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第十三章 新世界
新世界(7)
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「セクハラに――風評被害ですか?」
「まぁ、そんなところかな? 大人の会社も子供の学校と変わらないところあるから……。むしろお金や生き死にがかかっている分、場合によっては子供の学校生活よりも熾烈なのよ」
なんだか香奈恵さんのことが他人事だと思えなかった。
――僕自身も折れてしまった人間だから。
「――それで香奈恵さんは仕事を辞めたってことですか?」
初めて香奈恵さんに会った時に、仕事を休んでいるのだと言っていた。
あの時は初対面だったし、ただ真白先生に復讐することだけに取り憑かれていた僕は、その背景にまで思いを馳せたりはしなかったけれど。
「辞めたのは辞めたんだけど、話はここからなのよ。――香奈恵は折れたの。……そして病んだのよ」
※
積み重なる精神的疲労に耐えられなくなった真白香奈恵の心は折れた。
極度の不安を感じるようになり、仕事の継続は困難になった。
病気ゆえに休職ということも選択肢にはあったが、香奈恵さんは医師と真白先生と相談の上、結局は退職という道を選んだのだという。
会社への所属を続ける限り、精神的なプレッシャーを受けることは不可避だから。
幸い真白先生仕事は収入面で十二分とは言えないものの安定していて、食べていくことはできた。また真白の実家には経済力があり、そういう意味で保険もあった。
――だから香奈恵さんは仕事を辞めることにしたのだ。
それが良い決断だったのかどうかは分からない。
離職した後、冬から春にかけて、香奈恵さんはさらに壊れた。
潔癖性のような感覚で部屋を綺麗に片付ける一方で、ヒステリー的な衝動で家の物を破壊した。また極度の不安症は、真白先生への強い依存へと形を変えた。
それまで社交的だった香奈恵さんが、家の中で真白先生しかいない環境に身を置いたのだ。人間性の存在基盤が揺らいだのかもしれない。
真白先生の一挙手一投足を気にするようになり、毎日のスケジュールを詳細に把握するようになった。これが真白先生を追い詰めた。
時期的にはちょうど放送部がコンテストの盗作疑惑に揺れていた頃だ。
盗作疑惑と香奈恵さんの問題は全くの別物ではあるけれど、真白先生は同時にその両方に向き合わざるをえなかったのだろう。
その頃、話を真白先生から聞いた小石川先生は香奈恵さんの相談に乗るようになった。
大学時代の友人として、半分カウンセリングの意味も含めながら。
※
「――そういう理由でね。香奈恵は時々、この保健室来るようになったの。学校じゃなくて外で会う時もあるんだけどね」
「そうだったんですか……」
香奈恵さんがこれまでにも学校に来ていたとは知らなかった。
そして彼女が僕みたいに――いや、僕以上に心を蝕まれていたなんて。
「そういえば先週――木曜日だったかな? 彼女がここに来る前に会っていたんじゃない? ――そういう風なこと言っていたから、あの子」
「先週の木曜日ですか……?」
先週の木曜日といえば明莉と一緒に下校して、偶然、香奈恵さんに会った日だ。
EL-SPYで僕を追跡し、そして僕に会うために駅前に居たのだと思っていたけれど、そもそも学校に来る用事があったのかもしれない。それが本当ならば、あの日は本当に偶然僕らと遭遇しただけだったのかもしれない。――むしろEL-SPYが後付け?
「だから君が真白先生の住所を尋ねた時、ちょっとだけ期待したかもしれないし、不安を覚えたかもしれない――心の奥底で……私は」
「――何にですか?」
「ん? 君と香奈恵が接触して、お互いに影響を及ぼすことかな? 良い意味で出れば嬉しいし、逆なら恐い」
小石川先生は厚ぼったい唇を膨らませて、マグカップに口をつけた。
ミルクティーに触れる。
「――それでその予感が的中した? 結果は悪い方ですか? それとも良い方ですか?」
香奈恵さんはおかしくなって、僕はまた倒れてしまった。だから良い方なはずはない。
もちろん小石川先生に責任は全くない。
ただ彼女がそれをどう思うのかを知りたかった。
そんな僕の質問に、でも小石川先生はゆっくりと首を左右に振った。
「――わからない。だってまだ終わっていないもの。……私は思うのよ、悠木くん。私たちの物語はいつも続いている。どこでその物語を区切るかどうかは、それぞれの人の選択なんだって。だから私はまだ結論を話したくないな」
それは春から夏にかけて僕を優しく見守り続けてくれた保健室の先生の眼差しだった。
この目に支えられて、僕はなんとか回復することができた。
「でもやっぱり現実は物語なんですね。――虚構と虚構のせめぎ合い。どの虚構が勝つか。そしてそれを物語たらしめるか。……そういうことなんじゃないですか? ……僕は――真白先生に負けたくない」
彼女はマグカップに一度視線を落としてから視線を上げると、少し残念そうに微笑んだ。
「それは違うわ、悠木くん。それだけは訂正させて? ――誰かと生きることは物語を織り成すこと。それは合っているわ。それはどこか虚構なのかもしれない。でもそれは誰かの虚構で全てを塗りつぶすことじゃない。現実の欠片を共有しながら、それぞれの願いを――一本一本の糸を撚り合わせるようにして、物語を紡いでいく。ひとりよがりな願いじゃ――誰も幸せにならない。君が本当に幸せになりたいならば――君が誰かを幸せにしたいと願うなら、誰かを打ち負かすのじゃなくて、君の光を与えなさい。君の周りの人々と共に物語を織りなさい。――それが私たちが物語という虚構を持って、現実に色彩を与えていく、本当の意味だから」
僕の願いに光を与える――。
周りの人々と一緒に織り上げる――。
頭の中にいくつもの顔が浮かび上がる。
明莉、水上、森さん、香奈恵さん。――水上、真白先生?
「――悠木くん。君の心は何を願っている? 君が何を人に押し付けたいかじゃなくて、それぞれの人が何を思い、何を願うか? もし君が到達できる世界線があるなら――それは君の願いをみんなに伝えて、そして共に織りなす先にしか無いのだと思うわ」
「――小石川先生。……僕は、……僕は」
霞んでいた視界が、ほんの少しだけ晴れた。
闇に落下し続けていた体が、ほんの少しだけ浮かんだ。
不規則に波打っていた動悸が、ほんの少しだけ整った。
ほんの少しだけ。
まるで世界が僕に執行猶予をくれたみたいだ。
小石川先生の魔法が僕の傷を少しだけ癒やしてくれたみたいだ。
だから僕はまだ戦える。生きていける。
でもなんのために? 誰のために?
色々な糸がある。その一本一本の色は決して美しくはないかもしれない。
でも僕らが編んでいく物語は、それらが織り成すパターン。
僕の願いはその織物の中にある。
そしてそれは君が笑顔でいてくれる物語でなくちゃ――なんの意味もないんだ。
幼馴染としてでも構わないのかもしれない。
一年間、君を遠ざけたのは本意では無かった。その後悔は僕の中にある。
だからその懺悔を、闇ではなくて、光に変えたいと願う。
僕はあらためて願う。僕と君の未来を。
それは恋人ごっこでも、偽装恋愛でもない。
僕は君に――恋しているんだ。
だからやっぱり君と生きていきたい。
「ふふふ。ちょっとは回復したかしら? 目の奥に光が戻ってきているわよ?」
小石川先生は茶目っ気たっぷりに笑う。
「――本当に何なんですか、小石川先生は。魔法使いか何かですか?」
「私は保健室の先生ですからね。可愛い生徒の心なら、まるっと全部お見通しよ?」
そう言ってから彼女は立ち上がった。
ちょうどその時、保健室の扉が開いた。
戸口には制服にポニーテールを垂らした木戸美里香と、ハイネックセーターとスカート姿の真白香奈恵が立っていた。
香奈恵さんと目が合った。その目は彼女と初めて会った時よりも昏かった。
それでもどこか――楽しそうだった。
そんな彼女のことを、僕は――。
「まぁ、そんなところかな? 大人の会社も子供の学校と変わらないところあるから……。むしろお金や生き死にがかかっている分、場合によっては子供の学校生活よりも熾烈なのよ」
なんだか香奈恵さんのことが他人事だと思えなかった。
――僕自身も折れてしまった人間だから。
「――それで香奈恵さんは仕事を辞めたってことですか?」
初めて香奈恵さんに会った時に、仕事を休んでいるのだと言っていた。
あの時は初対面だったし、ただ真白先生に復讐することだけに取り憑かれていた僕は、その背景にまで思いを馳せたりはしなかったけれど。
「辞めたのは辞めたんだけど、話はここからなのよ。――香奈恵は折れたの。……そして病んだのよ」
※
積み重なる精神的疲労に耐えられなくなった真白香奈恵の心は折れた。
極度の不安を感じるようになり、仕事の継続は困難になった。
病気ゆえに休職ということも選択肢にはあったが、香奈恵さんは医師と真白先生と相談の上、結局は退職という道を選んだのだという。
会社への所属を続ける限り、精神的なプレッシャーを受けることは不可避だから。
幸い真白先生仕事は収入面で十二分とは言えないものの安定していて、食べていくことはできた。また真白の実家には経済力があり、そういう意味で保険もあった。
――だから香奈恵さんは仕事を辞めることにしたのだ。
それが良い決断だったのかどうかは分からない。
離職した後、冬から春にかけて、香奈恵さんはさらに壊れた。
潔癖性のような感覚で部屋を綺麗に片付ける一方で、ヒステリー的な衝動で家の物を破壊した。また極度の不安症は、真白先生への強い依存へと形を変えた。
それまで社交的だった香奈恵さんが、家の中で真白先生しかいない環境に身を置いたのだ。人間性の存在基盤が揺らいだのかもしれない。
真白先生の一挙手一投足を気にするようになり、毎日のスケジュールを詳細に把握するようになった。これが真白先生を追い詰めた。
時期的にはちょうど放送部がコンテストの盗作疑惑に揺れていた頃だ。
盗作疑惑と香奈恵さんの問題は全くの別物ではあるけれど、真白先生は同時にその両方に向き合わざるをえなかったのだろう。
その頃、話を真白先生から聞いた小石川先生は香奈恵さんの相談に乗るようになった。
大学時代の友人として、半分カウンセリングの意味も含めながら。
※
「――そういう理由でね。香奈恵は時々、この保健室来るようになったの。学校じゃなくて外で会う時もあるんだけどね」
「そうだったんですか……」
香奈恵さんがこれまでにも学校に来ていたとは知らなかった。
そして彼女が僕みたいに――いや、僕以上に心を蝕まれていたなんて。
「そういえば先週――木曜日だったかな? 彼女がここに来る前に会っていたんじゃない? ――そういう風なこと言っていたから、あの子」
「先週の木曜日ですか……?」
先週の木曜日といえば明莉と一緒に下校して、偶然、香奈恵さんに会った日だ。
EL-SPYで僕を追跡し、そして僕に会うために駅前に居たのだと思っていたけれど、そもそも学校に来る用事があったのかもしれない。それが本当ならば、あの日は本当に偶然僕らと遭遇しただけだったのかもしれない。――むしろEL-SPYが後付け?
「だから君が真白先生の住所を尋ねた時、ちょっとだけ期待したかもしれないし、不安を覚えたかもしれない――心の奥底で……私は」
「――何にですか?」
「ん? 君と香奈恵が接触して、お互いに影響を及ぼすことかな? 良い意味で出れば嬉しいし、逆なら恐い」
小石川先生は厚ぼったい唇を膨らませて、マグカップに口をつけた。
ミルクティーに触れる。
「――それでその予感が的中した? 結果は悪い方ですか? それとも良い方ですか?」
香奈恵さんはおかしくなって、僕はまた倒れてしまった。だから良い方なはずはない。
もちろん小石川先生に責任は全くない。
ただ彼女がそれをどう思うのかを知りたかった。
そんな僕の質問に、でも小石川先生はゆっくりと首を左右に振った。
「――わからない。だってまだ終わっていないもの。……私は思うのよ、悠木くん。私たちの物語はいつも続いている。どこでその物語を区切るかどうかは、それぞれの人の選択なんだって。だから私はまだ結論を話したくないな」
それは春から夏にかけて僕を優しく見守り続けてくれた保健室の先生の眼差しだった。
この目に支えられて、僕はなんとか回復することができた。
「でもやっぱり現実は物語なんですね。――虚構と虚構のせめぎ合い。どの虚構が勝つか。そしてそれを物語たらしめるか。……そういうことなんじゃないですか? ……僕は――真白先生に負けたくない」
彼女はマグカップに一度視線を落としてから視線を上げると、少し残念そうに微笑んだ。
「それは違うわ、悠木くん。それだけは訂正させて? ――誰かと生きることは物語を織り成すこと。それは合っているわ。それはどこか虚構なのかもしれない。でもそれは誰かの虚構で全てを塗りつぶすことじゃない。現実の欠片を共有しながら、それぞれの願いを――一本一本の糸を撚り合わせるようにして、物語を紡いでいく。ひとりよがりな願いじゃ――誰も幸せにならない。君が本当に幸せになりたいならば――君が誰かを幸せにしたいと願うなら、誰かを打ち負かすのじゃなくて、君の光を与えなさい。君の周りの人々と共に物語を織りなさい。――それが私たちが物語という虚構を持って、現実に色彩を与えていく、本当の意味だから」
僕の願いに光を与える――。
周りの人々と一緒に織り上げる――。
頭の中にいくつもの顔が浮かび上がる。
明莉、水上、森さん、香奈恵さん。――水上、真白先生?
「――悠木くん。君の心は何を願っている? 君が何を人に押し付けたいかじゃなくて、それぞれの人が何を思い、何を願うか? もし君が到達できる世界線があるなら――それは君の願いをみんなに伝えて、そして共に織りなす先にしか無いのだと思うわ」
「――小石川先生。……僕は、……僕は」
霞んでいた視界が、ほんの少しだけ晴れた。
闇に落下し続けていた体が、ほんの少しだけ浮かんだ。
不規則に波打っていた動悸が、ほんの少しだけ整った。
ほんの少しだけ。
まるで世界が僕に執行猶予をくれたみたいだ。
小石川先生の魔法が僕の傷を少しだけ癒やしてくれたみたいだ。
だから僕はまだ戦える。生きていける。
でもなんのために? 誰のために?
色々な糸がある。その一本一本の色は決して美しくはないかもしれない。
でも僕らが編んでいく物語は、それらが織り成すパターン。
僕の願いはその織物の中にある。
そしてそれは君が笑顔でいてくれる物語でなくちゃ――なんの意味もないんだ。
幼馴染としてでも構わないのかもしれない。
一年間、君を遠ざけたのは本意では無かった。その後悔は僕の中にある。
だからその懺悔を、闇ではなくて、光に変えたいと願う。
僕はあらためて願う。僕と君の未来を。
それは恋人ごっこでも、偽装恋愛でもない。
僕は君に――恋しているんだ。
だからやっぱり君と生きていきたい。
「ふふふ。ちょっとは回復したかしら? 目の奥に光が戻ってきているわよ?」
小石川先生は茶目っ気たっぷりに笑う。
「――本当に何なんですか、小石川先生は。魔法使いか何かですか?」
「私は保健室の先生ですからね。可愛い生徒の心なら、まるっと全部お見通しよ?」
そう言ってから彼女は立ち上がった。
ちょうどその時、保健室の扉が開いた。
戸口には制服にポニーテールを垂らした木戸美里香と、ハイネックセーターとスカート姿の真白香奈恵が立っていた。
香奈恵さんと目が合った。その目は彼女と初めて会った時よりも昏かった。
それでもどこか――楽しそうだった。
そんな彼女のことを、僕は――。
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