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第九章 逆流

逆流(9)

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「――どうしてその動画を?」
「やっぱり、ここに映っているのは、君だね? 悠木くん?」

 スマートフォンを翳す真白先生は微笑んでいた。ただ目は笑っていない。
 黒縁眼鏡の奥の瞳孔は開き、その虹彩は怪しげに揺らめいていた。

 その動画は僕が香奈恵さんに口淫してもらった時に撮影したものだった。
 香奈恵さんへの支配を確かなものとするために。
 彼女を僕の下僕にするために。

 あのファイルがあるのは僕のパソコンとスマホ、クラウドストレージ。

 ――何故? どうして、真白先生がそれを持っているんだ?
 突然の事態に、僕の思考は果てしない疑問符を生み出して、霧散する。

「どうしたの? 先生? 秋翔くん? その動画に何が映っているの?」
「――明莉は……見なくていい」

 明莉に見せるわけにはいかない。こんな動画を見たら――誤解される。

 僕の気持ちはいつだって明莉一人に向いているのに――。
 これではまるで僕が他の女性に浮気しているみたいに思われてしまう。

「この動画を僕がまだ手元に留めていること。そして僕が君を野蛮な言葉で罵ったりしていないこと。――その事実だけでも、感謝されて良いくらいだと思うのだけれどね。……僕は君に」

 液晶画面の中では、香奈恵さんが上目遣いに僕を見上げる。
 僕は快楽に顔を赤らめ、彼女の頭を両手で押さえつけていた。

「――どうしてその動画を?」
「どうして? 不思議そうだね? ――まぁ、君の見えている範囲だと不思議なことになるんだろうね。――そうなんだろうね、自分だけが被害者で、自分だけが主人公で、自分だけが探偵気取りな、君の視点からすれば」

 彼は一旦、スマホを手元に戻すと動画を停止させて、何度か画面をタップした。
 そうしてもう一度、その手をひっくり返し、スマホの画面をこちらに向けて翳す。

「どうして――か。……そんな君には、このアプリ画面を見せる方が、説明の手間が省けるんだろうね?」

 その画面に映っていたのは見覚えのあるアプリだった。それは――

「――EL-SPYエルスパイ VIEWERビューアー!?」

 僕が香奈恵さんのスマホに仕込んだEL-SPYの監視用に入れたアプリ。
 僕が自分のスマホに入れたそれと全く同じアプリだった。
 その画面にはテキスト文字列が示されている。目を細めてそれをよく読む。

 ――そこに現れていたのは僕と森さんのLINEチャット履歴だった。

「――どうして……?」

 僕のスマホは知らない間に、真白先生に監視されていた?

「どうして? ……ははは。君は本当に幼いね。自分がカードを切るのと同じ様に、相手がカードを切ることを想像していなかったのかい? 世界の盤面を動かすチェスプレイヤーが自分だけだと――いつから誤解していた?」

 頭のエンジン回転数を上げて思考を走らせる。
 僕のスマホにEL-SPYがさらに仕込まれている?
 一体どこで、どうして?

 真白先生が僕のスマホを触る機会なんて一度も無かったはずだ。
 ――それなら協力者がいた? 香奈恵さん? それとも明莉?
 いや――それは無理だ。
 香奈恵さんにそんなチャンスがあったのは、僕が香奈恵さんと初めてセックスをして僕が寝落ちしてしまったあの日だけ。
 明莉とは――何もないし、どこにもチャンスは無い。残念だけど……。

 じゃあ、僕が無防備な間に、僕のスマホを触ることが出来たのは……誰だ?

 昨日セックスをしてそのまま寝落ちしてしまった。――森さん。
 いつも同じ家に住んでいてスマホを触ることの出来る。――母さん。

「――そんな、はずはない。……一体どうやって?」

 僕の思考は更に分岐する。
 ありえる可能性、ありえない可能性。

 その全てのシナリオで疑心暗鬼が生まれていく。
 その全てのシナリオが世界線を変動させる。

 真白先生の目は見開かれ、唇は嘲笑を浮かべていた。

「色々と考えているようだね? もっとも僕に君の思考全てを予測できるわけじゃあない。――その君の心をそのまま疑心暗鬼のメリーゴーランドで踊り続けさせてあげても良いのだけれど、僕も鬼畜ではないからね。――鬼畜からは程遠いからね。僕はただ自分の愛しい人との人生を守りたい、普通の人間だからね。――EL-SPYに関しては『答え』を教えてあげるよ」
 
 彼はまた銀色のスマホの画面をタップしてEL-SPYの画面を切り替えた。
 そしてその画面を僕へと向ける。画面に写されたのは地図情報。

 中心には自己位置を表す青い丸が点灯している。それは――真白先生の自宅だった。そして僕は――監視対象となっているその携帯IDを知っていた。

「――香奈恵さん?」
「ほう。なんとも奇妙な感覚だな。自分の妻を生徒に下の名前で呼ばれるというのは」

  僕を蔑むように見下ろして、男は唇の端を下げた。
 心なしかその手が震えているようにも見える。怒りを覚えているのか。

 それはそうだ。僕はこの男の配偶者を寝取ったのだ。汚してやったのだ。
 そして今、彼女は僕の――雌奴隷なのだ。

 ――でもその彼女が、奪い返されていた? いや、監視されていた?

「どうやって?」
「ははは。『どうやって?』だって? 君はよくよく呑気な人間に思えるね。僕は君がもう少し頭の良い人間だと思っていたんだけどね。買い被りだったかな? ――なに簡単なことさ。自分の妻の携帯電話をこっそり触る機会なんて家庭においては幾らでもあるからね。――香奈恵が気付かないうちに、仕込ませてもらった。……ただそれだけだよ」

 僕はそこでようやく、このEL-SPYの連鎖の全容を把握するに至った。

 これはまた僕の失策だった。
 香奈恵さんが僕のスマホにEL-SPYを入れたあの時、それを許容した僕の――失策だった。

 僕はその可能性に気付いていなかった。
 EL-SPYによる逆方向の連鎖――という可能性に。

「――香奈恵さんがEL-SPYで僕のスマホから読み取った情報を、真白先生が別のEL-SPYで香奈恵さんのスマホから……抜いていた。――そういうことですね」
「――そういうことだね。ようやくまともに頭が回るようになってきたじゃないか? 元放送部期待の星――悠木秋翔くん?」

 背筋が凍る。どこまでだ?
 どこまで筒抜けてしまった?
 どこまで僕のデータは奪われた?
 どこまで僕の動画は奪われた?

 真白先生に後ろから抱きしめられたまま、明莉は僕と真白先生を交互に見る。

 何の話が進んでいるのか全然分からないのだろう。
 高度に文脈化された会話は、前提の共有なしには理解不能だ。

 ――でも分からなくていい。この会話の意味は分からなくていい。

「――その動画をどうするんですか? 真白先生」
「さあね。篠宮さんの……もう、気を使って上の名前で呼ぶ必要もないか。明莉ちゃんの卒業後、香奈恵と離婚するなら……その時の裁判材料には使えるだろうね。使う使わないは完全にこちらの判断だけどね。素材としては秀逸ではないかな? ――とても感謝するよ、悠木くん?」

 ――香奈恵さんとの離婚は……本気なのか!?

 明莉に妻との離婚を仄めかしていたことは、明莉本人から聞いていた。
 でもそれは妻帯者が不倫相手を丸め込むための詭弁だとばかり思っていた。

 ――まさか、本気で明莉との将来を考えている?

 もしそうだとすれば、僕のつけ入る隙は――想定より小さくなってしまう。

「それに――もう分かっていると思うけれど――この動画は君の持っている物的証拠に対するカウンターになるんだよ。――少なくとも抑止力になるね」
「――どういう……ことですか?」

 答えはほとんど分かっていた。
 けれど、彼の認識を少しでも把握しておきたかった。
 ――これからのために。――これからの戦争のために。

「君が僕と明莉ちゃんの動画を校長先生に出すというのなら、僕は君と香奈恵のこの動画も出すさ。――教師の配偶者に手を出した生徒が、正義面をして教師の淫行を糾弾する。――校長先生にとっても素直に受け取り難い事案だろうね」

 真白先生は冷笑的に唇の端を上げた。
 世界を嫌悪するように。――どこか寂しそうに。

「……そして僕が校長なら――全力でもみ消すだろうね」

 もみ消す? ――そんな……そんなことが。

「……どうした? 悠木秋翔。言葉が出ないか? 君が僕に銃口を向けたんだ。だから僕も君に銃口を向け返した。それだけのことさ。ほら、言うだろ、――撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ――って」
「――真白先生……」

 僕は戦えていたはずだった。

 真白先生の奥さん――香奈恵さんを籠絡し、味方に引き込んだ。
 EL-SPYを投入し、香奈恵さん経由で真白先生を監視する情報の流れを構築した。

 そして最後には彼を美しく罠にかけ、僕の明莉を救い出す。そういうシナリオだった。

 でも――知らぬ間にその情報は逆流していたのだ。
 頭の中で、いつか言われた香奈恵さんの言葉が響いた。

 ――悠木くん、もしかしてEL-SPYをインストール出来るのは自分だけだとか思ってないわよね?

 全ての流れは反転し、世界は逆流を始める。
 僕はこの混乱を極める奔流の中で、呆然と立ち尽くす。
 ただ自分のスマートフォンを握りしめて。

 真白先生の腕の中で、状況を理解できていない明莉が、僕を心配そうに見つめる。
 その胸の膨らみを真白先生の大きな手が制服越しに優しく包み込む。

「――だから悠木秋翔くん。僕と明莉ちゃんの恋路を――これ以上、邪魔しないでくれよ」

 そう言うと真白先生は背後から明莉の顎に手を添えて、――その唇を奪った。
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