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第三章◆魔ノ香
魔ノ香~Ⅺ
しおりを挟むこの胸の不快感は ... 何だろう。
フェレンスは考える。
カーツェルの背を裂いたのは、圧耐久性の高い強化硝子だ。
砕けたところで粉のように微塵となるはずのものが、変質したらしい。
凍てつく炎を宿す彼の身体は、魔白鋼や魔青鋼のように
特殊金属でもない限り、重度の切傷を負うことは無いが。
膝にかけたローブで彼の身体を包みながら、フェレンスは自らに疑問を呈した。
痛みに似ているが、明確には言えない。
氷で満たされた泉に浸けられ浮き上がる心臓を、
細い針で縫い絞られるような、この感覚は一体 ... ...
蒼火が燈る傷口から押し出され、床に落ちるたび。
キン ... キン ... と、高い音を発し。
粉のように砕け積もる硝子片。
体内に残らぬよう、法により処置していたところ。
何喰わぬ顔をして見せるカーツェル。
フェレンスは、釈然としない表情だった。
得体の知れぬ心情に揺さぶられ、戸惑う。
初めての経験ではないが。
その都度、少なからず困惑した。
昔から、フェレンスに対する人々の陰口に一々腹を立て。
酷い時には、複数人を巻き込むような騒動を引き起こしたカーツェルだが。
帝国軍・大佐を務めた男の末息子と思えばこそ。
一、軍人たる者、嘆くべからず。力に変え、挑むべし。
一、敵と見做すは。強者らしく踏み越え沈黙さしめよ。
責め追い立てるは力無き者の愚行と知らしめるべし。
一、奪いせしめたる者、生み成すを知らず。
戦意を示し盾とせよ。
厭わず、護り集い、決すべし。
父の信条に倣う姿勢。
正義感や道徳心から成る行い。
どれも自然と納得できたのだ。
ところが。フェレンスのもとを訪れては、人が変わったように悔し涙を流す。
そんな彼の口から溢れるのは、それら如何なる名分でもない。
『あいつらが ... 俺とお前が一緒にいたら悪いみたいに言うから ... ... !』
傍に居るだけで傷付くなら、 近寄ったりなどしなければ良いのに。
幾度となく言い争った。
なのに彼は聞く耳を持たず。
未だ、こうして傍を離れない。
不可解な痛みは、増していくばかりなのだ。
泣かなくなった分、無理をすることを覚えた彼の実直さを、思い知らされる毎に。
罪悪感を感じるほど良心的ではない。
自らの本質はよく理解しているつもり。
成すべきを成すため、必要な行いであれば善悪を問わず。
自身がいずれに属そうとも、気にすらならないのに。
化物 ... ...
彼がそう誹謗されるに関しては、別 ... と、認識している。
それが、どうも腑に落ちない。
自分のことなら良いが、彼が傷付くのは嫌。それはそう。
だが、後悔したり気に病むのとは異なり。
気分を害されるというわけでもない。
フェレンスにとって、その謎めいた感覚は ... 痛みは ...
出処の知れぬ曰くの煩いとなっていた。
あの人が ... 彼ノ尊が、世界の修正を口にした日の痛烈な〈悲しみ〉とも掛け離れて、理解し難い。
けれども、それで良い。
フェレンスは思う。
根拠が知れようと知れまいと、彼への愛着が形を変えることはないのだから ... ...
カーツェルを包むローブに織り込まれた治癒効果は、
直接的に法を施すよりも回復速度が穏やかで持続的。
心身に負荷をかけることが少なく、傷跡も残らない。
しかし、急事でもない限りは、なるべく自然なかたちでの治療が望ましいので。
霊草を用い薬を精製するため、席を立つフェレンス。
蓄積した疲労が見て取れるカーツェルの懐に肩を入れ、支えてやりながらの移動だった。
自らの心境について深く考察することの無い。
異端ノ魔導師の脆弱性が如実にあらわれた光景と解釈する。
これは、部屋の片隅で両者を黙視していたクロイツの私感。
冷静に見えて実のところ、そうではない。
奴は ... 感情的になっている己の境遇さえ理解する必要の無いものと切り捨て。
あるべき姿の維持に徹しているだけなのだ。
連発した炸裂音に驚いて グスグス と泣きはじめる少年を宥めつつ。
由々し惟る。
理性の塊、そのもの。 そんな貴様に、
心弱い我々人類が得るべき〈誠ノ力〉など、見いだせるものなのか?
私には到底、そうは思えぬ ... ...
クロイツがフェレンスに向ける不信の念は、ー甚だ共感しかねる高み意識への恐れに近かった。
――― 古代暦学において。
〈星詠み〉と呼ばれた天文学者の一派が、
予言や占星の虚実関係を解き明かさんとする間に〈誠〉 と呼び示した真理。
霧ノ病による魔物の脅威に怯る人々は時として、
それに基づく力で人類を導かんとす賢者の面影を探した。
延いては、帝国政府がフェレンスの素性を覆してまで生かしておく理由に他ならぬ。
クロイツが案じているのは、そういった歴書に固着する印象により、
まるで英雄か何かのようにフェレンスを担ぎ上げようとする〈宗教的勢力〉と、
流れを利用し独裁を目論む〈政府の一部勢力〉と、
それら目上の権威独占を良しとしない〈軍勢力〉との三つ巴が、
何かにつけ無関係な民を巻き込む実情に伴った ... 二次被害の拡大である。
伝説の血と思わしきを宿す少年が、忽然と姿を現した今。
対立と混乱が激化するのは目に見えている。
泣く子を抱いたまま室外へ出て、クロイツは思い詰めた。
口を固く結んで、目もくれない。
そんな様子を、上階の踊り場から吹抜け越しに見ていたのは、ノシュウェル。
ただならぬ物音を耳にして駆け付けたところだが。
少年を連れた上役の表情から察し、部下と共に留まった。
彼は、クロイツが別室へと移動し終えるまでを見届け、行動する。
翌朝には宿を発つため。
まずはフェレンスの許可を得て、機材の送り返しを部下達に命じ。
支度済みの部屋まで主従を案内した。
ローブを着せられたカーツェルに寄り添って離れないフェレンスを見れば、事態の把握は容易。
折りを見て食事を済ませるよう告げたうえ、速やかに退室後。
現場へ戻った際。床の血痕を拭う部下の手元を窺えば。
重症には至らなかったものと見えるが。
「よくもこう次々と、厄に見舞われるもんだ ... 」
訝しげな顔をして呟くノシュウェルは、ふとして窓の外へと視線を持っていった。
後始末に忙しく行き合う部下達の傍ら。
事故の衝撃で罅の入った窓の硝子面を隈無くテープで止め、応急処置とする作業の終わり頃。
左右の梁りを、きっちり抑えて閉める部下と入れ替わるように。
窓辺に立つと、月の光を梳き降ろす樹海を眺め、思いを馳せる。
明日の昼過ぎには、ウォルテアの国境手前にある空港に着くとして。
手配しておいた飛空艇に乗り込めば、日暮れ前には帝都の土を踏めるだろうか。
山岳を経て、緩やかに下る運河の流れ沿いを立ち囲う樹々は、
撓る枝を横たえ、宿場の軒先を結ぶ。
叉木の上に家が立つ程の巨木で占められた土地故。
地上を切り開くよりも樹の上に住んだ方が手っ取り早く。
土地の変質も避けられるとして開発が進んだよう。
時として通りかかる船は、その下を潜るかたちで静やかに航行した。
また、そういった事情から。
この先、馬車は使えないので。
日が昇り次第、船へと乗り継ぐ予定だ。
荷移し作業は既に済ませてある。
つまり。そういった移動等の手はずは全て、ノシュウェルの請け負い。
クロイツは、今後の見通しをつける事にのみ集中した。
少女を追跡するノシュウェルの部下の動向。
少年という恰好の獲物を取り逃がしたであろう、奴等の出方。
自由の効かなくなったフェレンスを引き込みに乗り出すであろう勢力が、
はてさて、どのような理屈をこじつけてくるものか。
関連性も含め、様々に想定した。
泣き疲れてきた少年の眠気眼が、うつらうつらと船を漕いでも、お構いなし。
頭を撫でてやるのも片手間になっていたところ。
「ねぇ、クロちゃん ... ... あのね ... ?」
唐突に話し掛けてきた少年に対し、返事くらいはしてやろうかと ... ...
思 ... い 、ながら、も。
すっかりと思考が停止する。
目を向けると、視線がカチ合った。
「お、ぉぉ、お、お前 ... ... 今 ... ... 今、何と ... ... ?」
驚きのあまりか。少年の片言が口移し。
クロイツは不規則に息を継いで言った。
すると、脇に凭れ見上げてくる ... お眠ニャンニャンが、そう、何と。
「 ん、と。あのね? ... えっと。 クロちゃん、僕ね?
シャマのところに、行きたいの。 連れて行ってくれる?」
何とも、まぁ、卒然に ... まともな言葉を発したのである。
シパ シパ シパ シパ シパ ッ ... ...
クロイツの高速瞬きが冴える。
柄にもなく小首を傾げて硬直すること暫し。
フ ェ ッ ... と大きく息を吸ったクロイツは即座に呼び付けた。
「 フ ェ レ ―――――――――― ン ス !!」
「ぶ ふぉ っ ... ... !!」
その時。真っ先に吹き出したのはカーツェルである。
幸い傷は浅く、ローブの効力もあって特別な手当は必要なかったので。
冷めないうちにと勧められたスープを口にしはじめていたところだった。
そんな彼の背中の血を拭き取ってやりながら、フェレンスは声のした方を振り向く。
〈 バタン !! バタバタ ダ タ ゙ ダ ダ ダ ... !!〉
夜、夜中。
少年を担ぎ上げて部屋の扉を開け放ち、
階段を駆け上がるクロイツの素早さたるや... 疾風の如し。
後始末も済まぬうち。
廊下を疾走し行き過ぎる上官を上手いこと跳ね避けた兵士の一人は、
青褪めた顔で振り向き、背を目で追いながら呟いた。
「お、お願いだから ... もう、これ以上、仕事、増やさないで ... 」
ガクブル ... ...
震える彼等は、それぞれに手を止め愕然と伏す。
俺たちだって、たまにはベッドで寝たい ... ...
声に出して言う者はいなかったが。
つまりは、そういうこと。
遠征中、宿で寝泊まりすることなどは極、稀であるため。
贅沢を言うようだが、せっかくなのだから少しくらいは寛ぎたいと思った。
そんな部下達、一人々の背を撫で下ろし。
労いながら部屋を出る。
ノシュウェルは、溜め息混じりに言って項垂れた。
「やれやれ、まったくだぁ ... 」
彼にも若干、疲れの色が滲む。
貸し切り予約をしていたので、多少なり騒々しくとも何て事は無い。
迷惑を掛けるとすれば、ベッドに入っても一向に寝付けず、
天井を睨んでいるであろう宿主ぐらいかなぁ ... とは思うけれど。
例の主従を休ませている部屋の前で、大袈裟な身振り手振り。
おかしなことを言いはじめた統括責任者には、心底、参った。
「貴様に用は無い! フェレンスを出せと言っている!!」
「何卒、お静かに ... ... そして、まず
興奮を鎮めて頂かないことには、お取り次ぎ致しかねますので ... 」
急ぐでも無し。のらりくらり。様子を窺いに行ってみると。
階段の先には、入室を拒まれるクロイツの姿。
「クドいぞ貴様!」
「あなた様こそ。議会の意向に従い決定を委ねてはおりますが、
かと言って旦那様とあなた様の権威が逆転する等といった事は、決して御座いません。
つきましては ... お取り次ぎするにあたり、理解可能なご説明を賜りとう存じます」
カーツェルの口振りからすると、また酷く腹を立てているようだが。
「この ... どうでもいい時ばかり仕事熱心で、熟 、鬱陶しい男だな 、貴様と言う奴は!」
「おやおや、これはこれは ...
夜中に配慮も無く押しかけておいて、どの口がほざく寝言かと思えば。
お察し致しますところ、もしや ... 正気を枕元に置き忘れて御出では?」
部分的に毒を盛っても比較的、真っ当な対応をしている。
彼の言葉を要約すると、こうだ。
寝 言 は 寝 て 言 え と 。
しかし何故、わざわざ間に立って口を挟む必要があるのだろう。
ノシュウェルは疑問に思った。
そうしてクロイツの後ろに立ち、部屋の奥に佇む後ろ姿を覗いてみる。
聴こえているはずだが。
その背に、振り向く気配はない。
改めてカーツェルに目を向けると、違和感が増した。
この男 ... 律儀と言うよりは、過干渉が度を越しているようにも思える。
気にし過ぎだろうか。
一方。矢面に立つ執事は詰り合いの末、投げやりに話を切り詰めた。
「ともあれ、話にならなくては仕方がありませんので。今宵はこれにて ... 」
そしてドアを閉めかける。 ... が。
「 然 う は 烏 賊 の 金 玉 ぁあぁぁぁ!!」
クロイツは素早く足を上げ、力一杯、蹴り込んだ。
〈 ドガァアァァ ... ン !!〉
少年を抱え塞がった手の代わり。
あの細身が繰り出したとは信じがたい威力。
見ていただけだが、堪らず身を竦ませたのはノシュウェル。
彼は思った。
ぇ ... って言うか。 今、何つったの ... ... !?
待てよ。ほら、まず、アレさ。
〈ピ―――〉って伏せ音入れなきゃ拙いでしょ。
意味不明だし。え。何。辞書に載ってる。嘘でしょ。
――― 〈そうは行かぬ〉の〈いか〉に〈烏賊〉を掛け、
そうはいかないということを洒落ていう言葉。
って ... ... マジかよ ... ... !?
彼の部下に一人、情報通がいた模様。
耳打ちされた瞬間、驚いたが。
それを ... ... 知ってても、言う ... ... !?
次には部下と二人で絶句する。
余程、追い詰められているのだなと思った。
「だから! 少年が喋ったと言っている!!
いくら腐り果てた貴様の頭でも、これくらい理解できなくてどうするのだ!?
分かるだろう!! 喋ったのだ!! この! 少年が!!」
いやいやいや... ...
「そもそも、その少年とは以前から対話可能ですが ... どうぞ、お気を確かに ... 」
うん。まぁ、そうだよなぁ ... ...
聞けば聞くほど、腑に落ちない。
呆れるわけだと。
殊更、カーツェルに同情する。
見れば、容赦なく蹴り込まれたドアの角が額に直撃したようで。
真顔執事のおでこから、煙が上がっているようにさえ見えた。
それでも尚、クロイツは食い下がるのだ。
「そうではない!! あの分かり辛い片言ではなく!
まともな言葉を使って話しかけてきたのだ!!」
「 ... はぁ。そうですか」
最早、目を合わせようともしない。
彼の羽織るシャツの両襟を掴んで、揺さぶる監視官は更に。
声を荒らげ、こう続ける。
「いいか! 察しの悪い貴様にも分かるように言ってやるから、よく聞くが良い!
少年は先程、私に、こう言ったのだ!
〈 ... えっと。 クロちゃん、僕ね? シャマのところに、行きたいの。 連れて行ってくれる?〉
と! こぅ... 目を潤わせてだな!!」
ところが、実演してみてようやく気付いたらしいのだ。
ウルウル と ... ... 真剣に真似して見せ、クロイツは ハッ... とする。
衝撃的すぎる上役の奇行。
驚きのあまり全身を ビクリ! と跳ね上がらせたノシュウェルが、居たたまれずに言った。
「さっきから何!? あなたという人が、そこまでする!?」
「煩い!! と言うか貴様!! 何時からそこに居た!?」
そう、クロイツは、完全に我を見失っていたのだ。
赤面、不可避。だが、それで済むなら、まだ救いようはある。
ところがだ。
「いえ、そこは、無理して頂かなくても... 結構ですから ... ... 」
〈クロイツ、まさかの本気〉にドン引きするカーツェルの拒絶感が半端ない。
見ると、こちら側に向けた手のひらを プルプル と小刻みに震わせ、
今にも血反吐をぶち撒けそうな表情で青褪めているのだから。
それには、クロイツの腕の中で眠りかけていた少年もビックリ。
ヒッ ... と、吸い込む息を喉に引っ掛ける。
「 ツ ェ ... .... ツ ェ ... ... ツェル ... ... シ、ヌ ? 」 ((゚д゚||| )) ガクブル
目を丸めて身震いする幼子は、相も変わらず片言だった。
聞いていた者は皆、思う。
これのどこが、まともだと ... ?
カーツェル、ノシュウェル、部屋の奥で背を向けたままのフェレンス。
目の前の男達を順に見て、クロイツはすっかりと肩を落とした。
そ ... そんな馬鹿な... ...
そうして、ゆっくりと少年をその場に下ろし、肩を揺さぶりはじめるのだ。
「お、おい。お前。どうした ... 話が違うではないか ... 」
「 ン? ... ム?」
「お前はやれば出来る子であろう ... 何故、言えぬのだ ... 」
「 ンム 、 ンム ムムムム ゥゥ ... ?」
「おい! しっかりしろ!!」
理由も分からぬ少年は、成すがまま。
だが、遂には目を回してしまったよう。
見兼ねたノシュウェルが止めに入ろうとした時だった。
「しっかりすんのは ... テ メ ー の 方 だ ろ う ――― が !!」
腹に据えかね本音をぶち込むカーツェルが、思い切り蹴り返す。
なのに何故 ... 転がされたのはクロイツではなく ... ノシュウェル。
『嘘 ... ナンデ... 俺 ガ ... コンナ 目 ニ ... ?』
肩口に受けた衝撃で大きく仰け反ったところ、途切れ 々 に脳裏を巡った心の声。
〈 ゴロンゴロン! ドカッ!! 〉
「もおぉおぉおぉぉ!! いい加減にしてくれぇえぇえぇぇ!!」
我慢の限界を迎え、ベッドから跳ね起きた宿主の怒声が、近隣に木霊す夜。
フェレンスは、急拵えの精油水をガーゼに取り、静かに容器を置いて振り向いた。
たっぷりと汲み取った溶液が手首を伝い、袖口に入る間際。
対の手の指先で雫を掬いながら歩み寄る。
そんな主人の気配に気づいて振り向きかけたカーツェルだが。
スッ ... と肩口から差し伸べられた手の行き先へ、意識を持っていかれた。
手首を返すフェレンスの指先は、カーツェルの顔の輪郭をなぞり霊草の香を鼻先に寄せる。
カレンデュラオイルとティートリー、それから、ゼラニウムだろうか。
香る、それらの効力を惟ると。
シャツの裾から滑り込む手。
「 ん ... ... ぁ ... ... 」
カーツェルは息を口に含んだまま、声を殺した。
〈 ピチャリ ... ピチャリ ... ... 〉
耳の奥につく濡れ音が、竦み強張る筋の根元を震わせ。
腰から脇へ ... 背筋を撫でるように上っては下る。
ガーゼを当てる手の爪先が、肌に触れるか触れないか。
身体の芯に線を引かれるような感覚だった。
「殺菌、止血、皮膚の保護に配慮し調液したものだ。
純水で薄め、酒精で馴染ませてある。 多少、滲みるだろうが ... 嫌ではないだろう?」
背後から囁きかけるフェレンス。
艶のある声を耳元で聞いたカーツェルは、顔を伏せて黙り込み。
そのまま部屋の奥へと引き返してしまう。
取り残されたクロイツは目尻を絞り、フェレンスを睨んだ。
「この ... 破廉恥。変態。鬼畜魔導師が ... ... 」
片や相手は何を言われようと気にも留めず。
小首を傾げ口元に笑みを浮かべる。
... ... 確信犯か。
ノシュウェルは思った。
カーツェルに蹴りつけられた肩口を擦り、身体を起こしながら。
機嫌を損ねたカーツェルが大人しく引き下がることは無い。
しかし、だからと言って悪戯に身体を擽り、羞恥心を煽るなぞ ... ...
「それが、〈友〉に対してすることか?」
「さて、何の事だろうか。 私はただ、応用してみただけ」
「応用 ? 」
「そう。幼い頃の彼は、よく小脇を突いて私を誂った。
なので、多少なり悪ふざけに応えやる必要もあろうかと、報復してみたりもした。
すると、思いのほか大人しくなったものだから ... 」
クロイツが腕を組んで聞くに対し、フェレンスは サラリ と返す。
「ああ ... そりゃあ、お前様 ... 」
聞いていたノシュウェルは言った。
「感じちゃったってヤツ ... ... 」
... ... ... ... じゃないのかなぁ。
けれども忽ち、妙な雰囲気が漂い、思わず言葉尻を濁す。
フェレンスからは何もない。
背を向け小瓶の並ぶトレイに布を戻す。
彼は無言だった。
黙っていなかったのは、クロイツの方。
「 ど う し て 貴 様 は ... そう余計な事を言う! この戯けが! 気色悪い!」
先程から蹴られてばかり。
部隊長は既のところを スッス と躱す。
「あぁぁあぁ!! すみません!!すみません!! 許して!!」
また同時に。何処からか漂う冷気に気付いて両者は共に静止。
三人が揃って振り向くと。
部屋の奥の扉が ビシビシ と音を立て凍てついていくのが見えた。
枷の刻印から漏れだした冥府の炎の影響だろう。
これは不味い ... ...
目を回してぐったりしている少年を抱き直したクロイツは、サッ... と立ち返る。
そうして更に。都合の良い話をしながら、その場を後にした。
「さて。いい加減 ... 休むとしよう。
フェレンス。あとは貴様で何とかするんだな。
我々なら兎も角、宿主が凍え死んでは面倒だ」
すると、置き去りにされたノシュウェルを不憫に思い、手を差し出すフェレンス。
心遣いに感動し身体を起こす部隊長は、あえて数歩、引き下がって見せたよう。
顔を上げると、クロイツの肩越しにこちらを覗き込む視線。
幼子は、何かを呟いている。
その声を聞いたのはクロイツだけだった。
「 シャマァ ... シュキィ ... イッショ ... ネルゥ ... 」
寝言になりつつある片言。
長時間の移動による疲れと眠気のせい。
この少年の扱いについて、一存では判断しかねるところ。
当局へフェレンスを引き渡した後、上と掛け合うつもりではあったが。
何はともあれ、帝都に着いてみないことには ... と、そう思う。
「すまぬな ... 先程はうっかりと連れて行ったが。
今はまだ、お前と、あの魔導師を近づけるわけにはいかぬのだ。... 極力な」
自室へと戻ったクロイツは、静かに扉を閉めた。
そして椅子に座り、膝の上に降ろした少年を抱く。
ゆらゆら ... ポンポン ...
身体を左右に振っては、小さな背を優しく叩く。
その動作は、まるで揺り籠。
やがて少年は、すっかりと目を閉じ ... 眠りについた。
一方、その頃。
カーツェルの引き篭もった寝室の手前で扉を見つめる。
霜で覆われたその向こうに気配を感じながらも。
フェレンスは、声を掛けようとしなかった。
彼は、ただ静かに、ランタンの灯りを落とし。
枝葉が梳き降ろす月影の下、椅子に腰掛け瞼を閉じる。
カーツェルの身体に宿る炎は、少年の強烈な魔ノ香による酔いを制しきれていない。
有り余る力を抑えてやることは可能だが。
クロイツに指摘されたばかりである。
友の努めに過分な手出しは出来なかった。
何処からか湧き上がる負の思念と、
それを灼くための蒼火が鬩ぎ合い ... 血を求めて意識を掻き乱す中。
両腕を抱え蹲るカーツェルは、深呼吸を繰り返す。
じっとしているのが精一杯だった。
契約で得た炎によって魔力に餓える。
それくらいの事であれば想定内だが。
まさか ... ...
主人、そして友人でもあるフェレンスや、幼い少年を襲いかねない。
自分自身に対し、恐れを抱くようになるとは思わなかった。
フェレンスは、知っていたのか ... ... ?
〈制約の翠玉碑〉に記されし禁忌。
異端ノ法。
それを施行するための契約に伴う対価。
あいつと一緒に成すべきを成す、そのためなら命を懸けても良い。
そう思ってしたことが、まさか。
カーツェルは思った。
フェレンスは、分け与える事を厭わない。
血を求められたなら、際限なく差し出すだろう。
今夜は傍にいられない。
彼の手首から ... そして首筋から ...
漂う〈魔ノ香〉に過剰反応し意識が飛んでしまわぬよう。
せめて、この身体の疼きが、治まるまでは ... ...
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