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第八章 遺跡
5 消えた幻視
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いつもと違う夢を見ていた。
夢の中で、美邦は二十代後半ほどの女性だった。神社の中のような飾り気のない建物で、布団に身を横たえている。しかもそのとき、死を迎えようとしていた。
この時代としては、平均をやや下回る寿命を迎えようとしていたに過ぎない。美邦の横たわる粗末な布団でさえ、非常に高級な物だった。
自分は――共同体の指導者なのだ。自身に神を下ろし、稲の実り具合を祈り、豊漁を願うのが仕事だった。
夢の中で美邦は死んだ。その一瞬、海の向こうへと飛んだような気もする。しかし生を終え、目を閉じた次の瞬間――再び目を開けていた。
明るくなりつつある障子が目に入る。同時に、夢を見ていたことを知った。ここは自室のベッドで、自分は目を覚ましたのだ。
布団の中で身体を丸め、物思いにふけった。
――「妹」になった夢とは違う。
それでいて、どこか懐かしい感触がした。
――私は私自身で何かを決めていた。
スマートフォンのアラームが鳴る。
アラームを止め、布団から起き上がった。
冷たさに身体が震える。
ひとまず机へ向かい、ノートを開いた。夢の内容を軽く書き留める。そんなさなか、いつもと違う物音が階下から聞こえてきた。
メモを終え、髪を結う。
自室を出て、冷たい階段を踏んだ。いつもと違う物音が大きくなる。どうやら玄関から聞こえているようだ。同時に、かすかな腐臭を嗅ぎ取る。
胸騒ぎを覚えた。
階段を下り切ったところで玄関が目に入る。乱暴な手つきで詠歌がドアを洗っていた。激怒していることは明らかだ。何が起きたかは分からない。それでも、怒りが美邦へ向かうことがまた起きたのだ。
肝の冷える思いで居間へ向かう。
台所には、いつもより早く起きた啓の姿があった。トースターでパンが焼けるのを待っている。
「おはよう――美邦ちゃん。」
「おはようございます。」
「叔母さんなあ――今、殺気立っとるみたいだけん。朝ごはんは、トーストでも焼いて食べてって言っとったわ。」
足元へ目を落とし、そうですか、とつぶやく。
「叔母さん、どうされたんですか?」
「ああ。」啓の顔に困惑が浮かんだ。「郵便受けに――生ごみが入れられとったらしくってな。」
身を退き、目を上げる。
「――生ごみ?」
かすかに漂っていた腐臭の意味に気づいた。
「性質の悪い悪戯だな。しばらくは構わんほうがええで。」
会話はそこで絶えた。
性質が悪い――では済まされない。また、悪戯とも考えられなかった。先週の落書きと同じように、美邦に対する攻撃ではないのか。
洗面所へ行き、顔を洗う。
タオルで顔を拭く前、鏡の中に目が留まった。鉛色に濁った左眼が朝陽に輝いている。左右で色の違う瞳は、美邦の心に深い傷を負わせてきた。同時に、自分が自分である証でもあるのだ。
歯磨きを終え、洗面所を出た。
入れ替わりに千秋が来る。郵便受けを洗う音の響くなか、美邦と全く同じように怯えた顔をしていた。
「おはよう。」
千秋は顔をそむける。
「うん。」
そして、美邦を避けるように洗面所へ這入っていった。
軽く傷つきつつも台所へ向かう。
啓と同じようにパンを焼いた。
簡単すぎる朝食を済ませたのと、詠歌が現れたのはほぼ同時だ。叔母と姪は視線さえ合わそうとしない。美邦は皿を持って立ち上がる。よそよそしい速さで流し台へ向かい――そして目が留まった。
朱い苔が流しについている。最近は掃除が行き届いていない。
一方、ぼんやりしている自分にも気づいた。
――食器は片付けないのがこの家のルールなのに。
皿を置き、誰に言うでもなく呟く。
「日直なので――お先に失礼します。」
啓だけが、いつもと変わりない様子で応えた。
「うん――行ってらっしゃい。気を付けて。」
黙って台所を出る。日直があるというのは噓だった。どんな顔を千秋がしているのか分からない。しかし、しばらくは一緒に登校しないだろう。
自室から鞄を取り、家を出る。
紅い布のなびく路地を進み、中通りへ出た。小中学生がまばらに登校している。それに紛れて人影が浮かんだ。遠目にはリアルでも、近づけば透けて消えてしまう。
やがて異変に気づいた。
古かった家が更地にされていたり、ひとけのあった家が廃屋になったりしている。
平坂の事故跡地に差し掛かったとき、特に大きな変化を感じた。いつもは見える大破した車がない。花屋は、青い天幕の張り出した廃屋となっている。
―― Gooŋle Eɑrth で見た風景と同じ。
天幕の下を覗いてみる。濁った水の溜まる水槽と空の植木鉢が積まれていた。先日まで店頭を満たしていた花は一輪もない。
変化は花屋だけでなかった。斜め前で営業していたはずの電器屋にもシャッターが下りている。
様々な場所を観察しながら、ゆっくり登校していった。店が消え、家が消え、舗装されていなかった空き地が舗装されて駐車場となっていた。
鞘川に差し掛かる。
橋には、先日まではなかった補修の跡があった。その先の煙草屋は崩れかけの廃屋となっている。危険なためか、三角コーンが手前に竝んでいた。当然、琺瑯看板もない。
いつもと違う光景の中を進む。伊吹で見る事故車も、消し炭となった家も今日はなかった。
丁字路まで来たとき、美邦の隣に自転車が止まる。
「おはよ――大原さん。」
振り返ると冬樹が立っていた。
「うん――おはよ。」
ふと、冬樹は怪訝な顔となる。
「今日、やけに遅いでない? 何かあったん?」
いや――と言い、美邦は戸惑った。何から説明したらいいか分からない。やがて、ぽつりとこう呟く。
「幻視が――消えてたの。」
*
その日の一時間目はホームルームだった。
投票箱のような物を手にした岩井が教室の前に向かう。美邦は、その箱になぜか見覚えがある気がした。あのような段ボール箱ではない。しかし、ちょうどあれくらいの大きさで、あのような形をした箱がなかったか。
教壇に箱を置き、岩井は言う。
「それでは――二学期も半分になりましたので、席替えを行ないたいと思います。」上下に箱を振った。「これは私が作ってきたくじ引きのための箱です。」
――自分で作ったんだ。
妙なところで岩井は生真面目だ。
前方の席から籤箱が回されてゆく。
そのあいだ、机の配置を岩井は黒板に書いた。
A組の人数は三十人である。机は、二つずつ密接して竝ぶ――縦に三組・横に五列。岩井は、縦の列をアルファベットで、横の列を数字で黒板に記した。
やがて、美邦に籤箱が回ってくる。
――妙な人と隣にならなければいいけど。
そう思いながら籤箱に手を入れた。
美邦の引き当てた紙には、「B5」と書かれていた。つまり今と変わりない。変化がないことに少し落胆してしまう。
籤箱が教室を一周した。最後に残った籤を岩井が引き、席替えが始まる。当然、美邦だけは机を動かさなくていい。周囲が移動するなか、自分だけじっとしているのは肩身が狭かった。
やがて、机を持った冬樹が美邦の隣に来る。
驚いたような顔を冬樹は向けた。
「大原さん――席、変わらなんだん?」
「うん――。Bの5なのだから。」
「俺――Aの5。」
かつて由香のいた場所に冬樹が来ていた。
夢の中で、美邦は二十代後半ほどの女性だった。神社の中のような飾り気のない建物で、布団に身を横たえている。しかもそのとき、死を迎えようとしていた。
この時代としては、平均をやや下回る寿命を迎えようとしていたに過ぎない。美邦の横たわる粗末な布団でさえ、非常に高級な物だった。
自分は――共同体の指導者なのだ。自身に神を下ろし、稲の実り具合を祈り、豊漁を願うのが仕事だった。
夢の中で美邦は死んだ。その一瞬、海の向こうへと飛んだような気もする。しかし生を終え、目を閉じた次の瞬間――再び目を開けていた。
明るくなりつつある障子が目に入る。同時に、夢を見ていたことを知った。ここは自室のベッドで、自分は目を覚ましたのだ。
布団の中で身体を丸め、物思いにふけった。
――「妹」になった夢とは違う。
それでいて、どこか懐かしい感触がした。
――私は私自身で何かを決めていた。
スマートフォンのアラームが鳴る。
アラームを止め、布団から起き上がった。
冷たさに身体が震える。
ひとまず机へ向かい、ノートを開いた。夢の内容を軽く書き留める。そんなさなか、いつもと違う物音が階下から聞こえてきた。
メモを終え、髪を結う。
自室を出て、冷たい階段を踏んだ。いつもと違う物音が大きくなる。どうやら玄関から聞こえているようだ。同時に、かすかな腐臭を嗅ぎ取る。
胸騒ぎを覚えた。
階段を下り切ったところで玄関が目に入る。乱暴な手つきで詠歌がドアを洗っていた。激怒していることは明らかだ。何が起きたかは分からない。それでも、怒りが美邦へ向かうことがまた起きたのだ。
肝の冷える思いで居間へ向かう。
台所には、いつもより早く起きた啓の姿があった。トースターでパンが焼けるのを待っている。
「おはよう――美邦ちゃん。」
「おはようございます。」
「叔母さんなあ――今、殺気立っとるみたいだけん。朝ごはんは、トーストでも焼いて食べてって言っとったわ。」
足元へ目を落とし、そうですか、とつぶやく。
「叔母さん、どうされたんですか?」
「ああ。」啓の顔に困惑が浮かんだ。「郵便受けに――生ごみが入れられとったらしくってな。」
身を退き、目を上げる。
「――生ごみ?」
かすかに漂っていた腐臭の意味に気づいた。
「性質の悪い悪戯だな。しばらくは構わんほうがええで。」
会話はそこで絶えた。
性質が悪い――では済まされない。また、悪戯とも考えられなかった。先週の落書きと同じように、美邦に対する攻撃ではないのか。
洗面所へ行き、顔を洗う。
タオルで顔を拭く前、鏡の中に目が留まった。鉛色に濁った左眼が朝陽に輝いている。左右で色の違う瞳は、美邦の心に深い傷を負わせてきた。同時に、自分が自分である証でもあるのだ。
歯磨きを終え、洗面所を出た。
入れ替わりに千秋が来る。郵便受けを洗う音の響くなか、美邦と全く同じように怯えた顔をしていた。
「おはよう。」
千秋は顔をそむける。
「うん。」
そして、美邦を避けるように洗面所へ這入っていった。
軽く傷つきつつも台所へ向かう。
啓と同じようにパンを焼いた。
簡単すぎる朝食を済ませたのと、詠歌が現れたのはほぼ同時だ。叔母と姪は視線さえ合わそうとしない。美邦は皿を持って立ち上がる。よそよそしい速さで流し台へ向かい――そして目が留まった。
朱い苔が流しについている。最近は掃除が行き届いていない。
一方、ぼんやりしている自分にも気づいた。
――食器は片付けないのがこの家のルールなのに。
皿を置き、誰に言うでもなく呟く。
「日直なので――お先に失礼します。」
啓だけが、いつもと変わりない様子で応えた。
「うん――行ってらっしゃい。気を付けて。」
黙って台所を出る。日直があるというのは噓だった。どんな顔を千秋がしているのか分からない。しかし、しばらくは一緒に登校しないだろう。
自室から鞄を取り、家を出る。
紅い布のなびく路地を進み、中通りへ出た。小中学生がまばらに登校している。それに紛れて人影が浮かんだ。遠目にはリアルでも、近づけば透けて消えてしまう。
やがて異変に気づいた。
古かった家が更地にされていたり、ひとけのあった家が廃屋になったりしている。
平坂の事故跡地に差し掛かったとき、特に大きな変化を感じた。いつもは見える大破した車がない。花屋は、青い天幕の張り出した廃屋となっている。
―― Gooŋle Eɑrth で見た風景と同じ。
天幕の下を覗いてみる。濁った水の溜まる水槽と空の植木鉢が積まれていた。先日まで店頭を満たしていた花は一輪もない。
変化は花屋だけでなかった。斜め前で営業していたはずの電器屋にもシャッターが下りている。
様々な場所を観察しながら、ゆっくり登校していった。店が消え、家が消え、舗装されていなかった空き地が舗装されて駐車場となっていた。
鞘川に差し掛かる。
橋には、先日まではなかった補修の跡があった。その先の煙草屋は崩れかけの廃屋となっている。危険なためか、三角コーンが手前に竝んでいた。当然、琺瑯看板もない。
いつもと違う光景の中を進む。伊吹で見る事故車も、消し炭となった家も今日はなかった。
丁字路まで来たとき、美邦の隣に自転車が止まる。
「おはよ――大原さん。」
振り返ると冬樹が立っていた。
「うん――おはよ。」
ふと、冬樹は怪訝な顔となる。
「今日、やけに遅いでない? 何かあったん?」
いや――と言い、美邦は戸惑った。何から説明したらいいか分からない。やがて、ぽつりとこう呟く。
「幻視が――消えてたの。」
*
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投票箱のような物を手にした岩井が教室の前に向かう。美邦は、その箱になぜか見覚えがある気がした。あのような段ボール箱ではない。しかし、ちょうどあれくらいの大きさで、あのような形をした箱がなかったか。
教壇に箱を置き、岩井は言う。
「それでは――二学期も半分になりましたので、席替えを行ないたいと思います。」上下に箱を振った。「これは私が作ってきたくじ引きのための箱です。」
――自分で作ったんだ。
妙なところで岩井は生真面目だ。
前方の席から籤箱が回されてゆく。
そのあいだ、机の配置を岩井は黒板に書いた。
A組の人数は三十人である。机は、二つずつ密接して竝ぶ――縦に三組・横に五列。岩井は、縦の列をアルファベットで、横の列を数字で黒板に記した。
やがて、美邦に籤箱が回ってくる。
――妙な人と隣にならなければいいけど。
そう思いながら籤箱に手を入れた。
美邦の引き当てた紙には、「B5」と書かれていた。つまり今と変わりない。変化がないことに少し落胆してしまう。
籤箱が教室を一周した。最後に残った籤を岩井が引き、席替えが始まる。当然、美邦だけは机を動かさなくていい。周囲が移動するなか、自分だけじっとしているのは肩身が狭かった。
やがて、机を持った冬樹が美邦の隣に来る。
驚いたような顔を冬樹は向けた。
「大原さん――席、変わらなんだん?」
「うん――。Bの5なのだから。」
「俺――Aの5。」
かつて由香のいた場所に冬樹が来ていた。
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