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一
大友皇子
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高市皇子が目を覚ますと、近くに聞き慣れた寝息が聞こえた。寝床の頭の部分に、御名部皇女が頭を置き、床に座ったまま眠りこけていた。
高市皇子はそっと正妃の頭を撫でようとしたのだが、腕の感覚はなく、動かすことすらできない。
誰かもう一人いる。
白い、ぼんやりとした影がある。
誰だ?
高市皇子は目だけでその人の気配を追った。
女ではない。
男だ。
それもかなり若い。
嫡男の長屋王だろうか。
いや、若いとは言え、長屋王のような、少年の域をまだようやく出た頃のような、幼さはない。堂々たる眩しい若さがそこにはある。
目が暗さに慣れてきた。
影がゆっくりと近づいた。
最近のように髪を結い上げることなく、横に美豆良を作っている。
首には勾玉の飾りがある。
最近の唐風の衣ではなく、我が国古来の衣を着ている。最後にあのような衣を着た男を見たのは。
佩いている刀にも見覚えがある。
大友!
これは夢ではない。
ー大王が迎えに来られた!我の罪を問いに来られたか!
高市皇子は、声を振り絞った。
ー御名部、御名部、そなたは逃げよ。そなたに我の罪が及んではならぬ
もはや、人間というよりも、獣のような声である。
御名部皇女は、はっと飛び起きた。
「大臣?大臣?」
高市皇子は兄君がおられるのに気づかないのか、と正妃に言いたい。
御名部皇女の顔を、実に美しい男が覗き込んだ。桃花眼と呼ばれる、まぶた側の目尻を紅で跳ね上げ、目の下の方の目尻は紅で少し下げる化粧を施された男は、血のように赤い唇を少し綻ばせてこちらを見た。
御名部は異母とは言え、妹ではないか。
「ち・が・う」
美男子の唇が動いた。
確かに違う。姉妹だろうが容赦はなさるまい。何と言っても、このお方は、異母姉によって命を断つ羽目に陥ったではないか。
あう、あう、と言葉が出ない。
御名部皇女は、はっと気づいた。
昼間、大来皇女が来た。
ーきっと、十市皇女の話をしたに違いない。伊勢の巫女が話したせいで、死者を呼び寄せた
「弓を鳴らせ!十市皇女が大臣をお連れしようと来られた!」
空の弓が打ち鳴らされ始めた。
そうではない。そうではない。十市ではない。
美しい顔は、困った顔をしたが、だからと言って怒るわけでもなければ、弓に不快がる様子もない。
「あなた!あなた!」
皇女は必死に呼びかける。
太政大臣の目は、もはや妻を見ているわけではない。
虚ろな目は見えなくなりつつある。
「す・ま・な・い」
御名部皇女が最後に読み取った唇の動きは、それである。
皇女はそれを、不実と早世を詫びる、自らに向けられたものと思い込み、怒りと悲しみの中、上品に鼻を啜った。
今更謝られてもなあ。
美しい男は思うのである。
呼ばれたからそこに漂う。
それだけの存在である。
行きたいところに行けた試しがない。
大きな栗の木下で、高市皇子に抱きしめられた後、人の手によって衣変えられ、髪も変えられた。動けぬ体の上に熱い涙が落ちた。
そこから、肉体を失った、漂う存在になった。
感覚というものは、それ以来感じない。
偉大な巫女大王の血と、古い血脈の巫女の血を受け継いだ、十市皇女の涙が楔となり、男はこの世をさすらうのである。
男のことを思い出した血族の元に男は引き寄せられた。
嫡母の庵へ、生母の庵へ、妻の元へ。子の成長を、あるところまで見守ることすらできた。
異母姉の元へも行った。しかし、何度宝剣を突き立てても無駄であった。
透明に漂い、さすらう者の剣は、生者には通用しない。何度か、病を重くすることはできた。
しかし、最も病を重くしたときに、叔父は祖父母の両大王の建てた百済寺を移した大官大寺と、皇后のための薬師寺を対になるように建てたのである。
病は気からと言うではないか。
その酒には毒はあるまい。
高市よ。
本当に病なのだ。
気づいていないのか。
酸味は、遠い旅路とこの暑さで、酒が酸になりつつあるだけだ。
我が父の大王を蝕んだ、過労がそなたを襲うのだ。
あの女帝に尽くしてどうする。
ー克
かの唐の国には、ある、強烈な人の周囲が早くに死に絶えることを「克」と言うそうではないか。
かの女帝はその種の人間である。
その父も、母も、子も、短命だったのは、あの女帝のせいである。
四十五前の、このたくましい男が死ぬのは、その女帝に真摯に仕えたからである。
何度も横でそう言ったのに、聞こえないのだ。
しかも、あの大来皇女に、母帝に毒を飲まされていると思い込ませた。
ー一人思い込むならまだしも
あの、平凡な人にそんなことを吹き込むものではない。
さすらうだけなのだから、迎えに来るも、連れて行くも、何もできやしないのに。
大友は寝台の上の高市皇子に手を伸ばした。
空を切ると知っていても、手を伸ばしたい。
触れられぬと知っていても、その手の上をさする真似をしたい。
昏倒した高市皇子は、何も感じず、何も聞こえないのである。
大友は、かつて自らの最期を看取った男の、最期を看取ることになった。
百済人をして、長身玉立、風華無双とその美しさを称えられた男は、別のある人が思い出すまで、太政大臣の寝室から動けないのだ。
ーこれで、六人目か
十市大后、嫡母の倭大后、生母の伊賀采女であった宅子娘。そして、逆賊たる大海人、草壁、大津そして、我が友高市。
彼らの最期は看取ったのに、彼らが行った根の国へはまだ行けず、我のみ一人さまよう。
高市皇子はそっと正妃の頭を撫でようとしたのだが、腕の感覚はなく、動かすことすらできない。
誰かもう一人いる。
白い、ぼんやりとした影がある。
誰だ?
高市皇子は目だけでその人の気配を追った。
女ではない。
男だ。
それもかなり若い。
嫡男の長屋王だろうか。
いや、若いとは言え、長屋王のような、少年の域をまだようやく出た頃のような、幼さはない。堂々たる眩しい若さがそこにはある。
目が暗さに慣れてきた。
影がゆっくりと近づいた。
最近のように髪を結い上げることなく、横に美豆良を作っている。
首には勾玉の飾りがある。
最近の唐風の衣ではなく、我が国古来の衣を着ている。最後にあのような衣を着た男を見たのは。
佩いている刀にも見覚えがある。
大友!
これは夢ではない。
ー大王が迎えに来られた!我の罪を問いに来られたか!
高市皇子は、声を振り絞った。
ー御名部、御名部、そなたは逃げよ。そなたに我の罪が及んではならぬ
もはや、人間というよりも、獣のような声である。
御名部皇女は、はっと飛び起きた。
「大臣?大臣?」
高市皇子は兄君がおられるのに気づかないのか、と正妃に言いたい。
御名部皇女の顔を、実に美しい男が覗き込んだ。桃花眼と呼ばれる、まぶた側の目尻を紅で跳ね上げ、目の下の方の目尻は紅で少し下げる化粧を施された男は、血のように赤い唇を少し綻ばせてこちらを見た。
御名部は異母とは言え、妹ではないか。
「ち・が・う」
美男子の唇が動いた。
確かに違う。姉妹だろうが容赦はなさるまい。何と言っても、このお方は、異母姉によって命を断つ羽目に陥ったではないか。
あう、あう、と言葉が出ない。
御名部皇女は、はっと気づいた。
昼間、大来皇女が来た。
ーきっと、十市皇女の話をしたに違いない。伊勢の巫女が話したせいで、死者を呼び寄せた
「弓を鳴らせ!十市皇女が大臣をお連れしようと来られた!」
空の弓が打ち鳴らされ始めた。
そうではない。そうではない。十市ではない。
美しい顔は、困った顔をしたが、だからと言って怒るわけでもなければ、弓に不快がる様子もない。
「あなた!あなた!」
皇女は必死に呼びかける。
太政大臣の目は、もはや妻を見ているわけではない。
虚ろな目は見えなくなりつつある。
「す・ま・な・い」
御名部皇女が最後に読み取った唇の動きは、それである。
皇女はそれを、不実と早世を詫びる、自らに向けられたものと思い込み、怒りと悲しみの中、上品に鼻を啜った。
今更謝られてもなあ。
美しい男は思うのである。
呼ばれたからそこに漂う。
それだけの存在である。
行きたいところに行けた試しがない。
大きな栗の木下で、高市皇子に抱きしめられた後、人の手によって衣変えられ、髪も変えられた。動けぬ体の上に熱い涙が落ちた。
そこから、肉体を失った、漂う存在になった。
感覚というものは、それ以来感じない。
偉大な巫女大王の血と、古い血脈の巫女の血を受け継いだ、十市皇女の涙が楔となり、男はこの世をさすらうのである。
男のことを思い出した血族の元に男は引き寄せられた。
嫡母の庵へ、生母の庵へ、妻の元へ。子の成長を、あるところまで見守ることすらできた。
異母姉の元へも行った。しかし、何度宝剣を突き立てても無駄であった。
透明に漂い、さすらう者の剣は、生者には通用しない。何度か、病を重くすることはできた。
しかし、最も病を重くしたときに、叔父は祖父母の両大王の建てた百済寺を移した大官大寺と、皇后のための薬師寺を対になるように建てたのである。
病は気からと言うではないか。
その酒には毒はあるまい。
高市よ。
本当に病なのだ。
気づいていないのか。
酸味は、遠い旅路とこの暑さで、酒が酸になりつつあるだけだ。
我が父の大王を蝕んだ、過労がそなたを襲うのだ。
あの女帝に尽くしてどうする。
ー克
かの唐の国には、ある、強烈な人の周囲が早くに死に絶えることを「克」と言うそうではないか。
かの女帝はその種の人間である。
その父も、母も、子も、短命だったのは、あの女帝のせいである。
四十五前の、このたくましい男が死ぬのは、その女帝に真摯に仕えたからである。
何度も横でそう言ったのに、聞こえないのだ。
しかも、あの大来皇女に、母帝に毒を飲まされていると思い込ませた。
ー一人思い込むならまだしも
あの、平凡な人にそんなことを吹き込むものではない。
さすらうだけなのだから、迎えに来るも、連れて行くも、何もできやしないのに。
大友は寝台の上の高市皇子に手を伸ばした。
空を切ると知っていても、手を伸ばしたい。
触れられぬと知っていても、その手の上をさする真似をしたい。
昏倒した高市皇子は、何も感じず、何も聞こえないのである。
大友は、かつて自らの最期を看取った男の、最期を看取ることになった。
百済人をして、長身玉立、風華無双とその美しさを称えられた男は、別のある人が思い出すまで、太政大臣の寝室から動けないのだ。
ーこれで、六人目か
十市大后、嫡母の倭大后、生母の伊賀采女であった宅子娘。そして、逆賊たる大海人、草壁、大津そして、我が友高市。
彼らの最期は看取ったのに、彼らが行った根の国へはまだ行けず、我のみ一人さまよう。
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