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第二章 神無月
4 神様のいない十月
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十月六日・月曜日――初登校の日が来た。
朝早くに起き、美邦は姿見に向かう。いつも通り、腰まで垂れる髪を結った。途中、鏡に写る左眼を何度も気にかける。顔を傾けても、鉛色の瞳は動かない。
――田舎の学校じゃ、さらに気にかけられるんだろうか。
幻視について説明する時も必ず来る。それどころか、目に映るものも増えているのだ。
――間違いなく、変な子だと思われるだろうな。
髪を結い終え、制服に腕を通す。
濃い紺色のセーラー服だ。大きな襟と袖には、一本ずつ白い線が通る。胸元からは、緑青のスカーフが垂れていた――まるで紅い布を反転させたような。
――お母さんと同じ制服。
父も、母も、同じ学校に通っていた。だが、母と違う家から――父の生家から自分は通う。
――千秋ちゃんと同じようにゆけばいいんだけど。
むしろ、問題なく従妹と馴染めたのが意外だった。それは、千秋の性格に頼るところが大きい。しかし、クラスでも同じだとは限らない。実際――詠歌には、馴染みがたいものを今も感じる。
一階へ降り、顔を洗い、朝食を終えた。
そうして、千秋と共に玄関へ向かう。あとを追うように詠歌が顔を出した。
「じゃあ、二人とも気ぃ付けて。」
はい――と美邦は応える。行ってきます――と千秋も応えた。
心配そうに、なおも詠歌は声をかけた。
「美邦ちゃん、サイレンが鳴ったらすぐ帰ってきないよ。暗くなるけん。」
「はい――分かっています。」
玄関を出て、千秋と竝んで石垣を降りてゆく。視界から消えるまで詠歌は二人を見守った。
――やっぱり警戒してる。
細い路地を何度も曲がる。潮風が吹き込み、軒に連なる紅い布をそよがせた。やがて千秋が嘆息する――詠歌が遠ざかった時を見計らうように。
「あたしも早あ中学生なりたい――自由に帰れるけえ。」
そうではないと言いたいようだった。
「小学校は違うの?」
「集団下校あるだあが。」
ああ――とうなづく。たしかに、同じことを先日も耳にした。
「集団下校ってな、地区ごとに下校するにぃ。だけえ、一番遅ぉ終わる学年に合わせて帰らないけん。」
頭の中に、面倒くさそうな光景が浮かぶ。
「全部の学年が終わるまで帰れないの?」
「うん。でも――あたしが入学する前は、集団下校なかったっていうけど。」
町から覚える違和感が強まる。
「なんで――かな?」
「よう分からんけど、放課後に子供が消えた事件があったとか――あたしが入学する前に。」
先日の言葉を思い出す。
「GPSも、それでつけるようになったのかな?」
「うん。」
まだ、深い事情は分からない。しかし、この町の大人たちは何かに怯えている――恐らくは、不気味な印象を抱かせるあの夜に対して。
路地を抜け、中通りを東へ進んだ。
少しして空き地が見える。そこには、集団登校を待つ小学生たちが集まっていた。
「じゃあ、あたし、こっちだけぇ。」
「うん。じゃあ、また、夕方にね。」
「あんま遅くに帰らんでえな――お母さんが言ったやに。」
「うん。」
千秋と別れ、中通りを北上する。
――お父さんが通った通学路。
父は、こんな時期に転校しても大丈夫なのかと心配していた。今も、安心させられる自信はない。
不安を助長させるように幻視は見える。大破した車や、三色の菊で満たされた花屋――真っ黒に焼けた家もあった。平坂町で暮らし始めて四日――やはり、以前よりも異様に多い。
――この町は変だ。
夜が人を喰う――先日に会った少年はそう言った。真っ暗な夜が明けると、紅い布と共に幻視が現れる。一方、あるはずの神社がない。そこに、強いズレを感じる。
ズレが、別の何かが欠けている感覚へと変わった。
――何か、大切な。
十月は、出雲を除いて神がいないという。
だが、元からいないのではないか。
*
市立平坂中学校は木造校舎だった。
用務員から昇降口に案内され、靴を履き替える。
靴箱に挟まれた空間を離れた。
突き当りのショウケースに目が留まる。硝子を隔て、古い土器が展示されていた。背後の掲示板には、生徒が作った説明文が貼られている。興味を惹かれたが、観察している暇はない。
職員室へ向かう。
廊下には、二人の教師が待っていた。どちらも眼鏡をかけている。片方は若い女性教師で、一人は灰色の髪を持つ男性教師だ。女性教師の顔は固く、神経質そうだった。
美邦を目にし、尖った声を女性教師は出す。
「大原美邦さんですね。」
叱られるかと思い、びくりとする。視線を落とし、はい、と小声で答えた。しかし、威圧感のある声で出たのは平凡な挨拶だった。
「初めまして。今日から大原さんの担任となる、鳩村です。」
続いて、老教師が頭を下げる。
「学年主任の築島と申します。」
「――初めまして。」
深々と美邦は頭を下げる。鳩村との落差が酷いせいもあり、築島からは温和な印象を受けた。
鳩村が続ける。
「大原さんは、短いあいだに色々なことが起きて大変だったと思います。視覚障碍の件についても、叔母さんから聞いています。我々も、できる限り大原さんをサポートするよう心がけます。早めに学校生活に馴染めるよう、頑張ってください。」
「あ――はい。」
それから、校舎の構造・掃除の場所・給食当番などについて軽く説明された。やがて予鈴が鳴る。それを耳にし、感情を込めず鳩村は促した。
「それでは行きましょうか。」
築島が軽く頭を下げた。
「よろしくお願いします。」
鳩村の背中を追い、板張りの廊下を進む。
木造だけあって往年の傷が激しい。階段を上り、踊り場で折り返した。最も上の段を踏んだとき、気にかかって振り返る。
窓の外に港が拡がっていた。
突堤の先に紅い灯台がある。中通りからも見えていた。校舎からは糸屑のように小さい。その真紅な点が、碧い影となって網膜へと焼きつく。
新しいクラスは二年A組という。
廊下で美邦を待たせ、教室へと鳩村は先に這入っていった。
全身を緊張が支配する。今から、新しいクラスメイトの前で挨拶をしなければならない。
教室から、朝の挨拶をする鳩村の声が聞こえた。
「さて――もう知っている人もいると思いますが、今日からこのクラスに新しい仲間が加わります。大原さん――なかへ這入ってきてください。」
全身に張っていたものが張り詰める。
教室へ向け、はい、と弱々しい声を出す。
震える手でドアを引いた。
半分の視界に、クラスメイト達の目線が飛びこむ。
思わず、黒板の粉受けへ顔を逸らす。そして、強張る足取りで教壇の隣へ進んだ。一挙一動を見られていると思うと身体が冷える。
鳩村が、美邦の名前を黒板に書いた。
「大原さんは、家庭の事情で京都から引っ越して来ました。こちらへ来てから、まだあまり日にちが経っていません。平坂町には慣れていないと思います。難しい障碍を視覚の上に抱えられており、色々と不自由なことも多いと思いますので、皆さんで助けてあげましょう。では大原さん――」
自己紹介をお願いします――と鳩村は言った。
「はい。」
密かに息を呑み、顔を上げる。
人前で話すのが苦手でも、自己紹介は避けて通れない。
「お、大原美邦です。どうか、よろしきゅお願――」
噛んだ。美邦は慌てて言い直す。
「どうかよろしく、お願いしま、まま、す――」
素早く頭を下げる。冷たいものが後頭部に流れた。通夜のように教室は静かだ。
「じゃあ大原さん、窓際の、空いている席へ着いて下さい。」
教室の最後――五列目に空席が一つある。
「――はい。」
顔を火照らせつつ席へ向かう。
そんなときだ――彼が目に入ったのは。
二つずつ密接して机が竝ぶ。窓側の二列目――通路側の席に冬樹はいた。擦れ違いざまに目が合い、金属の重なったような感触を覚えた。
朝早くに起き、美邦は姿見に向かう。いつも通り、腰まで垂れる髪を結った。途中、鏡に写る左眼を何度も気にかける。顔を傾けても、鉛色の瞳は動かない。
――田舎の学校じゃ、さらに気にかけられるんだろうか。
幻視について説明する時も必ず来る。それどころか、目に映るものも増えているのだ。
――間違いなく、変な子だと思われるだろうな。
髪を結い終え、制服に腕を通す。
濃い紺色のセーラー服だ。大きな襟と袖には、一本ずつ白い線が通る。胸元からは、緑青のスカーフが垂れていた――まるで紅い布を反転させたような。
――お母さんと同じ制服。
父も、母も、同じ学校に通っていた。だが、母と違う家から――父の生家から自分は通う。
――千秋ちゃんと同じようにゆけばいいんだけど。
むしろ、問題なく従妹と馴染めたのが意外だった。それは、千秋の性格に頼るところが大きい。しかし、クラスでも同じだとは限らない。実際――詠歌には、馴染みがたいものを今も感じる。
一階へ降り、顔を洗い、朝食を終えた。
そうして、千秋と共に玄関へ向かう。あとを追うように詠歌が顔を出した。
「じゃあ、二人とも気ぃ付けて。」
はい――と美邦は応える。行ってきます――と千秋も応えた。
心配そうに、なおも詠歌は声をかけた。
「美邦ちゃん、サイレンが鳴ったらすぐ帰ってきないよ。暗くなるけん。」
「はい――分かっています。」
玄関を出て、千秋と竝んで石垣を降りてゆく。視界から消えるまで詠歌は二人を見守った。
――やっぱり警戒してる。
細い路地を何度も曲がる。潮風が吹き込み、軒に連なる紅い布をそよがせた。やがて千秋が嘆息する――詠歌が遠ざかった時を見計らうように。
「あたしも早あ中学生なりたい――自由に帰れるけえ。」
そうではないと言いたいようだった。
「小学校は違うの?」
「集団下校あるだあが。」
ああ――とうなづく。たしかに、同じことを先日も耳にした。
「集団下校ってな、地区ごとに下校するにぃ。だけえ、一番遅ぉ終わる学年に合わせて帰らないけん。」
頭の中に、面倒くさそうな光景が浮かぶ。
「全部の学年が終わるまで帰れないの?」
「うん。でも――あたしが入学する前は、集団下校なかったっていうけど。」
町から覚える違和感が強まる。
「なんで――かな?」
「よう分からんけど、放課後に子供が消えた事件があったとか――あたしが入学する前に。」
先日の言葉を思い出す。
「GPSも、それでつけるようになったのかな?」
「うん。」
まだ、深い事情は分からない。しかし、この町の大人たちは何かに怯えている――恐らくは、不気味な印象を抱かせるあの夜に対して。
路地を抜け、中通りを東へ進んだ。
少しして空き地が見える。そこには、集団登校を待つ小学生たちが集まっていた。
「じゃあ、あたし、こっちだけぇ。」
「うん。じゃあ、また、夕方にね。」
「あんま遅くに帰らんでえな――お母さんが言ったやに。」
「うん。」
千秋と別れ、中通りを北上する。
――お父さんが通った通学路。
父は、こんな時期に転校しても大丈夫なのかと心配していた。今も、安心させられる自信はない。
不安を助長させるように幻視は見える。大破した車や、三色の菊で満たされた花屋――真っ黒に焼けた家もあった。平坂町で暮らし始めて四日――やはり、以前よりも異様に多い。
――この町は変だ。
夜が人を喰う――先日に会った少年はそう言った。真っ暗な夜が明けると、紅い布と共に幻視が現れる。一方、あるはずの神社がない。そこに、強いズレを感じる。
ズレが、別の何かが欠けている感覚へと変わった。
――何か、大切な。
十月は、出雲を除いて神がいないという。
だが、元からいないのではないか。
*
市立平坂中学校は木造校舎だった。
用務員から昇降口に案内され、靴を履き替える。
靴箱に挟まれた空間を離れた。
突き当りのショウケースに目が留まる。硝子を隔て、古い土器が展示されていた。背後の掲示板には、生徒が作った説明文が貼られている。興味を惹かれたが、観察している暇はない。
職員室へ向かう。
廊下には、二人の教師が待っていた。どちらも眼鏡をかけている。片方は若い女性教師で、一人は灰色の髪を持つ男性教師だ。女性教師の顔は固く、神経質そうだった。
美邦を目にし、尖った声を女性教師は出す。
「大原美邦さんですね。」
叱られるかと思い、びくりとする。視線を落とし、はい、と小声で答えた。しかし、威圧感のある声で出たのは平凡な挨拶だった。
「初めまして。今日から大原さんの担任となる、鳩村です。」
続いて、老教師が頭を下げる。
「学年主任の築島と申します。」
「――初めまして。」
深々と美邦は頭を下げる。鳩村との落差が酷いせいもあり、築島からは温和な印象を受けた。
鳩村が続ける。
「大原さんは、短いあいだに色々なことが起きて大変だったと思います。視覚障碍の件についても、叔母さんから聞いています。我々も、できる限り大原さんをサポートするよう心がけます。早めに学校生活に馴染めるよう、頑張ってください。」
「あ――はい。」
それから、校舎の構造・掃除の場所・給食当番などについて軽く説明された。やがて予鈴が鳴る。それを耳にし、感情を込めず鳩村は促した。
「それでは行きましょうか。」
築島が軽く頭を下げた。
「よろしくお願いします。」
鳩村の背中を追い、板張りの廊下を進む。
木造だけあって往年の傷が激しい。階段を上り、踊り場で折り返した。最も上の段を踏んだとき、気にかかって振り返る。
窓の外に港が拡がっていた。
突堤の先に紅い灯台がある。中通りからも見えていた。校舎からは糸屑のように小さい。その真紅な点が、碧い影となって網膜へと焼きつく。
新しいクラスは二年A組という。
廊下で美邦を待たせ、教室へと鳩村は先に這入っていった。
全身を緊張が支配する。今から、新しいクラスメイトの前で挨拶をしなければならない。
教室から、朝の挨拶をする鳩村の声が聞こえた。
「さて――もう知っている人もいると思いますが、今日からこのクラスに新しい仲間が加わります。大原さん――なかへ這入ってきてください。」
全身に張っていたものが張り詰める。
教室へ向け、はい、と弱々しい声を出す。
震える手でドアを引いた。
半分の視界に、クラスメイト達の目線が飛びこむ。
思わず、黒板の粉受けへ顔を逸らす。そして、強張る足取りで教壇の隣へ進んだ。一挙一動を見られていると思うと身体が冷える。
鳩村が、美邦の名前を黒板に書いた。
「大原さんは、家庭の事情で京都から引っ越して来ました。こちらへ来てから、まだあまり日にちが経っていません。平坂町には慣れていないと思います。難しい障碍を視覚の上に抱えられており、色々と不自由なことも多いと思いますので、皆さんで助けてあげましょう。では大原さん――」
自己紹介をお願いします――と鳩村は言った。
「はい。」
密かに息を呑み、顔を上げる。
人前で話すのが苦手でも、自己紹介は避けて通れない。
「お、大原美邦です。どうか、よろしきゅお願――」
噛んだ。美邦は慌てて言い直す。
「どうかよろしく、お願いしま、まま、す――」
素早く頭を下げる。冷たいものが後頭部に流れた。通夜のように教室は静かだ。
「じゃあ大原さん、窓際の、空いている席へ着いて下さい。」
教室の最後――五列目に空席が一つある。
「――はい。」
顔を火照らせつつ席へ向かう。
そんなときだ――彼が目に入ったのは。
二つずつ密接して机が竝ぶ。窓側の二列目――通路側の席に冬樹はいた。擦れ違いざまに目が合い、金属の重なったような感触を覚えた。
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