オープンシーズン ~妖精姫は今日も預かりの騎士にいたずらを仕掛ける~

アルカ

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本編

26 過去と夢の終わり 後編

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 酒と血の匂い。

 アイロニーはゆっくりと目蓋を押し上げた。
 二日酔いのように頭が重い。いや、普段陥る二日酔いとは違うかもしれない。
 ぐらぐらと視界が揺れ、眠気はなかなか去らないのだから。

「アイロニー様」

 聞き慣れた男の声。けれど聞き慣れない呼び方に、内心で首を傾げる。
 二人きりの時にはいつもフローレンス様と呼ぶのに。
 ……呼んでくれるのに。

 男の手を借り、しぶしぶ身体を起こしてみる。身体が酷く重だるい。
 どうやら、レティレナとの茶の席で眠ってしまったらしい。

 ――そうだ、薬を盛られたのだった。

 ふふっ、とアイロニーの口から笑いが零れる。
 ほんの十五、六歳の娘にまんまと出し抜かれたというのか。情けない。
 額を押さえながら下を見ると、クラバットを抜かれ、はだけられたシャツの間から胸元が覗く。いつも苦しいほどにアイロニーを押さえつけていた布は、緩められていた。

 男に在ってはならない二つの膨らみ。
 秘密の証。

「アイロニー様」

 もう一度呼ばれて、従者の男へ視線を向ける。
 目が合うと、佇む男はひどく疲れたような顔を安堵に緩めた。
 珍しい。
 いつもは紳士付きの紳士と言える男が、酷い有り様だった。上着も身につけず、シャツ姿。磨かれ光るはずの革靴には、水の染みに細かな傷。トラウザーズはずぶ濡れで色が変わっている。きっちり固められているはずの髪は乱れて、額や顔に張り付いていた。
 まるで雨の中、外套も身につけず出掛け、乱闘でもしてきたような姿。
 そんなわけない。
 ふるりと、もう一度頭を振った。薬のせいでぼんやりしてかなわない。

 そこまで考えて、従者の両手に包帯が巻かれていることに気付く。
 真新しい白い包帯には、血が滲んで汚れていて痛々しい。二の腕までまくり上げたシャツにも赤いシミが残っている。この男が服を着替えもせずにいる姿なんて、初めて目にした。

「まだ気付けのお酒が身体の中に残っています。もっとたくさん水を飲ませてください」

 声のする方に視線を巡らすと、開いたドアの横。
 部屋の出口のすぐ側に、レティレナが佇んでいた。
 自らの丈よりも大分大きな黒い外套をすっぽりと着せかけられ、外套と同じく黒衣に身を包んだ黒髪の騎士に抱えられるようにして。

「はい」
 レティレナの声に応えたのは従者の男。彼がアイロニーの前にカップを差し出す。中身は水だった。
 アイロニーは、レティレナに盛られた薬入りの茶に、従者が飲ませた気付けの酒が悪さをして重篤な昏睡に陥っていたらしい。
 水を口にする度、頭がはっきりしてくる。それでも、眠気はまだまだアイロニーを誘うけれど。

「私の秘密に、いつから気付いていたのです?」
 そう声をかけると、レティレナは一瞬隣の騎士を仰いだ。
 騎士が頷くと、その手を離れ滑るような足取りで寝台の横、アイロニーのすぐ側まで近づく。
 雨に濡れ髪を乱れさせた姿も、おとぎ話の人魚のように美しかった。瞳は相変わらず、生気を映し緑に輝いている。

「アイロニー様はずっと手袋をしているけれど、ドレスのボタンを嵌めるときは外したでしょう。近くで見たあなたの手はとっても綺麗。そして、女性の手でした」
 アイロニーは手元に視線を落とす。

「気付いていたから、『ボタンを留めるのは誰か』と聞いたのですね」
「意地悪な質問をしてしまいました」

 彼女は悪戯を見つかった子供のように、美しい顔をくしゃりと崩す。
 なんて真っ直ぐなのだろう。
 だからこそ、惹かれた。何も知らないレティレナと、砂糖菓子のようなままごとの夫婦を演じてみたかった。
 けれど、そもそもそれは彼女を支えていたあの騎士の賜物か。
 こんな近くで二人で話せるのは、彼女が気を張らないのは、淑女の笑みと無表情以外の顔をアイロニーに見せるのは――あの男が居るから。全幅の信頼を寄せているのだ。扉のそばで薄く微笑みながらも、猛禽のようにアイロニーと従者をけん制している、あの黒衣の騎士に。

「いいえ。私はそれが嬉しかった。貴女は『脱がすのは誰か』なんて質問はしないから」

 この二十年、男のように振る舞い続けてきた。
 思春期になれば声を低く抑え、髪も短く切って。乗馬も剣術も、手を抜いたことはない。
 常に薄氷の上のような日々。
 けれど必要以上に雄々しくなりたいと願ったことはなかった。
 母が酒に溺れる回数が増えるように、アイロニーが密かに着飾る回数も年々増えた。
 たぶん限界だったのだ。
 本音はこんな偽りを終わりにしたくて、仕方なかった。
 その先に破滅が待っていようとも。

「けれど脱がすのだって、従者の彼かメイドでしょう?」
 脱がすことの真の意味も知らずに、首を傾げる無垢な少女。夜が明け明日になれば、その変わらぬ瞳のまま、社交界に放り込まれることになる美しい娘。
 決して彼女は人形ではない。

「レティレナ姫とタンジェ様と三人で、劇場に足を運べたならどんなに楽しかったでしょう」
 馬車の中で交わしたその場限りの口約束。今となっては見る影もない戯れ言。それでも口にしていたときが、今日一番の幸福な瞬間だった。

「いつか三人で参りましょう。ねえ、フローレンス様」
 アイロニーの選んだ白ではなく、騎士の黒を纏ったレティレナ。
 彼女は花が咲くように笑った。

 フローレンス・アイロニーも少女のように微笑んだ。
 彼女だって本当は、人形などではないのだから。


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