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第六章 霜月
【幕間6】当屋としての仕事
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当屋としての仕事は、わたしにはきついものがあった。
ただし、客観的に見れば大したことはない。一週間を通して五時間ほど、神楽舞の練習をさせられるだけだ。
神社のほうでも、わたしの都合に合わせて練習時間を設定してくれた。
放課後や日曜日は、のんびり過ごしたい。なので、基本的に土曜日の午後を練習時間に当てた。
ただし、神社側の都合がどうしてもつかないときはある。しかも習い始めてしばらくは、間隔をあまり空けては習ったことも忘れかねないということで、平日の夕方に一時間ほど練習が続けられた。
練習のある日は肉食を禁じられた。母も神社の意向を酌み、朝食や弁当に肉や魚・卵を入れなかった。チョコレートなどの乳製品や牛乳なども避けるよう言われていたが、これは厳格に守らなくてもいいという。
しかし、わたしは守っていた。牛乳や卵がパンに入っていると気づいてからは、それさえ口にしなくなった。クラスメイトの一人が、まるでイスラム教の人みたいだなと軽口をたたいたこともある。
しかし、わたしは恐ろしかったのだ――神社にいる存在が。
神楽舞の稽古は、麓にある待合所で行われた。
稽古が終わったあとは――生理の日を除いて――神社への参拝が義務付けられていた。
わたしが特につらいと思ったのは、平日の稽古が長引いた日だ。
日没の頃に拝殿は閉められる。ゆえに、それ以上稽古が長引くことは基本的にない。しかし、境内へ至る石段には照明がないのだ。
平坂神社には、宮司のほかに巫女が一人いるのみだった。
もしも暗くなるまで稽古が長引いた場合は、宮司か巫女と共に、懐中電灯を持って参道を昇らなければならない。
高く深い鎮守の杜の木々に囲まれた石段は、昼間でさえも気味が悪い。まして逢魔が時ともなれば、鎮守の杜に巨大な闇が拡がってゆく。わたしは、境内にいる恐ろしいものが杜全体に拡大され、充たされてゆくのを感じていた。
――今日も遅くまでご苦労様でしたね。
その日、神社への参拝が終わると、そう言って宮司は微笑んだ。穏和な性格をした老人なので、その点では悪い印象はない。
――ええ、宮司さんこそ。
わたしは笑顔でうなづいたものの、ここまで遅くなったのはお前のせいだろと心の中で毒づいていた。
拝殿の扉を閉め、宮司は閂を掛ける。
ただし、拝殿そのものに鍵はついていない。一応、大きな南京錠が賽銭箱についているし、それ以外に盗るものもないためだろう。そもそも、平坂神社の賽銭を盗む者がいるとは考えられない。少なくとも――この町に住む者では。
それでも終戦の間際には、賽銭を盗んだ者が一人いたらしい。もちろん、この町の者ではなかった。しかも、参道から転落して死んでいるのを早朝に見つかったという。
――唐草模様の頬っかむりを、鼻の下で結んだ奴だったそうだよ。
そんな冗談を宮司は言ったが、わたしには笑えなかった。そのときのわたしは、たとえそんな下手な嘘だったとしても、信じかねなかった。だから参道を下りるときは、しっかりと手摺に掴まり、転落しないよう気をつけて下りた。
ただし、客観的に見れば大したことはない。一週間を通して五時間ほど、神楽舞の練習をさせられるだけだ。
神社のほうでも、わたしの都合に合わせて練習時間を設定してくれた。
放課後や日曜日は、のんびり過ごしたい。なので、基本的に土曜日の午後を練習時間に当てた。
ただし、神社側の都合がどうしてもつかないときはある。しかも習い始めてしばらくは、間隔をあまり空けては習ったことも忘れかねないということで、平日の夕方に一時間ほど練習が続けられた。
練習のある日は肉食を禁じられた。母も神社の意向を酌み、朝食や弁当に肉や魚・卵を入れなかった。チョコレートなどの乳製品や牛乳なども避けるよう言われていたが、これは厳格に守らなくてもいいという。
しかし、わたしは守っていた。牛乳や卵がパンに入っていると気づいてからは、それさえ口にしなくなった。クラスメイトの一人が、まるでイスラム教の人みたいだなと軽口をたたいたこともある。
しかし、わたしは恐ろしかったのだ――神社にいる存在が。
神楽舞の稽古は、麓にある待合所で行われた。
稽古が終わったあとは――生理の日を除いて――神社への参拝が義務付けられていた。
わたしが特につらいと思ったのは、平日の稽古が長引いた日だ。
日没の頃に拝殿は閉められる。ゆえに、それ以上稽古が長引くことは基本的にない。しかし、境内へ至る石段には照明がないのだ。
平坂神社には、宮司のほかに巫女が一人いるのみだった。
もしも暗くなるまで稽古が長引いた場合は、宮司か巫女と共に、懐中電灯を持って参道を昇らなければならない。
高く深い鎮守の杜の木々に囲まれた石段は、昼間でさえも気味が悪い。まして逢魔が時ともなれば、鎮守の杜に巨大な闇が拡がってゆく。わたしは、境内にいる恐ろしいものが杜全体に拡大され、充たされてゆくのを感じていた。
――今日も遅くまでご苦労様でしたね。
その日、神社への参拝が終わると、そう言って宮司は微笑んだ。穏和な性格をした老人なので、その点では悪い印象はない。
――ええ、宮司さんこそ。
わたしは笑顔でうなづいたものの、ここまで遅くなったのはお前のせいだろと心の中で毒づいていた。
拝殿の扉を閉め、宮司は閂を掛ける。
ただし、拝殿そのものに鍵はついていない。一応、大きな南京錠が賽銭箱についているし、それ以外に盗るものもないためだろう。そもそも、平坂神社の賽銭を盗む者がいるとは考えられない。少なくとも――この町に住む者では。
それでも終戦の間際には、賽銭を盗んだ者が一人いたらしい。もちろん、この町の者ではなかった。しかも、参道から転落して死んでいるのを早朝に見つかったという。
――唐草模様の頬っかむりを、鼻の下で結んだ奴だったそうだよ。
そんな冗談を宮司は言ったが、わたしには笑えなかった。そのときのわたしは、たとえそんな下手な嘘だったとしても、信じかねなかった。だから参道を下りるときは、しっかりと手摺に掴まり、転落しないよう気をつけて下りた。
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