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高橋緋菜海の場合
天の川とへびつかい
しおりを挟む今日は七夕の夏祭り。
気合を入れて浴衣を用意して。髪型だって簪が似合うように、一生懸命練習をしてまとめたのに。
ぜんぶ台無しだ。
「天の川、見られなかったなあ。……今日が最後になっちゃったのに」
屋台の光も喧騒も届かない。公園外れの大木の上で膝を抱え、高橋緋菜海は涙腺をぐっと我慢して上を向いた。
無意識にひんやりとした左腕をさすり、その感触に落ち着きと嫌悪を覚え、そっと浴衣の裾に隠した。
鬱蒼とした枝葉の間から覗く空は、緋菜海の心のようにどんよりと曇っている。
「何が最後なの? ねえひなちゃん、説明してくれるよね」
「……ゆきちゃん」
唐突に木の下から聞こえた声に下を覗けば。
幼馴染の沖浜雪都が笑ってこちらを見上げている。白い顔はいつもの笑顔を浮かべているのに、何故か緋菜海の背筋が冷えた。
小学一年生の時、斜向かいに緋菜海一家が越してきてからだから、もう十年の付き合いになる。雪都は物静かでいつも笑顔で、怒ることなんて一度もない少年だった。その上、名前の通りの雪のような白い肌に、すんなりと伸びた手足。長いまつ毛に整った鼻筋。さらりとした癖のない黒髪。『東二中の姫』と言えば、雪都を指すのは中学では常識だった。
もっとも高校三年生になった今は、無駄に背が伸び声変りもし、姫とは程遠い感じになってしまったけれど。高校での雪都は姫というより王子だと教えてくれたのは、雪都と同じ高校に進んだ友人だ。
その元姫が怒っている。しかも、かつて聞いたこともない程の低い声で。
「ひなちゃん、降りてきてくれないかな」
「お断りします」
確実に怒っている相手の所に降りていくなど、愚の骨頂である。それに降りられない理由もある。左腕をぎゅっと裾の上から右手で押さえて、緋菜海は即答した。
「そ。じゃあ僕が登るしかないね。ちょっとまってて」
「は? えっ! 駄目だよゆきちゃん危ないよ! 手も擦りむいちゃうし、落ちたらこの高さはただじゃ済まないからっ」
「それぜ~んぶ、ひなちゃんにも当てはまるって分かってる? 僕が毎回心配して注意しても、一人になりたい時木に登る癖、直してくれないよね。ん……よっと! はい到着~」
元東二中の姫とは思えない俊敏さと豪快さで、雪都はするすると木を登った。
「私はいいの。この程度の樹皮で怪我なんてしないし、そもそもよじ登ったりすら必要ない……ああやっぱり! 擦れて赤くなってる」
「やっと捕まえた。あー……駅前からここまで全力疾走したのに。追いつけなかったのは情けないなぁ」
急いでミニタオルを取り出そうとする緋菜海の背に手を回し、ぎゅっと抱きしめて、雪都が大きな息を吐いた。抱きしめる身体から伝わる熱はとても高く、雪都の全身は汗をかいている。余りに近過ぎて感じる鼓動もとても速い。本当に全力で追いかけてくれたのだろう。
対する緋菜海は汗ひとつかいていない。
同じ距離を、彼以上の速さで移動したのに。
それが緋菜海と雪都の違い。
今日が最後になる理由。
「駅前に居た奴らなら気にしないで。学校でなんて話したこともないんだ。他の地域の祭りに押し掛けたから、浮かれてたんじゃないかな」
嬉しそうに彼を取り囲んだ女子たちを、雪都がけんもほろろに切り捨てる。
「お友達が増えるのは、良いことだよゆきちゃん」
「ひなちゃんを不安にさせるような友達はいらない。ていうか、友達じゃないから」
「私が口出しすることじゃないって」
「じゃあなんで、逃げたの」
そう。緋菜海は逃げた。
小学校から続く毎日のように、雪都と手を繋いで家を出て、七夕祭りのある大通り駅前まで辿りついたとき。雪都の高校の同級生や後輩だという女の子達に囲まれて、左手が解けてしまったのだ。そのまま待っていれば良かったのに。
全身を言いようのない不安と不快感が駆け抜けた。
――私は嫉妬深くて、傲慢だ。ちょっと手が離れただけなのに、左腕がこんな有様になるなんて。ここにいる資格がないって証拠だよね。
抱きしめられる背中越しに、自分の左腕を眺める。
そこには薄い半透明の鱗が浮き始めていた。
触るとひんやりして、緋菜海自身は落ち着く感触なのだけれど、雪都とは違う生き物なのだと実感させる自己嫌悪の象徴でもある。
「ねえひなちゃん、僕気付いてたよ。ひなちゃんの傷の治りがとっても早いのも。そもそも殆ど傷を負わないのも。体力測定も体育の授業も、頑張って手を抜いているのも」
「私は人よりちょっぴり頑丈なの。ほら、ゆきちゃんも知ってるでしょ。昔から力が有り余り過ぎるって言われてたの。小学校なんて、問題児って呼ばれて……」
「最後ってなに?」
早口で言い訳を捲し立てていた緋菜海は、雪都の問いにきゅっと口を噤む。
何もかもを知る幼馴染に真正面から見詰められて、目を上手く逸らせない。
距離を取ろうにも、ここは不安定な木の上。抵抗なんて出来なくて、緋菜海は雪都の黒い瞳を見返した。
いや、本当は抵抗する気ならいくらでも出来る。雪都を抱えてそのまま地上に着地だって、危なげなく出来るのだ、緋菜海は。そうしないのはこの状況を、最後の晩餐よろしく引き延ばして味わってしまおうという浅ましい気持ちからなのだ。
「まさか僕に会うのが最後だなんて言わないよね」
「……言ったら、どうするの」
「原因を潰す」
雪都の短い即答に首を振る。
「無理だよ。生まれ持った物は変えられないもの」
緋菜海の生まれは変えようがないのだから。
「状況と環境なら変えられる。俺はもうひなちゃんに守られる姫じゃないよ。ひなちゃんはナイト役が気に入ってたみたいだけど、俺的には結構前から不満だったんだからね?」
目を細めて笑いかけられた。本来ならときめいてもいい状況なのに、また背筋がぞくぞくと冷えた。何故か緋菜海の本性の勘が、しきりに危険だと信号を送ってくる。
『人間』相手に危険なんて、あるはずないのに。
「言ったら責任取れない。……私はまだ、未成年だから」
秘密は緋菜海一人の問題ではないのだ。打ち明けるには、それ相応の覚悟と責任が伴う。下手をすると雪都の一生を制限してしまうかもしれない。
「大丈夫だよ。ひなちゃんも俺も今年には十八になるから、日本の法律的に問題はないし。どんな重い打ち明け話でも、捌いてみせるから。それに、十年以上一緒に居たんだよ? うちの両親はひなちゃん関連で俺の操縦はとっくに諦めてるし、ひなちゃんちのおじさんおばさんへの好感度だって、手抜かりなく尽力してきたつもりだから。大抵のことは上手くいくと思うな」
「……十八になること、関係ある?」
「大ありでしょう。結婚できる」
いっそ清々しい程の笑顔で言われた。
「そもそも告白もしてないのに!?」
そう! 緋菜海は雪都に気持ちを告白してない! 付き合ってない! 四六時中一緒に居るけれど、毎日手を繋ぐけれど、緋菜海と雪都は付き合ってない。
「だってひなちゃん、僕のこと好きでしょう? ひなちゃんしか見てないのに、見誤ると思ったの」
「!?!?!?」
真顔で言いあてられて、緋菜海は声にならない声を上げ十分程フリーズした。
その間役得とばかりに雪都に思う存分抱きしめられまくっていたことを、彼女は覚えていない。
この世界には実は魔界と人間界が存在する。両者の入り口はわりと簡単にパカパカと開いていて、もうずっと昔から魔界と人間界は世界規模での文化交流を続けているのだ。
人間界では魔界のことが公になっていないので、各国政府は異文化交流の出先機関として、学校や企業と提携を結んでいる。パカパカ開いた入口から、両世界をフリーで行き来出来たのは昔の話。今では魔界人はその狭き門に応募して選別を受け、適正と強さを証明して初めて人間界に来られるのだ。ちょっとしたエリートコースだったりする。
緋菜海の両親は二人とも魔界人だが、人間界の民間企業に長期間勤めている。娘の緋菜海も上手く人間に擬態出来るようになった七歳から、魔界の生家を離れて両親と共に人間界で暮らしてきたのだ。
最初は大変だった。
魔界とこちらでは、基準も常識も何もかもが違う。
魔界の基本は弱肉強食。魔界的強さこそ全て。
緋菜海と雪都が出会ったのは、小学校一年生の初夏。
雪都は男の子にしては細く白く、おまけに可愛らしい顔立ちだった。
引越し初日にご近所探検を敢行した緋菜海は、公園の砂場で同級生らしい子供数人に囲まれ小突かれる雪都を見つけ、その輪に華麗な飛び蹴りをもって参戦してしまったのだ。
弱い者いじめ、よくない。しかしいきなりの飛び蹴りもよくない。
人間界は、ちょっぴり常識の違う場所だった。『郷に入っては郷に従え』という言葉は、幼い緋菜海の脳内辞書には残念ながら書かれていなかったため、実力行使に出てしまった。
緋菜海が得意満面でえっへんと腰に手を当てたとき、公園には彼女と雪都以外に立つ者はいない有様。
完全なやり過ぎ。オーバーキル。
気分は儚げな姫を助けるナイトだったのに。やってることはリング脇から勝手に乱入した悪役である。
両親は緋菜海にのされた少年達の家々を菓子折り持って頭を下げに回り、緋菜海自身は転校初日どころか、前日に問題児のレッテルを獲得してしまった。不本意ながら小学校の六年間、このレッテルが剥がれることは無かった。
そんなどこぞの漫画のリサイタルを開いちゃう系ガキ大将のような登場をしたというのに、儚げ姫……もとい、雪都は緋菜海を受け入れてくれた。
道を挟んだ斜向かい同士、毎日手を繋いで学校へ通った。緋菜海の人間界への順応が上手くいったのは、根気よく毎日面倒を見てくれた雪都のお蔭である。
緋菜海より身長の低かった『ゆきちゃん』は、いつの間にか頭一つ分背を抜き去り、声も低くなった。それでも変わらず毎日笑顔で緋菜海のことを『ひなちゃん』と呼んでくれた。
高校が別になったのは、ひたすらに緋菜海の成績が低空飛行過ぎたためだ。
この頃から、擬態の制御が甘くなり始めた。魔界の医者によると、成人するための必要な段階だと診断された。近々魔界へ帰国する必要がある、と。
緋菜海は本性としての能力が飛びぬけて強いらしい。両親とも強力で優秀な魔界人だからこそ、異文化交流の人材になっている訳だし、それは喜ばしいことなのだけれど。
雪都に会えなくなるのが苦しくて、騙し騙しで三年生まで持ち堪えた。
未成年で両親のおまけであり、正式な異文化交流の人材ではない緋菜海には、世界の秘密を口にする権利すらない。魔界に帰って成人した後、人間界に来られる保証もない。
能力は強力でも、成績は低空飛行なのだ。魔界で最強にはなれても、選別に受かる気がしない。寧ろ全力で落ちそうである。
「だから、ちょっと嫉妬しただけでこんな鱗が出てきちゃうんだもん。きっと選別も通らない。こっちにはきっと来れないよ。ゆきちゃんとはもう一生会えないんだよ」
木の上でずっと雪都にぎゅっとされながら、緋菜海はぐずぐずと弱音を吐いた。
秘密を暴露する資格もなくて、どうにか出来る力も持ってないのに。それなのに、想いを否定せずに認めてしまった。好きな人に甘えるなんて、いけないことなのに。自分のことを知ってもらえて嬉しいなんて。本当に子供で嫌になる。
そんな緋菜海の話を最後までじっと聞いていた雪都は、彼女の半透明の鱗を愛しそうに撫でて口を開いた。
「じゃあ俺がそっちに行けばいいんじゃないのかな?」
「…………はい?」
「各国政府が出先機関を設けてるってことは、国家プロジェクトな訳でしょ。管轄の省庁ってどこになるんだろ」
「確か国家安全交流推進部ってところだと思うけど……。私達に対しては魔界の担当者から聞き取り調査があるから、詳しくないんだよ」
話の先が掴めずに緋菜海が首を傾げると、可愛い可愛いと言われてぎゅっとされた。本日は可愛いの大安売りの日だ。
「うんうん。じゃあおじさんとおばさんにも確認して、そっち目指すから。まずは地元大学から進路変更しないとね。ひなちゃんのそばが良くて家から通える距離で決めてたけど、会えないんじゃ意味ないもんね。官公庁なら、首都の国立で大丈夫かな。四年か……長いな~。合間にちょろっと短時間でも、こっちに来れたりはしない? 俺、ひなちゃん成分足りなくて餓死しないかな……」
「す、ストップストップ!」
「なあに?」
ずっと緋菜海の鱗を撫でている雪都の手を押さえ、片手を顔の前に出す。ステイの仕草である。
「打ち明けたでしょう、私は魔界人だって。人間じゃないんだよ、しかも海蛇族と竜族のハーフていう、ニッチ寄りな魔界人でして」
「うん。この半透明の鱗、とっても可愛いよね。ていうか、色っぽい。しかも俺に嫉妬してくれて、出てきちゃったんだよね。はあ、好き。幸せ」
本当に幸せそうに微笑まれて、緋菜海の方が恥ずかしくなった。顔に朱が上る。
「ゆきちゃん正気に戻って? 私魅了系の特性はないはずなんだけどな……」
「魅了なら小学一年生の出会いでされてるよ。見事な飛び蹴りだった。スカートの中見えそうでどきどきした」
「わー! わー! それは忘れてください!! ……蛇と竜だよ、気持ち悪くないの?」
「ひなちゃんは? 鱗の一枚もない、身体能力で何一つ勝てない男だけど、幻滅しない?」
「するわけないでしょ! 私は昔っから、ゆきちゃんだけが好きなの。ゆきちゃんがいいの!」
「ほ~ら、一緒だ。俺もだよ。ひなちゃんだけが良いんだ。ひなちゃん以外は要らないんだよ」
「…………本当に、私に会うために魔界に来てくれる?」
あやすように抱きしめられて、緋菜海もそっと背中に手を回した。
左腕の鱗は、いつの間にか消えていた。
「任せて。最短で魔界担当になるから。俺、結構優秀なんだから」
「うん。うん。……知ってたよ」
「大好きだよひなちゃん」
「それも知ってた」
そう言って緋菜海が泣き笑いで顔をあげたとき、厚い雲が晴れて空には天の川が覗いていた。
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