神送りの夜

千石杏香

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第七章 立冬

9 耳鼻科

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早苗が出勤する車に乗って市内へ出る。

左耳は無音だ。自分が乗る車の走行音さえない。一方、右耳は普通に聞こえる。その状況が酷く気持ち悪かった。

何が起きたか分からない。だが、夜に潜む者と関係があることは明らかだ。数日前に爪を奪ったように、音まで奪ったのか――しかしどうやって。

「あんたは昔から手間のかかる子だった。」

疲れたように早苗がつぶやく。

「今はもう夜泣きもおねしょもせんけど――それでもやっぱり手間がかかる。」

しばらく市内を進み、耳鼻科の前で停まった。

早苗は、バッグから財布を取り出す。そして、保険証と診察券・五千円札を冬樹に渡した。

「それじゃ、帰りは汽車使って。」

「うん。」

ドアを開け、車から下りる。

凍えそうな寒さが身を包んだ。

曇った空の下、母親の車を見送る。

ため息をつく。同時に、息が白くなっていることに気づいた。一年も、あと一か月半しか残っていない。その前に冬至が来る。しかし、自分はどうなってしまうのだろうか。

――次に起きたときは、右耳が聞こえなくなっているかもしれない。

病院へ這入る。あまり新しい建物ではなかった。床のリノリウムが随所で剥がれかけている。

受付で要件を言い、薬くさい待合室で待つ。

スマートフォンを取り出した。

同時に、美邦が不安がっていることに思い当たる。今は朝学活だろうか。LIИEをいつ見るか分からない。それでも、「放課後探偵団」にメッセージを打ち込んだ。

「今日は病院で来れない。」
「でも多分大丈夫だけん安心して。」

打ち終えたあと、先日の出来事を思い起こす。

LIИEを使っての初めての通話だった。

しかも、美邦から聴いたことは予想を遥かに上回っていた。何かを見ただろうとは思っていたのだ。しかし、由香が亡くなった瞬間を遠視したという。冬樹が聞かされたのはそこまでだった。

――大原さんは神がかりを起こしていた。

それは巫女の古い役割であり、原始的な信仰の形でもある。冬樹の推測は間違っていないのだろう。ただし繊細な問題であるがゆえに、説得力のある形で詰めなければ口に出せない。

やがて名前を呼ばれる。

診察室へ這入り、馬面の老医師と顔を合わせた。

左耳が唐突に聞こえなくなったことを冬樹は伝える。老医師は怪訝な顔をし、耳鏡じきょう――漏斗状の小さな器具――を左耳へ突っ込んだ。しばらく耳を弄りまわし、不可解な顔となる。

「異常は特に見当たりませんけどねえ――。これだけでは何も分かりませんので、レントゲンを撮ってみましょうか。」

「ええ。」

そうして、レントゲン室に案内される。

撮り終えたあと、診察室前で待った。暇つぶしにスマートフォンを見る。当然、美邦からの返信はまだない。

やがて、名前を再び呼ばれる。

診察室へ這入ると、X線写真が蛍光板シャウカステンに貼られていた。老医師が医学書を取り出し、耳の断面図を開く。

「ほら、見てください。」

鼓膜の内側が指された。蝸牛かたつむりの殻のような器官と鼓膜を、ぐにゃりと曲がった物がつないでいる。

「これは耳小骨じしょうこつという器官です。鼓膜が音として受け取った振動を蝸牛管かぎゅうかんという器官へ伝える役割があります。蝸牛管で受け止められた振動は、信号へ変換されて脳に伝えられるわけです。」

X線写真を老医師は指さす。

「無くなってますね――その耳小骨が。」

目をやると、医学書にある物がなかった。

待合室から、幼児の泣き声が聞こえる――左耳からは聞こえない。静寂と無音ではこんなにも違う。

やがて、恐る恐る冬樹は問うた。

「そんなことが――あるんですか?」

老医師は返答に困る。

「――ありません。普通、あり得ません。中耳は密閉されています。貴方の耳もそうです――鼓膜が破れているわけでもなかった。もし本当に、今朝いきなり耳が聞こえなくなったというのであれば、もっと大きな病院で精密検査をしてみるべきでしょうね。」

むしろ、患者である冬樹が疑われているようだ。

密閉された中耳から耳小骨が消えることがないなど素人目にも分かる。そもそも、医学的な説明は最初から諦めていたかもしれない。しかし――そうであったとしても問わざるを得ない。

「どうにかして、治療できますか――?」

質問の意味を、医師は理解できないようだった。

「とりあえず、何かの病気の症状である可能性もありますから、総合病院で診てもらったほうがいいと思います。――紹介状、書きましょうか?」
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