神送りの夜

千石杏香

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第九章 小雪

3 サイレンの鳴る朝

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奇妙な夢から目を覚ましたのは冬樹も同じだった。

スマートフォンを止め、自分が誰であるかを冬樹は思い出す。瞼は重い。かすんだ頭の中、今まで見ていたものについて考えた。不幸な夢だった気もすれば、幸福な夢だった気もする。しかし、誰かになっていたはずなのだ――そんな夢は今まで見たことがない。

身体がだるい。しかし、変わったことが起きたわけではないようだ。ただ――薬の効果がまだ出ていないだけだろう。

尿意を覚え、部屋を出る。

板張りの床は氷のように冷たい。刺すような冷たさが足の裏から貫いてきている。

一階へと降り、手洗いに這入った。

異変に気づいたのは、下着の中へ手を入れたときだ。

指先に触れた感触が、いつもと違っていた。それが何か確認するため、下着を下ろす。そして、自分の陰嚢を指で押し拡げた。

睾丸が一つなくなっている。

そのままの姿勢でしばらく動けなかった。

耳が聞こえなくなったときもショックだった。しかし、このとき受けた感覚は、それとは比べることができない。壁に肘を突き、額を手で覆う。臓器ならば他にあるはずだ。それなのに、よりによってこんな処が奪われた。

――ふざけんなよ、おい。

じきに、子孫を残せなくなるのではないか。

朝、起きるたびに廃人へ近づいてゆく。自分の一部が次々と奪われてゆくのだ。まるで、供犠くぎにされているようだった。ただし、供犠とは少し違うことも分かる。

触れるな――という警告のはずだ。

御忌の夜に外へ出てはならない――そのことと同様の禁忌に自分は触れている。だから報いを受けたのだ。

――けれどもなぜ?

なぜ、神社が消えた理由を探ろうとすることが、御忌の夜に外へ出ることと同じ禁忌なのか。また、かつて神送りの夜に外へ出た高校生と同じように自分が死なないのはなぜなのか。

不安を刺激するように、救急車輛のサイレン音が遠くから聞こえてきた。

手洗いから出て、顔を洗い、制服へと着替える。自分に何が起きたか誰にも打ち明けられない。どんなショックを受けても、いつも通り振る舞うしかないのだ。

朝食を摂り、家から出る。

その日は風が強かった。ごうごうと冷たい風の吹くなか、潮騒の立てる低い音が遠くから聞こえてくる。複雑に曲がり、上下する道を自転車で進んだ。生殖器を失ったショックから、どこか遠くに心はある。一方、この原因に対する疑問も浮かんでいた。

――寺田直美は、今も生きてるのか?

異変に気付いたのは、平坂に這入って少し経った頃だ。

普段ならば、通学・通勤以外で中通りに人はない。しかし今日は、何人もの老人や主婦達が行き交い、不安そうに言葉を交わしている。

救急車輛のサイレン音を思い出した。

――また何かあったのか?

平坂3区に差し掛かったとき、人だかりは急に増した。そのことに危機感を覚える。どれだけ身体を奪われても退く気にはなれない――それは、ひとえに一人の存在が大きいためだった。

美邦の家がどこにあるか冬樹は知らない。だが、平坂3区と言っていなかったか。

やがて人だかりが道をふさいだ。その向こうでは、パトカーが紅い光を散らしている。

――大原さんが。

人だかりに阻まれ、自転車から降りる。パトカーの向こうに黄色いテープが見えた。人だかりを迂回して進もうとしたとき、ふと一人の女と目が合う。彼女の前で止まり、冬樹は尋ねた。

「すみません――いったい何が起きたんですか?」

顔をしかめて彼女は応えた。

「さあ――。なんか、首つりがあったみたいだで?」

「首つり?」白い息が震える。「それは――どんな人が?」

「男の人みたい。電柱からぶら下がっとったとか。どうあれ、この分じゃ助かっとらんわな。」

男の人――という言葉に安心した。美邦ではないらしい。

だが、それも束の間だった。どうあれ誰かが死んだ――いったい誰が。美邦の家人である可能性もあったし、もっと考えられる可能性もある。実際、先週から顔が蒼くなっていたのだから。

自分は――魔よけの方法を探すよう頼まれたはずではないのか。

しかし、具体的な解決案は何も出せなかった。知識がなかったためだ。民間の習俗が役に立つか疑問だったし、呪術や呪文といったものには疎い。たとえ知っていたとしても、本当に役に立つのかは端から疑問に感じていた。

――どれだけ知識を溜めても役に立ってない。

遅刻しそうに感じたので、ひとまず学校へ向かう。

自転車を走らせつつ、唇の裏をずっと噛んでいた。

学校に着くと、何人かの生徒たちが視線を向けてきた。最近は、美邦ばかりではなく冬樹にも視線は向く。それが――見知った教師が美邦の家の前で死んだのだ。そうなれば、美邦への風当たりはさらに強くなるに違いない。

――大原さんは何もしとらんはずだに。

教室に這入ると、石油の香ばしい匂いがした。見れば、ストーヴが出ていて何人かの男子らが当たっている。灯油当番が学活で決められたのは先週のことだった。

クラスメイトの視線が刺さるなか、学習連絡帳を置き、ロッカーに鞄を仕舞う。教室背後の黒板には、週末に行なわれる期末テストの日程が出ていた。

教室を見回す。当然ながら、美邦は来ていない。一方、読書に集中する芳賀の姿が目に入る。ここ二週間ほど、あまり口をきいていなかった。しかし、以前と同じように話しかけることに問題はないはずだ。

芳賀の席に近づき、冬樹は問う。

「なあ――芳賀。」

芳賀は本から目を離さなかった。

「平坂の方で何か起きとったみたいだけど――お前なにか知らんか?」

このときになり、中性的な顔がようやく冬樹を向く。

「知るわけないが――僕は上里のほうから来とるにぃ。むしろ、藤村君の方こそ何か知っとるでない?」

「ああ――まあ、それか。」

棘のある口調だが、一応は言う通りだ。

「平坂3区あたりに警察が来とった。大原さんの家の近くみたいだったけん、心配になっただけど。通りすがりの人に訊いてみたら、男の人が首を吊っとっただかで――」

途端に、煙たそうな表情が現れる。

「ええ加減にしないな――。僕――あの人と関わりたくないにぃ。そんなに気になるんなら、大原さんが登校して来たときにでも訊いてみたらええがん。」

それきり、本へと再び目を向けてしまった。もはや、何かを応えてくれそうな雰囲気ではない。

言葉のやり場を失い、そっと冬樹は離れる。

自分の席に着き、隣の空席が気にかかった。冬樹が登校しなかったとき、同じ気持ちを美邦は抱いたに違いない。今日は、何もかも逆になっている。

予鈴が鳴り、教室に鳩村が現れた。見るからに殺気立った顔だ。教壇に着くと、疲れているとも苛立っているとも取れる声で告げた。

「知っている人もいるかとは思いますが、築島先生は、諸事情で学校へ来られません。詳しいことは後日、改めて説明があります。それまで、できるだけ落ち着いた行動を心掛けるようにしましょう。くれぐれも、根も葉もない流言を立て、騒ぎを起こさないように。」

築島の名前を聞き、目の前が暗くなった。神社のことへと巻き込んだ後悔がせり上がる。

「はい――先生ぇ!」

妙に明るい声と共に手を挙げ、笹倉が立ち上がった。

「築島先生が、大原さんの家の前で首を吊って死んだって本当ですか?」

誰もが、ぎょっとした顔をする。窓硝子が、強風に煽られてガタガタと鳴った。教室内が急激に冷える。鳩村の顔がますます険しくなった。

「そのように考えてしまう気持ちも分かりますが、まだ何も分かっていない状態ですので、身勝手な言動は控えて下さい。」

「けれども登校中に見たって人がいます!」

愉しんでいることを笹倉は隠そうとしない。

「大原さんが来てから、この町やクラスで変なことばかり起きています。それについて藤村君も何か知っているはずなのに、知らん顔してます!」

ちらりと、笹倉は冬樹を振り返った。背筋が冷えたのは言うまでもない。だが――その一瞬、笹倉の顔が青白く変わっていることに気づいた。由香や築島――そして自分のように。当人の認識を歪ませてきた何かが始まったのだ。

苛々した様子で鳩村は言う。

「黙りなさい。今はそういうことを話す時間ではありません。」

教室中の注目を集めたまま笹倉は続けた。

「大原さんが、築島先生の頸を締めて殺したというのは本当でしょうか? 大原さんと藤村君は、最近何だか築島先生と何かを話している様子でした。これは私の想像ですが、思うに――」

「黙れ!」

一喝され、さすがの笹倉も黙り込む。

鳩村は――怒鳴り終えたあともふるふると頬を震わせていた。

「坐りなさい。」

笹倉が着席したあと、打って変わって冷静に鳩村は点呼を採り始める。

やがて冬樹は察した。

――あの夢は。

目には見えなくとも間違いなくいる存在がここにも迫っている。
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