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本編

22 脱出劇 前編

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「さて、と」

 アイロニーはソファーに右半身を下にした横向きで丸まり、寝息を立て始めた。レティレナの手を掴んだままだったから、そっと外す。
 そしてアイロニーのクラバットを慎重に緩めて引き抜いた。
 晒された白い首筋に手を当てる。
 規則正しい脈と、起きないことを確認してから、クラバットを利用してアイロニーの両手首を縛った。縛り方にはちょっとだけ自信がある。解けない固い結び方を、薬草園の手入れをするときに庭師から学んだのだ。何事も経験は大事ね、などと暢気なことを考えながら。

「あった。これね」

 レティレナは更にアイロニーの上着の右ポケットをごそごそ探り、目当てのものを見つけ出した。

 鈍色の鍵。
 持ち手の所の飾り彫りは見事だが、鍵穴に差し込む部分はそう複雑でもなさそうだ。

 先程お茶が運ばれてきたとき、アイロニーはこの鍵で部屋の扉を開けた。この宿屋の扉は、どちらからも鍵を差し込んで錠を開閉できるタイプだ。鍵さえ手に入れてしまえば、こちらのもの。
 ついでに左のポケットも探ったけれど、こちらには何もなかった。残念ながら、タンジェの部屋の鍵をアイロニーが所持している訳ではないようだ。きっと姿を見せない従者だという男が側についているのだろう。二階まで一緒に上ったのは確かなのだから。

 鍵を使ってそっと錠を開け、ノブを回す。
 薄く開いた扉の隙間からのぞく廊下は薄暗い。レティレナの居る部屋が一番奥で一番大きいようだ。部屋はあと三つ並んでいる。
 廊下の先には階段があるのだろう、光が覗える。

「逃げ道は窓か階段よね」

 手っ取り早いのは部屋の窓だけれど、一人で降りられる自信はなかった。それにまずは、タンジェを探して無事を確認しないと。
 首を引っ込めると、レティレナは顎に人差し指をあてて、ほんの少し考える。
 窓辺に寄れば、外はすっかり夜の帳と雨だれに支配されている。
 窓に頬を付けて側面の様子に目を凝らせば、一つ部屋を挟んだ先の窓からわずか明かりが漏れている。あちらは木戸を閉められているので、ほんの少しの線のような光だけれど。
 この窓からひさしを伝って、部屋の様子を見に行ければいいのだけれど。そこまで考えて、レティレナの身体がぶるりと震えた。

 ――あんな狭い庇なんてむりっ。それに雨で滑ってしまうもの。

 ぎゅっと一度目を瞑り、その選択肢をすぐさま却下する。庇を使っての脱出と偵察を諦め別の策で行くことにした。部屋をきょろきょろと見回して、手頃なのは椅子かと狙いを定める。
 眠っているアイロニーが起きないように、念のため両耳にハンカチの切れ端を丸めて詰めた。即席の耳栓だ。
 書き物机と対になっている木製の椅子を、両手で掴んで持ち上げる。引きずらないように窓辺まで運ぶと、両腕に力を込めて窓の高さまで掲げた。

 ――せえの!

 心中のかけ声と共に、椅子を思いきりガラス窓へと打ち付けた。


 ガラスは思ったほど派手には割れなかった。
 木枠に嵌まった格子ガラスの、椅子の脚が当たった数枚だけが、すっかり暮れた夜の闇へと向かってぱらぱら欠片になって砕け落ちる。
 レティレナだってガラス窓を割るなんて経験は初めてなのだから、派手にいかなくても仕方ない。何ごとにも最初がある。次はもっと上手く音を立てて割れるはずだ。
 ……そこまで考えて、次があってはいけないんだと流石に思い直す。

 少し離れた所から、慌ただしい物音がした。
 急いで扉を開ける音、そして荒い靴音。階下でも階段を上る足音が聞こえる。
 レティレナは椅子を急いで放り出し、扉の横にぴたりと張り付いた。

 深呼吸をして、タイミングを計る。

(ぎゃっ)

 荒々しいノックと共に勢いよく開いた扉が鼻先まで迫って、レティレナの顔は危うく潰れるところだった。声を殺したレティレナを、誰か褒めほしい。
 内開きの扉を力任せに開けた男は窓の惨状を見て固まり、そしてソファーで動かない主を見つけて狼狽した。

「フローレンス様!」

 アイロニーではなく、ガーシュでもなく、フローレンスと呼んだのは。身分を隠しているからなのか。
 それとも、咄嗟の判断でいつもの呼び方になったのか。
 そんなことを考えながらも、姿勢を低くして猫のようにすばしっこく前転する勢いで扉をくぐる。
 急いで、急いで。でも焦ってはだめっ。
 素早く扉を閉めて、アイロニーから奪った鍵を鍵穴に差し込み、左にカチリと回す。
 慌てて扉に取りすがる音と、がちゃがちゃとノブを動かす音が聞こえたけれど、何とか間に合った。
 第一関門突破だ。どっと緊張が解けて、息を吐く。
 扉の向こうから、くぐもった悪態が聞こえた。

 宿屋の扉が頑丈だと良いなと思いながら、身体を起こして男がやって来た方の廊下へ目を凝らす。
 さっきの男が飛び出してきたせいで、半開きになっている扉。一か八かだったけれど、こちらも狙い通りだ。

 目的の扉はほんのふたつ先の部屋。でも今度は階段から上ってくる人影。

 助けを求めて良いのか、それとも完全なるアイロニーの陣営なのか。はっきり言ってさっぱり分からない。そもそも灯りのない廊下は暗いし。まいった。
 どっちにしても扉を目指すならば階段に、つまり男の方へ向かって走らなければならない。反対側は突き当たりの壁だ。
 だから迷ったのは一瞬。
 腹を括って、レティレナは扉に向かって走った。

 丁度扉の前に辿り着いた時、階段を上り終わったやせぎすの男と目が合う。宿屋の者というより、従者の格好だ。

「ご機嫌よう」
 目的の扉の前で急停止したレティレナは、男に向かってにっこりと微笑み、こちらから声を掛けた。

 ――先手必勝。いつも通り堂々とするのよ、レティ!

 そう自分に言い聞かせる。
 心臓が口から出てきそうなほど緊張してるなんて、おくびにも出さない。だって猫かぶりは筋金入り。ザーク叔父だって綺麗に騙せていたし、ランバルトへの悪戯の秘匿なんて、この道六年のベテラン。城に帰り着いたら、この分野の権威でも名乗ってみようか。
 いや、お説教と久々に兄に大目玉をくらいそうだから、やっぱりやめておこう。

 あんまりにも堂々と自然に挨拶をするものだから、相手の男はぽかんとした後、慌てて廊下の端に控え深く礼をとった。
 きっと条件反射のようなものなのだ。
 レティレナはその隙を存分に使い、開いたままの扉に滑り込んで閉めた。

 顔を上げた男は目をまん丸にして、レティレナが逃げ込んだあとの扉を見て首傾げる。奥の部屋から扉を叩く音を聞いて、彼は急いでそちらへ駆け寄った。

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