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第一章 秋分
【幕間1】神迎えの夜
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全ての始まりは、十四年前の春分のことであった。
午後の昼下がり、わたしは町内の墓所にいた。
山際に墓石が林立している。彼岸の中日ということもあり、様々な人影が墓所には見えた。墓参りに来た人、そうではない人――後者は生きている者ではない。明るい日差しに照らされ、背後が透けている。
墓石に水をかけ、母が持ってきた白百合の花を立てた。白い花弁は、春の温かい木漏れ日の中でまばゆく映えている。死者たちの眠る塋域に、これだけが生きているかのようだ。
母が、線香の束に火をつける。わたしは、その半分を受け取った。線香立てに供え、手を合わせる。
随分と長いあいだ、わたしは合わせた手を離さなかった。
「■■、そろそろ帰らあか。」
わたしは手をほどき、うん、と返事をする。
まだ水の残っているバケツを持ち、凸凹した参道を歩き始める。
参道の途中や墓石の陰には、黒い人影が立っている。それが、里帰りして来た先祖かどうかは分からない。しかし、もしそうならば、どうして妹は姿を現さないのだろう。
母は何かを察した顔となる。
「また、ちーちゃんのこと考えとるん?」
やはり見透かされていたようだ。わたしは軽く俯き、うんと答える。
「まあ、仕方ないわな。ちーちゃん、あんたに懐いとったけん。」
そう言った母の顔も酷く名残惜しそうだった。
名残惜しくないわけがない――自分の娘なのだから。
それは、普通の死ではなかった。この町に住んでいなければ、恐らくは訪れなかったはずの死だ。
「何でこの町は、こんなお祭りを今でも続けとるかなあ。」
母は溜め息を一つついた。
「踏切事故があってもう二年になるにぃ。こんなことが続くならやめたらええだが。ほんに――あんたが当屋に選ばれる前に引っ越しとったらよかった。」
わたしは、その言葉に心を傷めざるを得なかった。黙り込み、地面から目を逸らさず参道を歩いてゆく。
この町では、春分の日に海の向こうから神が呼び寄せられ、冬至の日に送り返される。今日は、神のいない季節から、神のいる季節へと替わる日だ。神を迎える夜と、送る夜、家の外へ出れば祟りがある。
しかし、神はそれ以外でもしばし人を喰うことで知られていた。特にその対象となりがちなのは、神遣いに選ばれた者の家族であった。
この塋域には、そうして命を落としてきた者達もまた眠っているのだろう。
*
陽が落ちるころ、家中の戸締りを行なった。明かりもまた必要最低限のものしか点けなかった。夕食を摂ったあとは、いつもの団欒もせずに、それぞれ自分の部屋へ引き篭っていった。わたしもまた、風呂やトイレへ行く以外は部屋から出なかった。
明かりを外に漏らしたり、物音を立てたりしてもいけないのだ。
わたしは特にすることもないので、スタンドライトが発する橙色の灯りを頼って本を読んでいた。布団のそばにあるぬいぐるみが、少しだけ不気味な陰翳を作っていたのを覚えている。まるで、深夜の静寂の中に町全体が沈んでいるようだった。
床に就いたのは、ちょうど祭りの始まる二十三時ごろだ。いつもより少しだけ早い就寝である。そのころになると、何となく心が落ち着かなくなってきたのだ。
冷静に追えていたはずの活字が、どういうわけか追えなくなった。物語の世界が、ただ目の前にある活字の羅列でしかなくなる。文章の上手い作家であるにも拘わらず、同じ行を何度読んでも意味を把握しづらい。
一旦本を閉じて、なぜこんな気持ちになるのかを考える。
そして、あ、来るな――と思った。
海の向こうから、何者かの来る気這いがする。他人にはないわたしの特殊な感覚と、今までの人生で培われてきた経験が、何者かの来る兆しを敏感に告げていた。
ただ今年は――例年とは何かが異なっているようだ。
わたしはスタンドライトの灯りを消して、そっと布団に潜り込んだ。これは悪いものの来る気這いだった。眼を閉じ、息を潜める。相手に気づかれないよう一夜を過ごさなければならない。明日の朝になれば、それは神社に鎮まって、無害化されてしまうはずだ。
それからしばらくの間、わたしは眠りに就こうと努力した。しかし、寝ようと意識すればするほど、寝られない苦しみへと捕らわれる。
布団の中で、一時間近く苦しみ続けただろうか。
わたしの全身は、次第に鳥肌の立ったような、ぞわぞわとした感覚に包まれていった。家の外からは、儀式で使用する籥の音と、鐘のようなものを打ち鳴らす音が近づいてくる。
青ヶ浜での儀式は、毎年、午前零時ごろに行われる。
籥の演奏が、わたしの家の近くまでゆっくりとやって来る。
近づいてきて、そして青ヶ浜のほうへと遠ざかっていった。
わたしの全身は、ざわざわとした感覚に依然として包まれている。まるで金縛りに遭ったかのように、指先一つ動かせない。全身のざわめきは、青ヶ浜に上陸するものの存在を明瞭に感じ取っていた。それは広い浜辺に上陸して、今、こちらへ向かってきている。
全身を覆うざわめきは次第に強まり、やがて麻酔にかかったような、ふわっとした感覚に変わっていった。電波のようなものが身体に流れていて、それが波のように強まったり弱まったりしている。
そして再び、外から籥の演奏が近づいてきた。
全身で感じられる電波のようなものは、青ヶ浜から上陸して来たものの一部であった。それが今、籥の演奏と共に、わたしの家の近くを通り過ぎようとしている。電波のようなものが弱い痺れへと変わる。
額の裏側に青ヶ浜の幻影が現れた。真っ黒な波が浜辺に打ち寄せている。私の身体に流れる電波のようなものと波長を合わせ、浜辺へ打ち寄せたり、退いていったりしている。しかしそれは一時のものであり、すぐに見えなくなった。
外では籥の演奏が、神社のほうへ遠のいてゆく。身体中を流れる電波のようなものも、次第に弱まっていった。わたしの全身は、再びふわっとした感覚に包まれた。
その蕩けるような感覚の中で、わたしは急速に眠りへと落ちていった。
午後の昼下がり、わたしは町内の墓所にいた。
山際に墓石が林立している。彼岸の中日ということもあり、様々な人影が墓所には見えた。墓参りに来た人、そうではない人――後者は生きている者ではない。明るい日差しに照らされ、背後が透けている。
墓石に水をかけ、母が持ってきた白百合の花を立てた。白い花弁は、春の温かい木漏れ日の中でまばゆく映えている。死者たちの眠る塋域に、これだけが生きているかのようだ。
母が、線香の束に火をつける。わたしは、その半分を受け取った。線香立てに供え、手を合わせる。
随分と長いあいだ、わたしは合わせた手を離さなかった。
「■■、そろそろ帰らあか。」
わたしは手をほどき、うん、と返事をする。
まだ水の残っているバケツを持ち、凸凹した参道を歩き始める。
参道の途中や墓石の陰には、黒い人影が立っている。それが、里帰りして来た先祖かどうかは分からない。しかし、もしそうならば、どうして妹は姿を現さないのだろう。
母は何かを察した顔となる。
「また、ちーちゃんのこと考えとるん?」
やはり見透かされていたようだ。わたしは軽く俯き、うんと答える。
「まあ、仕方ないわな。ちーちゃん、あんたに懐いとったけん。」
そう言った母の顔も酷く名残惜しそうだった。
名残惜しくないわけがない――自分の娘なのだから。
それは、普通の死ではなかった。この町に住んでいなければ、恐らくは訪れなかったはずの死だ。
「何でこの町は、こんなお祭りを今でも続けとるかなあ。」
母は溜め息を一つついた。
「踏切事故があってもう二年になるにぃ。こんなことが続くならやめたらええだが。ほんに――あんたが当屋に選ばれる前に引っ越しとったらよかった。」
わたしは、その言葉に心を傷めざるを得なかった。黙り込み、地面から目を逸らさず参道を歩いてゆく。
この町では、春分の日に海の向こうから神が呼び寄せられ、冬至の日に送り返される。今日は、神のいない季節から、神のいる季節へと替わる日だ。神を迎える夜と、送る夜、家の外へ出れば祟りがある。
しかし、神はそれ以外でもしばし人を喰うことで知られていた。特にその対象となりがちなのは、神遣いに選ばれた者の家族であった。
この塋域には、そうして命を落としてきた者達もまた眠っているのだろう。
*
陽が落ちるころ、家中の戸締りを行なった。明かりもまた必要最低限のものしか点けなかった。夕食を摂ったあとは、いつもの団欒もせずに、それぞれ自分の部屋へ引き篭っていった。わたしもまた、風呂やトイレへ行く以外は部屋から出なかった。
明かりを外に漏らしたり、物音を立てたりしてもいけないのだ。
わたしは特にすることもないので、スタンドライトが発する橙色の灯りを頼って本を読んでいた。布団のそばにあるぬいぐるみが、少しだけ不気味な陰翳を作っていたのを覚えている。まるで、深夜の静寂の中に町全体が沈んでいるようだった。
床に就いたのは、ちょうど祭りの始まる二十三時ごろだ。いつもより少しだけ早い就寝である。そのころになると、何となく心が落ち着かなくなってきたのだ。
冷静に追えていたはずの活字が、どういうわけか追えなくなった。物語の世界が、ただ目の前にある活字の羅列でしかなくなる。文章の上手い作家であるにも拘わらず、同じ行を何度読んでも意味を把握しづらい。
一旦本を閉じて、なぜこんな気持ちになるのかを考える。
そして、あ、来るな――と思った。
海の向こうから、何者かの来る気這いがする。他人にはないわたしの特殊な感覚と、今までの人生で培われてきた経験が、何者かの来る兆しを敏感に告げていた。
ただ今年は――例年とは何かが異なっているようだ。
わたしはスタンドライトの灯りを消して、そっと布団に潜り込んだ。これは悪いものの来る気這いだった。眼を閉じ、息を潜める。相手に気づかれないよう一夜を過ごさなければならない。明日の朝になれば、それは神社に鎮まって、無害化されてしまうはずだ。
それからしばらくの間、わたしは眠りに就こうと努力した。しかし、寝ようと意識すればするほど、寝られない苦しみへと捕らわれる。
布団の中で、一時間近く苦しみ続けただろうか。
わたしの全身は、次第に鳥肌の立ったような、ぞわぞわとした感覚に包まれていった。家の外からは、儀式で使用する籥の音と、鐘のようなものを打ち鳴らす音が近づいてくる。
青ヶ浜での儀式は、毎年、午前零時ごろに行われる。
籥の演奏が、わたしの家の近くまでゆっくりとやって来る。
近づいてきて、そして青ヶ浜のほうへと遠ざかっていった。
わたしの全身は、ざわざわとした感覚に依然として包まれている。まるで金縛りに遭ったかのように、指先一つ動かせない。全身のざわめきは、青ヶ浜に上陸するものの存在を明瞭に感じ取っていた。それは広い浜辺に上陸して、今、こちらへ向かってきている。
全身を覆うざわめきは次第に強まり、やがて麻酔にかかったような、ふわっとした感覚に変わっていった。電波のようなものが身体に流れていて、それが波のように強まったり弱まったりしている。
そして再び、外から籥の演奏が近づいてきた。
全身で感じられる電波のようなものは、青ヶ浜から上陸して来たものの一部であった。それが今、籥の演奏と共に、わたしの家の近くを通り過ぎようとしている。電波のようなものが弱い痺れへと変わる。
額の裏側に青ヶ浜の幻影が現れた。真っ黒な波が浜辺に打ち寄せている。私の身体に流れる電波のようなものと波長を合わせ、浜辺へ打ち寄せたり、退いていったりしている。しかしそれは一時のものであり、すぐに見えなくなった。
外では籥の演奏が、神社のほうへ遠のいてゆく。身体中を流れる電波のようなものも、次第に弱まっていった。わたしの全身は、再びふわっとした感覚に包まれた。
その蕩けるような感覚の中で、わたしは急速に眠りへと落ちていった。
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