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第四章 寄神
5 帰霊の日
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障子の格子が逆光で黒く浮かんでいた。
――ここはどこだろう。
ぼんやりと由香は思う。
親戚の人々が広い和室に集まり、ご馳走を食べていた。テーブルには海の幸が竝ぶ。しかし、美味しそうに見えない。平坂町に住んでいれば、刺身や蟹などは一年中食べられる。
何より、まだ幼い由香の口に合わない。
ちまちまと河童巻きを摘まんでいると、隣から声を掛けられた。
「ほら、貞君が来たで。」
顔を上げると、絶縁して久しい伯母がいた。
そして思い出す。
ここは、入江にある本家の二階だ。普段は、二つの八畳間が襖で仕切られている。今日は、襖が取り払われて大広間となっていた。
――お盆だけぇなあ。
そんなことを考えていると、一人の青年が左隣に坐った。肩から上は見えない。当然、どのような顔かも分からなかった。
だが、とても懐かしい感じがする。
「伯母さん、遅くなってすみません。」
いや、ええだけえ――と伯母は答える。
「そがなことよりな、由香ちゃん、貞君のこと待っとっただで? 今日なんかも、貞兄さんは私の隣に坐るぅだなんて言うて、ここの席、確保しとったくらいだにぃ。」
そんなことも言っただろうか。
「ああ――そうですか。」
彼は苦笑したらしい。
温かい手が由香の頭を撫でる。
「由香ちゃん、すまんなあ。お父さんも仕事であんま家におらんだらあに。寂しかったでないだか?」
ぱっと明るくなった。
――思い出した。
この人は貞夫お兄さんだ。兄弟のいない由香の兄代わりをしてくれている従兄のお兄さんなのだ。
久しぶりに甘えたくなる。
「貞兄さんがおるけえ、寂しくない。」
「そっか。」視界の端で唇がほころんだ。「蟹の身ぃ、剥いたろうか? 由香ちゃん、まだ上手に剥けんでない?」
「うん、剥いて。」
蟹の脚へと彼は手を伸ばす。
その小指は、第二関節から先がない。貞夫が幼いころ、船に指を挟まれて失ったのだという。
そういえば、貞夫はどんな顔だっただろうか。
なぜか、貞夫の顔を由香は正視していない。
いや――そもそも、いつから自分はここにいるのか。貞夫の顔も、見ていないのではなくて、見られないのではないか。なぜならば――。
そこまで考えたとき、まぶたは自然と開いた。
眼に写ったのは、朝日の差し込む部屋だ。飴色の光が、ハウスダストを照らして明暗を分けている。
――貞兄さんは。
七年前――亡くなったのだ。
枕元のぬいぐるみを、そっと抱きしめる。
スマートフォンに目をやった。朝の七時に差し掛かろうとしている。
寝過ごしたとしても、由香を起こす者はいない。
アラームを解除し、のそのそと起き上がる。
妙に、身体が軽く感じられた。
入るべき力が、いつもより入らない。頭もぼんやりとしている。恐らく、寝起きのためだろう。
寝間着のまま台所へ向かった。
先ほどの夢を思い出す。第一関節から欠けた小指は、当然、雨の日に見たものと重なった。
――あれは美邦ちゃんも見てた。
汚い手には藻がついていたのだ。しかも――強い潮の臭いがしていた。
台所に這入る。
掃除は行き届いておらず、ゴミ袋もいくつか放置されている。
由香は、家事が得意ではない。やろうとしても忘れる。自分だけでは追い付かない。
――お母さん帰って来とるかいなあ。
いや、帰って来ていたとしても分からない。夜の仕事をする母と由香とは起床時間があまりにも違う。
父が事業に失敗して五年ほど経った。
それからしばらくは肉体労働を行っていたが、今はもう辞めてしまい、酒浸りの生活を送っている。安い焼酎を水で割っては、四六時中ちびちびと呑み続けているようだ。今頃は父も、寝室で由香と同じく昔の夢を見ているのだろうか。
食パンを一枚取り出し、トースターに叩き込む。
少しのあいだ、赤外線の紅い光を見つめた。
貞夫は――ある日いきなり失踪したのだ。しばらくして、腐乱した遺体が港の排水溝から発見された。恐らくは転落したのだという。
電気ポットのスイッチを入れる。そして、インスタント珈琲の瓶を取った。
そんなとき――放置された食器の隙間から、さっと素早く動く影が見えた。
それは、平べったい楕円をしていた。
背筋が凍る。
由香は、人にも増してあの害蟲が嫌いだ。ゆえに、夏の間は小まめに掃除をしていたし、隙間という隙間はガムテープで塞いでいた。結果、出現数は減りつつあるはずだった。
――隙間――。
途端に、食器の隙間や、冷蔵庫の後ろが恐くなる。
この季節になるまで、どこに潜んでいたのだろう。床下や下水に潜んでいて、由香の知らない隙間から出て来たのだろうか。
恐る恐る排水口を覗き込む。塞いでいない隙間で、思い当たるのはそこしかない。だが、配水管は途中でS字に湾曲して水が溜まっているはずだ。ならば、ここから侵入することは無理だろう。
そう思った矢先だ。
排水口に被せてあるゴムの隙間から、髪の毛のように細い触角がちらちらと動いた。まるで、こちらへ向かうために出口を探しているようだ。
全身の毛穴が一気に開く。
ごぼごぼと湯気を立て、電気ポットから湯気が噴き出す。
ポットを手に取り、熱湯を排水口へ注いだ。一枚の皿を念入りに熱湯で消毒する。トーストをそこへ載せると、自分の部屋へ引き返していった。
――ここはどこだろう。
ぼんやりと由香は思う。
親戚の人々が広い和室に集まり、ご馳走を食べていた。テーブルには海の幸が竝ぶ。しかし、美味しそうに見えない。平坂町に住んでいれば、刺身や蟹などは一年中食べられる。
何より、まだ幼い由香の口に合わない。
ちまちまと河童巻きを摘まんでいると、隣から声を掛けられた。
「ほら、貞君が来たで。」
顔を上げると、絶縁して久しい伯母がいた。
そして思い出す。
ここは、入江にある本家の二階だ。普段は、二つの八畳間が襖で仕切られている。今日は、襖が取り払われて大広間となっていた。
――お盆だけぇなあ。
そんなことを考えていると、一人の青年が左隣に坐った。肩から上は見えない。当然、どのような顔かも分からなかった。
だが、とても懐かしい感じがする。
「伯母さん、遅くなってすみません。」
いや、ええだけえ――と伯母は答える。
「そがなことよりな、由香ちゃん、貞君のこと待っとっただで? 今日なんかも、貞兄さんは私の隣に坐るぅだなんて言うて、ここの席、確保しとったくらいだにぃ。」
そんなことも言っただろうか。
「ああ――そうですか。」
彼は苦笑したらしい。
温かい手が由香の頭を撫でる。
「由香ちゃん、すまんなあ。お父さんも仕事であんま家におらんだらあに。寂しかったでないだか?」
ぱっと明るくなった。
――思い出した。
この人は貞夫お兄さんだ。兄弟のいない由香の兄代わりをしてくれている従兄のお兄さんなのだ。
久しぶりに甘えたくなる。
「貞兄さんがおるけえ、寂しくない。」
「そっか。」視界の端で唇がほころんだ。「蟹の身ぃ、剥いたろうか? 由香ちゃん、まだ上手に剥けんでない?」
「うん、剥いて。」
蟹の脚へと彼は手を伸ばす。
その小指は、第二関節から先がない。貞夫が幼いころ、船に指を挟まれて失ったのだという。
そういえば、貞夫はどんな顔だっただろうか。
なぜか、貞夫の顔を由香は正視していない。
いや――そもそも、いつから自分はここにいるのか。貞夫の顔も、見ていないのではなくて、見られないのではないか。なぜならば――。
そこまで考えたとき、まぶたは自然と開いた。
眼に写ったのは、朝日の差し込む部屋だ。飴色の光が、ハウスダストを照らして明暗を分けている。
――貞兄さんは。
七年前――亡くなったのだ。
枕元のぬいぐるみを、そっと抱きしめる。
スマートフォンに目をやった。朝の七時に差し掛かろうとしている。
寝過ごしたとしても、由香を起こす者はいない。
アラームを解除し、のそのそと起き上がる。
妙に、身体が軽く感じられた。
入るべき力が、いつもより入らない。頭もぼんやりとしている。恐らく、寝起きのためだろう。
寝間着のまま台所へ向かった。
先ほどの夢を思い出す。第一関節から欠けた小指は、当然、雨の日に見たものと重なった。
――あれは美邦ちゃんも見てた。
汚い手には藻がついていたのだ。しかも――強い潮の臭いがしていた。
台所に這入る。
掃除は行き届いておらず、ゴミ袋もいくつか放置されている。
由香は、家事が得意ではない。やろうとしても忘れる。自分だけでは追い付かない。
――お母さん帰って来とるかいなあ。
いや、帰って来ていたとしても分からない。夜の仕事をする母と由香とは起床時間があまりにも違う。
父が事業に失敗して五年ほど経った。
それからしばらくは肉体労働を行っていたが、今はもう辞めてしまい、酒浸りの生活を送っている。安い焼酎を水で割っては、四六時中ちびちびと呑み続けているようだ。今頃は父も、寝室で由香と同じく昔の夢を見ているのだろうか。
食パンを一枚取り出し、トースターに叩き込む。
少しのあいだ、赤外線の紅い光を見つめた。
貞夫は――ある日いきなり失踪したのだ。しばらくして、腐乱した遺体が港の排水溝から発見された。恐らくは転落したのだという。
電気ポットのスイッチを入れる。そして、インスタント珈琲の瓶を取った。
そんなとき――放置された食器の隙間から、さっと素早く動く影が見えた。
それは、平べったい楕円をしていた。
背筋が凍る。
由香は、人にも増してあの害蟲が嫌いだ。ゆえに、夏の間は小まめに掃除をしていたし、隙間という隙間はガムテープで塞いでいた。結果、出現数は減りつつあるはずだった。
――隙間――。
途端に、食器の隙間や、冷蔵庫の後ろが恐くなる。
この季節になるまで、どこに潜んでいたのだろう。床下や下水に潜んでいて、由香の知らない隙間から出て来たのだろうか。
恐る恐る排水口を覗き込む。塞いでいない隙間で、思い当たるのはそこしかない。だが、配水管は途中でS字に湾曲して水が溜まっているはずだ。ならば、ここから侵入することは無理だろう。
そう思った矢先だ。
排水口に被せてあるゴムの隙間から、髪の毛のように細い触角がちらちらと動いた。まるで、こちらへ向かうために出口を探しているようだ。
全身の毛穴が一気に開く。
ごぼごぼと湯気を立て、電気ポットから湯気が噴き出す。
ポットを手に取り、熱湯を排水口へ注いだ。一枚の皿を念入りに熱湯で消毒する。トーストをそこへ載せると、自分の部屋へ引き返していった。
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