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第九章 恋に先立つ失恋
第十話 鈴宮邸
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鈴宮邸までタクシーで蘭は帰って来た。
日は落ちかかっている。広い庭と池。水面に写るのは薄暗い空だ。白ぬりの小さな洋館に灯るのは、だいだい色の暖かな明かりである。
玄関には母――鈴宮知由が待っていた。
知由と少し言葉を交わし、自分の部屋へ帰る。
自分の部屋であるにも拘わらず、ここへ来るのはゴールデンウィーク以来だ。ベッドも、学習机も、ぬいぐるみも、ピアノも――高校に入るまで蘭を見守ってきた物は、みんなここに置きっぱなしにしてきた。
ここへ帰ってくるのは――長期休暇のときだけだ。
自分の帰るべき場所はどこにあるのだろう。
菊花の姿が頭に浮かんだ。利発そうな表情や、黒い髮に流れた白いリボン、そして菊花と交わした言葉の数々――。その最後にやってくるのは、死んじゃえ、という言葉だった。
死のうか――とも少しだけ思った。
自分の行為は菊花との関係を無残に傷つけた。自分を育ててきたこの部屋はそのことを知らない。ここは、中学を卒業するまでの子供時代の抜けがらという感じがする。しかも、もうしばらくしたら別の場所へ行かなければならないかもしれないのだ。
七時ごろ、夕食時間となったことを召使いが知らせに来た。
廊下を進み、食堂へ這入る。
父と顔を合わせたのはこのときだ。
参議院議員――鈴宮祐介。
黒々した髪を持った神経質な顔立ち――男らしい、それでいて温かみのないこの顔が蘭は苦手だった。性格も顔立ちどおりである。
「お帰りなさいませ、お父様。」
蘭のその言葉に、祐介はうなづく。
「まあ、席に着け。」
言われるがまま、いつも自分が坐っていた席へ着く。
召使が食事を運んできた。
チキンステーキにパンにサラダにスープ。
純銀のナイフとフォークを手に取り、食事を始める。
しばらくは、無言のまま食事が続いた。
「蘭――転校のことについては決心がついたか?」
チキンステーキを切る蘭の手が止まる。
「いえ――まだ。」
知由が口を開く。
「簡単に決められる話ではありませんよ。お友達とも離れ離れにならなければならないのに。」
チキンステーキを見つめながら蘭は応える。
「それに――殿下ともまだお付き合ひするとは決まったわけでは――」
「不満なのか、殿下では?」
いえ――と蘭は言う。
「殿下は魅力的なお方です。けれども、殿下の御内意にしろ、はっきりとはまだ承ってをりません。真希さんとの関係も、まだ完全には終はってをられないのではないのですか?」
祐介は不愉快そうな顔となる。
「尾田の小娘となら別れたことくらゐ知っておらう。」
「えゝ、ですが――」
そこまで言い、何を言うべきか蘭は詰まった。
とりあえず、当たり障りのない言葉を述べる。
「――わたしくも、まだ心の準備が整ってをりませんの。」
「なに、問題はない。お前のことを殿下もお気に召されてをられる。そんなことくらゐ、何度も御目文字かのふてをるお前ならば分かるだらう。」
「――えゝ。」
祐介の顔に、やや陰りが見えた。
「それとも何だ――お前はまだ女にばかり興味を持ってをるのか?」
蘭は首を横に振る。
「いえ――そのやうなものはもう卒業いたしました。」
「さうだらう? それならば――女学院にゐる必要ももうないな。」
蘭は肩を落とす。
「――えゝ。」
「ともかくも――女ばかりの空間にゐてばかりではいかん。お前の年頃ともなれば、普通は男の一人や二人とも付き合ふものだ。それとも――何だ? 好きな男でもをるのか?」
「いゝえ。」
言ったあと、少し不味かったかとも思った。
いっそ、好きな男がいるとでも言ってしまえばよかっただろうか。そうなれば、「彼」とつきあう気がないとも言えたはずだ。
「ともかくも――誕生会は土曜日だ。それまでに決心しておけ。」
「はい。」
「理由がないのであれば――転校すべきだな。」
蘭はついに黙り込んだ。
日は落ちかかっている。広い庭と池。水面に写るのは薄暗い空だ。白ぬりの小さな洋館に灯るのは、だいだい色の暖かな明かりである。
玄関には母――鈴宮知由が待っていた。
知由と少し言葉を交わし、自分の部屋へ帰る。
自分の部屋であるにも拘わらず、ここへ来るのはゴールデンウィーク以来だ。ベッドも、学習机も、ぬいぐるみも、ピアノも――高校に入るまで蘭を見守ってきた物は、みんなここに置きっぱなしにしてきた。
ここへ帰ってくるのは――長期休暇のときだけだ。
自分の帰るべき場所はどこにあるのだろう。
菊花の姿が頭に浮かんだ。利発そうな表情や、黒い髮に流れた白いリボン、そして菊花と交わした言葉の数々――。その最後にやってくるのは、死んじゃえ、という言葉だった。
死のうか――とも少しだけ思った。
自分の行為は菊花との関係を無残に傷つけた。自分を育ててきたこの部屋はそのことを知らない。ここは、中学を卒業するまでの子供時代の抜けがらという感じがする。しかも、もうしばらくしたら別の場所へ行かなければならないかもしれないのだ。
七時ごろ、夕食時間となったことを召使いが知らせに来た。
廊下を進み、食堂へ這入る。
父と顔を合わせたのはこのときだ。
参議院議員――鈴宮祐介。
黒々した髪を持った神経質な顔立ち――男らしい、それでいて温かみのないこの顔が蘭は苦手だった。性格も顔立ちどおりである。
「お帰りなさいませ、お父様。」
蘭のその言葉に、祐介はうなづく。
「まあ、席に着け。」
言われるがまま、いつも自分が坐っていた席へ着く。
召使が食事を運んできた。
チキンステーキにパンにサラダにスープ。
純銀のナイフとフォークを手に取り、食事を始める。
しばらくは、無言のまま食事が続いた。
「蘭――転校のことについては決心がついたか?」
チキンステーキを切る蘭の手が止まる。
「いえ――まだ。」
知由が口を開く。
「簡単に決められる話ではありませんよ。お友達とも離れ離れにならなければならないのに。」
チキンステーキを見つめながら蘭は応える。
「それに――殿下ともまだお付き合ひするとは決まったわけでは――」
「不満なのか、殿下では?」
いえ――と蘭は言う。
「殿下は魅力的なお方です。けれども、殿下の御内意にしろ、はっきりとはまだ承ってをりません。真希さんとの関係も、まだ完全には終はってをられないのではないのですか?」
祐介は不愉快そうな顔となる。
「尾田の小娘となら別れたことくらゐ知っておらう。」
「えゝ、ですが――」
そこまで言い、何を言うべきか蘭は詰まった。
とりあえず、当たり障りのない言葉を述べる。
「――わたしくも、まだ心の準備が整ってをりませんの。」
「なに、問題はない。お前のことを殿下もお気に召されてをられる。そんなことくらゐ、何度も御目文字かのふてをるお前ならば分かるだらう。」
「――えゝ。」
祐介の顔に、やや陰りが見えた。
「それとも何だ――お前はまだ女にばかり興味を持ってをるのか?」
蘭は首を横に振る。
「いえ――そのやうなものはもう卒業いたしました。」
「さうだらう? それならば――女学院にゐる必要ももうないな。」
蘭は肩を落とす。
「――えゝ。」
「ともかくも――女ばかりの空間にゐてばかりではいかん。お前の年頃ともなれば、普通は男の一人や二人とも付き合ふものだ。それとも――何だ? 好きな男でもをるのか?」
「いゝえ。」
言ったあと、少し不味かったかとも思った。
いっそ、好きな男がいるとでも言ってしまえばよかっただろうか。そうなれば、「彼」とつきあう気がないとも言えたはずだ。
「ともかくも――誕生会は土曜日だ。それまでに決心しておけ。」
「はい。」
「理由がないのであれば――転校すべきだな。」
蘭はついに黙り込んだ。
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