帝・鸕野の異母弟たちである。つまり、吉野の誓約を建てた中には、皇后・鸕野本人も入っていた。
ー卑母拝礼の禁止の詔は、まことに蘇我氏を母に持つ今上ご本人にも適用されるべきであったか
大来は気づいた。
しかしながら、飛鳥の帝の皇子を代表する忍壁皇子と、近江の葛城大王の男児の唯一の生き残りの志貴皇子が草壁皇子の名を出した。
葛野王が女帝の前に跪いて奏上した。
「草壁皇子の遺児、可留皇子こそお世継ぎにふさわしゅうございます」
決まった。
藤原史が声を張り上げた。
「可留皇子をお世継ぎになさいますよう」
群臣も揃って言うしかない。
「可留皇子をお世継ぎに」
顔を上げた葛野王は、なぜか大来皇女を見た。
ー名目上は朕の快癒を祝ったというが、どう考えても高市のためであろう
隠しきれない、その小賢しさが不快だ。
凡人。
それこそが、鸕野による、太田皇女、そして大来皇女への評価である。
何度も何度も大来に祈らせておきながら、鸕野は大来を凡人と評した。
伊勢に送ったのは、大来が凡人だからだ。
伊勢に十市を送る話がもちあがったときに、未亡人の十市ではなく、大来と進言した。
祈りの力は無視できない。
かの、那津で鸕野は見た。
白村江の敗戦、それも惨敗して彼らは那津に戻ってきた。疫病ももたらした。
本来、朝鮮に出兵するべきではなかった。宝大王が身罷られた折に手を引くべきだった。
太田は父と夫のもたらした疫病にかかって死んだ。
三人の幼児を抱え、目の前には敗戦の責任を問われかねない我が父と我が夫がいた。
ーあの頃朕は我が父・大王の娘であった
そこに、今の氷高とどこが変わろう。誰かの翼の下でぬくぬくとしていた。その翼の主は父であり、夫であった。その二つの翼が失われようとしていた。
ーこの子らを抱えてどう生き延びるか
まだ歩けぬ大津を抱きしめ、草壁と大来が小さな手で裳を掴んで不安に震えた。食料はすでに敗軍に与えられ、那津にいた女人たちのところまでは回らなかった。大津の乳母も草壁の乳母も乳が枯れ、唯一少し出た鸕野自らが草壁と大津にも乳を与えた。
死ぬのだろうか。
殺されるのだろうか。自刎する方が良い。自らの裳を握り締め、自ら乳を与えるこの子らの首をこの手でひねり、自らも首を括るしかあるまいか。
毎日、いや毎刻そう思わぬ日はなかった。
それを変えた女人がいた。
一番大きな船の、高いところに一人の女人が登った。
女盛りの美しい女人は白い衣に身を包み、両手にそれぞれ磨き上げた鏡を持ち、トントンと太鼓に合わせて舞踏した。
日の光を受けて鏡が輝いた。白い衣が光に透け、そして風に押し付けられ、その下の温かくて柔らかな肉体を想像させた。
天女の舞、いや、天照大神の舞踏である。
「天照の国に帰国できて良かった」
鸕野は空気が変わったのを目の当たりにした。
その女人こそ、夫と父が愛した額田女王である。
その直後である。東方からの早馬が到着した。大和を守る、葛城の正妃・倭女王からであった。
「食料も薬も十分運ばせている」
それを聞き、安堵が広がったのである。
額田女王の舞踏は虚である。倭女王の物資は実である。本来人々が感謝せねばならないのは、はるばる東方から何日もかけて物資を送らせた倭女王の方であるにも関わらず、人はみな額田女王の祈りが天に通じたと思った。
そして、平穏が訪れた。
もちろん、倭女王からの使者は先に到着していて、物資が到着することを知った上で額田女王が舞踏したのである。
夫・大海人は額田を女人として愛し、父・葛城は額田の才能と度胸を愛した。
鸕野は聡い。那津のあの瞬間、自分が額田になれぬことを知った。
先年亡くなった、あの額田の舞踏は二度と見たいものではない。
そのために、伊勢に天照大神に捧げる宮を選ぶときに、先帝・大海人が額田の産んだ十市を選ぼうとしたときに、「汚れなき巫女」が良いと大来を推挙した。
皇后・鸕野の推挙により、美豆良の髪を、高く盛り上げたばかりの大来は伊勢に送られた。
それでも、祈りの力は無視できない。
古来より、政治とは、正しく祀りごとである。
だから大津の死を理由に大来を呼び戻し、この新都で祈らせた。
そして、新たな斎宮には伊勢に送らない。
天照大神に捧げられた、唯一の斎宮が女帝に仕える。
まさしく、鸕野は自らを天照に見立てさせるように仕向けたのである。
自らにあの額田のような神性がないならば、伊勢に送った聖なる巫女を平伏させることによって、神性を演出したのである。
ーしかし、祈りの最中に一人前に倒れてしまうなど笑止千万
お呼びでしょうか、と皇太妃・阿閇皇女が現れた。
阿閇もまた、凡人である。
しかし、出しゃばることもなく、実に都合の良い相手だった。
「史も来る」
しばらくして藤原史が参内した。
「そなたらを呼んだのは他でもない。可留の立太子についてである」
「可留はまだ幼くはありませんか」
阿閇皇女は恐る恐る言った。
「朕の年齢を考えよ。先は短い」
藤原史が答えた。
「陛下は不安を感じておられるのですか?」
「当たり前じゃ」
鸕野こそ吉野で挙兵した張本人である。
大海人本人はそのまま一人の僧侶になろうとした。
「ここで挙兵なさらねば、我らが攻め滅ぼされるのです」
鸕野は大海人に説いた。
勝たねば滅ぼされる。
朕は、大友《わがはらから》に何をしたのか。
大友は、我らに何をしよつとしたのか。
我が父君は、難波の宮の大王に、古人大兄御子に何をしたのか。
蘇我入鹿は、山背大兄王に何をしたのか。
ー争いを避けねばならぬ
この手で那津から連れて帰った、愛おしいあの大津も排除した。
高市皇子という男は、あの懐かしい夫によく似た風貌をしていて、そして、操りやすかった。
尽くしてくれた男に帝位を譲らねばならぬかと、意思の力だけで生きてきた。
可留を東宮にして即位したならば、あの男は可留を排除して、自らの長屋王に譲ることになっただろうか。
ー争いを避けねばならぬ
そのためならば、あの大津と比べれば、特にかわいいものでもない長屋王を排除することは厭わないつもりだった。しかし、どんどん高市皇子はやつれていった。
高市皇子の子を排除する前に、即位すべき高市皇子が死んだ。
もはや、することは一つではないか。
「朕の没後の争いは避けねばならぬ。まず、可留の立太子。そして、譲位を行い安定させる」
「後漢のように少帝を戴いた国が滅んだ例がございますよ」
阿閇皇女が伏せ目がちに言った。
確かに彼の地は何度もなんども王朝が変わり、今は「唐」である。
ふむ、と藤原史が腕を組んだ。
「陛下は譲位されて、太上天皇、上皇になられれば良い。譲位された例は、宝大王の例があります。そして少帝を理由に今と同様に政をなさるのはいかがでしょうか」
鸕野は満足そうにうなずき、紅色の厨子を撫でた。
「帝位は、朕と先帝の血を引く者に限る」
その言葉が阿閇皇女を終生縛ることになったが、それはまた別の話である。
大来皇女は老女帝・鸕野に呼ばれて渋々大極殿の朝議に出る。
「大来や。そなたは大帝の御子の中で最も年長にして、最も尊い。皇位についてはそなたの意見も聞きたいのじゃ」
そう言われれば出ないわけにはいかない。
大来皇女の顔色は悪い。
「残暑の疲れのせいでしょう」
そう答えるしかない。
采女のように老女帝に侍る氷高皇女が、珍しく口を開いて同意しした。
「確かに、今年は秋になろうとしているのに残暑が厳しいですね」
母帝が怖い。
本音を言えば、どれだけこの嫡母は怒るだろうか。
「大来のために椅子を」
氷高皇女の差配で、氷高同様にまだ乳臭そうな顔をした采女たちが大来皇女のために椅子を運んだ。
老女帝玉座の左に皇太妃・阿閇皇女が立ち、女帝の右に大来皇女が座った。
群臣たちが並び、女帝が口を開いた。
「太政大臣《高市皇子》が亡くなった。朕は高市皇子に帝位を譲るつもりでいたのに、譲る者がいない。日継の御子には誰が良いと思う」
ある人が口を開いた。
「高市皇子の次に年長の、先帝の皇子は忍壁皇子。こちらに譲られますように」
女帝・鸕野はぎろりと忍壁皇子を見て、忍壁皇子は竦み上がった。
別の誰かが口を開いた。
「いや、そちらにおわします大来皇女こそ、高市皇子の次にお年かさの大帝の御子。しかも、帝がおっしゃられるように、最も尊いお方ではないか。まずは、大来皇女に譲られますように」
一同の視線は、次に大来皇女に集まった。
「大来には継いでくれぬかと打診したことがある。どうじゃ」
老女帝に問われて大来皇女は立ち上がろうとした。
ぐらりと揺れて、あわてて氷高皇女が大来皇女に駆け寄った。
「この通り、私は今年の残暑にも負けるほどでございます。別のお方になさいますよう」
誰もがそれに同意する。
鸕野はぎろりと大来を見た。
「では大来、誰が良いと思う」
大来皇女は誰かがその耳に囁くのを聞いた。
ー鸕野の意中の人以外の名を出すのだよ
意中の人とは、女帝の孫・可留皇子以外にいない。忍壁は忍壁で特に親しいわけでもない。いきなり名を出せば不自然だ。
この二人をを外すならば、高市皇子もその名を出したという阿閇皇女一人しかいまい。
「皇太妃さまではいかがでしょうか」
次に視線が集まったのは阿閇皇女である。
ふむ、と鸕野はうなずいた。
「そうじゃの」
そのとき、末の方から若く張りのある声がした。
「申し上げます」
「誰じゃ」
末から前に出てきたのは、葛野王《かどののおう》である。
姿形が父親に似た美丈夫になってきた。すでに、父親の没年も母親の没年も越すのではないだろうか。ただ、長い睫毛に縁取られた漆黒の瞳は、くりくりとした瞳をしていた父君ではなく、切れ長の目をしていた母君に譲られたものか。大来皇女は葛野王から目を背けた。
「皇太妃さまが即位なさると、姉から妹への譲位でございまする」
「そうなるよの」
舎人皇子が答えた。
葛野王は続けた。
「わが国は神代の頃から親から子へと王位を渡してきました。兄から弟へ渡すときには戦が起こりましょう」
一同はどよめいた。
葛野王こそ、壬申の乱での敗者・大友皇子とその正妃・十市皇女の子である。
近江の大海人宮で生まれ、祖父の葛城大王を支えた葛城氏の支族・葛野氏を乳母に与えられた。大乱がなければ、近江の東宮に育っただろうこの王が即位すべきお人だっただろうに。
東宮で育つ代わりに、この王は十市皇女の没後は、祖母の額田の元で育った。
大王位は、葛城大王からその子大友大王へ、壬申の乱の後に葛城大王の弟の大海人に移った。
その後に、天皇を称した大海人の皇后であり、葛城大王の娘の鸕野が即位した。
兄から弟へ。それはまさしく葛城から大海人への大王位の移行そのものを指す。
「あのような戦は二度と起こしてはならぬ!」
女帝がはっきりと言った。
「しかしながら、歴代には、」
葛野王の意図を図りかねた弓削皇子が口を開こうとした。
「どの御子がふさわしいか天意を測ることができるお方がここにおられましょうか」
葛野王は答えた。
一同の視線が大来皇女に集まった。
斎宮ならば。
大来皇女は再び声を聞いた。
ーできぬと答えよ
やはり懐かしさのある声だと思う。
高市皇子だろうか。
大来皇女は女帝に一礼して答えるしかない。
「わたくしめは凡人にすぎませぬ。凡人ゆえに一身に祈るだけでございます」
女帝・鸕野は満足そうに頷いて答えた。
「朕もまた不徳にして、祖母の、雨乞いをしてみせた宝大王のような霊力の持ち主ではない。かの額田もおらぬ今、天意を測ることのできる者は存在せぬ」
葛野王は続けた。
「みなさま、血筋をお考えくださいませ。長幼を考えれば、皇嗣は自ずと定まるものでございませぬか」
忍壁皇子が志貴皇子の袖を引っ張りながら前に進み出た。
「我ら二人、かつて吉野の地で先帝と当時皇后であられた帝に誓いました」
引っ張り出されてびっくりした顔を見せつつも、志貴皇子が如才なく続けた。
「当時は先日亡くなった高市皇子を筆頭に、遠くに昔に亡くなった大津も川島も健在でした」
女帝が最も聞きたくないであろう、大津の名前が出ても女帝は顔色一つ変えない。
忍壁はさらに続ける。
「先帝は今は亡き草壁を太子にし、我ら異母兄弟同士互いに助けて相争わないことを誓わせました」
正確には、川島皇子と志貴皇子は大来皇女の異母弟ではない。女帝・鸕野の異母弟たちである。つまり、吉野の誓約を建てた中には、皇后・鸕野本人も入っていた。
ー卑母拝礼の禁止の詔は、まことに蘇我氏を母に持つ今上ご本人にも適用されるべきであったか
大来は気づいた。
しかしながら、飛鳥の帝の皇子を代表する忍壁皇子と、近江の葛城大王の男児の唯一の生き残りの志貴皇子が草壁皇子の名を出した。
葛野王が女帝の前に跪いて奏上した。
「草壁皇子の遺児、可留皇子こそお世継ぎにふさわしゅうございます」
決まった。
藤原史が声を張り上げた。
「可留皇子をお世継ぎになさいますよう」
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「案外、本当に君以外いないかも」
「いいの? こんな可愛いことされたら、本当にもう逃してあげられないけど」
「もう奏葉の許可なしに近づいたりしない。だから……近づく前に奏葉に聞くから、ちゃんと許可を出してね」
そのドクターの甘さは手加減を知らない。
【登場人物】
末永 奏葉[すえなが かなは]・・・25歳。普通の会社員。気を遣い過ぎてしまう性格。
恩田 時哉[おんだ ときや]・・・27歳。医者。奏葉をからかう時もあるのに、甘すぎる?
田代 有我[たしろ ゆうが]・・・25歳。奏葉の同期。テキトーな性格だが、奏葉の変化には鋭い?
【作者に医療知識はありません。恋愛小説として楽しんで頂ければ幸いです!】
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