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第二章◆霧ノ病
霧ノ病~Ⅲ
しおりを挟むその病を発症した者は、あらゆる欲を失っていく。
精神的なものから、食欲、睡眠欲などといった生理的なものまで。
そして、じわじわと ... ... 心も身体も枯れていくのだ。
『君のお兄さんは、もう何日も眠っていないようだね... 床ずれも目立ってきた。
どうにかしたいと言うのであれば、薬を追加しなければならないが。
それも、まだ効能を受け付ける身体であることが前提だ。
だが実際には使用してみなければ分からないことなのだよ ... ... 』
医学的に霧ノ病を治療しようとする試みは、今なお続けられている。
しかし我々は、錬金術師のように神秘と科学を結ぶことは出来ない。
彼らが神秘に纏わる学識を理解できるのは、ある意味 ... 特殊能力のようなものだからね。
とある医者は言う。
『それでも君は、お兄さんの回復を望んで、私達、医者に縋るというのかい ? 』
もう、何ヶ月も前のことである。
医者から尋ねられ、少女は頷いて答えた。
錬金術師は言う。翠玉碑の洗礼が鍵となり、神秘の扉が開かれるのだと。
つまりは、翠玉碑の洗礼を受けることで覚醒し。
一つの成り立ちを、より細かに、より深く、より広く。
あらゆる角度から読み解くことが可能になるのだそうだ。
目に見えなくても感じる何か。
現せない次元のシステムをすら、彼らは利用することが出来る。
正に、創造主があえて封じた領域の〈知識〉と、
その〈鍵〉が、あの翠玉碑には秘められているのだ。
少女の兄が三ヶ月前から篭もりきりという古家の離れの一室。
ドアの前に立ったフェレンスは、目には見えぬ壁に触れた。
「極僅かな空間の歪みを複数、派生させることで探知を免れたか」
光の粒子を指先で操り、落ちる影と手前に生じた光の屈折によって、それらを認識する。
一つ一つ手早く撫で上げ、手前に引き出しては構造を記文化させ。
印の配列を変えることで修復していきながら、彼は言った。
「帝国の技師たちが結束して創り上げた探査塔を警戒するかのような工作 ...
もしそうなら。自身の状態と敵襲の考察が可能なお前は、三ヶ月もの間、独りで一体何を ... ... 」
解かれた結界が、虹を纏う風となって春野へと吹き込み、やがて消えていく。
ゆっくりと部屋の扉を開くと。
立ち姿に加え、もう一つ床に落ちるシルエット。
一寸先は、まるで別世界だった。
窓からの逆光を背にする人らしき影と、蔓のように部屋中を伝う無数の何か。
目を凝らすと、影が若干、顔を上げたかのように見えた。
その瞬間。
影の視線に瞳を捕らえられたフェレンスの視界が、激しく歪んで暗転していった。
ザワザワと耳の奥で聴こえる。
嘲笑うかのような、何者かの声が ... ...
古美術的な映写機のフィルムに映り込むノイズのように。
脳裏に浮かび上がる、古い記憶。
どす黒く干乾びた血痕をベロベロと音を立てて舐める肉塊。
もとが人であったとは到底、思えぬ。
変異体の様相を目の当たりにした人々の多くが、
グチャグチャと崩れる腐肉と臓器、そして漏れだす排泄物の汚臭に耐え兼ね逃げ出していった。
その場に残るのは、想定した訓練を受けている軍人と、経験からの対策が万全な魔導師や、その助手のみ。
それは、カーツェルが幼きに見た光景である。
白と黒に支配された記憶の断片に映る、一人の少年の姿が忘れられない。
漂う塵が、土煙を切る日差しに細かな影をチラつかせながら、軍人達の肩を掠めて落ちていく。
ゆっくりと ... ゆっくり と... 齣を進める映像の中。
明暗 際立つ世界に、ただ一つだけ異色を添えた銀髪。
彼は、心を奪われた。
『人格を形成する精神の 基 質 が変異することにより、心に穴が空くのです』
『そこに負の概念 ... つまりは悪しき死霊が取り憑くと?』
『いえ。取り憑くと言うよりは、冥府へ落ちて凍き砕かれ、
雪のように降り積もったそれらが穴を通じ、
こちらの世界に雪崩れ込む ... とでも、例えておきましょう』
『人の心に〈冥府の扉〉が生じると言うのか ... 』
幼いカーツェルよりも少しだけ背の高いその少年は、
何人もの兵士が慌ただしく行き交う一角で、陣営の指揮官と向き合う。
『霧ノ病の初期症状は、鬱病のそれと類似しますが、
重度ともなれば感情の麻痺に伴い、関係深い部位の機能障害まで引き起こします。
ですが、その時点ならまだ ... 治癒する手立てはあるのです。
しかし、あらゆる欲を失い枯れ果ててからでは、もう手遅れ』
彼は淡々と述べた。
『その段階まで至ると、もう ... 変異の連鎖が留まることはないので。
魔物化が進行するあいだ、人体機能、
及び人格の全てを書き換えられ、いつしか暴走することに』
するとそこに、補佐を言いつかったと思わしき兵士が駆け込み加わる。
『大佐! つい先頃、一連の捜査と診断に応った錬金学者から報告書が届けられたのですが。
彼、いえ、特務士官殿が仰るとおりの内容です』
二人のやり取りを極力邪魔せぬよう、書類を見ながらの口頭伝達。
だが、その詳細は読み上げようにも理解不能らしく。
沈黙してしまった兵士はダラダラと汗を流しはじめ、次には一息で言葉を切った。
『以上! その他の文書もろもろ、自分の頭では解読できません ! 』
そうして、あっさりと書類をぶん投げ、敬礼。
投げた? 今、投げた ... ?
あまりの潔さに指揮官は唖然とした様子だったが、
物資の上に叩きつけられたそれを手に取った少年を見れば、些か表情をほぐしたかのよう。
無理もない ... と、そう言って。彼は書類に目を通しはじめた。
土に触れそうな丈の紫紺のローブを着込んだ姿で、黙々と紙面を捲っている。
指揮官と同等に扱われている異様さも然ることながら。
帝国政府が未だ対策を議論するに留まるというのに、病の進行段階まで知り得るとは。
一体、何者だろうか ... ...
物陰に身を寄せ、覗き見ながらカーツェルは思った。
ところが、ある時。
読み終えたらしいそれを指揮官に手渡した後。
フードに手をかけ頭に被る彼が、突如こちらを振り向いたので、思わず息を呑む。
穏やかに見据えてくる碧眼。
何もかも見透かされてしまいそうだと、感じるや否や。
頭の中が真っ白になり、カーツェルは言葉を失った。
興味本位の視線には慣れているため、あえて素知らぬふりをしていたらしい少年だったが。
耐え兼ね、尋ねる。
『ところで、大佐。 ... 彼は?』
『ああ、すまない。あれは、その ... ... 私の息子なのだが ... 』
『貴方の?』
『うむ。... 君より、五つか六つほど下だろうと思う』
誠、申し訳ないことに ... と、カーツェルの父である指揮官は続けた。
何処に隠れ潜んでていたものやら、私的なことで文句を言いに忍び込んだらしいとの弁明である。
聞きながら歩み寄る少年。
そんな彼が正面に立って胸を指差してきても、カーツェルは黙ったままだった。
胸元で魔法陣を描き印を記し替える様子さえ、ただ ジッ ... と見つめる。
手のひらに集約したそれを指先で囲い、手首を返すと。
縦横無尽に軸回転する円の中を浮遊する文字が、より一層、輝いて。
結晶化し雪へと変じる雫のように、光を走らせ結ばれていく。
一連の過程をカーツェルに見せてやりがら、少年は微笑んだ。
ところが次の瞬間にはそれを握り込み、小さな胸に向かって一思いに押して宿す。
胸が詰まる感覚に咳き込みながら、よたよたと後ろに下がり胸元を擦っていると。
ふわり、肩に添えられる少年の手。
彼は言った。
『これで、しばらくは悪臭や吐き気を感じずに済む。
... 悪いことは言わない。今すぐここを立ち去りなさい』
朗らかな息遣いと、澄み渡る声が紡ぐ。
『それから ... 時期が訪れるまで、お父上の仕事には関わらないことだ』
それは、いずれ兵役に服すであろう軍人の子への忠告だった。
なのに、どうしてなのか。カーツェルにはそう聞こえなかったのだ。
例えるなら、切なる祈りにも似た囁き。
言われる筋合いなど無いはずが。
反感を抱くどころか、ささくれ立つ上辺を撫でおろされたかのような。
不思議な気分だった。
入れ替わりに兵士達が行き交う黒ノ廃墟へと、立ち返る。
彼の奥ゆかしさは、殺伐とした人々の目を引くが。
それとは逆に、負傷者や怯え鬱ぐ者の目には心強く映る模様。
良くも悪くも聞こえる人々の話し声が、周囲の雑音に入り混じった。
さすがは異端ノ魔導師 ... 平然として歩いて行く ...
先の境界を踏み越えたら、もう、そこは地獄だというのに。
それを聞いて尚更、関心が深まったのだ。
名前くらいは知っておきたいと感じ、カーツェルは尋ねた。
『あいつ ... あの偉そうなチビは、いったい何者なんだ?』
すると、近くにいた兵士がキョロキョロと辺りを見渡し、
自分以外に彼の質問を聞いた者がいないことに気がついて振り返る。
『えぇと ... チビと言うのは、もしかして銀髪の少年のことか?』
『そうだ。こんなむさ苦しい陣営のどこに、あいつ以外のチビがいるってんだ』
『いや ... と言うか ... 』
見比べるまでもなく。お前の方が断然チビなんだけどな ... ...
兵士は口から出かかった言葉を必死に飲み込んだ。
言ったが最後。そんな気がして。
『んん ... 何だ。ほら。 ああ、でも ... どうでもいいか ... 』
ところが身振り手振りは馬鹿正直ときた。
両者を指差した後の手幅が伸び縮みしている様子を見れば、何を言いかけたか分かる。
『お前。今、頭の中で思ったこと ... 大佐の前で言ってみろよ』
『ええぇぇ!? どうしてそうなるんだ!!』
一筋縄では通用しない。ちっちゃな頃からの捻くれ者。
おちびカーツェル。
略してチビツェル。
兵士の間でもちょっとした噂になる御子様なだけあって、
親の七光りも平気で盛り込み、毒突く。
もう余計なことは言わずに答えよう。面倒事は御免こうむる。
兵士はそう思って続けた。
『ええと、だな』
『さっさと答えろ。のろま』
おチビに急っ突かれ、情けなくも涙を呑みつつ。
『聞いたことくらいはあると思うぞ ? つまり、あの方が
彼の有名な亡国の民の子孫。フェレンス様だ』
思えば ... ... あの時、既に確信していた気がする。
町外れの丘を登る道途。
風に波打つ野の向こうに、鉱夫らの社屋と並ぶ白い病舎を眺めながらカーツェルは思い返した。
自分の望みに応えられるのは、神でも、如何なる権力者でもなく。
〈あいつ〉しかいないと。
彼の奇病によって人々の心に空いた穴。
開かれてしまった冥府の扉。
彼は、それを塞ぐ術と根源を断つ方法を知る、唯一の存在と言われていた。
先代より受け継いだ因果から、彼が負ことになった贖罪も承知の上である。
関わるなと言われようが、知ったことではなかった。
連隊ないし、旅団の指揮官と肩を並べる立ち姿。
高貴さの滲み溢れる面持ち。
歳相応とは とても思えぬ、強かな言動。
若かりしは容姿のみではなかろうか。
当時の彼と接した誰もが、そんな考えを抱いたはず。
年端、十に満たなかった幼き日のカーツェルでさえ、
彼を一目見て、利用しない手はない ... ... そう思ったのだ。
それからというもの。
地方で起きる抗争の鎮圧、あるいは魔物討伐と。
任を受け、それに向かう隊列を見かけては彼の姿を探し。
兵士を見守る人々の合間から背伸びするカーツェルは、
それらしい姿を確認するなり付近の店に押し入って、階段を駆け上がって行った。
声の届くうちでなければ ... !
そして、呆然とする店員も余所目に窓を開け放ち、思い切り息を吸って彼の名を呼ぶのだ。
『 フ ェ レ ーー ン ス ! ! 』
片や、名の主はと言うと。
強く言って聞かせたつもりが。
何故だ ... ... と、言わんばかり。
その声に気付いたところで、彼が振り向くことは決して無かったが。
いくら無視されようが、カーツェルが懲りることも、また、決して無く。
ただ、一方的に忘れられることほど屈辱的なものはないので。
とにかく彼の記憶に留まり、渡り合える日を夢見たのだ。
『いつか ... ! いつか俺が昇りつめたら、お前は俺の右腕になるんだ! 忘れるなよ!!』
約束した憶えもないのに、忘れるなとは如何なる了見か。
軍馬に跨がり、揺られながら僅かに項垂れるフェレンス。
そんな様子を眺めながら、思ったものである。
噂に名高い〈異端ノ魔導師〉よ。
お前となら、どんな無茶な願いだって叶えられるに違いない ... と。
狡猾な眼色に底知れぬ野心を宿し。生意気に笑う。
幼き頃のカーツェルは、人々の目にどう映っただろう。
当初は、優秀な手駒として彼を傍に置くことを強く望んでいただけ。
だったはず が ... ...
どうして 々 。
いつの間にこうなった。
カーツェルは、己が勇み足を悔いるかのように、手で額を掴んだ。
頭痛がしてきそうな気配。
主従関係を結ぶ前の〈あいつ〉は自分にとって、ただ利用価値のある人材に過ぎなかった。
なのに ... 今や、彼をはじめとする魔導師の言い分を聞かない医師たちに腹など立てているのだから。
自分自身に呆れてしまうようだった。
町の住人に診療所の場所を尋ねて歩きながら、やり場のない戸惑いを押し殺すのに、
やたらと当たり散らす羽目になったカーツェルだったが、 実のところ、もう疲れたと言うか。
診療所が見えてきた頃には、怒りも戸惑いも何処へやら。
カーツェルは、平静を取り戻していた。
それまで虫の居所が悪かった彼に出くわしてしまった人々こそ、まこと愁傷である。
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