神送りの夜

千石杏香

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第一章　秋分

２　記憶の神社

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陽ひが落ちる頃、マンションへと戻ってきた。

リビングの照明を入れる。

部屋は掃除が行き届いていた。一方、テーブルの小箱には様々な処方箋が突っ込まれている。昭が帰ってくることを信じ、そのままにしていたのだ。

自室に這入り、私服に着替えた。

スマートフォンが鳴る。画面を覗のぞくと、LIИEメッセージが入っていた。父の同僚である谷川からだ。

｢親戚のかたのこと、お父さんと話せたかな？」

幼い頃から、谷川とは顔馴染みだった。ここ数日は、今後のことについて相談に乗ってくれている。

ありのままのことを書き起こした。

｢ええ。でも、先日と反応は同じでした。
私が親戚に預けられるのはよくないと思ってるみたいです。」

返信はすぐ来た。

｢そうか。」
｢なんで、あんなに親戚の人を嫌うかなあ。」
｢美邦ちゃんも、もう一か月も独り暮らしだし、僕としても心配なんだけど。」
｢会社に関することは構わないけど、何でも保護者代わりになれるわけじゃないから。」

｢ご迷惑をおかけします。」

｢いや、いいよ。美邦ちゃんは今は大変なんだし。」
｢どうあれ、お父さんと話し合って早めに決めよう。」
｢女の子の一人暮らしは危ないからね。何かあったらすぐ連絡して。」

美邦は、｢ありがとうございます」と書かれた犬のイラストのスタンプを送信する。

リビングへ戻った。

ひとけのない空間が目に留まる。

体調を崩した一昨年から、テーブルの前のソファに昭は寝転がるようになっていた。それまでは分担していた家事もできなくなってしまったのだ。以降、美邦が一人でしている。

――どうして、ここに私はいるんだろう。

自分の故郷ルーツを美邦は知らない。それでも覚えている――母と暮らしていたのは、このマンションではないのだ。年季の入った日本家屋だった。

――どこから私は来たんだろう。

キッチンへ行く。

冷蔵庫を開けた。扉側の収納棚には、インスリンの注射器が竝んでいる。昭の疾患は腎臓だけではなく、膵臓や脾臓にも及んでいた。

作り置きの野菜煮込みラタトゥイユを取り出す。腎臓に負担をかけないためのレシピは腕に馴染なじみ、入院後の今も作っている。

野菜煮込みラタトゥイユを電子レンジで温めた。

――ねえ、お父さん。

レンジの光を見つめながら、何度も尋ねてきた言葉を思い出す。

――どうして、私にはお母さんがいないの？

そのたびに、昭は必ずこう答えていた。

――お前が三歳の頃、病気で亡くなったんだ。

続いて、美邦はこう尋ねてきた。

――じゃあ、お母さんと住んでいた処はどこ？

美邦が通っていた幼稚園は近所にある。三年間、ずっとそこだった。しかし、母は京都にはいなかったのだ。名前も知らないあの港町で亡くなったはずだ。

酷く霞んでいるが確かに覚えている――波止場に連なった漁船や、複雑に入り組んだ路地、地元の子供と遊んだことも。

しかし、昭は必ずこう答えていた。

――いや、ずっと京都に住んどるよ。

そんなはずはないのに、あり得ないという。だが、港町の景色と母との記憶――そして神社の光景は切り離すことができない。

大きな鳥居のある神社だった。

母に抱かれて、どこまでも山の中に続く参道を昇ったのを覚えている。湿った空気と、山に特有の土の匂い。冷え込んだ空気が肌に触れ、漣波さざなみのような「何か」が身体の芯に沁み込んでいた。

――そして。

石段を登りきると、木漏こもれ日の中に大きな社殿が建っていたのだ。

美邦を抱きながら母は言った。

――この町にはな
――神様がおんなるに。

それが、唯一覚えている言葉だ。

――海から来て
――守り神になってくれるだぁで。

普通ではない感触を受ける場所だった――弱い波のような何かを。それについて思い出す時、自分自身の意識が少し霞むような感覚となる。

――大切な「こと」があるはず。

昭との死別への恐れや、将来への不安の陰で、そのことは常にちらついている。

成長するにつれ、次の質問が加わった。

――お母さんのお墓はどこ？

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