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「失礼しまーす。――あ、奥野先生」
職員室のフローリングを上靴で歩く音が聞こえる。悪友の足音だ。
一歩ずつこちらへと近づいて来る。
中途半端に閉ざされた暗がりの中で、僕はその音に耳を澄ませる。
机の下が、今の僕の世界。
その世界へと、明かりは先生の足の間――股の下から、差し込んでいる。
「……ど、どうしたの? 山崎くん、質問?」
なんだかわざとらしく演技する美帆子先生。声は授業中みたいに他所行きだ。
――こういうところが可愛いんだよな。なんだか。
六歳くらい年上だと思うんだけど、全然そんな感じがしない。
「いや、そういうのじゃなくて――」
「えっと、……ごめんね。今、他の先生、出払っていて、職員室に私しかいないの。誰に質問だった?」
近くまで来た山崎に、なんだか若干食い気味で話を進める先生。
僕の存在を知らない体《てい》を見せていのだと思うのだけれど、それが少し必死な感じで、ちょっと笑えてくる。
――いや、僕のためにやってくれているのはわかっているし、それには感謝しかないのだけれど。
頭を少しだけ上げる。左を見ると、彼女の右脛が伸びている。
視線を足先に向かわせると、パンプス。
授業中に履いていた革靴とは違って、少しだけリラックスできる感じのものだ。
きっと授業が終わった後、職員室にいる間は履き替えているのだろう。
「――あ、質問じゃないんす。……奥野先生、新見のヤツ見ませんでした?」
「……えっ? 新見くん?」
先生が息を飲む様子が伝わってくる。それは演技なのかもしれない。
でもきっと先生は、本気で驚いているのだと思う。なぜなら先生も気づいたに違いないから。問いかける山崎の声に、本当の怒気が含まれていることに。
巨体から放たれる山崎の声は低かった。いつもよりずっと。そして心なしか小さく震えているようにも聞こえる。それは本当に爆発しそうな怒りを抑えているみたいだ。
想像よりも本格的な状況に、美帆子先生は狼狽している様子が伝わってくる。きっと生徒同士のじゃれ合い程度に思っていたのだろう。
だから僕は、彼女のパンプスにそっと触れた。「本当に危ないから、守って欲しいんだ」と、伏してお願いするように。
そのささやかな接触に、――彼女は少しだけ、つま先を揺らした。
「――に、新見くんがどうかしたの?」
「いや、ちょっと……ありまして、……探しているんですよ」
「『ちょっと、あった』って? ……何が?」
「まぁ、先生は――知らなくて良いことですよ」
それから短い時間の沈黙。微かに見える彼の下半身の動きから、山崎が周囲を見回して僕のことを探しているだろうことがわかった。
美帆子先生が膝を締める。僕はまだ左手で、彼女のパンプスに触れている。
山崎が「チッ!」と舌打ちをする音がして、美帆子先生の足がビクッと動いた。
「おかしいなぁ。あいつこっちの方に向かってきて、消えたんですよ。だから、もしかしたら職員室に逃げ込んで、隠れたんじゃないかって思ったんですけど」
「そう? ……二人で何しているのか、知らないけれど、――職員室って逃げ込むような場所じゃないって、思うんだけど?」
「――まぁ、そりゃそうなんですけどね。ほら、あいつ、奥野先生と仲良いじゃないですか?」
「そう? そうかしら? 私は特に、どの生徒と仲が良いとか、そういうのは無いつもりだけど? 生徒は等しく生徒で、私は先生だし」
さすが美帆子先生。真面目だ。
でもそういうところが脆さも感じさせるんだよね。
――そんな脆さが、たまらなく可愛らしいんだけど。
僕はパンプスに添えた手を、少しだけ上方へと動かす。
パンストに包まれた彼女の足首の曲線をなぞるように。
さらさらとした手触りの向こうに彼女の体温を感じる。
また足先か小さく動いた。今度はこそばゆそうに。
「あー、先生からしたらそういう感じなのかもしれないですけどね。……少なくとも、あいつが一方的に先生のことを気に入っているっていうのは本当っていうか、――憧れているっていうか、――好きっていうか?」
「え? ……え? ――そうなの?」
ちょっと何言ってくれてんの、山崎!?
――まぁ、間違っていないからいいんだけどさ。
そうですよ。僕は先生のこと好きですよ。
だからそんな男子生徒を悪友の前に突き出したりしないでくださいね。
「まぁ、別にあいつの話はどうでもいいんですよ。――いや、あいつの話か。……奥野先生、本当にあいつ、職員室に来ませんでしたか?」
詰め寄るような、山崎の声。
彼が本気で怒っているのが伝わってくる。
その迫力に、美帆子先生は押されている。
でも踏ん張ってくれるみたいだ。――机の下の、僕のために。
「……来て……ないわよ。少なくとも、私は見ていないかな?」
返答の前に、一瞬の間があった。疑いを向けられるに十分な間だ。
でも、自然な受け答えでも起こり得る程度の、微妙な一瞬の間。
――今、美帆子先生は一つ目の嘘をついた。
僕を守るために、この女性教師は生徒に対して嘘をついたのだ。
嘘というものは、一つつくと、際限なく膨れ上がるものである。
膝小僧をタイトスカートからのぞかせた二〇代前半の彼女は、大人なのにそんなことも知らないのだろうか。
「ほら、第一、友達から逃げて、職員室に隠れるなんて、変な発想じゃない? きっと別のところに行ったのよ。うん。――玄関先から校庭に出ているとか?」
「そうかなぁ? あいつだったら、上履きのまま外に出るよりかは、職員室に駆け込む方がありそうだって思うんだけどなぁ。……先生、絶対――ですか?」
「――絶対……よ?」
先生はついた嘘を、よりはっきりと罪深いものに変えた。
「神様に誓って?」
「――神様に……誓って」
そうやって美帆子先生は、流されるままに神様を裏切った。
だから彼女に、神様の恵みはこれから少なめになるかもしれない。
――でも、それは仕方ないよね。先生が選んだ道なんだから。
美帆子先生は、その存在だけで、魅力的すぎるから。
神様の恵みなんて、十二分に貰っているでしょ? だからいいよね。
「じゃあ、信じようかな。実は俺、奥野先生のこと尊敬しているんですよ」
「え? ……そうなの?」
「はい。他のおっさん先生とかと違って、奥野先生って若いけど、なんだか真っ直ぐで、嘘のない、誠実な感じがあるんですよね。――だから先生が、『新見は来ていない』って言うんだったら、――その言葉を信じようと思うんです」
「……そう。あ……ありがとう」
「でも、先生、その言葉が嘘だったら、俺、めっちゃガッカリしますからね? みんなに奥野先生は嘘つきだって、言いふらさないといけなくなるし。本気で」
「――大袈裟ね」
先生の声が少し震えるみたいに上擦った。
職員室のフローリングを上靴で歩く音が聞こえる。悪友の足音だ。
一歩ずつこちらへと近づいて来る。
中途半端に閉ざされた暗がりの中で、僕はその音に耳を澄ませる。
机の下が、今の僕の世界。
その世界へと、明かりは先生の足の間――股の下から、差し込んでいる。
「……ど、どうしたの? 山崎くん、質問?」
なんだかわざとらしく演技する美帆子先生。声は授業中みたいに他所行きだ。
――こういうところが可愛いんだよな。なんだか。
六歳くらい年上だと思うんだけど、全然そんな感じがしない。
「いや、そういうのじゃなくて――」
「えっと、……ごめんね。今、他の先生、出払っていて、職員室に私しかいないの。誰に質問だった?」
近くまで来た山崎に、なんだか若干食い気味で話を進める先生。
僕の存在を知らない体《てい》を見せていのだと思うのだけれど、それが少し必死な感じで、ちょっと笑えてくる。
――いや、僕のためにやってくれているのはわかっているし、それには感謝しかないのだけれど。
頭を少しだけ上げる。左を見ると、彼女の右脛が伸びている。
視線を足先に向かわせると、パンプス。
授業中に履いていた革靴とは違って、少しだけリラックスできる感じのものだ。
きっと授業が終わった後、職員室にいる間は履き替えているのだろう。
「――あ、質問じゃないんす。……奥野先生、新見のヤツ見ませんでした?」
「……えっ? 新見くん?」
先生が息を飲む様子が伝わってくる。それは演技なのかもしれない。
でもきっと先生は、本気で驚いているのだと思う。なぜなら先生も気づいたに違いないから。問いかける山崎の声に、本当の怒気が含まれていることに。
巨体から放たれる山崎の声は低かった。いつもよりずっと。そして心なしか小さく震えているようにも聞こえる。それは本当に爆発しそうな怒りを抑えているみたいだ。
想像よりも本格的な状況に、美帆子先生は狼狽している様子が伝わってくる。きっと生徒同士のじゃれ合い程度に思っていたのだろう。
だから僕は、彼女のパンプスにそっと触れた。「本当に危ないから、守って欲しいんだ」と、伏してお願いするように。
そのささやかな接触に、――彼女は少しだけ、つま先を揺らした。
「――に、新見くんがどうかしたの?」
「いや、ちょっと……ありまして、……探しているんですよ」
「『ちょっと、あった』って? ……何が?」
「まぁ、先生は――知らなくて良いことですよ」
それから短い時間の沈黙。微かに見える彼の下半身の動きから、山崎が周囲を見回して僕のことを探しているだろうことがわかった。
美帆子先生が膝を締める。僕はまだ左手で、彼女のパンプスに触れている。
山崎が「チッ!」と舌打ちをする音がして、美帆子先生の足がビクッと動いた。
「おかしいなぁ。あいつこっちの方に向かってきて、消えたんですよ。だから、もしかしたら職員室に逃げ込んで、隠れたんじゃないかって思ったんですけど」
「そう? ……二人で何しているのか、知らないけれど、――職員室って逃げ込むような場所じゃないって、思うんだけど?」
「――まぁ、そりゃそうなんですけどね。ほら、あいつ、奥野先生と仲良いじゃないですか?」
「そう? そうかしら? 私は特に、どの生徒と仲が良いとか、そういうのは無いつもりだけど? 生徒は等しく生徒で、私は先生だし」
さすが美帆子先生。真面目だ。
でもそういうところが脆さも感じさせるんだよね。
――そんな脆さが、たまらなく可愛らしいんだけど。
僕はパンプスに添えた手を、少しだけ上方へと動かす。
パンストに包まれた彼女の足首の曲線をなぞるように。
さらさらとした手触りの向こうに彼女の体温を感じる。
また足先か小さく動いた。今度はこそばゆそうに。
「あー、先生からしたらそういう感じなのかもしれないですけどね。……少なくとも、あいつが一方的に先生のことを気に入っているっていうのは本当っていうか、――憧れているっていうか、――好きっていうか?」
「え? ……え? ――そうなの?」
ちょっと何言ってくれてんの、山崎!?
――まぁ、間違っていないからいいんだけどさ。
そうですよ。僕は先生のこと好きですよ。
だからそんな男子生徒を悪友の前に突き出したりしないでくださいね。
「まぁ、別にあいつの話はどうでもいいんですよ。――いや、あいつの話か。……奥野先生、本当にあいつ、職員室に来ませんでしたか?」
詰め寄るような、山崎の声。
彼が本気で怒っているのが伝わってくる。
その迫力に、美帆子先生は押されている。
でも踏ん張ってくれるみたいだ。――机の下の、僕のために。
「……来て……ないわよ。少なくとも、私は見ていないかな?」
返答の前に、一瞬の間があった。疑いを向けられるに十分な間だ。
でも、自然な受け答えでも起こり得る程度の、微妙な一瞬の間。
――今、美帆子先生は一つ目の嘘をついた。
僕を守るために、この女性教師は生徒に対して嘘をついたのだ。
嘘というものは、一つつくと、際限なく膨れ上がるものである。
膝小僧をタイトスカートからのぞかせた二〇代前半の彼女は、大人なのにそんなことも知らないのだろうか。
「ほら、第一、友達から逃げて、職員室に隠れるなんて、変な発想じゃない? きっと別のところに行ったのよ。うん。――玄関先から校庭に出ているとか?」
「そうかなぁ? あいつだったら、上履きのまま外に出るよりかは、職員室に駆け込む方がありそうだって思うんだけどなぁ。……先生、絶対――ですか?」
「――絶対……よ?」
先生はついた嘘を、よりはっきりと罪深いものに変えた。
「神様に誓って?」
「――神様に……誓って」
そうやって美帆子先生は、流されるままに神様を裏切った。
だから彼女に、神様の恵みはこれから少なめになるかもしれない。
――でも、それは仕方ないよね。先生が選んだ道なんだから。
美帆子先生は、その存在だけで、魅力的すぎるから。
神様の恵みなんて、十二分に貰っているでしょ? だからいいよね。
「じゃあ、信じようかな。実は俺、奥野先生のこと尊敬しているんですよ」
「え? ……そうなの?」
「はい。他のおっさん先生とかと違って、奥野先生って若いけど、なんだか真っ直ぐで、嘘のない、誠実な感じがあるんですよね。――だから先生が、『新見は来ていない』って言うんだったら、――その言葉を信じようと思うんです」
「……そう。あ……ありがとう」
「でも、先生、その言葉が嘘だったら、俺、めっちゃガッカリしますからね? みんなに奥野先生は嘘つきだって、言いふらさないといけなくなるし。本気で」
「――大袈裟ね」
先生の声が少し震えるみたいに上擦った。
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