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第一章 秋分
3 見知らぬ叔父
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翌日も、放課後になると病院へ向かった。
途中の交差点で赤信号に足を止められる。
信号機の袂――一メートルほど中空には、セルロイド製のキャラクターお面が浮かんでいた。真下には、枯れかけた百合の花が放置されている。
美邦は目を逸らす。
怖いとは思わない。ただ、傷つけられた思い出があるだけだ。
幽霊も怪物も怖くない――そんなものは信じていないのだ。怖いのは嘲笑に他ならない。積み重なった記憶は、美邦を酷く臆病な性格にさせていた。
学校では、数名の女子を除いて会話できない。男子とはろくに――いや、全く話せないのだ。
過去は簡単に消えない。気楽に――前向きに生きようと思っても、心の傷が阻害し続けていた。
どうあれ、そんな自分は乗り越えなければならない――父の死を目の前にしているのだから。
交差点を渡って、やがて病院に着く。
長い廊下を進み、昭がいる病室の戸を引いた。そのときだ――見慣れない後ろ姿に気づいたのは。
美邦に気づき、彼は振り返る。
それは、体調を崩す前の昭だった。
息を吞み、目を凝らす。
彼の顔が、昭とは違うものに変わった。父と似ているが全く違う――見ず知らずの四十代の男性だ。
初対面の人を前にする時の癖で顔を伏せた。
「大丈夫だから、こっちに来なさい。」
しゃがれた昭の声が響く。
「この人はお父さんの弟の啓だ。美邦が小さいころはよく遊んでもらっていたはずだ――十年ぶりに会うから分からんかもしらんがな。今日は谷川に呼ばれてやって来たんだそうだ。」
恐る恐る顔を上げる。
「谷川さんに――?」
啓と呼ばれた男は、戸惑ったような表情を浮かべる。自分の親戚――父以外の血縁者を初めて目にした。
ベッドへと美邦は歩み寄る。
「えーっと、美邦ちゃんですか?」
こちらの様子を窺うように啓は問うた。
「渡辺啓です。たった今、お父さんから紹介されたけど、美邦ちゃんの叔父に当たる人です。最後に会ったのは十年くらい前かな。僕のこと、覚えとる?」
距離を取りつつ、美邦は立ち止まる。
「いえ、その――昔のことは、よく覚えてなくて。」
「まあ――美邦ちゃん、小さかったけんな。僕のほうは、美邦ちゃんのことよう覚えとるけど――。それでも、平坂町のことは、それなりに覚えとるでないの?」
「ひらさかちょう?」
「美邦ちゃんが小さい頃に住んどった町の名前だが。」
すっと光の差すような感覚がした。それは、母と暮らしていた町の名前に違いない。
「名前――初めて聞きました。」
啓は唖然とし、昭へと目を向けた。
「町のこと教えとらんの、本当だっただな。」
「別に、知らなくてもいいことだったからだ。」
いつものことながらその態度に引っかかる。
呆れ顔で啓も抗議した。
「知らんでもええなんてことないがぁ。この十年間――こっちが、どれだけ気にかけとったか。」
十年――という言葉が耳に残った。
察するに、そこは自分と父の故郷らしい。しかし、叔父との姓が違うのはなぜか。
冷たい声を昭は返す。
「別に――来てもらわなくともよかったんだ。たとえ俺が死んだとしても、そっちに連絡を入れるつもりはなかった。いや、谷川が勝手に連絡したくらいだから、どうなってたかは分からんがな。ともかく――美邦をそっちに遣るつもりはないから。」
何かが拓けそうな感覚がした。
恐る恐る叔父を見る。
それを受け、啓は説明した。
「いや――ついさっきまで、お父さんと話しとっただけん。もしも――もしもだけれど――お父さんの身に何かがあったら、美邦ちゃんはどうするのかって。僕自身は、こっちで引き取っても構わんって思っとるだけど。でも、そう言ったら、お父さんから反対されてしまって――。僕は、美邦ちゃんの意見も聞いてみるべきだって言っただけど。」
「その――ひらさかちょうで暮らすってことですか?」
「うん。」
美邦は何も答えられない。
自分の根源は知りたい。しかし、預けられることには躊躇した――そうでなければ施設しかないのだが。
行くべきじゃないと思うがな――と昭は言う。
「あそこは京都みたいに拓けた処じゃないし、閉鎖的で人も冷たい。近所との付き合いかたも、生活の利便も全く違う。住み慣れた土地や、こちらの友達まで捨てて、あんな処に行く必要はない。」
「あんな処――って。」
啓は再び呆れる。
「兄さん、自分の生まれ育った処だが? 十年前までは兄さんだって住んどったが。僕だって今も住んどるに――そんな人の冷たい処でも、閉鎖的な処でもあらせんが? なんで、そがなことを――」
本当に――言う通りだ。なぜ、かたくなに町を否定するのか分からない。
「事実を言ったまでだ。美邦も、一度でも行ってみれば判る。」
それから、溜め息をついた。
「俺だって、何が何でも美邦を平坂町へ帰したくないわけじゃない。ただ――心配なんだ。今まで住んできたマンションも引き払い、こっちにいる友達とだって別れて暮らさんとならんのだぞ? はたしてこんな中途半端な時期に転校して、美邦が向こうでやっていけるかどうか――」
「だから――それは美邦ちゃんの意見を聴いてみるべきで――」
「まあ――そうだな。」
蒼白い顔が美邦へ向く。今さらながら、啓との落差に驚いた。
「美邦はどう思ってるんだ? さっきから、肝心の美邦を置いてけぼりにしてしまっていたが。」
「わ――私は――」
急に問いかけられ、たじろいだ。施設での暮らしと、親戚の元での暮らし――どちらがましか分からない。
「そんな――急には答えられないよ。その――向うのこととか、何も知らないし。今まで、名前すら聞いたこともなかったのに――」
優しげな声で啓は言う。
「まあ、あくまでも選択の一つって話だけぇ。実は、家内にも娘にも、まだ何も言っとらんに。一度、平坂町へ行って、顔を合わせてから考えるのも悪くないと思うだけど。」
「そう――ですね。」
昭は、悔しげに窓へ顔を向ける。
「いずれにしろ――俺はもう生きて帰ることはないんだな。」
途中の交差点で赤信号に足を止められる。
信号機の袂――一メートルほど中空には、セルロイド製のキャラクターお面が浮かんでいた。真下には、枯れかけた百合の花が放置されている。
美邦は目を逸らす。
怖いとは思わない。ただ、傷つけられた思い出があるだけだ。
幽霊も怪物も怖くない――そんなものは信じていないのだ。怖いのは嘲笑に他ならない。積み重なった記憶は、美邦を酷く臆病な性格にさせていた。
学校では、数名の女子を除いて会話できない。男子とはろくに――いや、全く話せないのだ。
過去は簡単に消えない。気楽に――前向きに生きようと思っても、心の傷が阻害し続けていた。
どうあれ、そんな自分は乗り越えなければならない――父の死を目の前にしているのだから。
交差点を渡って、やがて病院に着く。
長い廊下を進み、昭がいる病室の戸を引いた。そのときだ――見慣れない後ろ姿に気づいたのは。
美邦に気づき、彼は振り返る。
それは、体調を崩す前の昭だった。
息を吞み、目を凝らす。
彼の顔が、昭とは違うものに変わった。父と似ているが全く違う――見ず知らずの四十代の男性だ。
初対面の人を前にする時の癖で顔を伏せた。
「大丈夫だから、こっちに来なさい。」
しゃがれた昭の声が響く。
「この人はお父さんの弟の啓だ。美邦が小さいころはよく遊んでもらっていたはずだ――十年ぶりに会うから分からんかもしらんがな。今日は谷川に呼ばれてやって来たんだそうだ。」
恐る恐る顔を上げる。
「谷川さんに――?」
啓と呼ばれた男は、戸惑ったような表情を浮かべる。自分の親戚――父以外の血縁者を初めて目にした。
ベッドへと美邦は歩み寄る。
「えーっと、美邦ちゃんですか?」
こちらの様子を窺うように啓は問うた。
「渡辺啓です。たった今、お父さんから紹介されたけど、美邦ちゃんの叔父に当たる人です。最後に会ったのは十年くらい前かな。僕のこと、覚えとる?」
距離を取りつつ、美邦は立ち止まる。
「いえ、その――昔のことは、よく覚えてなくて。」
「まあ――美邦ちゃん、小さかったけんな。僕のほうは、美邦ちゃんのことよう覚えとるけど――。それでも、平坂町のことは、それなりに覚えとるでないの?」
「ひらさかちょう?」
「美邦ちゃんが小さい頃に住んどった町の名前だが。」
すっと光の差すような感覚がした。それは、母と暮らしていた町の名前に違いない。
「名前――初めて聞きました。」
啓は唖然とし、昭へと目を向けた。
「町のこと教えとらんの、本当だっただな。」
「別に、知らなくてもいいことだったからだ。」
いつものことながらその態度に引っかかる。
呆れ顔で啓も抗議した。
「知らんでもええなんてことないがぁ。この十年間――こっちが、どれだけ気にかけとったか。」
十年――という言葉が耳に残った。
察するに、そこは自分と父の故郷らしい。しかし、叔父との姓が違うのはなぜか。
冷たい声を昭は返す。
「別に――来てもらわなくともよかったんだ。たとえ俺が死んだとしても、そっちに連絡を入れるつもりはなかった。いや、谷川が勝手に連絡したくらいだから、どうなってたかは分からんがな。ともかく――美邦をそっちに遣るつもりはないから。」
何かが拓けそうな感覚がした。
恐る恐る叔父を見る。
それを受け、啓は説明した。
「いや――ついさっきまで、お父さんと話しとっただけん。もしも――もしもだけれど――お父さんの身に何かがあったら、美邦ちゃんはどうするのかって。僕自身は、こっちで引き取っても構わんって思っとるだけど。でも、そう言ったら、お父さんから反対されてしまって――。僕は、美邦ちゃんの意見も聞いてみるべきだって言っただけど。」
「その――ひらさかちょうで暮らすってことですか?」
「うん。」
美邦は何も答えられない。
自分の根源は知りたい。しかし、預けられることには躊躇した――そうでなければ施設しかないのだが。
行くべきじゃないと思うがな――と昭は言う。
「あそこは京都みたいに拓けた処じゃないし、閉鎖的で人も冷たい。近所との付き合いかたも、生活の利便も全く違う。住み慣れた土地や、こちらの友達まで捨てて、あんな処に行く必要はない。」
「あんな処――って。」
啓は再び呆れる。
「兄さん、自分の生まれ育った処だが? 十年前までは兄さんだって住んどったが。僕だって今も住んどるに――そんな人の冷たい処でも、閉鎖的な処でもあらせんが? なんで、そがなことを――」
本当に――言う通りだ。なぜ、かたくなに町を否定するのか分からない。
「事実を言ったまでだ。美邦も、一度でも行ってみれば判る。」
それから、溜め息をついた。
「俺だって、何が何でも美邦を平坂町へ帰したくないわけじゃない。ただ――心配なんだ。今まで住んできたマンションも引き払い、こっちにいる友達とだって別れて暮らさんとならんのだぞ? はたしてこんな中途半端な時期に転校して、美邦が向こうでやっていけるかどうか――」
「だから――それは美邦ちゃんの意見を聴いてみるべきで――」
「まあ――そうだな。」
蒼白い顔が美邦へ向く。今さらながら、啓との落差に驚いた。
「美邦はどう思ってるんだ? さっきから、肝心の美邦を置いてけぼりにしてしまっていたが。」
「わ――私は――」
急に問いかけられ、たじろいだ。施設での暮らしと、親戚の元での暮らし――どちらがましか分からない。
「そんな――急には答えられないよ。その――向うのこととか、何も知らないし。今まで、名前すら聞いたこともなかったのに――」
優しげな声で啓は言う。
「まあ、あくまでも選択の一つって話だけぇ。実は、家内にも娘にも、まだ何も言っとらんに。一度、平坂町へ行って、顔を合わせてから考えるのも悪くないと思うだけど。」
「そう――ですね。」
昭は、悔しげに窓へ顔を向ける。
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