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本編

24 脱出劇 後編

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「バストーヴァにはとんでもない天使がいたものだ」

 男の声は酷くざらついていた。

「アイロニー様が目を覚まさないのです。何をしたのか、教えて頂けませんか」

 声の主はアイロニーのもとに駆けつけた従者。レティレナが部屋に閉じ込めたはずの男。
 アイロニーをフローレンス様と呼んだ声の主だ。
 強く掴まれた腕が、ぎりぎりと絞められるようで痛い。
 窓のガラスで切ったのだろう。手には血を滲ませ、雨と混ざった薄い赤が、レティレナの着せられた白いドレスにじんわりと染みを広げる。
 血を帯びた拘束の手は、熱い。

 突然加えられた強い力に身体が竦んだ。
 どんなに悪戯を重ねても、お転婆だと言われても、レティレナは幾重もの盾に守られて生きてきた。所詮は本物の暴力になんて触れたことのない身。
 無遠慮な力で、殆ど知らない他人に身体を掴まれる経験なんてなかった。
「レティを離せっ」
 階下からのタンジェの声で我に返る。

「先に逃げてっ」
 慌てて叫んだ。腕の拘束は解けそうになかったから。

「そんなこと出来るわけないだろ。飛ぶんだ! 僕が受け止めるからっ」
 両手を必死に伸ばすタンジェは、雨でぐっしょり濡れていた。

「飛び降りなんてしたら、大怪我をしますよ」
 悔しいけれど男の言う通り。レティレナも、受け止めるタンジェも大怪我をする。だから降りるために紐が必要だった。
 そもそも男の腕の拘束は、解けそうにない。逃がすものかと更に強く腕を握りしめられた。

 八方塞がりだ。
 このままではタンジェもまた捕まってしまう。
 こんな形を望んだわけじゃないのに。
 現実はいつだって理想とかけ離れていて、上手くいかないことばかり。

 今頃バストーヴァの城は大騒ぎだろう。
 ほんの少しの好奇心が、沢山の人々の心労を招いたはず。
 いらない仕事を増やし、心配を抱かせて。
 だからレティレナとタンジェはちゃんと二人で一緒に帰らなくちゃいけない。無事に戻らなければ、叱ってもらうことすら出来ないのだから。

 レティレナは自分で部屋を逃げ出した。上手くいくと信じて。中途半端に事を荒立てて、タンジェまで危ない目に合わせて。
 情けなくて仕方ない。
 これで二人囚われの身に逆戻りしたら、もっと逃げ出すのは困難になる。すぐに朝がやって来てしまう。
 大人しくしていたなら、最良の逃げ出す機会があったかもしれないのに。そう後悔しながら、半べそで夜明けを待つなんて。

 ――そんなの駄目!

 まだ完全に、賭けに負けたわけじゃない。
 一度失敗したから諦めるなんて、あり得ない。

『俺はあなたの手を抜かないところ、嫌いじゃありませんよ』

 かつてのランバルトの言葉が頭に浮かぶ。
 レティレナは失敗しても、諦めが悪い上に手を抜かない。いつだって身体を張って全力が信条だ。
 それなのに、この大事な場面で諦めるなんて。
 ――絶対に、嫌!

 口を引き結んで、顔を上げる。
 萎縮していた緑の瞳は、悪戯をするときのように、輝きを取り戻していた。

 男は左手で窓枠を、右手でレティレナの腕を掴んでいる。
 取られた右腕はそのままに、彼女は空いている左手で紐を掴む。庇までの長さしかない、千切れて短くなった紐だ。
 その紐を引くようにして、素早く窓枠に両足を乗せて立つと、目線が男と同じになった。下のタンジェの姿もよく見える。
 一瞬だけ、レティレナは不敵に笑って見せた。
 にんまりと。
 ランバルト以外にはご無沙汰な、悪戯をする妖精姫の顔。

 彼女の腕を掴んだままの男の右腕を、掴まれた右側の手で掴み返す。互いに腕を掴んだ形になった。
 そのまま勢いをつけて、身体ごと後ろに倒す。左手の紐にぶら下がる振り子のように、足の踵を起点にした独楽のように。重心を移動しながら身体を外側に開いて回転させた。男の腕を引き寄せる。
 レティレナの力だけでは、体重が倍はありそうな男を動かすのは難しい。しかし外側に向かって働く遠心力が味方になる。
 従者は庇に足を乗せていた。
 雨に濡れつやつやとした板は、非常に滑りやすい。
 前へ傾くように仕向けられ、彼は足を取られて部屋の中に盛大に倒れ込んだ。

 ここまでは成功。あとは何とか下へ降りるだけ。
 けれど、雨はレティレナだけの味方ではなかった。

 彼女が足を掛けた窓枠にも、雨は吹き込んでいた。そのまま遠心力に振り回されて、靴底が滑る。
 慌てて体勢を崩しながら紐を掴み直そうとした指が掠り、捉えられたのはほんの先端部分。千切れた辺りだった。捕まえたと思った紐が、滑ってするりと手から抜け落ちる。
 そのまま庇に半分叩きつけられるようにして転んだ。雨で滑る、斜めになった庇の上で。
 レティレナの身体が止まったのは、ささくれた縁の部分。
 体重を支えているのは上半身の力だけ。
 動かした両足は空を蹴る。丁度庇の縁が鳩尾の部分にあたっているせいだ。
 足が完全に壁から離れてしまっていた。

「レティ、そのまま飛び降りて」
「え、ええ」
「僕が受け止めるから」
「そうね」

 ――でも、足下に何もないの。

「高さだってそんなに無いよ、平気さ」

 明るく励ますタンジェの声。
 わかっているのだ。でも。

「お願い、あと少しだけ待って」

 ――高所を完璧に克服したわけじゃないの! 今だって怖いの。

 レティレナは心の中だけで悲鳴のように叫んだ。
 唐突に最難所に放り込まれた状態で、身体が硬直していた。

 何度足をバタつかせても樹皮のくぼみを捕らえられなかった、幼い記憶が蘇る。
 登るのはまだいい。降りるのが怖いのだ。
 両足が何も踏みしめていないのが怖くて堪らない。
 つま先から全身に、震えが立ち上る。

 きっとこのくらいの高さなら大丈夫。
 ――でも受け止めたらタンジェは怪我をしてしまうかも。
 落ちたとしても大怪我になんてならない。
 ――本当に?

 震える腕は動かない。
 ぶり返した恐怖と、今頃になって気になりだした雨で重くなったドレス。
 顔を上げれば、部屋から起き上がり、窓から身を乗り出そうとする従者と目が合う。呆気にとられたような、そして慌てたように見える男の姿に、混乱が更に煽られる。

 ぐわんと耳鳴りがした。
 雨が庇を叩く音。庇の軋む音。乱れた自分の息づかい。
 全ての近しい音が反響して、タンジェの声まで聞き取れなくなる。
 景色と音がごちゃ混ぜになって苦しくて、レティレナは固く目を閉じた。

 あのときみたいに。
 都合よく。
 彼の助けを願ってしまう。




 タンジェ・サリデは、咄嗟に自分から見て左だと叫んでしまった。その結果レティレナは現在絶体絶命だ。
 いつもこう。
 肝心な場面で役に立たない。

 幼い頃。タンジェの狭い世界でレティレナは、太陽のように輝き暴君のように君臨する、憧れであり嫉妬の対象だった。ほんの少し彼女に好意を抱き、それ以上にライバル心を燃やしていた。
 過剰に気に掛ける父の姿が面白くなくて、事あるごとに張り合う。四人の兄というタンジェより多いカードを持った従妹は、全てに恵まれていると思っていた。

 けれど妖精姫なんて呼ばれるレティレナが、太陽でも暴君でもなく、傷つきやすい年頃の少女だと気付いたのは、つい数年前。
 彼自身が本格的に父親とぶつかるようになってから。
 自らの進む道と同じように、彼女の未来も決定事項なのだと知った。それは、暴君のように見えていた少女も逃れようがないこと。

 気付いた頃には、レティレナはもう折り合いをつけていた。
 似たような環境で、近い歳なのに。
 自分自身のことで手一杯だった。
 少女が同じように見えない閉塞感に苦しみ、周囲の望む姿とは違う己に、訳も分からず癇癪を起こしていた頃、助けにはなれなかった。

 タンジェは魔法使いでもなければ、救世の騎士でもない。それどころか満足に馬にも乗れない。
 現実は舞台劇のように都合よくはいかないと知っている。
 しかしだからと言って、まだ成人もしない従妹に救われ逃がされて、ああ良かったと思うほど腐っているつもりもない。
 男としての矜恃は今や風前の灯火だけれど。
 そもそも原因は自分の迂闊さ。見る目の無さなのだから、泣けてくる。

 フローレンスがどうしてあんな真似をしたのかなんて、タンジェにはわからない。頭の中のその姿は、未だに優雅に微笑む貴婦人のまま。
 舞台の話をするときの彼女は、あどけない少女のように純粋で、守りたくなる儚さを纏っていたのに。

 それでも、自らの義務は弁えているつもりだ。
 幼いもの、弱いもの、特に女性は守られなければならない。
 父は勝手な男だが、その部分を違えたことはなかった。それがレティレナやタンジェに対しては少々強引で、的から外れていたとしても。
 父の全てを嫌っているわけではないのだ。

 タンジェだってちゃんとレティレナを受け止めてみせる。
 一緒にバストーヴァに戻るのだから。

「さあレティ手を離すんだ」

 それなのに。
 舞台を愛するもののさがだろうか。
 レティレナに手を伸ばしながら、幼いあの頃のように騎士の登場を願ってしまう。

 木に登ったレティレナのことを泣きながら伝えたなら。
 彼は途端に走り出した。
 大汗をかいて駆けつけた騎士は、何でも無いような声を出して、そのくせ緊張して幼いレティレナを受け止めた。
 抱き留めてほっと緩んだ顔はとても若く見えて、その時、黒衣の騎士は自分と五歳しか違わない青年なのだと気付いた。

 いつだって彼女からの手紙の殆どを占める、レティレナの心の騎士。

 どうしてそんなことを思い出すのか。
 きっと、雨で泥濘んだ地面を乱す馬の蹄と人の足音、擦れる金属の音が後ろから聞こえてくるから。
 あの時だってこんな風に。
 彼の剣の柄と鞘が、全力疾走に悲鳴をあげていた。




「レティレナ姫!」

 その声に、全ての雑音が止まった気がした。
 よく通る声。
 大きくなくても、いつだってとても聞き取りやすい声だと思っていたけれど。叫んだってほら、こんなにはっきりと聞こえる。
 レティレナの思考がふわりと飛んで舞い上がる。
 これは安堵の気持ち。
 声だけで、安心してしまう。

「そのまま手を離して。大丈夫、受け止めますから」

 兄預かりの黒衣の騎士。
 真っ黒な髪と灰色の瞳は、ほんの少し取っつきにくそう。
 けれど本当は違う。
 タンジェも、雨も、従者の男もそのまま。
 なのに、他の音も、高所の恐怖も、身体を支える腕の痛みも。
 何もかも関係ない。
 その声しか聞こえない。
 一番欲しいときに、いつだって欲しい言葉をくれる。大事なときには絶対受け止めてくれる、小憎らしい人。
 お人好しで面倒見の良い、騎士様。
 レティレナの騎士ではない人。

 でも、この瞬間。

 の騎士は、レティレナのもの。


「ランバルト」

 レティレナは迷いなく手を離した。

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