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第九章 恋に先立つ失恋
第七話 それぞれの夜
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夕食の時間、食堂に一冴の姿はなかった。
菊花は暗澹とした気持ちとなる。自分は蘭に何も言っていない――しかし原因は作ってしまった。一冴の心情を察すると、食事も喉を通らない。
紅子は困惑した顔をしている。
「なあ――同志梨恵、いちごちゃんは?」
「うーん。――なんか、色々と難しいみたい。ご飯も食べられんって。」
肩身がせまくなった。
大丈夫なのか――と紅子は言う。
「なんか、昼間から元気がなさそうだったが。」
「よう分からん。話してくれんだが。」
「そうか。」
うなづき、紅子は菊花へ顔を向ける。
「菊花は、何か知ってるか?」
食事を摂る手が止まった。
涙が出そうになるとき、胸から何かが上がってくる感覚がある。それが今やってきて、言葉でさえ上手くは出ないのだ。
ややあって、分からない、とだけ答える。
「――そうか。」
*
三人の席から少し離れた場所――二年生の席で蘭は食事を摂っていた。
菊花からほほを叩かれたときの痛みと、死ねという言葉が胸に刺さっている。自分の行ないを今さらながら後悔した。
菊花が教えたと言ったのは、最初は、一冴に動揺を与えるためだった。だが、やがてそれは薄汚れた心へと変わった――菊花と一冴の関係が破綻してくれたならばという願望へと。
他人から望まれる姿を自分は常にふるまっている。しかし、誰よりも薄汚れた心がその裏側にはあるのだ。それどころか、一冴の前で露わにした感情は、自分でさえ無自覚なものであった。
自分はこんな人間だったのかと、今さらながら恥ずかしくなる。
隣から彩芽が声をかける。
「蘭、どうしたの? 元気ないよ?」
その言葉で、箸が止まっていたことに蘭は気づいた。
「いえ――何でもありません。」
やや冷めたご飯を口に運ぶ。
そして、先週から父から言われていたことを思い出した。
菊花と顔を合わせることが少し辛い――それは、自分の失敗を見せつけられることと同じなのだから。菊花との関係は修繕できないのかもしれない。たとえ逃避であっても、少しだけ時間が欲しい。
なぜ自分はこんなふうに生まれたのだろう。普通、女性は男性を愛する。そうでないなら、なぜ月に一度、自分の腹部は痛むのか。この性質は本当に変わらないのだろうか。
頭に浮かぶのは、一人の男の顔だ。
人としての魅力を彼は全て持っている。
――あの方ならば、ひょっとして愛せるのだろうか。
どうあれ、菊花から与えられた痛みは消えない。
食事を終え、トレーを返却すると、厨房にいる朝美へと蘭は声をかけた。
「あの、朝美先生――少しよろしいでせうか?」
朝美は首をかしげた。
*
ベッドに横たわったまま一冴は何もできなかった。
午後の授業でさえもよく受けられたと思う。寮に帰って来てからは、ずっとベッドの中にいる。蘭を想い続けてきた三年間のことや、菊花から女装の指導を受けたこと、この学校での日々のことが思い浮かんでは消えた。
蘭へ捧げた時間は全て無駄だった。いや、どれだけ時間をかけようとも、どれだけ苦労しようとも、自分は女の格好をした男だ。こんな存在を蘭が愛するわけがない。――分かっていたはずではないか。
食事の時間が終わり、梨恵が部屋に現れる。
「いちごちゃん、元気出した?」
一冴は顔を上げられない。
ただ、小さな声で、うん、とだけ答える。
元気が戻っていないことに梨恵は気づいたようだ。
「とりあえず、今日のお風呂掃除当番は他の人に代わってもらうけえ――。その代わり、明後日は別の人にやってもらうけぇな? それでええ?」
途端に申し訳なさを感じた。
しかし、何の気力も湧かず、うん、と再びつぶやく。
この部屋にも監視カメラがある以上、梨恵にも今は相談できない。
菊花は暗澹とした気持ちとなる。自分は蘭に何も言っていない――しかし原因は作ってしまった。一冴の心情を察すると、食事も喉を通らない。
紅子は困惑した顔をしている。
「なあ――同志梨恵、いちごちゃんは?」
「うーん。――なんか、色々と難しいみたい。ご飯も食べられんって。」
肩身がせまくなった。
大丈夫なのか――と紅子は言う。
「なんか、昼間から元気がなさそうだったが。」
「よう分からん。話してくれんだが。」
「そうか。」
うなづき、紅子は菊花へ顔を向ける。
「菊花は、何か知ってるか?」
食事を摂る手が止まった。
涙が出そうになるとき、胸から何かが上がってくる感覚がある。それが今やってきて、言葉でさえ上手くは出ないのだ。
ややあって、分からない、とだけ答える。
「――そうか。」
*
三人の席から少し離れた場所――二年生の席で蘭は食事を摂っていた。
菊花からほほを叩かれたときの痛みと、死ねという言葉が胸に刺さっている。自分の行ないを今さらながら後悔した。
菊花が教えたと言ったのは、最初は、一冴に動揺を与えるためだった。だが、やがてそれは薄汚れた心へと変わった――菊花と一冴の関係が破綻してくれたならばという願望へと。
他人から望まれる姿を自分は常にふるまっている。しかし、誰よりも薄汚れた心がその裏側にはあるのだ。それどころか、一冴の前で露わにした感情は、自分でさえ無自覚なものであった。
自分はこんな人間だったのかと、今さらながら恥ずかしくなる。
隣から彩芽が声をかける。
「蘭、どうしたの? 元気ないよ?」
その言葉で、箸が止まっていたことに蘭は気づいた。
「いえ――何でもありません。」
やや冷めたご飯を口に運ぶ。
そして、先週から父から言われていたことを思い出した。
菊花と顔を合わせることが少し辛い――それは、自分の失敗を見せつけられることと同じなのだから。菊花との関係は修繕できないのかもしれない。たとえ逃避であっても、少しだけ時間が欲しい。
なぜ自分はこんなふうに生まれたのだろう。普通、女性は男性を愛する。そうでないなら、なぜ月に一度、自分の腹部は痛むのか。この性質は本当に変わらないのだろうか。
頭に浮かぶのは、一人の男の顔だ。
人としての魅力を彼は全て持っている。
――あの方ならば、ひょっとして愛せるのだろうか。
どうあれ、菊花から与えられた痛みは消えない。
食事を終え、トレーを返却すると、厨房にいる朝美へと蘭は声をかけた。
「あの、朝美先生――少しよろしいでせうか?」
朝美は首をかしげた。
*
ベッドに横たわったまま一冴は何もできなかった。
午後の授業でさえもよく受けられたと思う。寮に帰って来てからは、ずっとベッドの中にいる。蘭を想い続けてきた三年間のことや、菊花から女装の指導を受けたこと、この学校での日々のことが思い浮かんでは消えた。
蘭へ捧げた時間は全て無駄だった。いや、どれだけ時間をかけようとも、どれだけ苦労しようとも、自分は女の格好をした男だ。こんな存在を蘭が愛するわけがない。――分かっていたはずではないか。
食事の時間が終わり、梨恵が部屋に現れる。
「いちごちゃん、元気出した?」
一冴は顔を上げられない。
ただ、小さな声で、うん、とだけ答える。
元気が戻っていないことに梨恵は気づいたようだ。
「とりあえず、今日のお風呂掃除当番は他の人に代わってもらうけえ――。その代わり、明後日は別の人にやってもらうけぇな? それでええ?」
途端に申し訳なさを感じた。
しかし、何の気力も湧かず、うん、と再びつぶやく。
この部屋にも監視カメラがある以上、梨恵にも今は相談できない。
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