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第八話 スケッチブック
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咲子の言葉は、その意図していたことがなんであれ、蒼が態度を硬化させてしまうのには十分すぎたようだった。
「……ったく。どいつもこいつも、なんでそんなにおれに絵を描かせたがるんだ」
吐き捨てるように彼はつぶやいた。
「おれが絵を描いていたときは、おれがいないみたいな顔して無視していたくせに。……なんで絵をやめた途端に、口をそろえて『絵を描け』っていい出すんだ?」
本気で……。どうやら彼が本気で怒ってしまったことに気づいたのだろう。
「ごめ……ん。いい過ぎた」
咲子はあわてて謝ったけれども。
「謝ればそれで済むようなことじゃないんだよ」
蒼は厳しい表情で応えた。と。
「……でも、さ。蒼の、新しい絵を見たい、っていうのは、ぼくらがみんな、いつも思っていることだよ。……蒼がなんで絵をやめたかわかっているから、ずっと、黙っていたけど」
事の成り行きを黙って見ていた祥治が、取りなすように口を開いたけれども。
「おれが、県のコンクールで入賞したからだろ」
蒼は吐き捨てるようにいった。
「冗談じゃない。どいつもこいつもおれのことなんて無視してたくせに、一度金賞を取ったらころっと態度を変えて」
「蒼!」
いつになく厳しい口調で……終始おだやかな表情を浮かべている祥治には珍しいことだった……、祥治は彼の名前を呼んだ。
「確かに、そういう連中もいたさ。でも、ぼくも咲子も、その前からずっと蒼と一緒にいたじゃないか。蒼の絵が入選したときには絵を描かなくなっていた蒼が、そういう連中をうるさく思うのもわかるよ。……でもぼくは、それこそ小学校の時から蒼と一緒にいたし、咲子も……咲子もずっと、蒼のことが好きだったんだぞ」
「祥治!」
咲子があわてて、制止の声を出したけれども。それは遅きに失した。思わぬ言葉を突きつけられ、驚きの表情で咲子と祥治を交互に見比べる蒼。その彼に、祥治は言葉を続けた。
「ぼくはずっと、蒼の絵が好きだったよ。咲子も、蒼の絵が好きだし、それに絵を描いているときの蒼が一番好きだ、っていってた。……ぼくも咲子も、そんなに絵のことは詳しくはないから、どこがどうって、具体的にいうことはできないけど……でも、蒼の絵を楽しみにしていたんだ。だから……だから、『入選したから、ちやほやしているだけだ』なんて、そんな悲しいこと、いわないでくれよ」
彼は、なにも応えなかった。……いや、応えられなかった、といった方が正しいのだろう。
それから少しの間沈黙が続き。
やがてゆっくりと、祥治が口を開いた。
「ごめん。ぼくも、少しいい過ぎたね」
そして祥治は少しの間をおいて、
「蒼がなんで絵をやめたのかわかっているから、ぼくも咲子も、蒼に『絵を描け』って無理強いはするつもりはないよ。……でも、ぼくも咲子も、蒼の絵も、絵を描いているときの蒼も好きだ、っていうのは、忘れないでほしいんだ」
そして祥治は一度咲子に目を向け、そしてまた、彼に目を向け直した。
「ぼくと咲子は、先に帰るよ。……また明日、蒼が、もう少し落ち着いたら……」
それから、祥治が何をいうつもりだったのかは、言葉を続けていた当人しかわからなかった。
唐突に。
本当に唐突に、今度は傍観する側に回っていた舞由が、口を開いたのだった。
「咲子たちのいいたいこともわかるし、相沢くんが絵をやめたのって、すごく大変なことだった、っていうのも、なんとなくわかるけど、さ」
そして、舞由は蒼たちの視線が自分のところへ集まるのを待って、
「相沢くんがコンクールで入賞しなかったら、相沢くんの絵を見ることができなかった人だって、いるんだよね。……もしかしたらさ、『入選した途端にちやほや』し始めた人の中にだって、一人や二人、本気で相沢くんの絵を好きになった人だって、いるんじゃないかな? それで、もしもその人が、相沢くんが絵をやめたって知ったら、『残念だな、私は、もっとこの人の描く絵を見たいのに』って、思うんじゃないかな?」
「いるわけねーだろ、そんなやつ」
蒼は、自嘲めいた口調で応えた。
「なんだかんだいったって、しょせんは中学生の描いた、ただの風景画だぜ? そんなのが金賞を取ったくらいで、そこまで思うようなやつがいると思うか?」
「いるよ」
「どこに?」
「ここに」
実にあっさりと、舞由は自分を指さした。
「いったでしょ? 私、あの三枚の絵が、大好きなんだよ。だから、相沢くんと同じクラスになって、相沢くんが、あの三枚の絵を描いた『相沢蒼』だって知った時はすごくうれしかった」
舞由は小さく微笑んだが、すぐにその表情は真顔になった。
「だからね。相沢くんがもう絵を描くのをやめた、って知ったときは、すごく、悲しかったんだから」
その言葉に。
彼は、なにを感じたのだろう。
まず最初に驚きの表情が浮かんだ。その驚きが過ぎ去ると……。その、彼の真摯な瞳が映しているものは、なんだったのだろう。
彼は黙って、まっすぐに舞由の顔を見つめた。その視線に応え、舞由もまた、彼にまっすぐな視線を返す。
そんなふうに、じっと見つめ合う二人に何かを感じたのか、祥治も咲子も、黙って、彼らの様子を見ていた。
長い、長い沈黙のあと。
「……青木は、そんなに、おれの描いた絵が見たいのか?」
「うん」
ぽつりと問うた彼に、何を今さら、とでもいうかのように、舞由は大きくうなずいた。そんな舞由を見て、彼は、
「じゃ、おれが、おまえを描きたい、っていったら?」
思いもよらない言葉に、その様子を見ていた祥治と咲子が顔を見合わせる。けれども、それをいわれた当の舞由は、
「私をモデルにしてくれるの? 大歓迎だよ」
明るく応える。そんな舞由に、彼は、
「ヌードモデルでも?」
「! ちょっと、相沢くん……!」
さすがに、いくらなんでもそれはどうかと思ったのか、咲子があわてて口を挟んだ。けれども舞由は、咲子にちらりと目配せをすると、
「相沢くんが、ほんとに私の裸を描きたい、っていうんなら。いくらでも、裸になってあげるよ。……見られて、減るようなものじゃないんだし」
まるで、彼が本当に描きたいものがそれではない、ということがわかっているかのように。
舞由はひどく明るい口調で応えた。
「で、ほんとは何を描きたいの? 私をモデルにして」
その、明るい言葉につられるように。彼は、ゆっくりと応えた。
「おまえが、弓を引いているとこ」
その言葉に、舞由はくすりと笑った。
「裸じゃなくっていいの?」
挑発するような言葉に、彼もやり返す。
「ばーろ。モデルにしたくなるほど、いいスタイルでもないくせに」
舞由はほほを膨らませた。
「あーっ、ひっどぉい」
それから。
舞由が、家の近くで弓道を教えてもらっているのが毎週日曜と木曜の夜だというので、その翌日、毎週月曜と金曜の放課後、この弓道場で絵を描くことなど、とりあえずおおざっぱなことだけを取り決め、彼らは、「もう少し練習してから帰る」という舞由と別れた。
帰り道を歩きながら。
「……意外」
咲子が、口を開いた。何が「意外」なのかは聞かずともわかっていたけれども。
「何が?」
あえて彼は、それを咲子に問うた。
「え? ……決まってるじゃない。あんなにあっさり、相沢くんが新しい絵を描く、っていうなんて」
「なんだっていいだろ、そんなこと」
彼は何かをごまかすかのように、応えた。そんな彼に、祥治が微笑みを向ける。
「……でも、悪いことじゃないよね。やっぱり、何かをやっていれば、それなりに張り合いもあるし」
「そうだね」
その言葉に、咲子もうなずく。
「……でも、よりによってモデルが舞由だなんて。みんな、腰抜かしちゃうかもよ」
「……また、変な噂が立ちそうだよね」
祥治の言葉に、「ああ、それがあったな」と、蒼は苦い表情を浮かべた。そして彼は少し考えた後、
「青木も、彼氏持ちだしな。どうせいつかはバレちまうだろうけど、おまえら、それまではこのこと、黙っててもらえないか?」
「うん、そのくらいなら」
祥治と咲子は、そろってうなずいた。
そして、月曜日。
スケッチブックを脇に抱えた蒼の姿を、美術部顧問の黒岩潤子は、満面の笑みで迎えた。
その姿を見て、彼は「そういえば、こいつもいた」と、苦々しい表情を浮かべる。ことの成り行きを楽しむかのように、祥治と咲子は、二人の様子をうかがっていた。
「おっはよー、相沢くん」
もうこれ以上はない、というくらい幸せそうな表情で、潤子は彼らを迎える。その声に、他の生徒が何ごとかと、彼らのほうにちらりと目を向けていった。
「やぁっと、美術部に入ってくれる気になったのね」
いくら彼が「その気はない」と力説したとしても、彼が小脇に抱えているスケッチブックだけは隠しようがない。これなら、けちけちせずに、新しくかばんに入るサイズのものを買ってくればよかった、と、彼は少しだけ後悔した。
「……悪いけど、美術部に入る気はないんだ」
苦々しい顔で、彼はにこにこと笑っている潤子に告げる。
「どぉしてぇ? じゃ、そのスケッチブックはなに?」
驚きと落胆を隠そうともせずに、潤子は彼に問うた。
よほどその場しのぎの嘘でごまかしてしまおうかと思ったのだけれども、そんなことをしても、相手が潤子ではどこかでぼろが出てしまうだろう。
「『部活で』とか、そんなふうに絵を描きたくないんだ。……描きたいときに描いて、やめたいときにやめて。自分で、好きなようにやりたいから」
「なるほどね」
潤子は微笑して、彼の顔を見た。
「……なんていうか、そういうの、相沢くんらしいね。……そういうことなら、無理強いするわけにも、いかないか」
ため息まじりにいって、
「でも、いきなりどうしちゃったの? この間まで、あんなに『絵は描かない』って力説してたのに」
「別に。大したことじゃない」
応えたそうに、潤子はため息をついた。
「また、いつもの黙秘、ってやつね」
けれども、そのため息は決して、本気でついたものではないようだった。すぐに潤子の表情はおだやかな微笑に変わり、
「でも、なんにしても。相沢くんがまた絵を描きはじめた、ってだけで、とりあえずは満足しなきゃいけないか」
「……なんだよ、その『とりあえず』って」
「別に。言葉通りの意味よ。……別に、まだ相沢くんを美術部に入れるのをあきらめたわけじゃないんだから」
はいはい、と、蒼は気のない返事を返した。
「あーっ、今日は気分良く授業ができそう! じゃ、相沢くん、また来週ね」
心底うれしそうにいって、潤子は彼らに手を振って、校舎へと歩いていった。
その後ろ姿を見ながら、
「黒岩先生、うれしそう」
ぽつりと、咲子がつぶやいた。
「そりゃね。一年もつれなく振られ続けてたのが、突然『友達からでもいいなら』っていわれたようなもんなんだから」
にこにこしながら祥治がいったけれども、
「そういうややこしいたとえはやめろ。ただでさえ、この間から変な噂が流れてんだから。これ以上余計な噂が流れたらどうしてくれる?」
「いーじゃない。ここに来て変な噂の一つや二つ。どーせもともと、相沢くんは変なんだから」
「も、いい」
怒る気も失せた、といった様子で、彼は頭を抱えてため息をついた。と、そこへ。
「おはよ」
おだやかな声が、彼らの後ろから聞こえた。彼らが一斉に振り返ると、その「変な噂」の当事者の片割れが、にこにこ笑いで立っている。
「朝から楽しそうだね」
「そーお?」
咲子は小さく首を傾げた。
「いつも通りだけど?」
その言葉に、舞由がくすりと微笑む。そして舞由は、「あ」と、小さく声を漏らした。
「相沢くん、スケッチブック」
「ん? ああ」
彼は脇に抱えていたスケッチブックに目を向ける。「これが、どうした?」
「ん? かっこいい、って」
「……そうか?」
彼は首を傾げ、そしてふと気づいた。
「おまえ、弓と矢は?」
舞由は、弓も、矢筒も持っていなかった。後は、かばんの他に大きめのスポーツバッグが一つだけ。弓と矢以外の道具はそのバッグに入っているにしても、さすがにその二つはどうやっても隠すわけにはいかないだろう。
「え? ああ。……さすがに邪魔になるから。いっつも、朝のうちに弓道場のロッカーに入れておくの」
「へえ」
蒼はうなずいた。そしてふと気づく。
「ああ。それで、今日は遅いのか」
「うん」
舞由はうなずいた。いつもなら蒼よりも早く来ている舞由が、今日は登校時間が一緒になったというのは、そういう理由があったのだ。すると、先週の月曜日、蒼が潤子と言葉を交わしているのを舞由に見られたのも、それなりの必然があったのだ。
「……ったく。どいつもこいつも、なんでそんなにおれに絵を描かせたがるんだ」
吐き捨てるように彼はつぶやいた。
「おれが絵を描いていたときは、おれがいないみたいな顔して無視していたくせに。……なんで絵をやめた途端に、口をそろえて『絵を描け』っていい出すんだ?」
本気で……。どうやら彼が本気で怒ってしまったことに気づいたのだろう。
「ごめ……ん。いい過ぎた」
咲子はあわてて謝ったけれども。
「謝ればそれで済むようなことじゃないんだよ」
蒼は厳しい表情で応えた。と。
「……でも、さ。蒼の、新しい絵を見たい、っていうのは、ぼくらがみんな、いつも思っていることだよ。……蒼がなんで絵をやめたかわかっているから、ずっと、黙っていたけど」
事の成り行きを黙って見ていた祥治が、取りなすように口を開いたけれども。
「おれが、県のコンクールで入賞したからだろ」
蒼は吐き捨てるようにいった。
「冗談じゃない。どいつもこいつもおれのことなんて無視してたくせに、一度金賞を取ったらころっと態度を変えて」
「蒼!」
いつになく厳しい口調で……終始おだやかな表情を浮かべている祥治には珍しいことだった……、祥治は彼の名前を呼んだ。
「確かに、そういう連中もいたさ。でも、ぼくも咲子も、その前からずっと蒼と一緒にいたじゃないか。蒼の絵が入選したときには絵を描かなくなっていた蒼が、そういう連中をうるさく思うのもわかるよ。……でもぼくは、それこそ小学校の時から蒼と一緒にいたし、咲子も……咲子もずっと、蒼のことが好きだったんだぞ」
「祥治!」
咲子があわてて、制止の声を出したけれども。それは遅きに失した。思わぬ言葉を突きつけられ、驚きの表情で咲子と祥治を交互に見比べる蒼。その彼に、祥治は言葉を続けた。
「ぼくはずっと、蒼の絵が好きだったよ。咲子も、蒼の絵が好きだし、それに絵を描いているときの蒼が一番好きだ、っていってた。……ぼくも咲子も、そんなに絵のことは詳しくはないから、どこがどうって、具体的にいうことはできないけど……でも、蒼の絵を楽しみにしていたんだ。だから……だから、『入選したから、ちやほやしているだけだ』なんて、そんな悲しいこと、いわないでくれよ」
彼は、なにも応えなかった。……いや、応えられなかった、といった方が正しいのだろう。
それから少しの間沈黙が続き。
やがてゆっくりと、祥治が口を開いた。
「ごめん。ぼくも、少しいい過ぎたね」
そして祥治は少しの間をおいて、
「蒼がなんで絵をやめたのかわかっているから、ぼくも咲子も、蒼に『絵を描け』って無理強いはするつもりはないよ。……でも、ぼくも咲子も、蒼の絵も、絵を描いているときの蒼も好きだ、っていうのは、忘れないでほしいんだ」
そして祥治は一度咲子に目を向け、そしてまた、彼に目を向け直した。
「ぼくと咲子は、先に帰るよ。……また明日、蒼が、もう少し落ち着いたら……」
それから、祥治が何をいうつもりだったのかは、言葉を続けていた当人しかわからなかった。
唐突に。
本当に唐突に、今度は傍観する側に回っていた舞由が、口を開いたのだった。
「咲子たちのいいたいこともわかるし、相沢くんが絵をやめたのって、すごく大変なことだった、っていうのも、なんとなくわかるけど、さ」
そして、舞由は蒼たちの視線が自分のところへ集まるのを待って、
「相沢くんがコンクールで入賞しなかったら、相沢くんの絵を見ることができなかった人だって、いるんだよね。……もしかしたらさ、『入選した途端にちやほや』し始めた人の中にだって、一人や二人、本気で相沢くんの絵を好きになった人だって、いるんじゃないかな? それで、もしもその人が、相沢くんが絵をやめたって知ったら、『残念だな、私は、もっとこの人の描く絵を見たいのに』って、思うんじゃないかな?」
「いるわけねーだろ、そんなやつ」
蒼は、自嘲めいた口調で応えた。
「なんだかんだいったって、しょせんは中学生の描いた、ただの風景画だぜ? そんなのが金賞を取ったくらいで、そこまで思うようなやつがいると思うか?」
「いるよ」
「どこに?」
「ここに」
実にあっさりと、舞由は自分を指さした。
「いったでしょ? 私、あの三枚の絵が、大好きなんだよ。だから、相沢くんと同じクラスになって、相沢くんが、あの三枚の絵を描いた『相沢蒼』だって知った時はすごくうれしかった」
舞由は小さく微笑んだが、すぐにその表情は真顔になった。
「だからね。相沢くんがもう絵を描くのをやめた、って知ったときは、すごく、悲しかったんだから」
その言葉に。
彼は、なにを感じたのだろう。
まず最初に驚きの表情が浮かんだ。その驚きが過ぎ去ると……。その、彼の真摯な瞳が映しているものは、なんだったのだろう。
彼は黙って、まっすぐに舞由の顔を見つめた。その視線に応え、舞由もまた、彼にまっすぐな視線を返す。
そんなふうに、じっと見つめ合う二人に何かを感じたのか、祥治も咲子も、黙って、彼らの様子を見ていた。
長い、長い沈黙のあと。
「……青木は、そんなに、おれの描いた絵が見たいのか?」
「うん」
ぽつりと問うた彼に、何を今さら、とでもいうかのように、舞由は大きくうなずいた。そんな舞由を見て、彼は、
「じゃ、おれが、おまえを描きたい、っていったら?」
思いもよらない言葉に、その様子を見ていた祥治と咲子が顔を見合わせる。けれども、それをいわれた当の舞由は、
「私をモデルにしてくれるの? 大歓迎だよ」
明るく応える。そんな舞由に、彼は、
「ヌードモデルでも?」
「! ちょっと、相沢くん……!」
さすがに、いくらなんでもそれはどうかと思ったのか、咲子があわてて口を挟んだ。けれども舞由は、咲子にちらりと目配せをすると、
「相沢くんが、ほんとに私の裸を描きたい、っていうんなら。いくらでも、裸になってあげるよ。……見られて、減るようなものじゃないんだし」
まるで、彼が本当に描きたいものがそれではない、ということがわかっているかのように。
舞由はひどく明るい口調で応えた。
「で、ほんとは何を描きたいの? 私をモデルにして」
その、明るい言葉につられるように。彼は、ゆっくりと応えた。
「おまえが、弓を引いているとこ」
その言葉に、舞由はくすりと笑った。
「裸じゃなくっていいの?」
挑発するような言葉に、彼もやり返す。
「ばーろ。モデルにしたくなるほど、いいスタイルでもないくせに」
舞由はほほを膨らませた。
「あーっ、ひっどぉい」
それから。
舞由が、家の近くで弓道を教えてもらっているのが毎週日曜と木曜の夜だというので、その翌日、毎週月曜と金曜の放課後、この弓道場で絵を描くことなど、とりあえずおおざっぱなことだけを取り決め、彼らは、「もう少し練習してから帰る」という舞由と別れた。
帰り道を歩きながら。
「……意外」
咲子が、口を開いた。何が「意外」なのかは聞かずともわかっていたけれども。
「何が?」
あえて彼は、それを咲子に問うた。
「え? ……決まってるじゃない。あんなにあっさり、相沢くんが新しい絵を描く、っていうなんて」
「なんだっていいだろ、そんなこと」
彼は何かをごまかすかのように、応えた。そんな彼に、祥治が微笑みを向ける。
「……でも、悪いことじゃないよね。やっぱり、何かをやっていれば、それなりに張り合いもあるし」
「そうだね」
その言葉に、咲子もうなずく。
「……でも、よりによってモデルが舞由だなんて。みんな、腰抜かしちゃうかもよ」
「……また、変な噂が立ちそうだよね」
祥治の言葉に、「ああ、それがあったな」と、蒼は苦い表情を浮かべた。そして彼は少し考えた後、
「青木も、彼氏持ちだしな。どうせいつかはバレちまうだろうけど、おまえら、それまではこのこと、黙っててもらえないか?」
「うん、そのくらいなら」
祥治と咲子は、そろってうなずいた。
そして、月曜日。
スケッチブックを脇に抱えた蒼の姿を、美術部顧問の黒岩潤子は、満面の笑みで迎えた。
その姿を見て、彼は「そういえば、こいつもいた」と、苦々しい表情を浮かべる。ことの成り行きを楽しむかのように、祥治と咲子は、二人の様子をうかがっていた。
「おっはよー、相沢くん」
もうこれ以上はない、というくらい幸せそうな表情で、潤子は彼らを迎える。その声に、他の生徒が何ごとかと、彼らのほうにちらりと目を向けていった。
「やぁっと、美術部に入ってくれる気になったのね」
いくら彼が「その気はない」と力説したとしても、彼が小脇に抱えているスケッチブックだけは隠しようがない。これなら、けちけちせずに、新しくかばんに入るサイズのものを買ってくればよかった、と、彼は少しだけ後悔した。
「……悪いけど、美術部に入る気はないんだ」
苦々しい顔で、彼はにこにこと笑っている潤子に告げる。
「どぉしてぇ? じゃ、そのスケッチブックはなに?」
驚きと落胆を隠そうともせずに、潤子は彼に問うた。
よほどその場しのぎの嘘でごまかしてしまおうかと思ったのだけれども、そんなことをしても、相手が潤子ではどこかでぼろが出てしまうだろう。
「『部活で』とか、そんなふうに絵を描きたくないんだ。……描きたいときに描いて、やめたいときにやめて。自分で、好きなようにやりたいから」
「なるほどね」
潤子は微笑して、彼の顔を見た。
「……なんていうか、そういうの、相沢くんらしいね。……そういうことなら、無理強いするわけにも、いかないか」
ため息まじりにいって、
「でも、いきなりどうしちゃったの? この間まで、あんなに『絵は描かない』って力説してたのに」
「別に。大したことじゃない」
応えたそうに、潤子はため息をついた。
「また、いつもの黙秘、ってやつね」
けれども、そのため息は決して、本気でついたものではないようだった。すぐに潤子の表情はおだやかな微笑に変わり、
「でも、なんにしても。相沢くんがまた絵を描きはじめた、ってだけで、とりあえずは満足しなきゃいけないか」
「……なんだよ、その『とりあえず』って」
「別に。言葉通りの意味よ。……別に、まだ相沢くんを美術部に入れるのをあきらめたわけじゃないんだから」
はいはい、と、蒼は気のない返事を返した。
「あーっ、今日は気分良く授業ができそう! じゃ、相沢くん、また来週ね」
心底うれしそうにいって、潤子は彼らに手を振って、校舎へと歩いていった。
その後ろ姿を見ながら、
「黒岩先生、うれしそう」
ぽつりと、咲子がつぶやいた。
「そりゃね。一年もつれなく振られ続けてたのが、突然『友達からでもいいなら』っていわれたようなもんなんだから」
にこにこしながら祥治がいったけれども、
「そういうややこしいたとえはやめろ。ただでさえ、この間から変な噂が流れてんだから。これ以上余計な噂が流れたらどうしてくれる?」
「いーじゃない。ここに来て変な噂の一つや二つ。どーせもともと、相沢くんは変なんだから」
「も、いい」
怒る気も失せた、といった様子で、彼は頭を抱えてため息をついた。と、そこへ。
「おはよ」
おだやかな声が、彼らの後ろから聞こえた。彼らが一斉に振り返ると、その「変な噂」の当事者の片割れが、にこにこ笑いで立っている。
「朝から楽しそうだね」
「そーお?」
咲子は小さく首を傾げた。
「いつも通りだけど?」
その言葉に、舞由がくすりと微笑む。そして舞由は、「あ」と、小さく声を漏らした。
「相沢くん、スケッチブック」
「ん? ああ」
彼は脇に抱えていたスケッチブックに目を向ける。「これが、どうした?」
「ん? かっこいい、って」
「……そうか?」
彼は首を傾げ、そしてふと気づいた。
「おまえ、弓と矢は?」
舞由は、弓も、矢筒も持っていなかった。後は、かばんの他に大きめのスポーツバッグが一つだけ。弓と矢以外の道具はそのバッグに入っているにしても、さすがにその二つはどうやっても隠すわけにはいかないだろう。
「え? ああ。……さすがに邪魔になるから。いっつも、朝のうちに弓道場のロッカーに入れておくの」
「へえ」
蒼はうなずいた。そしてふと気づく。
「ああ。それで、今日は遅いのか」
「うん」
舞由はうなずいた。いつもなら蒼よりも早く来ている舞由が、今日は登校時間が一緒になったというのは、そういう理由があったのだ。すると、先週の月曜日、蒼が潤子と言葉を交わしているのを舞由に見られたのも、それなりの必然があったのだ。
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「今日のパンツってどんなんだっけ? ああ、これか。」
「ちょっと、確認しなくていいですから!」
「これ、可愛いでしょ? 色違いでピンクもあるんだけどね。綿なんだけど生地がサラサラで、この上の部分のリボンが」
「もういいです! いいですから、パンツの説明は!」
天然高学歴キャバ嬢と、心優しいDT高校生。
異色の2人が繰り広げる、水色パンツから始まる日常系ラブコメディー!
※小説家になろうとカクヨムにも同時掲載中です。
※本作品はフィクションであり、実在の人物や団体、製品とは一切関係ありません。
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