神送りの夜

第二章 神無月

【幕間２】近づいてくる者

あの春分の日の夜から一か月が経とうとしている。

春休みは終わり、新学期が既に始まっていた。

そのころのわたしは、眠りが浅くて深夜に目を覚ましたり、寝つけなかったりする日がしばしばあった。寝られなければ、起きるときに辛くなるばかりだ。母も、そんなわたしを心配して声をかけてくる。

その日の夜も、布団へ入って一時間ほど経っても眠られなかった。

わたしが睡眠に支障をきたす日は、何者かの気這けはいが決まって感じられる。それはちょうど、海の向こうから来たものと同じ気這いだった。

春分の日ほどは強くはない。しかしそれが近づくと、そわそわと心が落ち着かなくなる。気這いはやがて跫音あしおととなり、わたしの元へやって来る。

つた、つた、つた――。

夜更けの静寂しじまの中、廊下を歩く音が聞こえる。

布団で寝ているため、床伝いに音ははっきり聞こえた。つたつたと歩いては立ち止り、再び歩きだす。寝室へ向けて少しずつ近づいてくる。

最初にわたしが睡眠に支障をきたしたのは、あの神迎えの夜から数日経った頃のことだ。そのときは、ただ寝つきが悪いだけだった。それから何日か経って、家の中へと気這いは侵入した。それは日ごとに近づき、跫音が聞こえるようになった。最近は、部屋の中に這入って来る。

何が目的なのかは判らない。

それでも――。

どうやらそれは、神社に祀られている神のようだ。

つた、つた。――つた。

その日、跫音は部屋の前まで来ると、一旦、立ち止った。

そして、つた、つたと、部屋の中へ這入って来た。ドアが開く音はない。その存在は、わたしの枕元まで歩いてきて、ぴたりと立ち止まる。どうやら、こちらを見下みおろろしているようだ。

わたしは目を閉じ、気づかないふりをする。こういった場合は、無視をするのが一番だ。そうして、興味を失ってくれるのを待つしかない。

できれば、このまま眠ってしまいたかった。

全身の力を抜き、眠りに落ちようとする。

そんなとき、額の裏側に一つの光景が浮かんできた。小学生の頃、幼い妹と手をつないで、線路沿いの道を歩いたときの記憶だ。

部屋へ侵入してきた存在が、わたしの枕元に膝を突く。途端に、額の裏側に浮かんでいた光景は消えた。

わたしは再び眠りに就こうとする。

額の裏側に、一つの景色が再び浮かんだ。

同じく小学生のころの、神迎えの夜の出来事だ。わたしは妹と抱き合って、震えながら夜を過ごしている。妹にもわたしと同じ力があり、海から来るものの存在を感じ取ることができたのだ。ちょうど今のように、怯えながら過ごしていた。

ふ――と、わたしの手の甲に、何か冷たいものが触れる。

わたしは思わず目蓋を開けた。目の前に真っ暗な天井が写る。

手の甲にあるものは、冷たい手の平の感触だった。

瞬間、全身が凍りついた。しかしそれもほんの短い間のことだ。後悔するよりも先に、全く別の感覚が脳へと伝わってきた。

わたしの手の甲に触れたのは、子供の小さな手だった。冷たかったのは最初だけで、やがてほんのり温かくなる。恐れというフィルターを取り払ってしまえば、この気這いはわたしの知っているもの――あの神送りの夜に感じたものと同じだった。

｢ちーちゃん？」

その言葉は、自然とわたしの口を突いて出た。その手の平は、嬉しそうに指へ力を込める。間違いない――とても久しぶりの感触だ。

わたしはその手を握り返した。この気這い、この手の平は、あの踏切事故で亡くなった妹のものなのだ。

わたしは手を握ったまま、そっと目を閉じる。

真っ暗な網膜の裏に、わたしの手を握る妹の姿が浮かび上がった。