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第二章 神無月
3 消えてゆく人たち。
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藤村冬樹は、先ほどの自分の言葉を気にかけていた。
神社などない――と、なぜ言えなかったのだろう。
荒神塚を除けば神社はない。市内には無数にある神社が、この町にはない。誰の目にも明らかだ。しかし、知らないと言ってしまった――この自分が。
夕暮れになる前に家へ着いた。
冬樹は夕暮れが恐い。
この町に住む者は、程度の差はあれど誰もが夜を恐れる。クラスメイトも家族も、夜が迫れば必ず不安を訴える。軒に吊された紅い布は怯えの現れなのだ。
それゆえか、日没前の平坂町は閑散とする。
そんな中で、ちらちらと出歩いている二、三人ほどの人間が恐い。魂のない木偶が歩いているのかと想う。だから早めに帰る。
玄関へ上がり、「ただいま」と言った。
祖母の良子が台所から顔を出す。
「ああ、冬君、お帰りんさい。今から晩ご飯作るけん、うがいと手洗い先に済ませときんさい。」
うん、と冬樹は返事をし、洗面所へ這入る。本を横にのけ、蛇口をひねった。ふと再び気になる――まさかとは思うが、自分が知らないだけではないのか。
洗面所を出ると、良子が台所で夕食の準備を始めていた。冬樹は尋ねる。
「あの、一つ訊いてええ?」
「うん、何ぃ?」
「この町に、神社ってなかった? その――荒神さん以外で。何でも山ん中にあって、大きな社殿があるんとか。」
良子の手が、ぴたりと止まった。
何秒か経った後、ぽつりとこう言う。
「いや――少なくとも思い当たらんけどなあ――」
「そっか。」
それは当然の回答だった。しかし、答えるまでの間が引っかかる。
「それで――神社が一体どうしたん?」
「いや――色々とあって。詳しい話は後ででも。」
それだけ言うと、冬樹は台所を後にした。
自室に戻る。
床には、本棚に収まらなくなった本が積まれていた。『神隠しと日本人』『厄神と福神』『青銅の神の足跡』――中には、父から受け継いだ物もある。
借りてきた本を机に置く。
窓の外から静かに、時報のサイレンが聞こえてきた。空襲警報のように急激に強まり、単調に鳴り続けたあと、長い余韻を曵きながら灰色の空に消えてゆく。
窓へ目をやった。
夕暮れが始まる――まだ幼稚園だったあの時と同じように。
――父さん。
現場を見たわけではない。だから想像するしかない――海岸沿いの崖を通る県道、大きく湾曲して町が見えるその地点に、急ブレーキをかけた黒い跡が残るのを。タイヤをすり減らした黒い線は、何かを避けるように海へ向かい、ガードレールを突き破っている。
――何で。
あそこには歩道がない。だから、冬樹は未だ行けていないのだ。
カーテンを閉めた。
スマートフォンを取り出し、「平坂町」「神社」で検索した。当然ながら、荒神塚を除いて何も出ない。それを目にし、わずかに安堵する――自分は間違っていなかったのだ。
神社も祭りもない町だとずっと思っていた――だから気になるのかもしれない。
それからしばらく本を読んだ。やがて、玄関から音がする。冬樹は自室を出て階段を降りた。母親の早苗が帰ってきたところだった。スーツ姿だが、片手にはレジ袋を下げている。
「お帰り――母さん。」
「ただいま。」
レジ袋を受け取り、冬樹は台所へ向かった。食材を冷蔵庫へ入れる。ちょうど夕食が出来上がっていたので、良子と共にテーブルへと竝べだした。
夕食のとき、夕前の出来事について冬樹は話した。当然、早苗もまた不可解な顔をする。
「神社――?」
「うん。大きな社殿が山の中にある神社だってさ。」
「少なくとも心当たりはないけど――。大体、そんなんあったなら、知らんなんて冬君が言うわけないが? いつもは、出雲大社がどうのこうの大穴牟遅がどうのこうの言っとるにぃ。」
「まあ――そうだけどさ。」
しかし、「知らない」と言ってしまった。
ふと、良子が尋ねる。
「その女の子って、冬君と同い年くらいだって?」
「うん。」
「知っとる子?」
「いや――全然。」
もしも学校にいたならば知らないわけがない――あれだけ目立つ外見をしていたのだから。
腰まで届く三つ編み。整った顔立ちと、焦点の合っていない瞳――灰色の真珠のように左眼は濁っていた。
何でもない日常の光景が、脳裏に焼き付いて離れないことがある。冬樹にとって、彼女と目を合わせたその瞬間がそうだった。
水を点すように早苗が問う。
「ところで冬君――勉強は大丈夫? 中間テスト、近いんでないん?」
その言葉に、うん、と冬樹は答える。
「神社に興味持つのはええけど、赤点は取らんでよ? 特に数学と理科が酷いことになっとったが。あんたのことだけん、高校に落ちるなんてことはないとは思うけど。全然希望しとらん学校に行くのも厭だら?」
「解っとるって。」
冬樹は味噌汁をすする。あまり気の向かない話題だったので黙り込んだ。
神社などない――と、なぜ言えなかったのだろう。
荒神塚を除けば神社はない。市内には無数にある神社が、この町にはない。誰の目にも明らかだ。しかし、知らないと言ってしまった――この自分が。
夕暮れになる前に家へ着いた。
冬樹は夕暮れが恐い。
この町に住む者は、程度の差はあれど誰もが夜を恐れる。クラスメイトも家族も、夜が迫れば必ず不安を訴える。軒に吊された紅い布は怯えの現れなのだ。
それゆえか、日没前の平坂町は閑散とする。
そんな中で、ちらちらと出歩いている二、三人ほどの人間が恐い。魂のない木偶が歩いているのかと想う。だから早めに帰る。
玄関へ上がり、「ただいま」と言った。
祖母の良子が台所から顔を出す。
「ああ、冬君、お帰りんさい。今から晩ご飯作るけん、うがいと手洗い先に済ませときんさい。」
うん、と冬樹は返事をし、洗面所へ這入る。本を横にのけ、蛇口をひねった。ふと再び気になる――まさかとは思うが、自分が知らないだけではないのか。
洗面所を出ると、良子が台所で夕食の準備を始めていた。冬樹は尋ねる。
「あの、一つ訊いてええ?」
「うん、何ぃ?」
「この町に、神社ってなかった? その――荒神さん以外で。何でも山ん中にあって、大きな社殿があるんとか。」
良子の手が、ぴたりと止まった。
何秒か経った後、ぽつりとこう言う。
「いや――少なくとも思い当たらんけどなあ――」
「そっか。」
それは当然の回答だった。しかし、答えるまでの間が引っかかる。
「それで――神社が一体どうしたん?」
「いや――色々とあって。詳しい話は後ででも。」
それだけ言うと、冬樹は台所を後にした。
自室に戻る。
床には、本棚に収まらなくなった本が積まれていた。『神隠しと日本人』『厄神と福神』『青銅の神の足跡』――中には、父から受け継いだ物もある。
借りてきた本を机に置く。
窓の外から静かに、時報のサイレンが聞こえてきた。空襲警報のように急激に強まり、単調に鳴り続けたあと、長い余韻を曵きながら灰色の空に消えてゆく。
窓へ目をやった。
夕暮れが始まる――まだ幼稚園だったあの時と同じように。
――父さん。
現場を見たわけではない。だから想像するしかない――海岸沿いの崖を通る県道、大きく湾曲して町が見えるその地点に、急ブレーキをかけた黒い跡が残るのを。タイヤをすり減らした黒い線は、何かを避けるように海へ向かい、ガードレールを突き破っている。
――何で。
あそこには歩道がない。だから、冬樹は未だ行けていないのだ。
カーテンを閉めた。
スマートフォンを取り出し、「平坂町」「神社」で検索した。当然ながら、荒神塚を除いて何も出ない。それを目にし、わずかに安堵する――自分は間違っていなかったのだ。
神社も祭りもない町だとずっと思っていた――だから気になるのかもしれない。
それからしばらく本を読んだ。やがて、玄関から音がする。冬樹は自室を出て階段を降りた。母親の早苗が帰ってきたところだった。スーツ姿だが、片手にはレジ袋を下げている。
「お帰り――母さん。」
「ただいま。」
レジ袋を受け取り、冬樹は台所へ向かった。食材を冷蔵庫へ入れる。ちょうど夕食が出来上がっていたので、良子と共にテーブルへと竝べだした。
夕食のとき、夕前の出来事について冬樹は話した。当然、早苗もまた不可解な顔をする。
「神社――?」
「うん。大きな社殿が山の中にある神社だってさ。」
「少なくとも心当たりはないけど――。大体、そんなんあったなら、知らんなんて冬君が言うわけないが? いつもは、出雲大社がどうのこうの大穴牟遅がどうのこうの言っとるにぃ。」
「まあ――そうだけどさ。」
しかし、「知らない」と言ってしまった。
ふと、良子が尋ねる。
「その女の子って、冬君と同い年くらいだって?」
「うん。」
「知っとる子?」
「いや――全然。」
もしも学校にいたならば知らないわけがない――あれだけ目立つ外見をしていたのだから。
腰まで届く三つ編み。整った顔立ちと、焦点の合っていない瞳――灰色の真珠のように左眼は濁っていた。
何でもない日常の光景が、脳裏に焼き付いて離れないことがある。冬樹にとって、彼女と目を合わせたその瞬間がそうだった。
水を点すように早苗が問う。
「ところで冬君――勉強は大丈夫? 中間テスト、近いんでないん?」
その言葉に、うん、と冬樹は答える。
「神社に興味持つのはええけど、赤点は取らんでよ? 特に数学と理科が酷いことになっとったが。あんたのことだけん、高校に落ちるなんてことはないとは思うけど。全然希望しとらん学校に行くのも厭だら?」
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