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第九章 逆流

逆流(6)

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「……どうして明莉がいるんだ? どういうこと? 何をしているの」
「――秋翔くん」

 揺れるカーテンの前で、明莉は左腕を抱えた。そして僕から視線を逸らす。

「おいおい怖いな、悠木くん。何もそんなに警戒しなくてもいいじゃないか? 幼馴染が君の面談時間より前に生徒指導室で進路指導の面談を受けていた。――ただそれだけのことじゃないか?」
「進路指導? ただそれだけ?」

 僕は明莉の方を見る。上気した頬。少し困ったように伏せられた目。
 進路指導とは――何なのか?

「そうだよ。だよね――篠宮さん?」
「――は……はい。そうです。真白先生」

 名前呼ばれた明莉は、弾かれたように頷いた。
 ただ言われるがまま、この男の言葉を肯定するために。

 進路指導の内容が何だったのか? 現場を見なかった僕に知ることはできない。
 言葉で説明されてもそが真実であるのかどうか、知ることは出来ない。

 それは志望校の相談などではなく、何か性的な営みであったのではないか?
 二人の様子や状況証拠が、僕に強くその可能性を示唆していた。
 でも――真実は藪の中なのだ。どこまで行っても。

「――わかりました。そういうことにしましょう。でも、明莉にこれ以上手出ししたら、僕は黙っていないって……何度も言っていますよね? そこは忘れないでくださいよ? 先生」
「ははは。……君もしつこいねぇ。分かっているよ――君の言い分は。それから、君がどれだけ幼馴染の彼女を大切に思っているかもね」

 真白先生は穏やかに笑うと、振り返り明莉を「おいで」と呼び寄せた。
 明莉は小さく頷くと僕らが立つテーブル付近まで静かに近づいてきた。
 ――従順な子犬みたいに。

「秋翔くん……、どうしてここに?」
「呼び出されたんだよ。先生に」
「――あ、そうなんだ。 何かやっちゃったの? 生徒指導されるようなこと?」
「あるわけないだろ? 進路指導だって。 内容は……こっちが聞きたいよ」

 吐き捨てるように言うと、涼やかな表情の真白先生を僕は睨めつけた。
 僕が来ることは、明莉も知らされていなかったみたいだ。

「――怖いなぁ。悠木くんは。ただの進路指導として呼び出した教師相手に、そんな目をいきなり向けなくても良いだろう? 僕だって人間なんだ。体格も違わない高校生にそんな目で見られたら、いくら大人でも萎縮してしまうよ。篠宮さんからも仮初の恋人でもある彼に言ってあげてくれないかい?」

 両手のひらを上にして、首をすくめる真白先生。――ふざけたことを言う。
 わざと僕を明莉のいる状況で呼びつけて、その情事の後を見せつけているに違いないのだ。それで萎縮するなど、白々しいにも程がある。

「――そうだよ、秋翔くん? 何をそんなに怒っているの? 真白先生のことが好きじゃないのは知っているけど、仮にも先生なんだし? ちょっと冷静になろ? ――ね?」
「おいおい、篠宮さん。『仮にも』は余計じゃないかな? 僕も一応れっきとした教師なんだしさ。――まぁ、先生らしくないこともたくさんしているからかもしれないけどね」

 そう言って真白先生が方目を瞑ると、明莉は手のひらを口に当てた。
 失言をしたことをアピールするような、お茶目な仕草で。

「――あ、そうでした。誠人さ――じゃなくて真白先生はちゃんとした『先生』でした」
「頼むよ、放送部のエース。部活顧問の威厳を損ねないでくれよ~」

 悪戯っぽい上目遣いで見上げる明莉へ真白先生は冗談っぽく肩を竦めて返した。
 何なんだろう、この茶番は? 僕は何を見せつけられているのだろうか?

「わかりましたよ。――それで、真白先生は僕との約束は守ってくれているんですよね? 卒業するまでは明莉との異性交友を控えるって。表立って付き合わないし、裏でも性的なことはしないって。――あの日の理科実験教室みたいなことは」

 絞り出すように僕が言うと、真白先生と明莉は顔を見合わせた。
 ちょっとばつが悪そうな表情を浮かべて。

「――悠木くん。まさにそのことなんだ。今日、進路指導の名目で君にこの部屋へと来てもらったのは。僕と君――それから彼女のこれからに関して、少し話がしたくてね」

 黒縁眼鏡の物理教師がいけしゃあしゃあと言う。職権濫用を認めて。

「――何をいまさら……」
「――秋翔くん。落ち着いて」

 明莉が僕の袖を引く。振り返る。困ったような顔。
 まるで僕の方が冷静さを失って、間違ったことを言っているみたいな空気だ。
 ――苛立ちで動悸が酷い。

 真白先生は一つ溜め息をつくと一歩横に移動する。
 そして明莉の隣に並ぶように立った。恋人のように。
 まるでそこが二人にとって自然な立ち位置であるかのように。

「悠木くん、僕は君にはとても感謝しているんだよ?」

 思わぬ言葉を真白先生が吐いた。

「――感謝?」
「ああ、感謝さ。確かに僕は篠宮さんのことを好ましく思っている。そして彼女も僕のことを愛してくれている。……でも僕らは生徒と教師。だからその関係は、適度に抑え、世を忍び、守らなければならない秘め事。そのことを君ははっきりと指摘してくれた。――幼馴染の篠宮さんのことを思って」

 なんだか真白先生の詭弁により、現実が捻じ曲げられ始められている気がする。
 でもまだ僕はとりあえずその言葉に耳を傾け続けた。
 ――明莉が先生を愛している、という下りは否定したかったけれど。

「君はそれだけじゃくて、その上、僕らの恋愛を隠蔽するために、偽装恋人の役割さえ買って出てくれた。ことこの一週間のことに関しては、僕は君に対して感謝の気持ちしかないんだよ」

 真白先生はそう言って、大人っぽい笑みを薄っすらと浮かべた。
 それが本心なのかどうかは――まるで分からない。

 でもこれだけは言える。
 僕が明莉との偽装恋愛に手を貸したのは、先生のためなんかじゃない。
 新しい虚構で、このふざけた現実を上書きするためだ。
 その完成に向けて、真白先生の存在を消し去るための準備を進めてきた。
 最後のピースは――まだ入手出来ていないのだけれど。

「――先生に感謝されるようなことは何もしていないですよ。――僕はただ、明莉と僕自身のためにやっているだけですから」

 そうだ。偽装恋愛は自分のため。自分の意志でやっていること。
 決してこの男に踊らされてやっているわけではない。これは僕の主体的選択だ。

「ははは。君ならそう言ってくれと思ったよ! さすが悠木くんだ。想像通り――いや想像以上かな」

 嬉しそうに声を上げて笑ったあと、真白先生は神妙そうに眉を寄せた。

「――でもね悠木くん。この一週間、偽装恋人として振る舞ってくれた君に感謝はしているものの、『やっぱり申し訳ないな』とも思っていてね」
「――は? 申し訳ない……?」

 そんな僕の応答に小さく頷くと、真白先生は――明莉の腰へと右手を回した。
 そして彼女――篠宮明莉をそっと抱き寄せる。

「……真白先生っ!」

 思わず僕は威嚇めいた声を放つ。
 真白先生は広げた左手でそれをそっと抑止した。右手は明莉の腰に触れたまま。

「悠木くんには本当に申し訳ないと思っている。その心配に感謝しているんだよ? でもね、やっぱり世間を欺くのも、自分の心を偽るのも、やっぱり教師として――いや、一人の大人として良くないと思ってね。――彼女と話して心を決めたんだよ」

 そう言うと彼は明莉ことを引き寄せる腕に力を入れた。
 少しバランスを崩した明莉が真白先生へと寄りかかる。
 ――そっと抱きつくように。

「――何を?」

 僕は胸の酷い動悸を抑えながら、ただ尋ねる。
 明莉は真白先生の胸に手のひらを添え、彼を見上げる。
 それを見下ろす真白先生と上を向く彼女の視線が、交差する。

「恋人はやっぱり本物だけで良いと思うんだ。だから――」

 やがて二人の視線がゆっくりと動き、僕の方へと向けられた。

「篠宮さんとの偽装恋人関係を解消してもらえないだろうか? ――悠木秋翔くん?」
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