20 / 25
第二十話 屋上の風景
しおりを挟む
彼が「組曲」を始めに手がけたのは、まだ夏の気配も残る、九月の半ばだった。すでに当時から日課になっていた、屋上から眺めている景色。
彼がその景色を描こうと思い立ったのは、ごくごく些細な理由からだった。
――この景色の向こう側に、琴恵さんがいる。
そう。彼が描いた「組曲」の、屋上から見る景色は、その方向でなければならなかった。……なぜなら、そちらには、琴恵の住んでいる街があったから。
毎日。昼休みと放課後の部活動……彼は、美術部に所属していた……。
彼は、それこそわき目もふらずに、その絵に取り組んだ。
それが、「たかが一枚の水彩画」に、彼が二ヶ月以上の時間を費やした、「組曲 屋上の風景」の第一作となる、「秋」だったのである。……もっとも、彼はまだ、それを「組曲」にするつもりも、そんな予定もまったくなかったのだが。
琴恵に会いたい一心で、彼はそれを描いた……といってしまうと、身も蓋もなかったけれども。ただ、どちらかといえば彼は「会いたい」ために、それを描いたのではなく、「絵にしたい」ために描いた、といった方が正しかっただろう。
琴恵は、彼がその絵の向こう側に、見えない「何か」が描かれていることには気づかなかったけれども、その絵を非常に気に入ってくれた。そして彼女は、何気なく、彼にいったのである。
「秋だけじゃなくってさ。春から冬まで全部そろったら、この絵、きれいだろうね」
その一言がきっかけになって。続く冬、そして春と、彼は、「組曲」を一つずつ、完成させていったのである。
そして。
本人にとってはそれがどうかはわからなかったけれども、蒼にとっては幸運なことに、琴恵は大学に落ちてしまい、一年間、予備校へ通うことになってしまっていた。
だから、彼は「春」を琴恵に見せることができ、そして。
「どう? まだ、絵、やめるつもり?」
たっぷりと「春」を堪能して。その画用紙を彼に返しながら、琴恵は明るく彼に問うた。その言葉で、彼はようやく、琴恵と「一年契約」で絵を描くことを約束していたことを思い出した。
「そうだな……」彼は琴恵に微笑みを返し、「続けても、いいかも。……琴恵さんが、絵を見てくれるのなら」
「見るよ、もちろん」
琴恵は明るく笑った。
「来年、大学に受かっても。蒼くんの絵ができたら、飛んで帰ってきてあげる」
けれども。
琴恵の死というあまりにも唐突な出来事によって、彼は、その約束を反故にされてしまった。
交通事故。
彼が「夏」に着手する直前。少し「気楽に」と、久しぶりに森林公園でスケッチをしていた彼の耳に届いた、次第に近づいてくる救急車のサイレン。
その日は、朝から妙な胸騒ぎがしていて。いつもならば絵に没頭してしまえば、ほとんどなにも聞こえなくなってしまうくらいの集中力を発揮する彼が、なぜかそのサイレンだけは、敏感に聞き取っていた。
ひどくいやな予感が、脳裏をかすめて。
彼は立ち上がった。
スケッチブックを抱えて駆けだし、公園を出る。そして……。
その日の夕方のニュースで。彼は、事故にあって死亡したのが、「遠藤琴恵」という予備校生であることを知った。
そしてその日から、彼が、絵筆を握ることは、なくなった。
「……その人、知ってる」
舞由は。ぽつりといった。
「近所に住んでたお姉さんでね。……私のお姉ちゃんの同級生で。よく、うちに遊びに来てた。……私に、絵がどんなに楽しいかを、教えてくれた人なんだ」
よくよく考えれば。舞由も琴恵も、同じ町に住んでいたのだから。そのような可能性も、十分にあったのだ。
舞由は、大きく息をついた。
「そっか……琴恵さんかぁ」
すてきな人だったもんね、と、舞由は小さくつぶやき、蒼の顔を見た。蒼は、意外におだやかな顔をしていた。
「……ごめんね。大切な思い出……ううん。蒼くんのきずあと、無理にほじったりして」
それには、蒼はなにも応えなかった。少しの間蒼の顔をじっと見つめていたあと、
「じゃ、私、先にいくね」
それだけをいい残して、舞由は蒼のそばを離れた。
蒼は、そんな舞由をじっと目で追い、やがて彼女が屋上のドアを閉じて去ってしまうと、小さく息をついて、また、外の景色に、目を向けた。
舞由が階段を下りていくと。ちょうど二年生の教室が並んでいる階で、彼女は授業で使うものと思われるプリントの束を抱えた咲子にぶつかった。
「あれ? どしたの?」
舞由の表情がひどくかたいことに気づいて、咲子は明るく問うた。
「あ、うん……なんでも、ない」
舞由は応えたけれども。
「なんでもない、って顔じゃないね」咲子は笑顔で応えて、「舞由がそんな顔するなんて。よっぽどのことがあったんじゃないの?」
舞由はため息をついた。
「よっぽどのこと……そうだね。そうかもしれない」
「相沢くんと、けんかでもした?」
冗談めかして咲子は問うて。その言葉に、舞由は小さく苦笑を返した。
「けんか、ってわけじゃないんだけど……」
舞由の返答に、咲子が小さな驚きの表情を浮かべる。けれども舞由には、咲子の表情の変化に気づく余裕はなかった。
少しの間口ごもり、
「琴恵さんのこと、聞いちゃった」
ぽつりと漏らした舞由の言葉に。今度は舞由にもはっきりとわかるほどの驚きの表情が、咲子に浮かんだ。
「相沢くんが……話してくれたの?」
まっすぐに自分を見つめながら問う咲子に、小さくうなずきを返す。そして舞由は、大きく息をついた。
「悪いこと、しちゃったな。蒼くんの心の中に、土足で踏み込んで」
もう一度。はあ、とため息をついて。
けれども咲子は、
「うん……でも、大丈夫だと思うよ」
おだやかにいった。
「え?」
「相沢くんが、自分からしてくれたんでしょ? その話」
「うん……」舞由はためらいがちにうなずいた。「でも、私が何度も『聞かせて』っていったから……」
思いもよらない話を聞かされ、少し弱気になっていた。舞由は少し重苦しい声で応える。けれども。
「大丈夫だよ」
咲子はまた、おだやかに言葉を続けた。
「相沢くん、頑固だからね。本当に自分がいやなことなら、誰に何をいわれたって、絶対に考えを曲げないから」
ほら、黒岩先生が、いい例でしょ? と、咲子は笑いながら問う。
「だから、舞由は、相沢くんにそれを話させるためのきっかけを作っただけじゃないかな。……本当は相沢くん、ずっと、舞由に聞いてほしかったんだと思うよ、そのこと」
「え?」
「だてに何年も、あいつと友達づきあいしているわけじゃないからね。……相沢くんね、あれでかなり臆病だから。『自分から何かをしなきゃだめだ』って思ってても、よっぽどせっぱ詰まらなきゃなにもしないし……」
そこまでいって、咲子は一度首を傾げ、言葉を訂正した。
「あ。せっぱ詰まっても、なにもしないことの方が多いかな? ……まあ、そんなふうに、結構いらいらすることもあるんだけどね。……でも、後ろからちょっと後押ししてあげるだけでね、相沢くん、まるで別人みたいになることもあるの」
そして咲子は、ふと思いついたように、
「あ、ごめん。ちょっと脱線しちゃったね。……まあ、そういうことだから、さ。自分がいいたくないことは、相沢くん、絶対にいわないから。だから相沢くんは、舞由に聞いてほしくて、琴恵さんの話、したんだよ」
ふふ、と笑って、舞由の顔を見て。そして咲子は、
「あ、あとね。とびっきりのこと、教えてあげる」
「とびっきりのこと?」
「相沢くんね、琴恵さんの事故のあと、自分のこと、名前で呼ばせなくなったの」
「え?」
「『蒼くん』って呼ぶとね、すっごくつらそうな顔して、『頼むから、その呼び方はやめてくれ』って。小学校の時からずっとつきあいのある祥治以外はみんな、それで相沢くんのこと、名前で呼ばなくなったんだよ」
「……それって」
うん、と咲子はうなずいた。
「あれ以来、祥治以外で舞由が初めてじゃないかな。相沢くんのこと『蒼くん』って呼んで、相沢くんが、それをやめさせない人って」
そして、咲子はふと思いついたようにいった。
「もしかしたら、さ。舞由なら、相沢くんに、最後の一枚、描かせることができるかもしれないよ」
「え?」
「『組曲』の」
そして。なんとなく気まずい空気が流れる中、時間だけは進んでゆき、放課後。
「……蒼くん。今日、どうする?」
「え?」
「絵。描くの?」
「おれが、絵を描いちゃいけない理由でもあるのか? ……今日から『本番』にするつもりで、せっかく画板まで持ってきたんだぞ」
妙に気を使っているらしい舞由に対して。蒼は、ごくいつも通りに言葉を返した。
「あ、うん。そうだね……」応える舞由には、どこか、「いつも」の元気がない。そんな舞由を見て、彼はため息を一つついた。
「あのな、青木」
「え?」
「おれが昔のことを話したくらいで、なんでおまえがそんなふうになる必要がある?」
「え?」
「おれが……」
言葉を続けようとした彼は、
「そうくぅーん!」
場違いな明るい声に言葉を中断し、そちらに目を向けた。教室後方の出入り口から、田村咲子と湯本祥治が顔を出している。二人は廊下をまわって教室前方の入り口……彼らの席のすぐそば……から、教室に入ってきた。
「蒼くん、今日から『本番』始めるんだよね?」
明るく問うた咲子をじろりとにらんで、彼は、
「だから、名前で呼ぶな、っていってるだろ」
やはり、多少は気にはしているのだろう。ちらりと舞由の方に目を向けたあと、咲子に向かってそういった。
そのやりとりに、何か感じるものがあったのか、舞由は一度蒼を見て、そして今度は咲子に目を向けた。その咲子は、舞由の視線に気づいているのかいないのか、口をとがらせる。
「なんでぇー? 舞由は名前で呼んでるじゃない」
痛いところをつかれて言葉を飲み込んだ彼は、
「うるせえ。青木は……」
「舞由は?」
にやにやと笑いながら、次の言葉をうながす咲子。蒼は少しの間、次の言葉を考えていたが。
「青木は、特別だ」
彼は、舞由がいつも使っている言葉で応えた。その言葉に、驚きの表情を浮かべる咲子。
「おおっとぉ? これはまた、相沢くんらしからぬ、大胆なお言葉で」
大仰な言葉で驚いてみせる咲子に、蒼は憮然とした表情で立ち上がった。
「からかいに来ただけなら、いくぞ」そして彼は舞由の方に目を向けたけれども。
舞由はぽかんと、彼の顔を見ている。そして彼女は、やはりぽやんとしたまま、
「蒼くん……今、なんて……?」
「二度も三度もいうようなことじゃねーよ」
照れ隠し、だろうか。早口にそういって、「ほら、いくぞ」彼は舞由をうながしたけれども。
「……でも、だって……」
「絶対に、もういわないからな」
舞由の次の言葉を予測して、彼はきっぱりといい切った。そして彼は、舞由をせっついて無理に立たせると、彼女を半ば引きずるようにして、教室を出ていく。そんな彼らを、
「あ、ちょっと、待ってよ。私たちも今日、つきあうよ」
あわてて、咲子と祥治が追った。
弓道場でも、舞由は学校の中での出来事を引きずっていた。どこかぼんやりしていて、射にもいつもの力強さがない。そのせいか彼女の矢は、何度となく的まで届かずに、地面を這っていってしまう。それでも弓を引くことで、舞由は多少、精神の安定を取り戻したようだった。
「調子悪いなぁ」
弓を立てながら、舞由はため息まじりにつぶやいた。そんな彼女の様子を見て、
「なあ」
たまらなくなったのか、蒼が口を開いた。
「なに?」
「まだ、気にしてるのか? 昼休みのこと」
「え?」舞由は一瞬、きょとんとした顔になって。そして、
「ああ、うん。……まあ」
曖昧にうなずいた。それに応えて彼はため息をつき、
「だから、青木がそんなに気にすることじゃないんだから。……あれはおれが聞いてほしかっただけなんだし、青木だって……」そこで彼は口ごもり、道場の隅にいる祥治と咲子に目をやった。
彼はまだ、舞由が琴恵の話を聞いたことを、咲子に話したことを知らない。だから彼は、二人の目の前で「そのこと」を口に出してもいいのかどうか少しためらい、そして結局、
「青木、昼休みになんていったか、覚えてるか?」
「え?」
「『琴恵さんの話を聞くことで、おれが背負っているものを少しでも軽くしたい』って」
「え? ……ああ」
ようやくその事実を思い出したらしく、舞由はうなずいた。
彼がその景色を描こうと思い立ったのは、ごくごく些細な理由からだった。
――この景色の向こう側に、琴恵さんがいる。
そう。彼が描いた「組曲」の、屋上から見る景色は、その方向でなければならなかった。……なぜなら、そちらには、琴恵の住んでいる街があったから。
毎日。昼休みと放課後の部活動……彼は、美術部に所属していた……。
彼は、それこそわき目もふらずに、その絵に取り組んだ。
それが、「たかが一枚の水彩画」に、彼が二ヶ月以上の時間を費やした、「組曲 屋上の風景」の第一作となる、「秋」だったのである。……もっとも、彼はまだ、それを「組曲」にするつもりも、そんな予定もまったくなかったのだが。
琴恵に会いたい一心で、彼はそれを描いた……といってしまうと、身も蓋もなかったけれども。ただ、どちらかといえば彼は「会いたい」ために、それを描いたのではなく、「絵にしたい」ために描いた、といった方が正しかっただろう。
琴恵は、彼がその絵の向こう側に、見えない「何か」が描かれていることには気づかなかったけれども、その絵を非常に気に入ってくれた。そして彼女は、何気なく、彼にいったのである。
「秋だけじゃなくってさ。春から冬まで全部そろったら、この絵、きれいだろうね」
その一言がきっかけになって。続く冬、そして春と、彼は、「組曲」を一つずつ、完成させていったのである。
そして。
本人にとってはそれがどうかはわからなかったけれども、蒼にとっては幸運なことに、琴恵は大学に落ちてしまい、一年間、予備校へ通うことになってしまっていた。
だから、彼は「春」を琴恵に見せることができ、そして。
「どう? まだ、絵、やめるつもり?」
たっぷりと「春」を堪能して。その画用紙を彼に返しながら、琴恵は明るく彼に問うた。その言葉で、彼はようやく、琴恵と「一年契約」で絵を描くことを約束していたことを思い出した。
「そうだな……」彼は琴恵に微笑みを返し、「続けても、いいかも。……琴恵さんが、絵を見てくれるのなら」
「見るよ、もちろん」
琴恵は明るく笑った。
「来年、大学に受かっても。蒼くんの絵ができたら、飛んで帰ってきてあげる」
けれども。
琴恵の死というあまりにも唐突な出来事によって、彼は、その約束を反故にされてしまった。
交通事故。
彼が「夏」に着手する直前。少し「気楽に」と、久しぶりに森林公園でスケッチをしていた彼の耳に届いた、次第に近づいてくる救急車のサイレン。
その日は、朝から妙な胸騒ぎがしていて。いつもならば絵に没頭してしまえば、ほとんどなにも聞こえなくなってしまうくらいの集中力を発揮する彼が、なぜかそのサイレンだけは、敏感に聞き取っていた。
ひどくいやな予感が、脳裏をかすめて。
彼は立ち上がった。
スケッチブックを抱えて駆けだし、公園を出る。そして……。
その日の夕方のニュースで。彼は、事故にあって死亡したのが、「遠藤琴恵」という予備校生であることを知った。
そしてその日から、彼が、絵筆を握ることは、なくなった。
「……その人、知ってる」
舞由は。ぽつりといった。
「近所に住んでたお姉さんでね。……私のお姉ちゃんの同級生で。よく、うちに遊びに来てた。……私に、絵がどんなに楽しいかを、教えてくれた人なんだ」
よくよく考えれば。舞由も琴恵も、同じ町に住んでいたのだから。そのような可能性も、十分にあったのだ。
舞由は、大きく息をついた。
「そっか……琴恵さんかぁ」
すてきな人だったもんね、と、舞由は小さくつぶやき、蒼の顔を見た。蒼は、意外におだやかな顔をしていた。
「……ごめんね。大切な思い出……ううん。蒼くんのきずあと、無理にほじったりして」
それには、蒼はなにも応えなかった。少しの間蒼の顔をじっと見つめていたあと、
「じゃ、私、先にいくね」
それだけをいい残して、舞由は蒼のそばを離れた。
蒼は、そんな舞由をじっと目で追い、やがて彼女が屋上のドアを閉じて去ってしまうと、小さく息をついて、また、外の景色に、目を向けた。
舞由が階段を下りていくと。ちょうど二年生の教室が並んでいる階で、彼女は授業で使うものと思われるプリントの束を抱えた咲子にぶつかった。
「あれ? どしたの?」
舞由の表情がひどくかたいことに気づいて、咲子は明るく問うた。
「あ、うん……なんでも、ない」
舞由は応えたけれども。
「なんでもない、って顔じゃないね」咲子は笑顔で応えて、「舞由がそんな顔するなんて。よっぽどのことがあったんじゃないの?」
舞由はため息をついた。
「よっぽどのこと……そうだね。そうかもしれない」
「相沢くんと、けんかでもした?」
冗談めかして咲子は問うて。その言葉に、舞由は小さく苦笑を返した。
「けんか、ってわけじゃないんだけど……」
舞由の返答に、咲子が小さな驚きの表情を浮かべる。けれども舞由には、咲子の表情の変化に気づく余裕はなかった。
少しの間口ごもり、
「琴恵さんのこと、聞いちゃった」
ぽつりと漏らした舞由の言葉に。今度は舞由にもはっきりとわかるほどの驚きの表情が、咲子に浮かんだ。
「相沢くんが……話してくれたの?」
まっすぐに自分を見つめながら問う咲子に、小さくうなずきを返す。そして舞由は、大きく息をついた。
「悪いこと、しちゃったな。蒼くんの心の中に、土足で踏み込んで」
もう一度。はあ、とため息をついて。
けれども咲子は、
「うん……でも、大丈夫だと思うよ」
おだやかにいった。
「え?」
「相沢くんが、自分からしてくれたんでしょ? その話」
「うん……」舞由はためらいがちにうなずいた。「でも、私が何度も『聞かせて』っていったから……」
思いもよらない話を聞かされ、少し弱気になっていた。舞由は少し重苦しい声で応える。けれども。
「大丈夫だよ」
咲子はまた、おだやかに言葉を続けた。
「相沢くん、頑固だからね。本当に自分がいやなことなら、誰に何をいわれたって、絶対に考えを曲げないから」
ほら、黒岩先生が、いい例でしょ? と、咲子は笑いながら問う。
「だから、舞由は、相沢くんにそれを話させるためのきっかけを作っただけじゃないかな。……本当は相沢くん、ずっと、舞由に聞いてほしかったんだと思うよ、そのこと」
「え?」
「だてに何年も、あいつと友達づきあいしているわけじゃないからね。……相沢くんね、あれでかなり臆病だから。『自分から何かをしなきゃだめだ』って思ってても、よっぽどせっぱ詰まらなきゃなにもしないし……」
そこまでいって、咲子は一度首を傾げ、言葉を訂正した。
「あ。せっぱ詰まっても、なにもしないことの方が多いかな? ……まあ、そんなふうに、結構いらいらすることもあるんだけどね。……でも、後ろからちょっと後押ししてあげるだけでね、相沢くん、まるで別人みたいになることもあるの」
そして咲子は、ふと思いついたように、
「あ、ごめん。ちょっと脱線しちゃったね。……まあ、そういうことだから、さ。自分がいいたくないことは、相沢くん、絶対にいわないから。だから相沢くんは、舞由に聞いてほしくて、琴恵さんの話、したんだよ」
ふふ、と笑って、舞由の顔を見て。そして咲子は、
「あ、あとね。とびっきりのこと、教えてあげる」
「とびっきりのこと?」
「相沢くんね、琴恵さんの事故のあと、自分のこと、名前で呼ばせなくなったの」
「え?」
「『蒼くん』って呼ぶとね、すっごくつらそうな顔して、『頼むから、その呼び方はやめてくれ』って。小学校の時からずっとつきあいのある祥治以外はみんな、それで相沢くんのこと、名前で呼ばなくなったんだよ」
「……それって」
うん、と咲子はうなずいた。
「あれ以来、祥治以外で舞由が初めてじゃないかな。相沢くんのこと『蒼くん』って呼んで、相沢くんが、それをやめさせない人って」
そして、咲子はふと思いついたようにいった。
「もしかしたら、さ。舞由なら、相沢くんに、最後の一枚、描かせることができるかもしれないよ」
「え?」
「『組曲』の」
そして。なんとなく気まずい空気が流れる中、時間だけは進んでゆき、放課後。
「……蒼くん。今日、どうする?」
「え?」
「絵。描くの?」
「おれが、絵を描いちゃいけない理由でもあるのか? ……今日から『本番』にするつもりで、せっかく画板まで持ってきたんだぞ」
妙に気を使っているらしい舞由に対して。蒼は、ごくいつも通りに言葉を返した。
「あ、うん。そうだね……」応える舞由には、どこか、「いつも」の元気がない。そんな舞由を見て、彼はため息を一つついた。
「あのな、青木」
「え?」
「おれが昔のことを話したくらいで、なんでおまえがそんなふうになる必要がある?」
「え?」
「おれが……」
言葉を続けようとした彼は、
「そうくぅーん!」
場違いな明るい声に言葉を中断し、そちらに目を向けた。教室後方の出入り口から、田村咲子と湯本祥治が顔を出している。二人は廊下をまわって教室前方の入り口……彼らの席のすぐそば……から、教室に入ってきた。
「蒼くん、今日から『本番』始めるんだよね?」
明るく問うた咲子をじろりとにらんで、彼は、
「だから、名前で呼ぶな、っていってるだろ」
やはり、多少は気にはしているのだろう。ちらりと舞由の方に目を向けたあと、咲子に向かってそういった。
そのやりとりに、何か感じるものがあったのか、舞由は一度蒼を見て、そして今度は咲子に目を向けた。その咲子は、舞由の視線に気づいているのかいないのか、口をとがらせる。
「なんでぇー? 舞由は名前で呼んでるじゃない」
痛いところをつかれて言葉を飲み込んだ彼は、
「うるせえ。青木は……」
「舞由は?」
にやにやと笑いながら、次の言葉をうながす咲子。蒼は少しの間、次の言葉を考えていたが。
「青木は、特別だ」
彼は、舞由がいつも使っている言葉で応えた。その言葉に、驚きの表情を浮かべる咲子。
「おおっとぉ? これはまた、相沢くんらしからぬ、大胆なお言葉で」
大仰な言葉で驚いてみせる咲子に、蒼は憮然とした表情で立ち上がった。
「からかいに来ただけなら、いくぞ」そして彼は舞由の方に目を向けたけれども。
舞由はぽかんと、彼の顔を見ている。そして彼女は、やはりぽやんとしたまま、
「蒼くん……今、なんて……?」
「二度も三度もいうようなことじゃねーよ」
照れ隠し、だろうか。早口にそういって、「ほら、いくぞ」彼は舞由をうながしたけれども。
「……でも、だって……」
「絶対に、もういわないからな」
舞由の次の言葉を予測して、彼はきっぱりといい切った。そして彼は、舞由をせっついて無理に立たせると、彼女を半ば引きずるようにして、教室を出ていく。そんな彼らを、
「あ、ちょっと、待ってよ。私たちも今日、つきあうよ」
あわてて、咲子と祥治が追った。
弓道場でも、舞由は学校の中での出来事を引きずっていた。どこかぼんやりしていて、射にもいつもの力強さがない。そのせいか彼女の矢は、何度となく的まで届かずに、地面を這っていってしまう。それでも弓を引くことで、舞由は多少、精神の安定を取り戻したようだった。
「調子悪いなぁ」
弓を立てながら、舞由はため息まじりにつぶやいた。そんな彼女の様子を見て、
「なあ」
たまらなくなったのか、蒼が口を開いた。
「なに?」
「まだ、気にしてるのか? 昼休みのこと」
「え?」舞由は一瞬、きょとんとした顔になって。そして、
「ああ、うん。……まあ」
曖昧にうなずいた。それに応えて彼はため息をつき、
「だから、青木がそんなに気にすることじゃないんだから。……あれはおれが聞いてほしかっただけなんだし、青木だって……」そこで彼は口ごもり、道場の隅にいる祥治と咲子に目をやった。
彼はまだ、舞由が琴恵の話を聞いたことを、咲子に話したことを知らない。だから彼は、二人の目の前で「そのこと」を口に出してもいいのかどうか少しためらい、そして結局、
「青木、昼休みになんていったか、覚えてるか?」
「え?」
「『琴恵さんの話を聞くことで、おれが背負っているものを少しでも軽くしたい』って」
「え? ……ああ」
ようやくその事実を思い出したらしく、舞由はうなずいた。
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ARIA(アリア)
残念パパいのっち
ミステリー
山内亮(やまうちとおる)は内見に出かけたアパートでAR越しに不思議な少女、西園寺雫(さいおんじしずく)と出会う。彼女は自分がAIでこのアパートに閉じ込められていると言うが……
黄昏は悲しき堕天使達のシュプール
Mr.M
青春
『ほろ苦い青春と淡い初恋の思い出は・・
黄昏色に染まる校庭で沈みゆく太陽と共に
儚くも露と消えていく』
ある朝、
目を覚ますとそこは二十年前の世界だった。
小学校六年生に戻った俺を取り巻く
懐かしい顔ぶれ。
優しい先生。
いじめっ子のグループ。
クラスで一番美しい少女。
そして。
密かに想い続けていた初恋の少女。
この世界は嘘と欺瞞に満ちている。
愛を語るには幼過ぎる少女達と
愛を語るには汚れ過ぎた大人。
少女は天使の様な微笑みで嘘を吐き、
大人は平然と他人を騙す。
ある時、
俺は隣のクラスの一人の少女の名前を思い出した。
そしてそれは大きな謎と後悔を俺に残した。
夕日に少女の涙が落ちる時、
俺は彼女達の笑顔と
失われた真実を
取り戻すことができるのだろうか。
深海の星空
柴野日向
青春
「あなたが、少しでも笑っていてくれるなら、ぼくはもう、何もいらないんです」
ひねくれた孤高の少女と、真面目すぎる新聞配達の少年は、深い海の底で出会った。誰にも言えない秘密を抱え、塞がらない傷を見せ合い、ただ求めるのは、歩む深海に差し込む光。
少しずつ縮まる距離の中、明らかになるのは、少女の最も嫌う人間と、望まれなかった少年との残酷な繋がり。
やがて立ち塞がる絶望に、一縷の希望を見出す二人は、再び手を繋ぐことができるのか。
世界の片隅で、小さな幸福へと手を伸ばす、少年少女の物語。
全力でおせっかいさせていただきます。―私はツンで美形な先輩の食事係―
入海月子
青春
佐伯優は高校1年生。カメラが趣味。ある日、高校の屋上で出会った超美形の先輩、久住遥斗にモデルになってもらうかわりに、彼の昼食を用意する約束をした。
遥斗はなぜか学校に住みついていて、衣食は女生徒からもらったものでまかなっていた。その報酬とは遥斗に抱いてもらえるというもの。
本当なの?遥斗が気になって仕方ない優は――。
優が薄幸の遥斗を笑顔にしようと頑張る話です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる