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欧米の同性愛者はなぜ同性婚を求めたのか?

5.アメリカの同性愛者たちは戦った。

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六〇年代から七〇年代のLGBT運動は、同時期の人種差別撤廃運動に影響を受けている。

一九六八年(昭和四十八年)に開かれたLGBT活動家の会議では、「ゲイは素晴らしい(Gay is Good)」というスローガンが採用された。これは、「黒人は美しい(Black is Beautiful)」という当時の黒人運動のスローガンに影響されたものだ。

運動では、カミングアウトすることが推奨された――カミングアウトすることで、「同性愛者は大多数の人と変わりない」「あなたの隣にも同性愛者はいる」ということを世間に知らせようとしたのである。

親族や友人・知人などからカミングアウトされたアメリカ人は、一九八五年(昭和六十年)の時点で四分の一だった。それが、十五年後の二〇〇〇年(平成十二年)には四分の三にまで膨れ上がる。

アメリカのLGBT運動を語る上で欠かせないのがハーヴェイ゠バーナード゠ミルクだ。

ミルクは、ゲイをカミングアウトして当選した初めての政治家である。一九七七年(昭和五十二年)、同性愛者たちの圧倒的な支持を得てサンフランシスコ市会議員となる。(マスコミの前で「結婚式」を開いたにも拘わらず落選した誰かとは大きな違いだ。)

しかし、当選の翌年、保守派の議員に暗殺されてしまう。

エイズが流行し、アメリカのゲイたちがず行なったことは乱交文化の否定だ。つまり、ハッテンをやめて一対一の関係を持続しようと説いたのである。

当然、これはエイズを予防するためのものだ。また、複数人と「やりまくる」文化を否定しないまま同性婚を求めても説得力がないためでもある。

アメリカのLGBT運動の特徴を、故・ジャック氏は次のように書いている。

1.同性愛者であるというアイデンティティーをしっかりと持つ。
2.同性愛者であることを誇りに思う。
3.同性愛者であることをカミングアウトする。
4.男性であるというアイデンティティーを持つ。
5.性行為における女性的役割(ウケ役)と男性的役割(タチ役)の固定化を拒否する。
6.ゲイ同士がカップルになり、男女のカップルのように結婚して一緒に暮らす。
7.ゲイコミュニティーを形成する。

ジャックの談話室「アメリカのゲイリブの特殊性」
https://jack4afric.exblog.jp/8482315/

ウケだけでなくタチもやるという項目は、男性としてのアイデンティティを持つということと等しい。

「女性らしい男性」の存在を許さないのがアメリカだ。だからこそ、「自分たちは男だ」とゲイたちは誇示する必要があった。ゲイパレードで裸になっている男も、極端に筋肉質な人々ばかりである。

同性愛者であることを誇りに思わなければアメリカの同性愛者を不憫に思う。

私が両性愛者であることは、それ以上でもそれ以下でもない――日本の多くの当事者にとっても同じだろう。しかし、アメリカの同性愛者は、「ゲイは素晴らしい」と言わなければならなかった。

一対一の関係を続けなければならないところも同じだ。私に言わせれば、特に相手を定めないのが自由で自然なゲイの姿だ。

当然、エイズを防止するという目的もそこにはあった。しかし、異性愛者を真似ることこそがゲイとして正しいと言う必要がなぜあったのだろう。

エイズが流行すると、エイズ患者への支援団体を同性愛者たちは組織する。そして、エイズ患者のために家事をしたり、医療従事者へ協力を求めたり、エイズに関する正しい知識を広める広報活動を行なったりした。彼らは、「エイズは同性愛者だけの病気」という偏見とも戦わなければならなかったのだ。

ソドミー法が憲法違反だという訴訟も行なわれる。

しかし一九八六年(昭和六十一年)、ソドミー法を合憲とする判決を連邦最高裁判所は下す。判決文では「ソドミー行為にふける権利があるなどたちの悪い冗談だ」と書かれていた。

同性愛者の怒りは頂点に達する。

当日、ニューヨークの表通りには三千人の抗議者が溢れかえった。翌年のLGBT運動の全米行進では五十万人もの人々が参加したという。

さらに翌年には、約二千組もの同性カップルが国税庁の庁舎前で「結婚式」を挙げた。

ゲイたちはさらに過激な行動を取る――男を誘う時の格好で徒党を組んで街を歩き始めたのだ。これがゲイパレードの始まりである。ともかく、ゲイであることをアイデンティティとし、矜持ほこりを持っていると主張し、それを世間に訴えようとしたのだ。

そんな中、戦闘的な団体・ACT UP(力を解き放つためのエイズ連合)が結成される。

「エイズ患者は街にいない」と言う役人・異性愛者にとってエイズは脅威ではないと言う衛生局・法外な値段で治療薬を売りつける製薬会社などを ACT UP は激しく攻撃した。ACT UP はウォール街を一時封鎖し、スローガンの書かれた巨大な横断幕を掲げ、「沈黙は死」と書かれたポスターで街を埋め尽くし、国立衛生研究所に侵入して暴れまわった。

さらには、「同性愛は不道徳な病気の感染源」と言う報道記事に数百人規模で抗議活動も行なった。そうして、反撃を覚悟で中傷記事を書けなくしたのだ。

アメリカで初めてソドミー法が廃止されたのは一九六二年――イリノイ州でのことだ。そこから二◯◯三年までに、時間をかけてソドミー法は全米で撤廃されてゆく。逆に、同性愛者の権利を擁護するための法律も制定されだした。

一九八九年(平成元年)、ニューヨーク州最高裁判所が、あるゲイカップルを「家族」として認める。

原告のゲイは、エイズに罹患したパートナーを十年に亘って看病していた。ところがパートナーが死んだとき、アパートから追い出されかけたのだ。

裁判の結果、連邦最高裁判所は原告のゲイに借家権の継承を認める。

運動は、大衆の意識を確実に変えつつあった。

一九九二年(平成四年)――オレゴン州で、同性愛者を守る法律を撤廃することと、同性愛が「不自然で間違った行為である」と学校で教えることを一部の住民が要求した。

しかし、住民投票の結果、圧倒的多数で否決される。

第一章では、「同性愛者の日本の高校生が受ける差別の実態」を描いた漫画を紹介した。漫画内では「同性愛は悪いことだと学校で教えられた」と書かれており、何のことかと首を捻っていた。他ならない、それはアメリカで行なわれていたことだったのだ。

同年には、ソフトウェア会社のロータス社が、従業員に対し、同性パートナーも家族として認めることを発表する。結果、同性パートナーにも健康保険などの手当が適用され始めた。これを皮切りとして、様々な企業で同じ制度が作られてゆく。

一九九三年(平成五年)には、同性婚が認められる一歩手前の判決がハワイ州最高裁判所で出される。

すなわち、同性婚がないことは平等権に違反する可能性があるとして、当該案件を予備法廷に差し戻したのだ。再審が始まったのは、三年後の一九九六年(平成八年)のことである。

しかし同年、連邦議会は「結婚防衛法」を可決する。

「結婚防衛法」により、ある州が同性婚を作っても連邦法上の優遇は受けられず、他の州では「結婚」として待遇されなくなった。

一九九九年(平成十一年)、バーモンド州の最高裁判所が「結婚の一部の権利でさえも認めないのは違憲」と判決を下した。その五か月後、パートナーシップ制度ができる。

二〇〇三年(平成十五年)――マサチューセッツ最高裁判所は「同性婚を認めないことに合理的根拠はない」という判決を下す。そして、判決の百八十日後の五月十七日から、同性カップルに対して婚姻許可証を交付するよう州に命じた。

全米で同性婚が認められたのは、その十二年後の二〇一五年(平成二十七年)のことだ。
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