神送りの夜

千石杏香

文字の大きさ
上 下
72 / 104
第八章 遺跡

5 消えた幻視

しおりを挟む
いつもと違う夢を見ていた。

夢の中で、美邦は二十代後半ほどの女性だった。神社の中のような飾り気のない建物で、布団に身を横たえている。しかもそのとき、死を迎えようとしていた。

この時代としては、平均をやや下回る寿命を迎えようとしていたに過ぎない。美邦の横たわる粗末な布団でさえ、非常に高級な物だった。

自分は――共同体の指導者なのだ。自身に神を下ろし、稲の実り具合を祈り、豊漁を願うのが仕事だった。

夢の中で美邦は死んだ。その一瞬、海の向こうへと飛んだような気もする。しかし生を終え、目を閉じた次の瞬間――再び目を開けていた。

明るくなりつつある障子が目に入る。同時に、夢を見ていたことを知った。ここは自室のベッドで、自分は目を覚ましたのだ。

布団の中で身体を丸め、物思いにふけった。

――「妹」になった夢とは違う。

それでいて、どこか懐かしい感触がした。

――私は私自身で何かを決めていた。

スマートフォンのアラームが鳴る。

アラームを止め、布団から起き上がった。

冷たさに身体が震える。

ひとまず机へ向かい、ノートを開いた。夢の内容を軽く書き留める。そんなさなか、いつもと違う物音が階下から聞こえてきた。

メモを終え、髪を結う。

自室を出て、冷たい階段を踏んだ。いつもと違う物音が大きくなる。どうやら玄関から聞こえているようだ。同時に、かすかな腐臭を嗅ぎ取る。

胸騒ぎを覚えた。

階段を下り切ったところで玄関が目に入る。乱暴な手つきで詠歌がドアを洗っていた。激怒していることは明らかだ。何が起きたかは分からない。それでも、怒りが美邦へ向かうことがまた起きたのだ。

肝の冷える思いで居間へ向かう。

台所には、いつもより早く起きた啓の姿があった。トースターでパンが焼けるのを待っている。

「おはよう――美邦ちゃん。」

「おはようございます。」

「叔母さんなあ――今、殺気立っとるみたいだけん。朝ごはんは、トーストでも焼いて食べてって言っとったわ。」

足元へ目を落とし、そうですか、とつぶやく。

「叔母さん、どうされたんですか?」

「ああ。」啓の顔に困惑が浮かんだ。「郵便受けに――生ごみが入れられとったらしくってな。」

身を退き、目を上げる。

「――生ごみ?」

かすかに漂っていた腐臭の意味に気づいた。

性質たちの悪い悪戯いたずらだな。しばらくは構わんほうがええで。」

会話はそこで絶えた。

性質が悪い――では済まされない。また、悪戯とも考えられなかった。先週の落書きと同じように、美邦に対する攻撃ではないのか。

洗面所へ行き、顔を洗う。

タオルで顔を拭く前、鏡の中に目が留まった。鉛色に濁った左眼が朝陽に輝いている。左右で色の違う瞳は、美邦の心に深い傷を負わせてきた。同時に、自分が自分である証でもあるのだ。

歯磨きを終え、洗面所を出た。

入れ替わりに千秋が来る。郵便受けを洗う音の響くなか、美邦と全く同じように怯えた顔をしていた。

「おはよう。」

千秋は顔をそむける。

「うん。」

そして、美邦を避けるように洗面所へ這入っていった。

軽く傷つきつつも台所へ向かう。

啓と同じようにパンを焼いた。

簡単すぎる朝食を済ませたのと、詠歌が現れたのはほぼ同時だ。叔母と姪は視線さえ合わそうとしない。美邦は皿を持って立ち上がる。よそよそしい速さで流し台へ向かい――そして目が留まった。

朱い苔が流しについている。最近は掃除が行き届いていない。

一方、ぼんやりしている自分にも気づいた。

――食器は片付けないのがこの家のルールなのに。

皿を置き、誰に言うでもなく呟く。

「日直なので――お先に失礼します。」

啓だけが、いつもと変わりない様子で応えた。

「うん――行ってらっしゃい。気を付けて。」

黙って台所を出る。日直があるというのは噓だった。どんな顔を千秋がしているのか分からない。しかし、しばらくは一緒に登校しないだろう。

自室から鞄を取り、家を出る。

紅い布のなびく路地を進み、中通りへ出た。小中学生がまばらに登校している。それに紛れて人影が浮かんだ。遠目にはリアルでも、近づけば透けて消えてしまう。

やがて異変に気づいた。

古かった家が更地にされていたり、ひとけのあった家が廃屋になったりしている。

平坂の事故跡地に差し掛かったとき、特に大きな変化を感じた。いつもは見える大破した車がない。花屋は、青い天幕の張り出した廃屋となっている。

―― Gooŋle Eɑrth で見た風景と同じ。

天幕の下を覗いてみる。濁った水の溜まる水槽と空の植木鉢が積まれていた。先日まで店頭を満たしていた花は一輪もない。

変化は花屋だけでなかった。斜め前で営業していたはずの電器屋にもシャッターが下りている。

様々な場所を観察しながら、ゆっくり登校していった。店が消え、家が消え、舗装されていなかった空き地が舗装されて駐車場となっていた。

鞘川に差し掛かる。

橋には、先日まではなかった補修の跡があった。その先の煙草屋は崩れかけの廃屋となっている。危険なためか、三角コーンが手前に竝んでいた。当然、琺瑯ホーロー看板もない。

いつもと違う光景の中を進む。伊吹で見る事故車も、消し炭となった家も今日はなかった。

丁字路まで来たとき、美邦の隣に自転車が止まる。

「おはよ――大原さん。」

振り返ると冬樹が立っていた。

「うん――おはよ。」

ふと、冬樹は怪訝な顔となる。

「今日、やけに遅いでない? 何かあったん?」

いや――と言い、美邦は戸惑った。何から説明したらいいか分からない。やがて、ぽつりとこう呟く。

「幻視が――消えてたの。」

     *

その日の一時間目はホームルームだった。

投票箱のような物を手にした岩井が教室の前に向かう。美邦は、その箱になぜか見覚えがある気がした。あのような段ボール箱ではない。しかし、ちょうどあれくらいの大きさで、あのような形をした箱がなかったか。

教壇に箱を置き、岩井は言う。

「それでは――二学期も半分になりましたので、席替えを行ないたいと思います。」上下に箱を振った。「これは私が作ってきたくじ引きのための箱です。」

――自分で作ったんだ。

妙なところで岩井は生真面目だ。

前方の席から籤箱が回されてゆく。

そのあいだ、机の配置を岩井は黒板に書いた。

A組の人数は三十人である。机は、二つずつ密接して竝ぶ――縦に三組・横に五列。岩井は、縦の列をアルファベットで、横の列を数字で黒板に記した。

やがて、美邦に籤箱が回ってくる。

――妙な人と隣にならなければいいけど。

そう思いながら籤箱に手を入れた。

美邦の引き当てた紙には、「B5」と書かれていた。つまり今と変わりない。変化がないことに少し落胆してしまう。

籤箱が教室を一周した。最後に残った籤を岩井が引き、席替えが始まる。当然、美邦だけは机を動かさなくていい。周囲が移動するなか、自分だけじっとしているのは肩身が狭かった。

やがて、机を持った冬樹が美邦の隣に来る。

驚いたような顔を冬樹は向けた。

「大原さん――席、変わらなんだん?」

「うん――。Bの5なのだから。」

「俺――Aの5。」

かつて由香のいた場所に冬樹が来ていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

だんだんおかしくなった姉の話

暗黒神ゼブラ
ホラー
弟が死んだことでおかしくなった姉の話

すべて実話

さつきのいろどり
ホラー
タイトル通り全て実話のホラー体験です。 友人から聞いたものや著者本人の実体験を書かせていただきます。 長編として登録していますが、短編をいつくか載せていこうと思っていますので、追加配信しましたら覗きに来て下さいね^^*

【短編】露出は黙して、饒舌に語らせる

常に移動する点P
ホラー
老夫婦殺害の容疑で逮捕された関谷は、黙秘を貫いていた。取調にあたっていた担当刑事の桂は、上司から本件をQ課に任せるよう命じられた。 本館と別棟にあるQ課、出迎えたのは露出という男。桂と同世代のひょろっとした優男は、容疑者関谷の犯行をどうやって立証するのか? その取調室で行われた、露出の自白の方法とは。 そして、Q課・露出が企む本当の目的とは? といった、密室型のホラーミステリーです。

意味が分かると怖い話 完全オリジナル

何者
ホラー
解けるかなこの謎ミステリーホラー

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

意味がわかると怖い話

井見虎和
ホラー
意味がわかると怖い話 答えは下の方にあります。 あくまで私が考えた答えで、別の考え方があれば感想でどうぞ。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

淫らに、咲き乱れる

あるまん
恋愛
軽蔑してた、筈なのに。

処理中です...