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第五章 霜降
8 もう一度
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不吉な噂を美邦が聞いたのは夕食後のことだ。
天井から吊るされた電灯が揺れる。食器を洗う音が台所から聞こえていた。風呂に入っていて居間に啓はいない。
千秋と観ていたアニメが終わり、テレビの画面が暗くなる。そんなとき、ふと尋ねられた。
「そういや、中学校の方でも怪物の噂ってある?」
美邦は首をかしげる。
「――怪物?」
「うん、今、すごい噂されとるだぁが。」
千秋はやや声をひそめる。
「真夜中にな――見たって人がいっぱいおるにぃ。犬だか獣だか分からん影みたいなんで、円くて紅い目が二つ付いとるだって。」
刹那、芳賀が見つけたスレッドを思い出した。あそこにも、発光ダイオードのような光を見たと書かれていたのだ――ただし、平坂神社の神は一つ目のはずだが。
続いて、教室で聞こえた囁き声を思い出す。
「来た」と言っていたのか、「見た」と言っていたかのは分からない。だが、何かの噂はあるのだろう。
「いや――知らないけど。」
首を横に振ったが、気にかかって尋ねる。
「見た人がいる――って?」
「うん――クラスの高橋君なんかそれだけど。」
意外と具体的な名前が出た。
「高橋君な、浜通り沿いにある古くて大きい家に住んどるだけどな――。夜中にトイレに起きたとき、窓の外に、ちかーっ、ちかーって紅い光が見えただって。スーって海沿いを動いとったらしいだけど。」
「それって、車じゃないの?」
「いや――違うって。車だったら、走る音が聞こえるはずだがぁ? でも、たぶん人みたいなもんが、浮かびながら進んどったとか。」
「千秋、そんな話はやめんさい。」
不機嫌な声が台所から聞こえた。
「大原さんも、そんな話はさせなさんな。実相寺さんが失踪しとる最中だってのに――不謹慎な。」
美邦は唖然とする。やがて、申し訳ありませんと答えた。
詠歌から、「大原さん」と呼ばれたのは初めてだ。
居心地が悪くなり、課題を口実に部屋へと戻る。本当は、もう全て済ませていた。しかし、詠歌と同じ空間にいることが苦痛だったのだ。
自室に戻ると、開けっ放しにしていた障子から夜が見えた。近づくと、潮騒の混ざった風音が硝子越しに聞こえた。千秋から聴いたことを思い出し、そっと閉じる。
それから、スマートフォンを眺めて時間をつぶした。
やがて、風呂から上がったことを千秋が伝えにくる。
この家では、風呂に入る順番は必ず決まっている。啓・詠歌・千秋・美邦だ。啓が仕事で遅くならない限り、この順番を変えることは詠歌が許さない。
一階へ降り、風呂に入る。湯船には、髪の毛や垢が浮かんでいた――疲れを癒せるものではない。それでも、自分の入れる風呂はこれしかないのだ。
風呂から上がり、ドライヤで髪を乾かす。とろとろとした眠気が浮かんできた。
気だるい足取りで脱衣所を出る。
そんなとき――冷たいアスファルトに足の裏の感触が変わった。周囲の景色も、紅い布の吊るされたシャッター街となる。
夢を見ていることに美邦は気づかなかった。
ひとけのない町を歩いてゆく。寝間着を通り越して冷たい空気が肌を撫でた。寒さに軽く震える。
操られるように足は動いた。
ここには来たと漠然と感じる。通りを跨ぐアーチ状の看板や郵便局も見覚えがあった。
家に帰りたかった。しかし、ぼんやりとして何も考えられない。
やがて駅が現れた。
広場を横切り、踏切へ向かう。
線路沿いに張られたフェンスのなか、蜜蜂のような縞模様が街灯に照らされていた。
突然、割れるような警鐘が鳴る。暗闇の中、真紅な二つの光が交互に明滅した。その姿は、千秋から聞いた「怪物」を思い起こさせる。
ゆっくりと遮断桿が下りてきた。
行く手を閉ざす縞模様を美邦はまたぐ。そして、踏み板の中央に立った。溝に嵌った二つのレールが目の前にある。
まずいなとぼんやり思っていた。しかし動けない。
割れるような電子音が頭の上で鳴り続ける。遠くで光が灯り、唸るような汽車の音が聞こえてきた。
白いライトが差し、踏切が明るくなる。
頭を上げた。
目の前に汽車が迫り、全身を打たれた。
叫び声が喉を焼く。
「美邦ちゃん! どうした!?」
啓が近寄ってきた。
客観的に言えば――脱衣所から出たところで美邦は立ち止まっていたにすぎない。
啓は、その姿を居間から目に止めていた。やがて、魂の抜けたように彳む姿を不審に思い始めたのだ。その矢先のことだった――跳ね飛ばされたように美邦が倒れ、叫んだのは。
啓に抱きつき、激しく美邦は泣き始める。
しばらくの間、今の光景が夢だと美邦は気づけなかった。煮えるような恐怖が後頭部を灼いている。頭は酷く混乱していた。
詠歌もまた、怪訝な顔で近寄ってくる。
大きな音がしたためか、やがて千秋が二階から降りてくる。そして、泣きじゃくる美邦を目にして慄然とした。そんな千秋を詠歌は怒鳴り飛ばす。
「あんたは寝てなさい!」
びくりとし、そそくさと千秋は二階へ戻ってゆく。
美邦は、随分と泣きじゃくったあと、少しずつ冷静になり始めた――汽車に跳ね飛ばされたわけではないと理解し始めたのだ。
それでも、死の恐ろしさは消えない。しばらくのあいだ、啓の胸の中から離れられなかった。
優しく背中がなでられる。
「美邦ちゃん――いったい何があったんだ?」
美邦は、今の出来事を説明しようとした。口から漏れる言葉は支離滅裂で意味をなさない。それでも、自分に何が起きたのか理解しようとしたことは、混乱を収束させることに貢献した。
――あれは一体、何だったの?
まるで突発的に襲ってきた暴力のようだ。しかし、薄っすらとではあるが意味は感じられる。
――由香。
親友の名前が浮かぶ。
――由香は、大丈夫なの?
ふと、家の外が騒がしくなった。
普通、平坂町の夜は静まり返っている。しかし、複数の跫音と、何かを言い合う声が聞こえ始めたのだ。やがて、救急車のサイレン音が遠くに響いた。
詠歌は雨戸を少し開け、外を窺う。
「なんだらあか?」
美邦は跳ね起きた。
「由香――!」
「えっ――?」
困惑する詠歌にすがりつく。
「由香なんでしょう!? 今のは!」
「美邦ちゃん、少し落ち着きんさい――」
その言葉は、美邦の耳に届かなかった。
「由香が汽車に跳ね飛ばされたんです! それでみんな集まっているんじゃないんですか!? 違うのなら違うとそう言ってください――!」
平手打ちが飛んでくる。
何が起きたか再び分からなくなった。強い痛みが頬を焼く。再び、ぼろぼろと両目から涙が零れた。
おい、と啓は言い、詠歌の肩を掴もうとする。それを詠歌は振り払った。
「ええ加減にせえや! こっちには小さな子供だっておるにい!」
静寂が訪れる。
美邦は涙を拭うことなく、呆然と突っ立っていた。
啓は唖然とする。ここまで激怒する妻を久しぶりに見た。負の感情をほとんど見せない、いつもの陽気な詠歌とは別人のように感じられる。
しばらくして、詠歌の顔に後悔が浮かんだ。頬を腫らし、だらだらと涙を流す姿に胸を痛めたのだろう――居間のかたわらに畳んであるタオルを手に取ると、そっと美邦の涙を拭いた。
「美邦ちゃん、とりあえず今日は寝ない。詳しいことは、落ち着いて明日にでも話さあ。」
操り人形のように、こくりと美邦はうなづく。
詠歌に肩を抱かれ、二階へと昇った。
自室へ這入り、ベッドに寝かしつけられる。明かりを消すと、詠歌は部屋を出た。
再び、独りになる。
ベッドの中で、死への恐怖が湧き上がってきた。
遠くからは、救急車のサイレン音が響き続ける。
――神祭りの夜は外へ出てはならない。
どういうわけか、そんな言葉が頭の中に響いた。御忌の日の夜、町民は家の中に篭って、震えて眠らなければならないという。それはまさに、今の美邦の状態と同じではなかっただろうか。
天井から吊るされた電灯が揺れる。食器を洗う音が台所から聞こえていた。風呂に入っていて居間に啓はいない。
千秋と観ていたアニメが終わり、テレビの画面が暗くなる。そんなとき、ふと尋ねられた。
「そういや、中学校の方でも怪物の噂ってある?」
美邦は首をかしげる。
「――怪物?」
「うん、今、すごい噂されとるだぁが。」
千秋はやや声をひそめる。
「真夜中にな――見たって人がいっぱいおるにぃ。犬だか獣だか分からん影みたいなんで、円くて紅い目が二つ付いとるだって。」
刹那、芳賀が見つけたスレッドを思い出した。あそこにも、発光ダイオードのような光を見たと書かれていたのだ――ただし、平坂神社の神は一つ目のはずだが。
続いて、教室で聞こえた囁き声を思い出す。
「来た」と言っていたのか、「見た」と言っていたかのは分からない。だが、何かの噂はあるのだろう。
「いや――知らないけど。」
首を横に振ったが、気にかかって尋ねる。
「見た人がいる――って?」
「うん――クラスの高橋君なんかそれだけど。」
意外と具体的な名前が出た。
「高橋君な、浜通り沿いにある古くて大きい家に住んどるだけどな――。夜中にトイレに起きたとき、窓の外に、ちかーっ、ちかーって紅い光が見えただって。スーって海沿いを動いとったらしいだけど。」
「それって、車じゃないの?」
「いや――違うって。車だったら、走る音が聞こえるはずだがぁ? でも、たぶん人みたいなもんが、浮かびながら進んどったとか。」
「千秋、そんな話はやめんさい。」
不機嫌な声が台所から聞こえた。
「大原さんも、そんな話はさせなさんな。実相寺さんが失踪しとる最中だってのに――不謹慎な。」
美邦は唖然とする。やがて、申し訳ありませんと答えた。
詠歌から、「大原さん」と呼ばれたのは初めてだ。
居心地が悪くなり、課題を口実に部屋へと戻る。本当は、もう全て済ませていた。しかし、詠歌と同じ空間にいることが苦痛だったのだ。
自室に戻ると、開けっ放しにしていた障子から夜が見えた。近づくと、潮騒の混ざった風音が硝子越しに聞こえた。千秋から聴いたことを思い出し、そっと閉じる。
それから、スマートフォンを眺めて時間をつぶした。
やがて、風呂から上がったことを千秋が伝えにくる。
この家では、風呂に入る順番は必ず決まっている。啓・詠歌・千秋・美邦だ。啓が仕事で遅くならない限り、この順番を変えることは詠歌が許さない。
一階へ降り、風呂に入る。湯船には、髪の毛や垢が浮かんでいた――疲れを癒せるものではない。それでも、自分の入れる風呂はこれしかないのだ。
風呂から上がり、ドライヤで髪を乾かす。とろとろとした眠気が浮かんできた。
気だるい足取りで脱衣所を出る。
そんなとき――冷たいアスファルトに足の裏の感触が変わった。周囲の景色も、紅い布の吊るされたシャッター街となる。
夢を見ていることに美邦は気づかなかった。
ひとけのない町を歩いてゆく。寝間着を通り越して冷たい空気が肌を撫でた。寒さに軽く震える。
操られるように足は動いた。
ここには来たと漠然と感じる。通りを跨ぐアーチ状の看板や郵便局も見覚えがあった。
家に帰りたかった。しかし、ぼんやりとして何も考えられない。
やがて駅が現れた。
広場を横切り、踏切へ向かう。
線路沿いに張られたフェンスのなか、蜜蜂のような縞模様が街灯に照らされていた。
突然、割れるような警鐘が鳴る。暗闇の中、真紅な二つの光が交互に明滅した。その姿は、千秋から聞いた「怪物」を思い起こさせる。
ゆっくりと遮断桿が下りてきた。
行く手を閉ざす縞模様を美邦はまたぐ。そして、踏み板の中央に立った。溝に嵌った二つのレールが目の前にある。
まずいなとぼんやり思っていた。しかし動けない。
割れるような電子音が頭の上で鳴り続ける。遠くで光が灯り、唸るような汽車の音が聞こえてきた。
白いライトが差し、踏切が明るくなる。
頭を上げた。
目の前に汽車が迫り、全身を打たれた。
叫び声が喉を焼く。
「美邦ちゃん! どうした!?」
啓が近寄ってきた。
客観的に言えば――脱衣所から出たところで美邦は立ち止まっていたにすぎない。
啓は、その姿を居間から目に止めていた。やがて、魂の抜けたように彳む姿を不審に思い始めたのだ。その矢先のことだった――跳ね飛ばされたように美邦が倒れ、叫んだのは。
啓に抱きつき、激しく美邦は泣き始める。
しばらくの間、今の光景が夢だと美邦は気づけなかった。煮えるような恐怖が後頭部を灼いている。頭は酷く混乱していた。
詠歌もまた、怪訝な顔で近寄ってくる。
大きな音がしたためか、やがて千秋が二階から降りてくる。そして、泣きじゃくる美邦を目にして慄然とした。そんな千秋を詠歌は怒鳴り飛ばす。
「あんたは寝てなさい!」
びくりとし、そそくさと千秋は二階へ戻ってゆく。
美邦は、随分と泣きじゃくったあと、少しずつ冷静になり始めた――汽車に跳ね飛ばされたわけではないと理解し始めたのだ。
それでも、死の恐ろしさは消えない。しばらくのあいだ、啓の胸の中から離れられなかった。
優しく背中がなでられる。
「美邦ちゃん――いったい何があったんだ?」
美邦は、今の出来事を説明しようとした。口から漏れる言葉は支離滅裂で意味をなさない。それでも、自分に何が起きたのか理解しようとしたことは、混乱を収束させることに貢献した。
――あれは一体、何だったの?
まるで突発的に襲ってきた暴力のようだ。しかし、薄っすらとではあるが意味は感じられる。
――由香。
親友の名前が浮かぶ。
――由香は、大丈夫なの?
ふと、家の外が騒がしくなった。
普通、平坂町の夜は静まり返っている。しかし、複数の跫音と、何かを言い合う声が聞こえ始めたのだ。やがて、救急車のサイレン音が遠くに響いた。
詠歌は雨戸を少し開け、外を窺う。
「なんだらあか?」
美邦は跳ね起きた。
「由香――!」
「えっ――?」
困惑する詠歌にすがりつく。
「由香なんでしょう!? 今のは!」
「美邦ちゃん、少し落ち着きんさい――」
その言葉は、美邦の耳に届かなかった。
「由香が汽車に跳ね飛ばされたんです! それでみんな集まっているんじゃないんですか!? 違うのなら違うとそう言ってください――!」
平手打ちが飛んでくる。
何が起きたか再び分からなくなった。強い痛みが頬を焼く。再び、ぼろぼろと両目から涙が零れた。
おい、と啓は言い、詠歌の肩を掴もうとする。それを詠歌は振り払った。
「ええ加減にせえや! こっちには小さな子供だっておるにい!」
静寂が訪れる。
美邦は涙を拭うことなく、呆然と突っ立っていた。
啓は唖然とする。ここまで激怒する妻を久しぶりに見た。負の感情をほとんど見せない、いつもの陽気な詠歌とは別人のように感じられる。
しばらくして、詠歌の顔に後悔が浮かんだ。頬を腫らし、だらだらと涙を流す姿に胸を痛めたのだろう――居間のかたわらに畳んであるタオルを手に取ると、そっと美邦の涙を拭いた。
「美邦ちゃん、とりあえず今日は寝ない。詳しいことは、落ち着いて明日にでも話さあ。」
操り人形のように、こくりと美邦はうなづく。
詠歌に肩を抱かれ、二階へと昇った。
自室へ這入り、ベッドに寝かしつけられる。明かりを消すと、詠歌は部屋を出た。
再び、独りになる。
ベッドの中で、死への恐怖が湧き上がってきた。
遠くからは、救急車のサイレン音が響き続ける。
――神祭りの夜は外へ出てはならない。
どういうわけか、そんな言葉が頭の中に響いた。御忌の日の夜、町民は家の中に篭って、震えて眠らなければならないという。それはまさに、今の美邦の状態と同じではなかっただろうか。
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