岡の上の宮

垂水わらび

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大戦

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「あの大乱の決着をつけたのは、我ではない。
 大津だよ。大津が人を連れて近江を脱出した。あのことが決着をつけた。
 近江がたから人が消えていったと言うが、我が心配だったのは、十市大后のことだった。
 十市が身を寄せるのは、ご生母がおられる山階寺やましなでらと踏めば、たしかに十市も葛野王かどののおうも、名前は忘れたぞ、あの内大臣のご息女、側妃だったあのお方まで含めて全員山階寺にいた。我は彼らの安全を確保し、唐橋を押さえに向かった。唐橋を我らが押さえると、かのお人は、ごく僅かの供のみを連れて山に入られた。こちらも、敗軍の降伏者は大津に任せて、我は単身それを追った。
 起こしたことは謀反である。
 我は、当初は友、後に主君でもあったお方を裏切ったのである。
 父上のためとはいえ、これは許されるべきではない。
 共に逝くのが義であろうと思い、山に入った。
 しかし、見つけたのは、首を括った主従の姿でなあ。首を括ると、目が飛び出る、舌が飛び出る、聞いてはいたが、実際にこの目で見ると、なんとも恐ろしげな顔になるのだとそのとき知ったものよ。ただお一人大王一人が、真っ赤だが相変わらず綺麗な顔をしておられた。もしやと思って下すと、まだ生きておられた」
 大来皇女が小さく声を上げた。
 高市皇子は首を振ってみせた。
「我の顔を見ることがおできになったのか、声だけで判別されたのか。確かにこの高市の腕の中にいることはご理解されておられたと思う。しかし、喉が潰れたのか、最期が近いのかお話にはなれぬ。ご心配なのは、十市らのことと踏み、山階寺にて安全を確保したと言えば顔がほころんだ。指で我の掌に頼むとお書きになる。
 頼むと言われれば、我はまだ死ねぬ。
 絶命されるその前に、我は、確かに十市を保護すると約束したのになあ。
 それなのになあ」
 高市皇子は大きな体を震わせて涙を流した。
 小さな、震える声で皇子は続けた。
「それなのに、十市も自分の首を括ってしまった。伊勢で十市は元気だっただろう?」
 大来皇女は頷いた。
「阿閇皇女と共に伊勢にお越しになった折には、どれだけ葛野王が大きくなったかを話され、大津、草壁、そして兄上の話もなさいましたよ」
 皇子は大きく頷いた。
「あのお方に約束したことを、我は違えてしまった」
 ここでようやく、大来皇女は理解した。
 あの挽歌は、恋人に向けたものではない。
 本当に、兄が妹に向けたものであり、死にゆく友との今際の際の約束を守れなかったという悔恨である。
 あの、十市皇女と通じていたのではないかという、噂はご自身の耳にも入ったのではないだろうか。誤解を誤解のままにして、異母妹を愛したと思わせておくのはなぜか。
 大来皇女はおそらく何らかの理由があろうと思った。大来皇女は、血の巡りの良い方ではない。しかし、口をつぐむということは知っている。
「お亡くなりになる、最後の最後に、大王は唇を動かされた」
 高市皇子は声に出さずに、唇だけを動かしてみせた。
「お、お、く」
 皇女は自らの諱を読み取った。
「斎宮よ、共に育った二人目の妹よ。我は約束した。あなたを保護することを」
 大来皇女の体が震えた。
「上の妹は自ら命を絶ったが、斎宮は我よりも長生きできそうだ」
「しかし、なぜ」
 口をつぐむことを知っていたはずの大来皇女は、とうとう口を開いてしまった。
 淡海の夏。あの、美しいお人のお顔を真正面に見た、あの、夏。
 恋慕というものを皇女は知らない。
 十を過ぎたばかりの少女のあれが恋慕ならば、あの美しい人が恋慕の対象であった。
 ご存知だったのか。
大后おおきさいとして十市は、大来を大王の側妃にと考えていたのだよ」
 大来皇女は息を飲んだ。
「この兄も、あの姉も、もちろんあのお方も、そうなれば良いやらと思っておったのになあ。側妃になるのではなく、伊勢へ捧げられた。ゆえに、この兄亡き後の身の振り方を慎重にせよと、そう言いたくて呼んだ」
 皇子は顔色の悪いまま微笑んだ。
「何を不吉なことをおっしゃる」
 病魔に蝕まれておられるというのか。
「理由は三つ目に語ろう。まず聞いて欲しかったのは、この大友大王のことよ。最近、夜な夜な、枕元に立たれる」
 悪霊祓いを頼まれるのだろうか。
 伊勢に捧げられた、聖なる、と言われつけるが、この身にそのような力はない。呪い師ではないのだ。そのようなことはできない。
「斎宮は御遺体を見ておらぬな」
 皇女は首を振った。
「我らは、ご立派な成人男子を、童形で葬った。即位された方を東宮として、大兄として葬った。そのように差配なさった方がおられてなあ」
 母帝であろう。
「御遺体を、異母とはいえ、自らの嫡母が手ずからお育てになり、あの岡の上の宮で共に育った弟君の髪を解き、美豆良みづらに結い直されてなあ。十市が化粧を施し、首に残った線を消せば、誠に眠っておられるようにしか見えなかった。その童形の姿のままで、十市が封じた宝剣を持って現れる」
「何かおっしゃいますの?」
「悲しそうな顔で、我をご覧になる。大方、一つ目の約束は違えたが、二つ目の約束は守れとおっしゃるのであろう」
 皇子は頭を振りながら言った。
「しかしながら、一つ目の約束の中に、葛野王のことも含まれましょうに」
 即位しなかったことにされている、大友は、大友大王おおとものおおきみではなく、大友皇子おおとものみことして記録される。その大友皇子と、十市皇女の遺児の葛野は、葛野皇子かどののみこではなく、王と扱われた。その葛野王は母方の祖母の手元で育ち、すでに成人して久しい。
「十市を思えば、片手落ちというものよ」
 太政大臣は頭を振った。

「一つ目は大友。ならば二つ目は草壁と大津のことだ」
 父帝が亡くなった一報が伊勢にいた大来の元入ったとき、皇后からの正式な帰還命令が下るのを待っていた。そこに大津の謀反と皇后令による帰還命令が届いた。
 帰還命令というよりも、送還命令である。
 罪人の姉として、直接大和に入ることは許されず、かつての大化の頃の大王が宮として使った難波の行宮あんぐうに留め置かれた。自由に寝殿の外に出ることも許されず、軟禁状態にあった。
 何度か、もがりの主人であった草壁から機嫌をとるような贈り物があったことを思い出した。草壁の名を使った、この兄上のなさったことかと、ふと気づいた。
 母帝の即位と、父帝の殯と埋葬も終わり、大津が二上山の東の尾根の付け根に改葬されて、大来はようやく大和に入ることが許された。
 難波からの行き先は、当時の都のあった、飛鳥に向かうことになったのだが、途中で二上山の墳墓に立ち寄ることを許された。
 寒い冬ではあったが、雪は少なかった。
 伊勢は大和より暖かく、久しぶりの寒さが身に堪えたのも思い出される。
 墳墓で出迎えていたのが、この兄君と今はもう亡き草壁だった。
 大来皇女はその日を思い出して、苦く微笑んだ。
「死ぬべきは我であった」
 草壁がそう言ったのを兄君はお聞きになっただろうか。
 共に育った異母弟は顔色悪く痩せ細っていた。抱きしめられて、なんと細いのかと思った。
 その後、磐余いわれにあった、訳語田おさだの大津の宮に行き、小さな子どもに引き合わされた。大津皇子と山辺皇女やまのべのひめみこの遺児・粟津王あわつのおうである。
 父が毒酒を飲み、その杯に残った毒をわずかに煽った母は髪を振り乱して走りながら亡くなったという。それを見たのか、粟津王は口を聞かぬ子であった。
 それから一年もたたずに草壁は亡くなった。
 粟津王もあれから三年も生きただろうか。亡くなる頃には、少しは笑いかけるようにはなったのだが、父に似ず、伯父に似たのか弱い子で、流行り病には勝てなかった。
 ふうっとため息混じりに高市皇子は再び口を開いた。
「大津に、皇后の私信と共に毒を渡したのは、この兄なのだよ」
 命じられたのだろう。
 命じられれば仕方があるまい。
「あの哀れな粟津は、見たのですか?」
「まさか。そんなことはせぬよ。粟津まで類を及ぼすつもりはなかったらしく、粟津は先にこの香具山宮に送ったのだから」
 高市皇子は力なく笑い、話を戻した。
「たしかにこの兄はあの弟を殺さねばならなかった。大津は怒っていたが、私信を読み真っ青な顔をしてなあ」
「何が書かれていましたの」
 高市皇子は首を振った。
「わからぬよ。大津は読むなりすぐに燃やしたもの。最後に大津と二人で話をしたのだが、謀反の申し開きは一切せず、妻子の保護と、姉の保護の二つだけを頼まれた」
「ならば、謀反は」
 草壁のかすれ声が耳に蘇る。
「死ぬべきは我であった」
 鳥のような形の妙な瓶から、高市皇子は液体を、これがまた玻璃だろうか。青い透き通った杯に注いであおり、首を振った。
 甘い香りが漂った。この甘さには覚えはないが、その中の酒の香りを大来はかぎ取った。
「何かあったかもしれぬし、何もなかったかもしれぬ。そもそも、草壁は死期が近いと勘づいていてね。大津が即位すべしと密かに主張していたのだから。草壁から見れば大津の謀反はあるまい。父帝が亡くなった直後に、草壁は我と大津に約束させた。父帝の卑母礼拝の禁止がある故に、我には即位せぬこと。そして、大津には自らに代わって即位すること。我の子、長屋王も、大津の子の粟津王も、卑母から生まれた子ではない。長屋王には氷高女王、粟津王には吉備女王を配し、大津の次の代には、長屋王、粟津王、そして可留王の三人の大兄を用意して、さらにその子らには母帝の血を伝えるべしと頼んだ。草壁は、まだ見ぬ自らの孫の即位を用意することによって、母君さまの納得を得ようとしたのだな」
 再び、高市皇子は甘い香りの酒をあおった。
「いくら死期が近いと悟っていようが、あれほどあっさり逝くとは思わなんだ。草壁はある種の自死よ。哀れな草壁。草壁は最後に言いおった。大乱の大義が卑母礼拝の禁止ならば、蘇我氏を母に持つ者を即位させてはならぬ。大津亡き今、大来を即位させ、この兄に補佐せよと」
 皇子は涙を拭った。
「大王の頼みも、草壁の頼みも、大津の頼みも、我に守れたのは、斎宮のことだけであったなぁ。父帝の、卑母礼拝の禁止だって、蘇我氏を母に持つ母帝の即位で有名無実になり、我らには大乱の大義がなくなった」
 皇子はまた酒を煽った。
「皆、我に頼んで死んでいくが、守れたことは斎宮のことのみよ」
 四十五の壮年の男が、一気に老けこんでしまった。

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