56 / 110
第六章 霜月
【幕間6】当屋としての仕事
しおりを挟む
当屋としての仕事は、わたしにはきついものがあった。
ただし、客観的に見れば大したことはない。一週間を通して五時間ほど、神楽舞の練習をさせられるだけだ。
神社のほうでも、わたしの都合に合わせて練習時間を設定してくれた。
放課後や日曜日は、のんびり過ごしたい。なので、基本的に土曜日の午後を練習時間に当てた。
ただし、神社側の都合がどうしてもつかないときはある。しかも習い始めてしばらくは、間隔をあまり空けては習ったことも忘れかねないということで、平日の夕方に一時間ほど練習が続けられた。
練習のある日は肉食を禁じられた。母も神社の意向を酌み、朝食や弁当に肉や魚・卵を入れなかった。チョコレートなどの乳製品や牛乳なども避けるよう言われていたが、これは厳格に守らなくてもいいという。
しかし、わたしは守っていた。牛乳や卵がパンに入っていると気づいてからは、それさえ口にしなくなった。クラスメイトの一人が、まるでイスラム教の人みたいだなと軽口をたたいたこともある。
しかし、わたしは恐ろしかったのだ――神社にいる存在が。
神楽舞の稽古は、麓にある待合所で行われた。
稽古が終わったあとは――生理の日を除いて――神社への参拝が義務付けられていた。
わたしが特につらいと思ったのは、平日の稽古が長引いた日だ。
日没の頃に拝殿は閉められる。ゆえに、それ以上稽古が長引くことは基本的にない。しかし、境内へ至る石段には照明がないのだ。
平坂神社には、宮司のほかに巫女が一人いるのみだった。
もしも暗くなるまで稽古が長引いた場合は、宮司か巫女と共に、懐中電灯を持って参道を昇らなければならない。
高く深い鎮守の杜の木々に囲まれた石段は、昼間でさえも気味が悪い。まして逢魔が時ともなれば、鎮守の杜に巨大な闇が拡がってゆく。わたしは、境内にいる恐ろしいものが杜全体に拡大され、充たされてゆくのを感じていた。
――今日も遅くまでご苦労様でしたね。
その日、神社への参拝が終わると、そう言って宮司は微笑んだ。穏和な性格をした老人なので、その点では悪い印象はない。
――ええ、宮司さんこそ。
わたしは笑顔でうなづいたものの、ここまで遅くなったのはお前のせいだろと心の中で毒づいていた。
拝殿の扉を閉め、宮司は閂を掛ける。
ただし、拝殿そのものに鍵はついていない。一応、大きな南京錠が賽銭箱についているし、それ以外に盗るものもないためだろう。そもそも、平坂神社の賽銭を盗む者がいるとは考えられない。少なくとも――この町に住む者では。
それでも終戦の間際には、賽銭を盗んだ者が一人いたらしい。もちろん、この町の者ではなかった。しかも、参道から転落して死んでいるのを早朝に見つかったという。
――唐草模様の頬っかむりを、鼻の下で結んだ奴だったそうだよ。
そんな冗談を宮司は言ったが、わたしには笑えなかった。そのときのわたしは、たとえそんな下手な嘘だったとしても、信じかねなかった。だから参道を下りるときは、しっかりと手摺に掴まり、転落しないよう気をつけて下りた。
ただし、客観的に見れば大したことはない。一週間を通して五時間ほど、神楽舞の練習をさせられるだけだ。
神社のほうでも、わたしの都合に合わせて練習時間を設定してくれた。
放課後や日曜日は、のんびり過ごしたい。なので、基本的に土曜日の午後を練習時間に当てた。
ただし、神社側の都合がどうしてもつかないときはある。しかも習い始めてしばらくは、間隔をあまり空けては習ったことも忘れかねないということで、平日の夕方に一時間ほど練習が続けられた。
練習のある日は肉食を禁じられた。母も神社の意向を酌み、朝食や弁当に肉や魚・卵を入れなかった。チョコレートなどの乳製品や牛乳なども避けるよう言われていたが、これは厳格に守らなくてもいいという。
しかし、わたしは守っていた。牛乳や卵がパンに入っていると気づいてからは、それさえ口にしなくなった。クラスメイトの一人が、まるでイスラム教の人みたいだなと軽口をたたいたこともある。
しかし、わたしは恐ろしかったのだ――神社にいる存在が。
神楽舞の稽古は、麓にある待合所で行われた。
稽古が終わったあとは――生理の日を除いて――神社への参拝が義務付けられていた。
わたしが特につらいと思ったのは、平日の稽古が長引いた日だ。
日没の頃に拝殿は閉められる。ゆえに、それ以上稽古が長引くことは基本的にない。しかし、境内へ至る石段には照明がないのだ。
平坂神社には、宮司のほかに巫女が一人いるのみだった。
もしも暗くなるまで稽古が長引いた場合は、宮司か巫女と共に、懐中電灯を持って参道を昇らなければならない。
高く深い鎮守の杜の木々に囲まれた石段は、昼間でさえも気味が悪い。まして逢魔が時ともなれば、鎮守の杜に巨大な闇が拡がってゆく。わたしは、境内にいる恐ろしいものが杜全体に拡大され、充たされてゆくのを感じていた。
――今日も遅くまでご苦労様でしたね。
その日、神社への参拝が終わると、そう言って宮司は微笑んだ。穏和な性格をした老人なので、その点では悪い印象はない。
――ええ、宮司さんこそ。
わたしは笑顔でうなづいたものの、ここまで遅くなったのはお前のせいだろと心の中で毒づいていた。
拝殿の扉を閉め、宮司は閂を掛ける。
ただし、拝殿そのものに鍵はついていない。一応、大きな南京錠が賽銭箱についているし、それ以外に盗るものもないためだろう。そもそも、平坂神社の賽銭を盗む者がいるとは考えられない。少なくとも――この町に住む者では。
それでも終戦の間際には、賽銭を盗んだ者が一人いたらしい。もちろん、この町の者ではなかった。しかも、参道から転落して死んでいるのを早朝に見つかったという。
――唐草模様の頬っかむりを、鼻の下で結んだ奴だったそうだよ。
そんな冗談を宮司は言ったが、わたしには笑えなかった。そのときのわたしは、たとえそんな下手な嘘だったとしても、信じかねなかった。だから参道を下りるときは、しっかりと手摺に掴まり、転落しないよう気をつけて下りた。
0
お気に入りに追加
18
あなたにおすすめの小説
『忌み地・元霧原村の怪』
潮ノ海月
ホラー
とある年の五月の中旬、都会から来た転校生、神代渉が霧野川高校の教室に現れる。彼の洗練された姿に女子たちは興味を示し、一部の男子は不満を抱く。その中、主人公の森月和也は、渉の涼やかな笑顔の裏に冷たさを感じ、彼に違和感を感じた。
渉の編入から一週間が過ぎ、男子達も次第に渉を受け入れ、和也の友人の野風雄二も渉の魅力に引き込まれ、彼の友人となった。転校生騒ぎが終息しかけたある日の学校の昼休み、女子二人が『こっくりさん』で遊び始め、突然の悲鳴が教室に響く。そしてその翌日、同じクラスの女子、清水莉子が体調不良で休み、『こっくりさん』の祟りという噂が学校中に広まっていく。その次の日の放課後、莉子を心配したと斉藤凪紗は、彼女の友人である和也、雄二、凪沙、葵、渉の五人と共に莉子の家を訪れる。すると莉子の家は重苦しい雰囲気に包まれ、莉子の母親は憔悴した姿に変わっていた。その異変に気づいた渉と和也が莉子の部屋へ入ると、彼女は霊障によって変わり果てた姿に。しかし、彼女の霊障は始まりでしかなく、その後に起こる霊障、怪異。そして元霧原村に古くから伝わる因習、忌み地にまつわる闇、恐怖の怪異へと続く序章に過ぎなかった。
《主人公は和也(語り部)となります》



アポリアの林
千年砂漠
ホラー
中学三年生の久住晴彦は学校でのイジメに耐えかねて家出し、プロフィール完全未公開の小説家の羽崎薫に保護された。
しかし羽崎の家で一ヶ月過した後家に戻った晴彦は重大な事件を起こしてしまう。
晴彦の事件を捜査する井川達夫と小宮俊介は、晴彦を保護した羽崎に滞在中の晴彦の話を聞きに行くが、特に不審な点はない。が、羽崎の家のある林の中で赤いワンピースの少女を見た小宮は、少女に示唆され夢で晴彦が事件を起こすまでの日々の追体験をするようになる。
羽崎の態度に引っかかる物を感じた井川は、晴彦のクラスメートで人の意識や感情が見える共感覚の持ち主の原田詩織の助けを得て小宮と共に、羽崎と少女の謎の解明へと乗り出す。
すべて実話
さつきのいろどり
ホラー
タイトル通り全て実話のホラー体験です。
友人から聞いたものや著者本人の実体験を書かせていただきます。
長編として登録していますが、短編をいつくか載せていこうと思っていますので、追加配信しましたら覗きに来て下さいね^^*

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる