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第十三章 新世界
新世界(3)
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いつもの朝、いつもの駅。――そこに篠宮明莉はいなかった。
先週の火曜日に偽装恋愛を始めてから、毎朝二人で同じの電車に乗っていた。
一週間ちょっとだったけれど、待っていてくれる姿は僕にとって日常になっていた。
仕方なく一人で電車を待った。
味気なく一人で車窓の景色を眺めた。
偽装恋愛だった。でもその間、少なくとも明莉は隣にいた。
幼馴染の延長線上でこそばゆい感覚はあったけれど。
偽装でも、そこに幸せはあったのかもしれない。
でもやっぱりそんな仮初めの関係を許せなくなって、僕は彼女に迫った。
その虚構を現実としての受け入れさせるため、強引に迫った。
朝日が街並みを照らしている。
窓から見える電線が波打って流れる。
その隙間から見える瓦屋根に反射する輝きが眩しかった。
それらの景色を遠くに見る。僕はこの世界の傍観者に過ぎないのかもしれない。
それはスマートフォン液晶画面に映る動画みたいなものなのかもしれない。
坂を登って校門を抜け、教室に辿り着く。
森さんの机の傍に水上が立っていた。
「おう、悠木。おはよう!」
「あぁ、おはよう――。森さんも」
「うん、おはよ~! 悠木くん!」
二人の横を抜けて、自分の席に鞄を下ろす。
「――なあ、悠木。――ありがとう」
隣を通り過ぎた僕を振り返り、水上が声を掛けてきた。
「――何が?」
「いや、美樹のこと。――朝からこんなこと言うのもアレだけどさ。お陰でなんとか仲直りっていうか、……誤解を解くことが出来たからさ。お礼を言わなくちゃって」
視線を動かすと、森さんが座ったままこっちを向いて、曖昧な笑顔を浮かべていた。
「――僕は何もしていないよ。水上と森さんはお似合いのカップルだからさ。二人の絆が強かっただけだよ」
「でも、まぁ、お礼はしたいからさ。また何か奢るよ」
「いいよ、いいよ」
それにお礼なら、もう森さんから貰ったから。
もし何か貰えるなら、君の彼女をもう一度抱かせもらえるかな?
そんなことを思ったけれど、口には出さなかった。
教室の前の入口から、俯きがちに歩きながら明莉が入ってきた。
「――明莉」
手を伸ばして声を掛ける。
でも彼女は振り向かなかった。
僕の呼びかけを無視するように、俯いたまま自分の席に座った。
僕は行き場をなくした右手を引っ込めた。
「悠木……、喧嘩でもしたのか? 明莉ちゃんと?」
「――喧嘩っていうかさ。まぁ、あれだよ。恋人関係が……終わったのかも」
水上と森さんが揃って驚いたように僕を見る。
「――俺のせいか? 悠木。俺が言ったから?」
「違うよ。それは違う――水上は関係ないよ」
それは本当に関係ないんだ。
森さんは心配そうな顔で僕を見上げる。
僕はただ肩を竦めて、椅子に腰を下ろした。
もう朝から頭がどうにかなってしまいそうだ。
春先からしばらくの間、僕は明莉と口を聞かなかった。
風評に引き込むのを避けるために。
あれは僕が一方的に決めたことだった。
でもそれを逆向きにされることがどれだけ辛いか、今更わかった。
一時間目が始まり、いつも通りの一日が始まった。
――始まったはずだった。
でも何かがおかしい。先生の声が遠くに聞こえる。
まるでパソコンの中の映像を見ているみたいだ。
霞の掛かったフィルターが僕と周囲の間に挟まっている。
授業を聞く明莉の背中を眺める。
彼女はいつもどおり授業を聞いているみたいだ。
――でもその座席までの距離が果てしなく遠かった。
僕は宙に浮いていた。
僕は膜に覆われていた。
君はここにいるけれど、もうここにはいない感じがした。
※
ただ息を殺すように三時間目までの授業を終える。
時々胸の動悸を覚えたけれど、保健室に駆け込まないといけない感じでもなかった。
なんとかいける、と思っていた。
金曜日の四時間目は物理の授業だ。
真白先生の授業。
僕は真白先生から明莉を寝取り返した。
だから僕は真白先生との戦いには勝ったのだ。
それが現実のはずなのに、気持ちはまるで晴れていなかった。
明莉はそのせいで遠くにいってしまった気がした。
森さんは水上の元へ帰っていった。
香奈恵さんは――それでも錆びた鎖で繋がっている。
彼女だけは、まだ僕のことを求めてくれているのかもしれない。――依存してくれているのかもしれない。
真白先生の奥さんが、一時的にでも自分の心の支えになるだなんて、なんて因果なことだろう。
彼女の中に時折見える狂気が不気味に思えたけれど、唯一彼女が僕を受け止めてくれるお姉さんのような存在に今は思えた。
安らぐわけではないけれど、あの胸に顔を埋めたいと、どうしても思ってしまう。
その時、スマートフォンが振動してメッセージの着信を告げた。
学校の中でのスマホ利用は基本的にはNGなので、少なくとも水上や森さん、明莉、それから親もこんな時間にメッセージを送ってくるとこはない。
――誰だろう?
そもそも友達の少ない僕だから、メッセージが送られてくること自体が珍しいのだけれど。
まだチャイムまで少しだけ時間があったから、ポケットから携帯を取り出して画面を開く。
通知欄には送信者の名前が表示されていた。
――真白香奈恵。
『やっほ、勉強している? EL-SPYで撮影動画を見てみて。ちゃんとしてるよ。――ねえ、嫉妬しちゃう?』
何のことだろう? EL-SPYはもう真白先生に監視されているのだ。
その腐食した鎖を通して、彼女は何を僕に見せようとしているのだろうか?
EL-SPY VIEWERを立ち上げて、彼女のスマートフォンにアクセスする。
いくつもの機能からフォルダのデータ閲覧を選択し、さらに撮影動画が収納されているフォルダを開いた。
確かにそこには新しい動画があった。
撮影日時は昨日の晩だった。時間から見て、彼女が昨夕に電話を掛けてきた後だ。
僕に見せる動画なんて――なんだろう?
まだ真白先生は教室に入ってこない。
だから僕は机の中からカナル型のヘッドホンを取り出してスマートフォンに差し込むと、動画の再生ボタンを押した。
机の下で、誰にも見られないようにしながら。
横長の液晶画面一杯に動画が広がって、何処かの部屋の様子が映し出される。
見たことのない部屋。大きなベッドが置かれた寝室。立てて置かれたスマートフォンから撮影された映像だろう。
そこには二人の人物が映っていた。
目を凝らすとそれが誰だかすぐに分かった。
ベッドの上で真白香奈恵は真白先生に、――全裸で抱かれていた。
先週の火曜日に偽装恋愛を始めてから、毎朝二人で同じの電車に乗っていた。
一週間ちょっとだったけれど、待っていてくれる姿は僕にとって日常になっていた。
仕方なく一人で電車を待った。
味気なく一人で車窓の景色を眺めた。
偽装恋愛だった。でもその間、少なくとも明莉は隣にいた。
幼馴染の延長線上でこそばゆい感覚はあったけれど。
偽装でも、そこに幸せはあったのかもしれない。
でもやっぱりそんな仮初めの関係を許せなくなって、僕は彼女に迫った。
その虚構を現実としての受け入れさせるため、強引に迫った。
朝日が街並みを照らしている。
窓から見える電線が波打って流れる。
その隙間から見える瓦屋根に反射する輝きが眩しかった。
それらの景色を遠くに見る。僕はこの世界の傍観者に過ぎないのかもしれない。
それはスマートフォン液晶画面に映る動画みたいなものなのかもしれない。
坂を登って校門を抜け、教室に辿り着く。
森さんの机の傍に水上が立っていた。
「おう、悠木。おはよう!」
「あぁ、おはよう――。森さんも」
「うん、おはよ~! 悠木くん!」
二人の横を抜けて、自分の席に鞄を下ろす。
「――なあ、悠木。――ありがとう」
隣を通り過ぎた僕を振り返り、水上が声を掛けてきた。
「――何が?」
「いや、美樹のこと。――朝からこんなこと言うのもアレだけどさ。お陰でなんとか仲直りっていうか、……誤解を解くことが出来たからさ。お礼を言わなくちゃって」
視線を動かすと、森さんが座ったままこっちを向いて、曖昧な笑顔を浮かべていた。
「――僕は何もしていないよ。水上と森さんはお似合いのカップルだからさ。二人の絆が強かっただけだよ」
「でも、まぁ、お礼はしたいからさ。また何か奢るよ」
「いいよ、いいよ」
それにお礼なら、もう森さんから貰ったから。
もし何か貰えるなら、君の彼女をもう一度抱かせもらえるかな?
そんなことを思ったけれど、口には出さなかった。
教室の前の入口から、俯きがちに歩きながら明莉が入ってきた。
「――明莉」
手を伸ばして声を掛ける。
でも彼女は振り向かなかった。
僕の呼びかけを無視するように、俯いたまま自分の席に座った。
僕は行き場をなくした右手を引っ込めた。
「悠木……、喧嘩でもしたのか? 明莉ちゃんと?」
「――喧嘩っていうかさ。まぁ、あれだよ。恋人関係が……終わったのかも」
水上と森さんが揃って驚いたように僕を見る。
「――俺のせいか? 悠木。俺が言ったから?」
「違うよ。それは違う――水上は関係ないよ」
それは本当に関係ないんだ。
森さんは心配そうな顔で僕を見上げる。
僕はただ肩を竦めて、椅子に腰を下ろした。
もう朝から頭がどうにかなってしまいそうだ。
春先からしばらくの間、僕は明莉と口を聞かなかった。
風評に引き込むのを避けるために。
あれは僕が一方的に決めたことだった。
でもそれを逆向きにされることがどれだけ辛いか、今更わかった。
一時間目が始まり、いつも通りの一日が始まった。
――始まったはずだった。
でも何かがおかしい。先生の声が遠くに聞こえる。
まるでパソコンの中の映像を見ているみたいだ。
霞の掛かったフィルターが僕と周囲の間に挟まっている。
授業を聞く明莉の背中を眺める。
彼女はいつもどおり授業を聞いているみたいだ。
――でもその座席までの距離が果てしなく遠かった。
僕は宙に浮いていた。
僕は膜に覆われていた。
君はここにいるけれど、もうここにはいない感じがした。
※
ただ息を殺すように三時間目までの授業を終える。
時々胸の動悸を覚えたけれど、保健室に駆け込まないといけない感じでもなかった。
なんとかいける、と思っていた。
金曜日の四時間目は物理の授業だ。
真白先生の授業。
僕は真白先生から明莉を寝取り返した。
だから僕は真白先生との戦いには勝ったのだ。
それが現実のはずなのに、気持ちはまるで晴れていなかった。
明莉はそのせいで遠くにいってしまった気がした。
森さんは水上の元へ帰っていった。
香奈恵さんは――それでも錆びた鎖で繋がっている。
彼女だけは、まだ僕のことを求めてくれているのかもしれない。――依存してくれているのかもしれない。
真白先生の奥さんが、一時的にでも自分の心の支えになるだなんて、なんて因果なことだろう。
彼女の中に時折見える狂気が不気味に思えたけれど、唯一彼女が僕を受け止めてくれるお姉さんのような存在に今は思えた。
安らぐわけではないけれど、あの胸に顔を埋めたいと、どうしても思ってしまう。
その時、スマートフォンが振動してメッセージの着信を告げた。
学校の中でのスマホ利用は基本的にはNGなので、少なくとも水上や森さん、明莉、それから親もこんな時間にメッセージを送ってくるとこはない。
――誰だろう?
そもそも友達の少ない僕だから、メッセージが送られてくること自体が珍しいのだけれど。
まだチャイムまで少しだけ時間があったから、ポケットから携帯を取り出して画面を開く。
通知欄には送信者の名前が表示されていた。
――真白香奈恵。
『やっほ、勉強している? EL-SPYで撮影動画を見てみて。ちゃんとしてるよ。――ねえ、嫉妬しちゃう?』
何のことだろう? EL-SPYはもう真白先生に監視されているのだ。
その腐食した鎖を通して、彼女は何を僕に見せようとしているのだろうか?
EL-SPY VIEWERを立ち上げて、彼女のスマートフォンにアクセスする。
いくつもの機能からフォルダのデータ閲覧を選択し、さらに撮影動画が収納されているフォルダを開いた。
確かにそこには新しい動画があった。
撮影日時は昨日の晩だった。時間から見て、彼女が昨夕に電話を掛けてきた後だ。
僕に見せる動画なんて――なんだろう?
まだ真白先生は教室に入ってこない。
だから僕は机の中からカナル型のヘッドホンを取り出してスマートフォンに差し込むと、動画の再生ボタンを押した。
机の下で、誰にも見られないようにしながら。
横長の液晶画面一杯に動画が広がって、何処かの部屋の様子が映し出される。
見たことのない部屋。大きなベッドが置かれた寝室。立てて置かれたスマートフォンから撮影された映像だろう。
そこには二人の人物が映っていた。
目を凝らすとそれが誰だかすぐに分かった。
ベッドの上で真白香奈恵は真白先生に、――全裸で抱かれていた。
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