神送りの夜

千石杏香

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第六章 霜月

6 神が消した神社

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幸子の家を美邦が訪れた日、平坂神社跡地を冬樹は訪れていた。

危険は承知している。だが、行き詰まった調査が決意させたのだ。

前日から準備は始めていた。

恐らく、道なき道を進むはずだ。リュックサックには、軍手・ジャージ・蟲除けスプレー・懐中電灯・なたのこなど、必要と思われる物を詰め込んでいた。

もちろん、山に這入ったとしても何もない可能性もある。それでも――行きたい。

土曜日は辛うじて晴れていた。

天気予報を目にし、雨は降らないと知る。結果、実行を決めた。

出かける前、市内の博物館に行ってくると言って良子から昼食代をもらう。

午前九時――普段着のまま家を出た。

スーパーに立ち寄り、栄養調整食品とスポーツドリンクを買う。何しろ山の中だ――サンドイッチやおにぎりなどは気持ち悪くて食べられないだろう。

スーパーを出て、浜通りを東へ歩んでゆく。

浜通りは、港に沿って続く県道だ。しかし、休日であっても人通りはない。通行人は、冬樹の背後を歩く一人の男だけだ。

鞘川の河口には、湊公園と呼ばれる公園がある。そこの公衆トイレに這入り、ジャージに着替えた。

伊吹山へ向け、鞘川に沿いの道を進んでゆく。

中通りを渡ったところで冬樹は周りを見回す。美邦が幸子を見舞うのは昼のはずだった。しかし、自分の姿を見られたらと少し気にかかったのだ。

中通りを離れる。

ひとけはすぐなくなった。スマートフォンで場所を何度か確認する。ガードレイルが川沿いに続き、廃屋が対面に連なっていた。やがて、二面反射鏡が現れる。足を止め、山に目を向けた。雛壇状の石垣に挟まれた坂がある。

再び周囲を見回す。人はいないようだ。

坂に入り、山へ向けて登ってゆく。

登り切った処に空き地があった。

広さは住宅二軒ほど――子供の背丈ほどもある雑草が一面を覆っている。

――宮司さんの家は、多分ここだったはずだ。

雑草の向こうは森だ――洞窟のようにぽっかりと暗い闇の開いた部分がある。

背後を確認し、息を呑んだ。

そして覚悟を決める。

軍手をつけ、草むらの中へ這入った。

雑草を両手でかき分け、踏み潰しつつ進む。当然、それでさえも簡単ではなかった。

しかし、森に開いた闇の中がやがて見えだす。

石段があった。落ち葉に覆われて迷彩色となっている。進むにつれて、はっきりと見えだした。左右には、ステンレスの手すりもついている。

五分ほどかけて空き地を渡り切った。

石段のふもとに着く。

緑のトンネルを見上げる。行く先は、枯れ枝や蜘蛛の巣で幾重にも阻まれていた。

――大原さんの言ったとおりだ。

長い参道が山の中に続いている。

足元にふと目をやると、すり鉢状の石があった。どうやら鳥居の礎石らしい。注意深く観察すると、少し離れた処にもう一つ同じ物があった。

緑のトンネルに目を遣り、溜め息をつく。

――これを通り抜けてゆくのかよ。

だが、引き返すわけにはいかない。

リュックサックから、片刃ののこを取り出す。

石段を踏んだ。靴底を隔てて、落ち葉と苔の感触が伝わる。うっかりすれば、足を滑らせかねない。手摺を握り、慎重に登りだす。

それからは、単純作業の繰り返しだった。

蜘蛛の巣や倒木が行く手を阻む場合は、鋸で振り払った。田舎で生まれ育ったといえ、山の中へ這入ることに慣れているわけではない。参道にはきのこが生え、蛾が飛び交っている。それらを目にするたびに不愉快感にさいなまれた。

途中、帰ろうかと何度も考える。石段の中腹まで進んだときには、額から既に汗が滴り落ちていた。

しかし、そんな不愉快感の中で妙な感覚を抱き始める。

樹木や雑草、有象無象の蟲たち――それらの生命の強さを感じていたのだ。冬樹も蟲達も、樹木も雑草も、全て生きている。彼らと自分を隔てる境界が、次第に曖昧になりだした。

全ての生命は、同じ祖先から生まれたのだ。

無数の細胞と菌が人体を作っているように、伊吹山という生命体の中で冬樹はその一部でしかない。それは、地球という巨大な生命体にまで敷衍おしひろげられることでもあった。

時折、参道のかたわらに石灯籠が現れる。倒れたり、笠が外れたまま立っていたりしていた。

やがて、石段は直角に右へ折れる。角の内側に、磐座と思しき苔生した巨岩があった。

加工された物と違い、太古から変わっていないのだろう。人が這入る前から、位置も変わらないのかもしれない。

さらに石段を登る。やがて磐座に突き当り、直角に左へ折れた。急な勾配の石段の先に、楼門のような物が見える。大量の落葉を屋根にかぶり、崩れそうなほどかしいでいた。

――建物がまだ残っている?

踊り場に石も灯籠がある。顔を近づけると、「大正七年」という文字と、奉献者の名前が刻まれていた。

樹々から漏れる隙間から海が見える。

十年前は、鎮守の杜も手入れされていたはずだ。そのときは絶景だったに違いない。

スマートフォンを取り出すと、一時を廻っていた。

予想より時間が経っていたことに驚く。熱中のあまり空腹を忘れていたのだ。とりあえず一休みし、昼食を摂ることとする。

海を眺めながら栄養調整食品を食べた。決して、悪い昼食ではなかった。

食事を終え、石段を再び進みだす。

体力がついたためか、ゴールが近かったためか、道のりが楽に感じられた。

楼門の向こうが徐々に見える。暗い森に覆われ、何かの建物が現れた。

石段を登り切る。

門に切り取られた景色が見えた。深い森の中、粗いモノクロ写真に写っていたものと同じ社殿が亡霊のように建っている。

落ち葉の積もる石畳を除き、狛犬の足元まで伸びる雑草が境内には茂っていた。そんな中、手水舎や社務所・末摂社が島のように浮かぶ。

――まさかここまで残っているとは。

楼門を観察する。

左右には、格子戸のついた空間があった。中には、雛人形の左大臣と右大臣を大きくしたような木像が入っている。

恐る恐る楼門をくぐった。

樹々の合間から見える空は狭く、ゆえに、より蒼く感じられる。湿っぽい場所にも拘わらず、妙な安堵感を覚えた。

連想したものは、沖縄の御嶽うたきだ。

冬樹は沖縄へ行ったことはない。だが、こんな感じではないだろうか。

御嶽は琉球神道の聖地である。同時に、ニライカナイから来た神を祀る場所だ。建物はなく、祈るための場所だけがある。

十年間も放置されてきた分、原始的な風景に近づいたに違いない。それが想像を駆り立てる。

はるか太古――ここを見つけた人は、神を祀るに相応しい場所だと考えたに違いない。深い樹々に囲われたこの空間で、海から来た神はまどろむ胎児であった。ここは、海から来た荒魂あらみたま幸魂さきみたまとして祀る場所だったのだ。

石畳を進み、巨大な拝殿の前に立った。

普通の神社の場合、賽銭箱と階段が正面にある。ここでは代わりに、大きな扉が開き、土間へと続いていた。賽銭箱と階段はその中にある。

雨戸や扉はずっと開け放たれていたらしい――恐らくは十年前から。古い木造建築であるため腐蝕が著しい。回廊には落ち葉が積もり、苔が生している。

――まるで、打ち捨てられたみたいだ。

何か事情があって、扉も閉められず放置された――そんな印象を受ける。倒産したというより、神職が夜逃げしたかのようだ。

――なぜ?

ここに祀られていた神が消したというのか――祀る者を殺してまで。

いや――と冬樹は思う。

神とは、祀られるものなのだ。

――今、どこに祀られている?

しかも、誰が祀っているのか。

――そいつが、神社を、実相寺を。

柱とはりの交差する部分には、青銅の留め金が嵌っていた。そこに、六つの菱形の開いた六芒星が描かれている。

それを目にし、世界がズレたような感覚に襲われた。

――あの図は見たことがある。

しみじみと拝殿を観察してから、二礼二拍一拝した。

石造りの基礎の上に社殿は建っている。そこに草は生えていない。

基礎を伝い、裏側へ廻る。

金属の横棒を石柱に通した玉垣たまがきが巡らされていた。その向こうに本殿はある。石柱の一つ一つには、寄付者の名前と金額が刻まれていた。

玉垣を一周し、拝殿に再び近づいた時のことだ。

石柱に、見知った名前を見つけた。

目が釘付けとなる。しばらくのあいだ、じっと考えた。スマートフォンを取り出し、本殿が写るような形で石柱を写真に収める。

そんなとき――。

境内のほうから、跫音あしおとに似た音が聞こえた。

肝が冷える。

冬樹のあとを――誰かがつけてきたのか。

基礎を伝い、恐る恐る境内へ出る。

当然、誰もいない。

視界の端に社務所がある。刹那、曇り硝子の窓で何かが動いた。冬樹は目を向ける。

当然、見間違いの可能性が高かった。だが、急に怖くなる。

ここにいることが、重大な犯罪のように思えた。もし自分の所業を見ている者がいるとしたら――それは誰なのだろう。

「どなたか、おられますか?」

一応は声を掛けてみたものの、虚しい静寂に吸い込まれた。

莫迦ばかだな――と心の中で自分を叱る。茸のついた枝や蜘蛛の巣を苦労して振り払ってきたのは誰だったか。ここには――恐らくは――もう十年ものあいだ、誰も足を踏み入れていないのだ。

だが、社務所の中は覗いておく必要がある。

雑草をかき分け、社務所へと近づいた。

社殿が開け放たれたままだったので、社務所もそうではないかと期待する。

しかし、受付窓に手をかけたとき、鍵がかかっていることに気づいた。

社務所の側面に廻り、玄関を見つける。こちらにも鍵がかかっていた。木枠に硝子の嵌った引き戸は、随分と腐蝕が進行している。しかし、少し押しただけではびくともしない。

――仕方がない。

冬樹は、入口を破壊することとした。

リュックサックに鋸を仕舞い、代わりになたを取り出す。

鍵の付いている付近へと狙いを定め、力一杯振り下ろした。自分でも驚くような音が鳴り、硝子が割れ、格子が裂ける。それを、二、三回繰り返した。

安全に手が通るほどの穴が空く。

手を入れ、内側から鍵を開けた。

扉を引く。

立てつけは異様に悪くなっていた。ガタガタと揺さぶって何とか開く。

玄関の先には短い廊下があった。隅々で、小さな楕円形の黒い影が素早く動く。

思わず眉をひそめた。

こんな季節になってまでも潜んでいたのか。

壁は蒼黒い。よく観察してみれば、それは黴だった。

――どうやったらこんなにも湿気しけるんだよ。

異様なほどの湿気に社務所は満ちている。襖は紙が溶けてぼろぼろだ。加えて、何か泥水のような臭いさえ漂っていた。いや――泥水というよりかは、海水を腐らせたような臭いだ。

土足で上がる。石段と同じく、しっとりとした感触が靴底に伝わった。

廊下の左が受付であり、右はトイレや物置のようだ。

襖の前に立ち、冬樹は鉈を構える。

襖そのものは簡単に開けられそうだ。鉈を構えたのは、警戒心が急に浮かんだためだった。なぜか――ここはあまり開けたくはない。もしも、先ほどの物音が気のせいでなかったとしたら、一体、何がいるのだろうか。

冬樹は襖の取っ手に手を掛け、一息吐いた。

力を込めると、がたがたと音を立て襖は開いていった。

そして叫びそうになる。

部屋の一面に楕円の黒い影が這っていたからだ。それは、天然痘患者の皮膚に生じる膿疱にも似ていた。楕円の影は部屋の片隅に密集し、黒い塊をなしている。蟲の背中には、団子蟲と同じような横縞があった。

――舟蟲だ。

冬樹はたたらを踏み、背後の壁にぶつかる。

部屋の片隅の真っ黒な塊が動きだした。舟蟲の群れに覆われているだけで、どうやらそれは人のようだ。上半身を起こしたとき、頭上から何匹かの舟蟲がばらばらと落ち、一瞬だけ、老人の白髪が姿を覗かせた。

蟲達は一斉に動き出し、廊下に這い出てくる。

ぬめぬめと滑る床を蹴飛ばし、冬樹は逃げ出した。

社務所から飛び出し、草叢の中を必死で駆け抜けてゆく。鉈を振り捨て、肩や腕を払いながら参道へと駆け出た。ジャージのどこかに舟蟲がついていないか不安でたまらない。もう、一秒たりとも山の中にいたくなかった。背後を振り返ることもなく、一目散に石段を駆け下りる。無論、転ばないようにしっかりと手すりは握っていた。

――ここは異常だ。

十年もの間、ここには誰も這入らなかったのかもしれない。

けれどもその閉ざされた空間に、何者かがずっと存在していたのではないか。

そうであるならば――やはり冬樹は、こんな処へ来るべきではなかったのだ。

そう後悔したところで遅い。見るべきではないものを見てしまったような気がする。ともかく滑り落ちないよう最低限気をつけながら、平坂神社の石段を猛スピードで下っていった。
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