神送りの夜

千石杏香

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第三章 寒露

4 跡地

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放課後になった。

由香と幸子と共に学校を出る。

大粒の雫が傘を叩いた。空気は、湿っているというより冷たい。学校の前は、下校する生徒で賑わっている。しかし、ひとけがすぐに消えてしまうことは先日から知っていた。

紅い消火栓の前まで、下り坂を三人で歩む。

丁字路で幸子は立ち止まり、中通りの北を指さした。

「じゃあ、私こっちだけん。」

由香は、また明日ねと応え、美邦は、じゃあねと応える。

「うん、気ぃつけてな。暗ぁならんうちに。」

幸子と別れた。

中通りを幸子と逆の方へ――南へと進む。

日没まで時間はあるが、薄暗い闇に町は包まれていた。下校する何名かの生徒を除き、人が消える。家々の軒に垂らされた紅い布は、雨露に濡れて血のように濃さを増していた。

雫の弾けるアスファルトに、粉々に砕かれたフロントグラスが散らばっているのが見えた。朝、ここへ来たときは、大破した車が見えたはずだ。その光景が、詠歌や冬樹の言葉を思い出させる。

「ねえ由香、この町って交通事故とか多いの?」

暗い傘の下で、由香は曖昧に笑む。

「確かに、多いほうかいな? 私が知るだけでも、三件ほど死亡事故が起きとるにぃ。」

「――三件?」

「やっぱ、路地や坂道が多いと危ないでない?」

「けど――」

死亡事故で三件だ。この小さな町で多すぎる。加えて言えば、不穏な噂は事故だけではない。

「けど――人さらいもいるって。」

「それは、どちらかといえば失踪だでな。この町、夜になると暗ぁなるけぇ。」

それに――と由香は続ける。

「こがなこと言うのもどうかと思うだけど――藤村君のお父さんも、自動車事故で亡くなっとるにぃ。私が知る死亡事故のうち、一つが、藤村君のお父さんが亡くなった事故なだけどな。」

意外な共通点を知り、目を伏せる。自分にも冬樹にも父親がいない。

「――そうなんだ。」

「だけぇ、藤村君、よけい気になるでないかいな?」

伊吹と平坂の間には、鞘川さやかわという川が流れている。幅は狭いが、川底は深い。

橋の手前には煙草屋が建っていた。栄養ドリンクや蚊取り線香の琺瑯ホーロー看板が貼られている。

何十年も時が止まったような光景を平坂町ではよく見る。そのたびに、懐かしさを感じていた――自分が経験したことのないはずのものへの懐かしさを。

鞘川に沿った道を、山へ向けて歩きだす。

通りには人がいなかった。

代わりに、廃屋が多い。その全てに紅い布は吊るされている。雨のせいで、ひときわ暗い影が落ちていた。過疎化は、確実にこの町を蝕んでいるらしい。

幻視も増えてゆく。

雨で霞んだ景色の中に人影が多くたたずむ。廃車や廃屋の中にもいた。その全てが、美邦の様子を窺っている。クラスメイトの数より多い。初めて教室へ這入った時を思い出す。他人から見られるのは怖い――生きている者であれ、生きていない者であれ。

幻視は、投棄された粗大ゴミとしても現れた。ブラウン型テレビや洗濯機・割れた水槽などが路上に次々と現れては消える。だが、現実の生き物はいない。

この先に――祟る神が祀られていたのだ。

「美邦ちゃん、大丈夫?」

由香に問われ、美邦は我に返る。

「何だぁ、不安げえな顔しとるけど――」

無意識のうちに怯えが現れていたらしい。

「いや――ちょっと、幻視があって。」

「シルクドソレイユ症候群ってやつ?」

不安な気持ちを、由香は察してくれたようだった。

「手、つながぁか?」

「うん――」

しかし、鞄と傘で両手は塞がれている。

話し合った結果、相合傘をすることとした。美邦が傘を畳み、由香の傘に入る。肩を寄せ、同じ柄を二人で握った。寄せ合う肩と手から由香の温もりが伝わる。傘の中は狭いが、そのことに安心した。まるで、冷たい雨の降る外から守られているようだ。

相合傘をして川沿いの道を進む。

途中、取り壊し中の廃屋を見た。「安全第一」と書かれたフェンスの中で、民家を破壊したままショベルカーが止まっている。そこに書かれた「稲置建設」という文字が目に残った。

由香は、スマートフォンで何度か住所を確認する。

やがて、伊吹山へ伸びる道が現れた。雛段状の石垣に挟まれた上り坂だ。丁字路には、眼鏡のような二面反射鏡が立っていた。鏡面に、無数の人影が写っている。

「こっちみたい。」

「うん。」

坂道を上る。石垣の上には民家や畑があったが、いずれも荒廃していた。

登るにつれて勾配はきつくなり、道幅も狭まる。進めば進むほど暗くなり、湿気も増す。

しかし、美邦は覚えていた。

――ここは来たことがある。

だからこそ不安を感じる――もはや光景とさえ残っていない記憶と現状との差異に。

坂を登り切ると、空き地が現れた。一面に、子供の背丈ほどもある雑草が茂っている。その向こうには森があり、洞窟のような黒い穴が開いていた。どうやら山の入り口らしい。その前にあったはずの鳥居はない。

困惑の声を由香は上げる。

「あすこが、神社の入口だったってことかいなぁ――? だとしたら、祀られとった神様も可哀想いとしげに。こんな――荒れ果ててしまって。」

美邦は森を見つめる。草木を刈り取れば、鳥居のあった記憶の光景と同じだ。

――あの中に石段が続いていた。

荒れ果てた風景が、十年の長さを感じさせた。同時に、得体の知れない不安も覚える――襟足の冷えるような、脚の竦むような。

「どしたん、美邦ちゃん?」

由香から声をかけられ、またしても我に返る。

「うん――いや、何でもない。」

「もう、美邦ちゃんったら、さっきから呆っとしとるで?」

そうかもしれない。中通りを折れたときから、じりじりとした不安が這い上っている。それは、この空き地に近づくにつれて高まっていた。なぜか、ここにいてはいけないような気がする。

サイレンが遠くから聞こえてきたのは、そんなときだ。

鋭い音が、降りやまない雨の中に響き続ける。十数秒ほど続いたあと、余韻を引き摺りながら退いていった。

由香が、真面目な声を急に出す。

「美邦ちゃん、もうそろそろ帰ろ。――藤村君も言っとっただら? 今日は雨が降っとるけぇ、暗ぁなるのも早いって。暗ぁなると、危ないで?」

「うん――そうだね。」

危ないという言葉が、切実なものを感じさせる。

相合傘を続けながら坂道を下った――少し早めの足取りで。暗くなってきているため見通しは悪い。

坂道から出ても、幻視以外に人の姿はなかった。

買い物帰りの主婦や、学校帰りの子供達の姿はどこにあるのだろう。雨だからといって、あまりにも静かすぎないだろうか。

そんなことを考えていたときだ。

刺すような痛みが右耳の奥にはしった。

右耳を押さえ、前かがみとなる。スピーカーから聞こえるような、キーンという音が響いていた。

由香は、心配そうに声を掛ける。

「大丈夫?」

「うん、ちょっと耳鳴りが――」

そう答え、美邦は顔を上げる。

そして――。

ぐしゃりという――泥を踏むような音を聞いた。

ぐしゃり、ぐしゃりと、音は大きくなってゆく。

どうやら、こちらへ向けて近づいてきているらしい。

顔を上げると、黒い人影が遠くに見えた。

――幻視だ。

泥を踏むような音は、その影が発している。

しかし、幻視ならば音を立てることはない。

隣から、見ちゃいけんという、ささやくような声が聞こえた。視線を横へ流せば、いつも美邦がするように由香は目を伏せている。

「あれは多分、見ちゃいけんもんだと思う。」

――幻視ではないのか。

美邦だけではなく、由香も見えている。それでも、こちらへ近づいて来ているものは、美邦がいつも見ている人影と変わりなかった。

由香の言葉に従い、美邦も目を伏せる。促されるまま前へ――音のするほうへ歩きだした。

耳鳴りは治まらない。じんじんと耳の奥が疼く。そんな中、千秋の言葉を思い出した。

――北朝鮮から船が来て。

泥を踏む音が近づいてくる。

――さらってくだって。

視界の端に、黒ずんだジーンズが現れた。どうやら男性らしい。ぐしゃりと泥を踏むような音がするのは、靴の中に雨水が充満しているためだ。

すれ違ったとき、男の白い手の甲が一瞬だけ見えた。藻のついた汚い水を垂らす手。小指は第二関節から先が欠けている。同時に潮の臭いがした――沙浜に立ったとき、打ち寄せる波から漂ってくるような濃厚な臭いだ。

泥を踏む音が背後に遠のいてゆく。

男から離れても、しばらくは無言で歩き続けた。いよいよ町は暗くなろうとしている。家々の窓から、温かい明かりが漏れた。

中通りへと差しかかったとき、ようやく由香は口を開く。

「じゃあ美邦ちゃん、私は伊吹だけぇ。」

そう言い、中学校がある方向を指さした。

「うん、分かった。」

由香の傘から出て、自分の傘を開く。同級生の女子と身体をくっつけて歩いていたことが、急に恥ずかしく感じられた。

「でも大丈夫? ちゃんと一人で帰れるかえ?」

由香は、なおも心配そうに声をかける。

「うん、大丈夫。由香のほうこそ――」

「私は、もうすぐそこだけぇ。――気ぃつけて帰ってな。その右耳も、痛いでないの?」

「ああ、耳は――まあ。」

そのときになって、先ほどまで酷かった痛みが、不思議と消えていることに美邦は気づいた。あれほど強かった不安も、綺麗さっぱりなくなっている。

「それかぁ。じゃあ、また明日な。」そう言い、由香は手を振った。

「うん、また明日ね。」美邦もまた、手を振り返す。

自分の家へ向け、とぼとぼと歩きだした。

空は暗くなる寸前だ。

歩幅は次第に大きくなり、駆け足となった。跳ねた泥が脹脛ふくらはぎへとかかったものの、気にしている場合ではない。町を覆う闇が、耐え難いほど怖くなっていた。
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