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第五章 霜降
3 許さない
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昼下がり――詠歌は家で拭き掃除をしていた。
詠歌は潔癖だった。新品同様に台所は綺麗にしておかなければ気が済まない。そうでなければ気持ちよく使えないのだ。
ガスコンロの下から黒い蟲が飛び出た。
思わず跳ねのく。
素早い動きで楕円の蟲は消えた。
しばらくのあいだ呆然と彳む。
だが、やがて腹立たしくなってきた。
最近は、様々なことが腹立たしい――新しい同居人の感触、増えている家事、掃除中に見つける長い髪などが。そんな中――蟲は現れた。
――こんな季節に、何で出てくるんだ。
自分に手落ちがあるわけがない。台所はいつも綺麗にしている。それなのに、なぜ、こんな不快な目に遭わなければならないのか。
――なぜ。
踏み台を持ってきて、戸棚から殺虫剤を出そうとする。
刹那、背中が寒くなった。
振り返る。
当然、そこには誰もいなかった。
いま、この家には詠歌しかいない。美邦と千秋は学校に行っているし、啓も出勤している。分かり切ったことだ。にも拘らず――なにかが居ると感じた。
美邦と同居し始めて以来、こんなことがよくある。初めは、家が狭く感じられただけだった。だが――やがて、見ず知らずの何かが居る気がしてきた。
――やっぱり、昨日の「あれ」もそうなのか。
それは――昨晩の深夜のことだ。
物音を聞いたように思い、詠歌は目を覚ました。
周りに異常はない。隣では啓が寝息を立てている。
――まただ。
以前には決してなかったことだ。事実、こんな深夜に千秋が起きてきたことはない。
美邦には注意したはずだ。しかし、夜中に起きてくる気這いは、あれ以降も何度か感じていた。
気のせいではない。幽かではあるが、廊下から跫音が聞こえる。ちょうど、部屋の前を通り過ぎているようだ。
――居候の分際で。
文句を言おうと思い、ふすまを開ける。
そこには、薄暗い闇しかなかった。
詠歌は目を凝らす。
誰かがいれば、必ず判るはずだ。しかし、どう見ても何もない。怪訝に思っていると、忍び足が聞こえた。仄暗い闇の中を、階段へ向かってゆく。
二階に昇り、段々と小さくなっていった。
それが消えるまで、詠歌は身体を動かせなかった。
ふすまを閉じ、自分の布団へと速やかに駈け込む。廊下に背中を向け、丸まった。布団の外に拡がる闇が、異様なほど恐ろしく感じられる。
恐怖は、ワンテンポ遅れてやって来る。
廊下を覗いていたときは、どちらかというと暗闇から目が離せなかった。むしろ布団に包まったあとや、こうして昼間に思い出しているときにこそ、寒いものを感じる。誰もいないはずの家に――本当に何者かがいるように思えてしまう。
――家鳴りだ。
家鳴りだったに違いない――詠歌はそう考えることとした。大の大人が、こんなことを思い出して昼間から怖がっているものではない。
――でも。
正体は分からずとも、原因はあるはずなのだ――可怪しなものを感じ、理不尽な目に遭う原因が。それが、いつから始まったかは明らかだ。
殺虫剤を手に取った。
気にしだすと、隙間という隙間が気に掛かる。
まず手始めに、楕円の蟲が逃げ込んだはずの隙間へと殺虫剤を噴射した――やや執拗に――自分の鼻が可怪しくなるほどに。
――このままでは置かない。
詠歌は潔癖だった。新品同様に台所は綺麗にしておかなければ気が済まない。そうでなければ気持ちよく使えないのだ。
ガスコンロの下から黒い蟲が飛び出た。
思わず跳ねのく。
素早い動きで楕円の蟲は消えた。
しばらくのあいだ呆然と彳む。
だが、やがて腹立たしくなってきた。
最近は、様々なことが腹立たしい――新しい同居人の感触、増えている家事、掃除中に見つける長い髪などが。そんな中――蟲は現れた。
――こんな季節に、何で出てくるんだ。
自分に手落ちがあるわけがない。台所はいつも綺麗にしている。それなのに、なぜ、こんな不快な目に遭わなければならないのか。
――なぜ。
踏み台を持ってきて、戸棚から殺虫剤を出そうとする。
刹那、背中が寒くなった。
振り返る。
当然、そこには誰もいなかった。
いま、この家には詠歌しかいない。美邦と千秋は学校に行っているし、啓も出勤している。分かり切ったことだ。にも拘らず――なにかが居ると感じた。
美邦と同居し始めて以来、こんなことがよくある。初めは、家が狭く感じられただけだった。だが――やがて、見ず知らずの何かが居る気がしてきた。
――やっぱり、昨日の「あれ」もそうなのか。
それは――昨晩の深夜のことだ。
物音を聞いたように思い、詠歌は目を覚ました。
周りに異常はない。隣では啓が寝息を立てている。
――まただ。
以前には決してなかったことだ。事実、こんな深夜に千秋が起きてきたことはない。
美邦には注意したはずだ。しかし、夜中に起きてくる気這いは、あれ以降も何度か感じていた。
気のせいではない。幽かではあるが、廊下から跫音が聞こえる。ちょうど、部屋の前を通り過ぎているようだ。
――居候の分際で。
文句を言おうと思い、ふすまを開ける。
そこには、薄暗い闇しかなかった。
詠歌は目を凝らす。
誰かがいれば、必ず判るはずだ。しかし、どう見ても何もない。怪訝に思っていると、忍び足が聞こえた。仄暗い闇の中を、階段へ向かってゆく。
二階に昇り、段々と小さくなっていった。
それが消えるまで、詠歌は身体を動かせなかった。
ふすまを閉じ、自分の布団へと速やかに駈け込む。廊下に背中を向け、丸まった。布団の外に拡がる闇が、異様なほど恐ろしく感じられる。
恐怖は、ワンテンポ遅れてやって来る。
廊下を覗いていたときは、どちらかというと暗闇から目が離せなかった。むしろ布団に包まったあとや、こうして昼間に思い出しているときにこそ、寒いものを感じる。誰もいないはずの家に――本当に何者かがいるように思えてしまう。
――家鳴りだ。
家鳴りだったに違いない――詠歌はそう考えることとした。大の大人が、こんなことを思い出して昼間から怖がっているものではない。
――でも。
正体は分からずとも、原因はあるはずなのだ――可怪しなものを感じ、理不尽な目に遭う原因が。それが、いつから始まったかは明らかだ。
殺虫剤を手に取った。
気にしだすと、隙間という隙間が気に掛かる。
まず手始めに、楕円の蟲が逃げ込んだはずの隙間へと殺虫剤を噴射した――やや執拗に――自分の鼻が可怪しくなるほどに。
――このままでは置かない。
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